| 「ある夜の雑感」 投稿日:2008年10月26日(日) | 首藤 康聡(岡崎南病院) |
| 我が家の土曜の夜の過ごし方は決まっている。妻のバレーの練習に家族全員で参加することだ。参加といっても僕と娘は開いている隣のコートで,追掛けっこをしたり,フラフープやユニバーサルホッケー(通常のホッケーに似ているが接触プレーが禁じられており男性の中に女性や子供が混じったりしても安全に誰でも楽しめるスポーツとして考案された。ちなみに僕の住んでいる幸田町では盛んに行なわれており,全国でもレベルの高い地域みたいだ)の道具で遊ぶだけなのだが,バレーボールを使ってキャッチボールをしている時の事だ。ワンバウンドしたボールを取ったり取れなかったりを繰り返していたのだが,ふとある事に気がついた。ボールをうまくキャッチできたときに目を閉じていたのだ。もちろん目を開いてキャッチすることもあるし,目を閉じて失敗する事もある。あるいは、目を開いて失敗する事だってあった。そこで一つ疑問がわいた。なぜ,娘は目を閉じたままでボールをキャッチすることができたのか?果たしてこれは偶然なのか?たまたま手を出したところにボールが飛んできただけなのだろうか? 僕は趣味で草野球をやっているが,野球を始めたのは小学校の3年生の時だ。まずは基本練習のキャッチボールをやらされたのだが,その時に監督やコーチに言われた事は「最後までボールをしっかり見て取れ!グローブにボールが入るまで目を離すな!」だ。おそらく野球をやっていた人のほとんど,いや,おそらく全員がこのような指導を受けた事があるのではないだろうか?野球だけではない。サッカーやバレーボール,おそらくボールを使う競技はこのように指導する事が多いのではないだろうか?しかし,ここで一つの問題が出てくる。かりに,最後までボールがグローブに入る(あるいは,サッカーだと足にあたる)まで,目で追っていては次の行動を開始するまでにかなりの時間をロスしてしまうのだ。ロスといっても一瞬ではあるが,この一瞬が命取りになる事だってある。僕のポジションはキャッチャーなのだが,当然1塁ランナーが2塁へ盗塁すると牽制球を投げなければならない。僕は右利きなのでピッチャーの投げた球を左手のミットでキャッチして,それを右手に持ち替えて送球する。この一連の動作の時にいちいちボールを見ていたら,盗塁を許してしまう。では,どうすればこのロスを少なくするにはどうすれば良いか?答えは簡単だ。ボールを最後まで見なければいいのだ。だから、牽制の練習になると,監督陣は「いちいちボールを見るな!」と指導する。プロ野球の中継等を見てもらえばわかると思うが誰1人として,最後までボールを目で追っていない事がわかるだろう。しかし,これはプロだからできるのではない。ある程度,経験をつめば誰にでもできる事だ。これは簡単に体感できる。皆さんも誰かに物を投げてもらってみて欲しい。その時の自分の目に注目しておけば見なくてもキャッチできる事がわかっていただけるだろう。 そう,つまりは見なくても取れるのだ。という事は娘が目を閉じてもボールをキャッチすることができたのは偶然で終わらせるわけにはいかなくなった。では,一体なぜ見なくても取れるのか?ここで一つ興味深いエピソードを紹介したい。皆さんはWorld Baseball Classic:WBCにも出場したヤクルトスワローズの青木選手をご存じだろうか?首位打者2回(05,07),最多安打2回(05,06)のタイトルを獲得している選手だ。この青木選手がどのタイミングでスイングを開始するのかをハイスピードカメラで捉えた実験が行なわれた。通常,ピッチャーがボールを投げてから打者に届くまでおよそ0.4秒掛かる。カメラで確認すると青木選手はピッチャーからボールが離れてから0.2秒後にスイングを開始していた。つまり,この0.2秒で球種を判別してスイングを開始し,残りの0.2秒でスイングを調節していたのだ。この実験では青木選手のずばぬけた動体視力を証明し,そのバッティング能力の高さを伝えようとしていた。そう,青木選手はその類い希な動体視力でボールを捉える事ができるからあの芸術的なバッティングができるのだと。