| 「クラシックのオムニバス盤が苦手な理由」 投稿日:2008年08月03日(日) | 荻野 敏(国府病院) |
| クラシックを聴き始めたのはいつ頃だったのだろうか。そんなに昔のことではなく、ごく最近のような気がする。若いころは、当然JPOPなどを聴いていた。そういえば転換期となったのは2007年の学術集会だったようだ。クラシックやイタリアの音楽を取り入れたほうがいいのではないかと勝手に考えて、とりあえず入門用として「100曲クラシック」というお徳用の10枚入りCDセットをCDショップで買った。すぐにMP3プレーヤーに全曲を入れて聴きまくっていた。昔は真剣にクラシックを聴くということはあまりしていなかった。ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」を高校生の時、音楽の授業で聴かされたことがあったが、もっとも有名な旋律の後はすぐに寝てしまったので、高校生の時に聴いた「田園」は殆ど覚えていない。そんなクラシックに無縁だった僕が、なぜこんなにはまったのか。確かに「100曲クラシック」で聴いたメロディが美しかったからなのは間違いない。「クラシックってこんなに面白かったのか」と今まで興味を持っていなかったことに後悔を覚えたぐらいだった。 認知運動療法と音楽の関係は、まだ研究の最中であるとPante先生は2007年のアドバンスコースで話をされていたと記憶している。確かに解らないことが多いが、以前、肘を動かして「これはモーツァルトの動き、この動きはベートーヴェンの動き」なんてメタファーを使っていたなんてたとえを聞いたことがある。日本人にはまったく意味が解らない「モーツァルト」と「ベートーヴェン」の動きの違い。いったいなんぞや、と不思議に思ったし、どんな方向に進んでいくのだろうかと不安に思ったこともあった。ところが勉強を進めていくうちにそれはメタファーの一部であり、その基底には現象学的・認知的・感覚的な言語が存在していることがおぼろげながら理解されてきた。一人称やメタファーや現象学的言語の深さに驚愕して、遥かなるサントルソの頂に眩暈を覚えるような錯覚を受けた。さて、そんな「モーツァルト」と「ベートーヴェン」の動きに代表される日本人には理解が難しいメタファーだが、クラシックを聴いていくうちになんとなくイメージが湧いてくるようになった。おそらく「モーツァルト」の動きとは、例えば「モーツァルトのアイネクライネナハトムジーク第1楽章の冒頭のような軽やかな動きを感じる」ことであり、「ベートーヴェン」の動きとは、例えば「ベートーヴェンの交響曲第9番第1楽章の冒頭、ゆっくりとした中から重厚な響きが立ち現れるような重々しい動き」を意味しているのではないのかと思うようになってきた。これは、クラシックを聴き始めてようやく解ったことで、一つの旋律の中で現れる、えもいわれぬ感情や情動を動きにたとえることは、他のメタファーでもありうることであると感じたからだ。日本人は子供のころからクラシックに親しむという風潮や伝統は少ない。イタリアでは子供のころから、日常の中に溶け込んでいるオペラや交響曲などに親しんでおり、日本とはクラシックとの付き合い方が相当に違うということを以前イタリア人から聞いたことがある。そう考えれば、我々が親しんでいる感覚(例えば様々な色やふわふわなどの触感)にたとえることと、そんなに大きな違いはなく、「モーツァルト」と「ベートーヴェン」のようなメタファーは突拍子もないことではない。 少しずつクラシックの面白さが解り始めてきた時に、脳科学者茂木健一郎氏と音楽家江村哲二氏との対談をMP3で聞く機会を得た。その時、江村哲二氏はクラシックの幅の広さを解釈という観点から紐解いていたと思う。作曲者の意図されたメロディ、演奏する人の意図したメロディ、聴衆側の感情、少なくともこの自由度があり、同じ曲でも聴くたびに聴き方が変わってしまうのだと。もちろん、その時に聞いた対談を思い起こして書いているので正確なことは表現できないが、確かそんなことを言っていたと思う。確かに僕ら聴く側でも一つの楽曲の聴き方は変わってくる可能性がある。それはJPOPだって同じだろう。普段何気なく聴いていた歌の歌詞に、現在の自分を重ね合わせることや過去・未来と照らし合わせて感慨深く感じることもある(フラれた時の中島みゆきは僕らの世代の定番)。JPOPは歌詞があり、その歌詞をダイレクトに解釈できるから、自由度は少ないかもしれないが、クラシックの場合は歌詞がないぶんだけ自由度が広がる。