人間の反応速度の限界は0.1秒といわれている。その為,陸上競技ではフライングの時間を0.1秒に設定している。スタートの合図から0.1秒以内に動き始めるという事は合図を聞く前に動き出している(動こうとしている)はずだから,フライングという基準だ。この事を考えてみても,そのすばらしい動体視力で後半0.2秒の間にスイングを修正しボールを最後まで捉えていると考えるのは理にかなっている。しかし,青木選手のコメントは全く正反対であったのだ。「ボールは最後まで見ていない」と。ボールが当たった瞬間には目をピッチャーやランナーへ向けていると答えていた。ではなぜ,打てるのか?青木選手は,『予測』だと答えている。今まで培ってきた経験があるから,どの球種がどのコースに来るかがわかるというのだ。それも,いちいち考えているわけではなく自然と体が動くのだろうと自分自身を分析している。あるいはこんなエピソードもある。ボクシング世界ミニマム級チャンピオンのイーグル・デーン・ジュンラパンは,視覚の反応速度(スクリーンに現れる光点に時間内にどれだけタッチできるかを見る検査)はなんら一般人と変わらない。ではなぜ,高速で繰り出される対戦相手のパンチをすんでのところでかわす事ができるのか?アイカメラで確認してみるとイーグル選手は相手のパンチ,つまり腕を見ていなかったのだ。それではどこを見ていたのか?イーグル選手は相手の全身の動きや流れ,リズムから次のパンチを予測し,紙一重でかわしていると語っていた。(ちなみにイーグル選手は相手のパンチが目の前をかすめたり,例え顔面にパンチを受けても目を閉じないらしい。つまり,瞬目反射を抑制している。この事実も興味深いがこれはまたの機会に)つまり,二人とも外部の動きを予測し自分の身体を動かしているのだ。おそらく娘もボールの動きを予測してそこに手を出しているのだろう。 外部の情報からその動きを予測している事はわかった。では,どの様にして外部の情報を収集しているのか?また,外部の情報からどの様に運動を出現させているのか?この時,まず我々が行なっているのは外部環境の分析で,環境分析システムと呼ばれる機能が活躍する。例えば,目で見て特定の物体を探すとき目から入力された情報が網膜から視床の外側膝状体を経由し,第1次視覚野へ投射される。その情報は下側頭葉につながる腹側経路(whatの経路)と,頭頂葉につながる背側経路(whereの経路)へと向かい,その物体が「何であるか」また「どこにあるか」を判断する。この2つの情報,或いはその他の情報が前頭連合野に送られ情報が統合され,大脳辺縁系で処理された情動の情報が付与され行動を企画する。その後,運動前野や補足運動野に投射し運動を企画し,第1次運動野,脊髄前角細胞を経由して筋を収縮させる。そこからさらに情報を得て・・・と概要はこんな感じだろうか?(もちろん小脳や大脳基底核など他の部位も関与するし,こんなに単純では無い事は言うまでもないが)ここでまた,考えなければならない事がある。この外部情報はあまりにも膨大であるという事だ。今この文章を読んでいる皆さんはパソコンあるいは,プリントアウトした紙を見ているだろう。目は文字を追っている。しかし,視界にはパソコン本体(あるいは用紙全体)やその周囲の物体,例えばパソコンの横にあるペットボトルや資料の山,隣で仕事をしている同僚や横に座って遊んでいる子供。かなりの情報が目に飛び込んできている事だろう。文章だけを見ても同じだ。今読んでいるこの文章の前後,あるいは上下にもこの文字以外の文字が書かれており,常に視覚情報として入力されている。そう,常に必要な情報以外の情報が膨大に入力されているのだ。では,この不必要な情報を遮断してみればどうだろうか?実はこれはできないのだ。例えば,この『視覚』とい文字の周りを紙や手で隠してみてもらいたい。確かにこの文字だけが見えるようになる。しかし,周りを隠した物体も結局は見えてしまう。では,周囲を隠した状態でパソコンに顔を近づけてこの文字だけが見える視野にしてみてもらいたい。おそらくピントが合わず文字自体が見えなくなってしまうだろう。これでは意味がない。では,どうして必要な情報だけ見えるのか?『結びつけ問題』と呼ばれるこの問いに対して現在少なくとも2つの考え方があり,1つは脳は様々な部位が互いにつながっている事から,異なる属性や特徴をつなげてしまおうという考え方(これについては資料が無いのでよくわかりませんが・・・)。2つ目は関心の無い外部情報をシャットアウトしてしまうという考え方で,『注意』が関係していると言われている。神経科学では注意はある特定の情報に関する処理だけを促進するメカニズム=選択的注意と解釈されているそうです。視覚情報の選択と注意が関与している事は容易に想像が着くでしょう。しかし,ここで1つ気をつけていなければならない事がある。注意を向けた先が,視線を向けている先と必ずしも一致するとは限らないのだ。例えばあなたが恋人と待ち合わせをしたとしよう。相手は時間になってもまだ来ない。その時,視線を時計に向けたり携帯にメールが送られていないか確認するかもしれない。しかし,注意は相手が来る事に向けられているので,恋人が近づいてくる事に気づく事ができるでしょう。また,注意は記憶を再生する場合にも関与しているという考え方もある。半側空間無視の患者さんの中には駅から家までにある建物を思い出すように言われると,駅から家に向かって右側にあるものしか思い出せないが,逆に家から駅からまでの建物を思い出すように促すと,今度は反対に家から駅に向かって右側にある物しか思い出せない場合がある事が報告されています。これは,注意の障害が記憶を想起するときにも見られる事を示しているとされています。 さて,少し話を戻す事にしよう。先程も述べた様に我々の目には膨大な視覚情報が時々刻々と飛び込んできます。いったい数多くの物体が視野の中にある時にどの様に情報の選択をしているのでしょうか?実際に数多くの物体がある時に応答がどうなるかを見た実験があります。この実験では物体の数が多ければ多いほど,それぞれの物体に対する応答は弱くなる事が報告されています。つまり,膨大な情報が飛び込んでくるような場面では,感覚分析システムが機能しない事になり,今までの話が矛盾することになります。そこで登場するのが『注意』なのです。最近の研究ではある物体が単独で視野にある場合と,複数の物体がある中でその物体に注意を向けている場合とでは脳の活動がほぼ同じくらい活性化することがわかってきています。このことからも膨大な情報が交錯する中でも自分にとって必要な情報が見えてくるようになることがわかります。では,不必要とされた情報は消去されるのかといえばそう言うわけではないようです。例えば注意を他へ向けるとき,もし情報が無ければきっとどこに注意を向ければよいのかわからなくなるでしょう。つまり,注意の転換にもまた情報が必要なのです。ですから,少なくとも脳に入ってくる情報は弱いながらも利用されていると考えられています。注意の分類は多種多様で,文献によって様々だがここで少し受動的注意と能動的注意を考えてみたい。前者は外部から何らかの刺激がある場合にその刺激に注意が向く場合の事を指す。例えば,今この文章を読んでいる時に警報が鳴ればすぐに読むのを止め,そちらに注意を向けるだろうがそう言った注意の転換を指す。また,後者はこの文章に注意を向けてそれを理解しようとする場合の意識的な注意を指す。(今読まれている方がそうであってもらいたいが・・・)この受動的な注意が機能する事で急な情報が現れたときに,その情報に対する応答が他の応答に打ち勝つ事で,あたかもその物体だけが見える様に処理される。では,能動的注意はどうだろうか?実は能動的注意には前頭前野が関与すると言われている。みなさんはストループが考えた実験をご存じだろうか?紙に3列の文字がいくつか描かれており,左には文字の色と文字が一致した単語(赤い色で書かれた”あか”という文字)の列,中央の列は全て同じ記号で色がランダムになっている列,右の列は書かれた文字とその色が不一致(赤い色で書かれた”みどり”という文字)の列。この3列についてそれぞれ上から順に文字列の色を言って,それぞれどの位時間がかかるかを見るテストだ。