つまり解釈はいかようにもできることになる。なるほど、これは深い、と勝手に思っていた。まあ、そんなわけでクラシックを聴き始めたらとにかく面白い面白い。知らず知らずにクラシックにはまっていく自分がそこにいた。 さて、クラシックを聴き始めて少したったころ、どうも「100曲クラシック」に物足りなさを感じるようになってきた。その物足りなさはいったい何なのか。そのころの自分にはまったく解らなかった。よくよく考えてみると、例えばお気に入りのベートーヴェン交響曲第9番「合唱」第4楽章を「100曲クラシック」で聴いているとすると、その後に入っているのは「ラディツキー行進曲」で、合唱から行進曲への流れに対して違和感を感じてならなかったのだ。江村哲二氏の言う「作曲者の意図」とはなんなのだろうか、と考えるようになっていた(2007年6月11日に江村哲二氏は膵臓がんのために永眠されました)。さて、そんな折、僕の奥さんの実家の大阪に家族で里帰りしていて、あるCDショップでベートーヴェンの交響曲第1番から9番までの全楽章のCDを売っているのを見つけた。思わず買ってしまったのは、ベートーヴェンの交響曲をすべて通して聴いてみたかったことと、第9番合唱のコーラス部分がどれだけ指揮者や歌手によって違うのかを知りたかったからだ。期待をこめてCDをかけてみる。第1楽章から終章まで緩やかにそして大胆に奏でられている交響曲たち。身体の中に、「すー」と沁みこんでくるような心地よい感じが全編を通して響いてくる。単なる交響曲でも第1楽章から第2楽章、第3楽章と続いていくこの流れはまさに物語であり、作曲者の内面をあらわしているものなのではないだろうかと衝撃を受けた。つまり「作曲者の意図は単に1つの楽章だけに現れているのではなく、その前後の音楽の流れで表現されているのだ、前後の文脈、そうだ、音楽は文脈なんだ!」と改めて感じたのだ。なぜ楽章というものがあるのか、確かに不思議だったが、そんなことには昔は気にもせず、目もくれていなかったのだ。交響曲第5番「運命」と言えば「じゃじゃじゃじゃーん」と単純に思っていた。作曲者の意図を汲むというのは、そのうしろに隠れている作曲者の感情を汲み取り自分に感情移入させて二人称的に聴き入ることで成り立つのではないかと考えたのだ。 作曲者の意図を汲む。 たとえば「エリーゼのために」。このあまりにも有名なピアノ曲は、ベートーヴェンの悲しい恋心を如実に反映していると言われている。「エリーゼのために」はベートーヴェンが1808年に作曲したイ短調のロンド形式のピアノ曲で、本来は恋心を寄せる「テレーゼ(Telise)のために」という曲名であったのが、解読不可能なベートーヴェンの悪筆のために「エリーゼ(Elise)のために」と読み替えられてしまったという説が有力である。このベートーヴェンの恋は結局実ることはなく、この楽曲の原稿は、悲恋の対象であるテレーゼ・マルファッティの持つ書類の中から後年発見された。その恋の物語を聞いてから再度「エリーゼのために」を聴くと、新たななんともいえない悲しい感情が湧き上る。 シューマンの「子供の情景」という作品集は、ロベルト・シューマンが作曲したピアノ曲集の代表作のひとつである。シューマンは後に「子供のためのアルバム」や「子供のための3つのピアノソナタ」などの作品集を作曲しているが、その多くは子供の学習用ピアノ曲であったことが知られている。しかし、作曲者のシューマン本人の語るところによると、「子供の情景」はそれらの作品とは異なる子供心を描いた大人のための作品であると述べている。曲の構成は「見知らぬ国と人々について」というト長調の曲から始まり、全13曲で成り立っている。第7曲の「トロイメライ」は夢という意味で、シューマンの作曲したピアノ曲の中でももっとも有名な曲であり、かつ世界中で最も知られたピアノ曲と言っても過言ではないだろう。本来、「子供の情景」は全12曲で完成となっていたそうだが、急遽1曲追加して全13曲となったとのことである。その急遽入れた曲が「トロイメライ」である。また第13曲の「詩人は語る」はシューマン本人が子供たちにお話を語る様子を表現した曲と言われている。 バッハの「ゴールドベルグ変奏曲」は、ヨハン・ゼバスティアン・バッハによる、アリアとさまざまな変奏曲からなるチェンバロのための練習曲である。1742年に出版されたこの楽曲は、バッハらしいカノンと荘厳な雰囲気をもった美しい曲である。