皆さんもやってみるとわかると思いますがおそらく一番時間がかからないのは中央の列で,一番時間がかかるのは右の列だと思います。理由は簡単。文字の色と実際に書かれてある文字が異なるからです。この課題はかなり注意をしなければならない。この課題中の脳の活動を見たところ大脳辺縁系の帯状回前部の活動が見られ,この部位は前頭前野とのループがあることから帯状回や前頭前野が,能動的注意に関与していると言われている。 なぜ,娘が目を閉じてもボールをキャッチする事ができたのか?おそらく膨大に入ってくる視覚情報の中でボールという物体に選択的かつ能動的に注意を向けそのボールがどの様な軌道を描くのか予測し,その軌道上に手を伸ばす事でキャッチする事ができたのだ。また,ボールが何処にくるのか予測しているおかげで目を閉じてもキャッチする事ができたのだ。なるほど,と言いたい所だが実はこれだけではこの行為は成立しない。我々が日常的に行なっている動作は単純に『刺激とそれに対する応答』という図式では表わせられないからだ。そこには必ず目的が存在する。父親である僕とキャッチボールをして楽しむと言う目的が娘にはあったのだ。楽しむという事は『快の情動』と捉える事ができる。つまりは運動に情動が付与されているのだ。この情動に関与するのが情動脳とも呼ばれる大脳辺縁系だ。前述したが認知的に体験した出来事の記憶やその経験が快や不快かといった情動情報を前頭連合野に送り情報が統合して処理し,最終的に行動を決定する。ただこの目的も1つとは限らない。娘は複数の情報の中からボールを選択しなければなりませんが,これも一つの目的です。次にボールに手を伸ばすという目的。近づいてきたら両手を近づけてボールを挟もうとする目的。ボールをキャッチする目的と言った具合にその都度その都度小さな目的を持った動作を順次進めていく必要があります。この様に我々の行動はいくつかの小さな目標のある行動の組み合わせとして見る事もできるが,この時に必要となってくるのが前頭前野だ。前頭前野は作業記憶や情報の選択,作業の切り替えなどに関与してきます。もちろんこれ以外の場合にも関与してきますが認知的な活動を成立する場合には重要な要素になってくる。そして,この前頭前野は前述した注意にも関与してくるのだ。 つまり,娘は楽しむ目的があるから膨大に入ってくる視覚情報の中でボールという物体に選択的かつ能動的に注意を向けそのボールがどの様な軌道を描くのか予測し,その軌道上に手を伸ばす事でキャッチする事ができたのだ…と考えてしまうとまた,問題が出てくる。僕が娘に向かってボールを投げる前からその場に立ち続けていたのだ。別にその場から離れるという選択肢も考えられる。でも,娘はその場でボールが来るのを待っていた。なぜだろう?おそらく娘はそこにボールが飛んでくる事を知っていたからだ。前述した予測に似ているが少し異なる。前述した予測はボールの軌道を予測,つまり動気を予測していたのに対し,今度はこれから起こる現象を予測している。ボールが飛んでくる事を知っていたと考えると,つまりは僕がボールを投げる事を知っていたのだ。では,なぜ僕がボールを投げる事を知っていたのか?ここでヒントとなるのが『心の理論』だ。皆さんご存じの通り,過去に積み重ねた経験から,相手の心を理解し,感応する能力で,この心の理論を知る上で誤信念課題としてWimmerらによるマクシ課題や”サリーとアンの課題”が紹介される事が多い。これらの実験では4歳ぐらいで目に見えない信念を持つようになるとされており,なるほど3歳になる娘が僕の心を読んでいた事も納得がいく。しかし,実はまだまだ心の理論が獲得されていないと思う事がある。娘が「抱っこしたい」とよってきた時の事だ。娘が抱っこしやすいように身をかがめると「違う」と叱責された。どうやら娘は抱っこをしてもらいたかったらしい。しかしここで考えてもらいたい。本来ならば「抱っこして」と言わなければならないのに「抱っこしたい」と言う。この「〜したい」という単語は能動的であり,「〜して」という単語は受動的である。つまり「〜したい」といいながら抱っこを要求してくる際の単語と身体の動作が乖離しているとも考えられる。自分自身が実行したいという欲求,つまり「〜したい」と,自分自身の欲求ではあるが他者にその実行を求める「〜して」という単語は他者との関係性が構築されて初めて成立する単語なのである。つまり娘はまだ完全に心の理論が構築されていない事が伺える。 心を読むための4つのシステムをBaron-Cohenは以下の成分を挙げている。@ID(Intentionality Detector):意図検出AEDD(Eye Direction Detector):視線検出BSMA(Shared-Attention Mechanism):共同注視CToMM(Theory of Mind Mechanism)である。詳しい説明は省略するがこのシステムでは他者の注目している物に対して自分も注目していることがわかるようになり,これは新生児模倣とも関連のある共同注意現象に基づいている。小さい頃から,「相手の目を見ろ」や「目を見ればわかる」といわれてきたがなるほど確かにそうかもしれない。あれ,でも待てよ。目は視覚情報を入力するだけではないぞ。同じ目を考えているのに見えてきた物が全く別のものだ。目の機能は確かに視覚情報を得る事だ。しかし,その意味はかなり深いぞ。視覚情報の処理,運動への関与,注意そして心の理論。まだまだ挙げればキリがなさそうだ。そしてよく考えてみてみると目も運動しているぞ。眼球運動は動眼・滑車・外転神経が機能しそれぞれが司る筋に働きかけている。瞳孔も筋の収縮だ。 リハビリテーションの勉強をしていると目の勉強はおろそかになってくる(これは僕だけだろうか?)しかし,この目の持つ意味を考えると決しておろそかにすることはできない。リハビリテーションが学習である以上必ずそこには他者(教育者)が存在する。人は他者とのやりとりの中から何かを感じ取り,理解し,行動しながら経験を積み重ねていく。その経験が学習であり人を成長(あるいは回復)させていく。ここで1つある実験を紹介したい。幼児の言語学習に関する実験だが,ある群には言語の学習ビデオを見せて学習してもらい,別の群にはビデオの内容と同じ事を実際に目の前で行なってもらいその違いを検証したものだ。学習内容とそれを教える人物は2群とも全く同じ条件だが,実際に目の前で行なった群の言語の獲得が優位であった。これは相手の表情や応答のタイミングなど様々な要因がビデオでは伝わらず,逆に実際に接する事でそれらの情報を読み取っていた結果であると考えられている。人が人を成長させる。そこには必ず様々な情報が交錯し,それをお互いに読み取り合いながら成長していく。リハビリテーションも同じである。自己の脳と他者の脳が相互作用する事で学習し,また新たな問題が出現し,相互作用し学習していく。つまり,我々リハビリテーションの世界に身を置く者は相手を理解する力をやしなわければならない。例え動作観察や分析が完璧にできても,それは外部観察のみであって,なぜ異常な運動が出現しているかはわからない。Varelaは主体が世界を見る時には「全ての人に共通する物がある以外の」あるいは「その人にしかわからない”私の”」感覚なり認知があると述べている。患者自身にしかわからない身体を知る。そのために我々セラピストになりたい者は観察者として相手を理解するための視点を意識しなければならない。 さて,僕は今ここで『セラピスト』と書いた。しかし,僕は理学療法士でありセラピストではない。セラピストという意味を調べてみると”治療者”とある。あたりまえのことだが人間を治療する者である。そうなると必然的に人間を知らなければならない。身体の事を知るのでは無く人間だ。目だけを取って考えてみてもこれだけの事が考えられる。しかし,もちろんこれだけではない。認知過程(知覚・注意・記憶・判断・言語)もわからない事だらけだ。認知過程だけではない。脳に対してアプローチをしようとしているのにわからない事だらけだ。唯一はっきりしているのは脳が単純ではないという事だけだ。それでも臨床の中ではわかったと感じる瞬間がある。しかし,わかったつもりになったとたんに新たな疑問が浮き上がってくる。