この曲には、バッハが音楽を手ほどきしたゴールドベルグが不眠症に悩むカイザーリンク伯爵のためにこの曲を演奏したという逸話で知られ、そのために「ゴールドベルグ変奏曲」の俗称で呼ばれるようになった。しかしながら演奏には高度な技術が必要で、当時14歳だったゴールドベルグ少年には難しいのではないかと、この逸話については懐疑的な見方が多い。主題となるアリアを最初と最後に配し、間に30の変奏曲を入れた合計32曲で成り立つこの楽曲の中でも注目されるのは、3曲ごとに配された9つのカノンである。同度から9度までの9つの音程による各カノンを同じ定旋律上で作り上げた技術はまさに至極の究極芸だろう。いずれにしてもこの楽曲は、バッハが不眠症の伯爵のために作曲したという背景を持つ。 ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」は、1807年から1808年にかけて作曲されたベートーヴェンの代表曲のひとつである。交響曲の多くは第1から4楽章で構成されているが、この第6番「田園」はベートーヴェンの作品の中で唯一第5楽章まで構成されており、かつ、各楽章に表題がつけられた標題音楽であるというこの2点において非常に特徴を持つ作品である。曲の構成は第1楽章「田舎に到着したときの晴れやかな気分」、第2楽章「小川のほとりの情景」、第3楽章「農民たちの楽しい集い」、第4楽章「雷雨、嵐」、第5楽章「牧人の歌−嵐の後の喜ばしく感謝に満ち」となっている。標題だけを見ても、ストーリーがなんとなく感じ取れる。 こういったベートーヴェンの楽曲は、後世の作曲者たちに多大な影響を与えることになる。フランスの作曲者エクトル・ベルリオーズが1830年に作曲した最初の交響曲である「幻想交響曲」は、物語を音楽で表現した作品だ。原題を「ある芸術家の生涯の出来事、5部の幻想的交響曲」として、恋に深く絶望してアヘンを吸った豊かな想像力を備えたある芸術家の物語を音楽で表現している。このある芸術家とはまさに作曲者のベルリオーズ本人であると言われ、ベルリオーズの代表作であるのみならず初期ロマン派音楽を代表する楽曲でもある。「幻想交響曲」の特徴を端的に表すキーワードとして、固定観念と標題音楽が挙げられる。固定観念とは楽曲を通して繰り返し現れる主題(つまり旋律・メロディ)であり、古典派の交響曲にはみられない特徴である。また、標題音楽とは音楽以外の何かを表現することを意図したもので、その萌芽は前述したようにベートーヴェンの「田園」に認められるものである。「幻想交響曲」ではベルリオーズが恋に落ちた人物で後に結婚したアイルランドの女優ハリエット・スミスソンへの愛を表す旋律つまりメロディが、楽曲のさまざまな場面で登場する。これが固定観念である。このメロディは曲の中での彼女の登場の仕方によって変化してくる。あるときは牧歌的に優美に、あるときは醜悪で野卑になり速いメロディとなる。曲の構成は第1楽章「夢、情熱」、第2楽章「舞踏会」、第3楽章「野の風景」、第4楽章「断頭台への行進」、第5楽章「サバトの夜の夢」となっている。ある芸術家の生涯を垣間見ることができる。 リヒャルト・ストラウスが1896年に作曲した交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」も、名曲のひとつだ。全9部からなるこの楽曲は、1「序」、2「現世に背を向ける人々について」、3「大いなる憧れについて」、4「喜びと情熱について」、5「墓場の歌」、6「学問について」、7「病より癒え行く者」、8「舞踏の歌」、9「夜の流離い人の歌」と、フリードリヒ・ニーチェの同名の著作を標題としている。ニーチェの著作の思想を具体的に表現したというわけではなく、その原作のいくつかの部分を選び、そこから受けた印象・気分を表現していると言われている。映画『2001年宇宙の旅』冒頭部分で導入部である「序」が使われていることは非常によく知られている。このように交響詩とは、管弦楽によって演奏される単一の楽章からなる標題音楽のうち、作曲家によって交響詩と名付けられたものを言う。19世紀中頃、フランツ・リストはこれらの動きをさらに推し進めて、音楽外の詩的あるいは絵画的な内容を表現する楽曲として、新たに「交響詩」の名を付けた。これが交響詩の始まりであるといわれている。交響詩は後期ロマン派、とりわけ国民楽派の作曲家に好まれ、形にとらわれない民族主義的な音楽表現の形式として、自国の事物や伝説などに基づいた重要な作品が作られてゆく。 作曲者は意図を汲んで曲にストーリーをのせてゆく。 ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」、このストーリー性を持った展開が大好きだ。この交響曲第5番は、傑作の森と評される一角をなす重要な作品である。ベートーヴェンの作品中でも、形式美・構成力ともに非常に高い評価を得ており、もっとも緻密に設計された作品のひとつであろう。交響曲第5番は、日本では通常「運命」と題されることが多い。世界的にはこの作品は交響曲第5番として題されることが多く、「運命」という通称は日本でのみ一般的に使用されているそうである。この通称は、ベートーヴェンの弟子アントン・シントラーの「冒頭の4つの音は何を示すのか?」との質問に対して「運命はこのように扉をたたく」とベートーヴェンが答えたことに由来するとされている。真偽は定かではないし、運命を表しているのが作品の本質ではないとされ、学術的な妥当性は欠いていると言われることもあるが、あまりにも冒頭の4つの音は有名である。たった4つの「じゃじゃじゃじゃーん」でこの交響曲のイメージの本質を貫いている。第1楽章には、この主題つまりメロディが繰り返し繰り返し出現しており、1000回以上でてくると言われている。どうしても「運命」と言われると、悪いイメージが付きまとう。しかも主題である「じゃじゃじゃじゃーん」が何か良からぬことを喚起してならないが、暗から明への転換構成をとり、第1楽章の瞑想的な表現から第4楽章で喜びが解き放たれるような楽曲上の構成は特筆すべきだ。僕はこの交響曲第5番の全楽章を通して聴いたとき、そしてまた第4楽章をはじめて聴いたとき、青空が見えた。そんなバカな、アホな、と言われるかもしれないが、青空が見えたような気がしたのだ。気がしたのだから仕方ない。そんな第4楽章がとてつもなく好きになり、知らず知らずのうちに、ベートーヴェンの交響曲第5番が大好きになっていた。 2007年の7月に開催された第8回日本認知運動療法学術集会で、認知の樹を表現することになり、さまざまなアイデアを考えていたときだった。どうしても最初と最後をプロフェッショナルな人にお願いしたくなり、準備委員長の千鳥先生が勤める中部学院大学の音楽の先生とお会いできることになった。ピアノの先生である岡田先生は、気さくな女性であり、僕らの無理難題を真剣に聞いてくれて一緒に考えてくれた大恩人である。たまたま最初にお会いしたときに、クラシックの話で大盛り上がりになった。岡田先生が「好きなクラシックの曲はなんですか?」と聞いてこられたので、いろいろ考えた挙句やっぱり「ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」の第4楽章が好きですねえ」と答えた。そのときだ。岡田先生は「ああ、あの曲ですね。あの曲は空に突き抜けますからね」と答えたのだ!!背筋がゾクッとするほど興奮したことを今でもありありと思い出す。「そうなんですよ先生。僕もあの曲を聴いて青空が見えたのです!!」と。そんな、志向的クオリアを共有できたときの嬉しさ、楽しさは忘れ難い。ベートーヴェンの意図は残念ながらわからない。もちろん演奏者の意図も。でも聴衆である僕らの解釈はあの時、無限の自由度の中の一部分を奇跡的に確かに共有できた、つまり二人称的に互いに感じあったのだ! 物語は文脈である。 文脈のない話や文脈のない行為は他者に意図が伝わるだろうか。我々は、環境世界の中で生きている。もちろんその環境とは、個人の内面世界にも創り上げることができる。つまり想像である。でも、必ずそこにはストーリー・物語・文脈がある。物語の三要素、開始・中間・終了がある。対話がある。文脈のない話は他者に伝わらない。対話にならないからであり、一方的な、発言は会話とは呼ばない。そこに物語や文脈は立ち上がらない。ストーリーのない小説を想像してみてほしい。そのな本を誰が読むだろうか。おそらく読まないだろう。作家は物語を創る。作曲家は物語を文脈に載せて旋律にする。その旋律の意味は、前後に連なる旋律によってその色合いを変化させるのである。なるほど、クラシックのオムニバス盤とは、ある作曲家のもっとも有名な楽曲の一部分を抜き出して文脈も何もなく単に並べただけのいいとこどりなのだ。だからオムニバス盤に物足りなさを感じて、今ではすっかり苦手になってしまったのか。僕がクラシックのオムニバス盤が苦手な理由はここにあった。 |
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