そこで,文献を紐解き,臨床で検証し,疑問がでてまた文献へ・・・この繰り返しだ。わかったと感じて納得してしまえばそれで終わりだ。そこで自分の限界がきてしまう。限界を超えるために疑問があるのかもしれない。疑問は今この瞬間に満足しないから出てくるものだと思う。満足しないという事は少なくとも一瞬前の自分よりは成長しているのだろう。疑問は人を成長させるのかもしれない。認知運動療法の課題にも似ているかな?疑問だけではない。悔しいと思う事。例えばテストの成績が悪かったり,野球で勝てなかったり,自分の講義を駄目だと感じたりする事も自分自身を成長させるのかもしれない。もちろん喜びを感じる事だって人を成長させる。つまり感情は人を成長させるのだ。感情?また難しいキーワードが出てきたがそれはまたの機会に考えよう。この仕事をしていて思う事がある。それは終わりのない仕事であるという事だ。人間を理解しなければならない仕事であるにも関わらず,人間を理解できていない。だから先程セラピストになりたい者と書かせて頂いた。矛盾だらけの仕事かもしれない。でも少しづつでもいい。一歩一歩着実にしっかりと歩んでいきたい。先にも述べたが目だってリハビリテーションに関わってくる。(ちなみに最近,視覚野に障害を受けても視覚機能がリハビリテーションにより回復し,その際に脳の改変が行なわれている事がわかってきました。)僕らリハビリテーションに携わる者として目の持つ力にも注目していく必要があるのかもしれない。もちろん目だけではない。観察に必要なものは全て総動員し内部観察をして患者さんを理解していかなければならないと思う。理学療法士や作業療法士,言語聴覚士といった枠組みの中でリハビリテーションを捉えていては限界なのかもしれない。目指すべきはセラピスト,人間のスペシャリストか。そのためには様々な分野の勉強をしなければならないな。 かなり話が脱線したので元に戻そう。なぜ,娘が目を閉じてもボールをキャッチする事ができたのか?視覚の問題,注意の問題,心の理論,感情・・・わからない。そもそもボールの動きを予測するためにはどういった機能があるかもわからなければ、ボールの感触を予測しそれにあわせた筋収縮を行わなければならない。またキャッチボールをする前から言語的な介入もある。言語と運動の関係性や、言語と心の理論、突き詰めていけばおそらく考察しなければならない事が山ほどある。しかも、この関係性が必ずしも2つの項目の関連性だけとは限らない。3項目であるかもしれないし、4項目あるいは10項目以上、いや何項目の内容を考えればわかるかということすらわからない。また運動が創発特性である以上この関係性の構造はかなり複雑なものになる。だいたいなぜ、目を閉じたのか?ボールが当たるのが怖いから?ではなぜ、怖いと目を閉じるのか?いや、怖いからといって必ず目を閉じるとも限らない。もし怖いと目を閉じるのであればお化け屋敷なんて常に渋滞だ。反射?でも目を開いている時だってある。それはどう説明すればよいのか?しかも、この行為はほんの数秒間の出来事であるが、この前後の関係性だって考えなければならない。時間は刻一刻と変化し続けるから。変化し続ける?時間だけが?いや違う。脳だって刻一刻と自らをアップデートし変化し続けている。もうわけがわからない!!!この目を閉じたままでボールをキャッチするという何気ない一連の行為から考えることがこんなに多いとは思いもよらなかった。解剖学や運動学、生理学や神経科学。神経心理学や現象学など様々な知見を知らなければ解くことはできない問題だ。まさか土曜日の夜のたった一つの出来事でこんなにも悩み自分の知識の無さを思い知らされるとは・・・でも問題を提起した以上は何らかの回答を出したい。簡単には答えが出ないことはわかってはいるがそれでは納得がいかない。どんな現象だって突き詰めていけば必ず答えは1つであるはずだ。さてどうしたものか?この自分自身の問いに対してどう答えればよいのやら・・・ わかった!答えは『脳は空より広い』からだ!!! |
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