| 「パウル・クレー、現象学的意識、問題、そして経験」 投稿日:2008年11月24日(月) | 荻野 敏(国府病院) |
| 今回の雑感は、ちょっと絵画について語ってみたいと思う。なんとなく長くなりそうな予感がしているが、そうすると僕の長編雑感は第3弾ということになる。第1弾は文学、第2弾は音楽、そして第3弾が絵画とすると流れ的にもいい感じ。そんなことを思いながら、書き始めることにしよう。さて、なぜ絵画について雑感で書こうと思ったかというと、そもそもはいま名古屋市美術館で開催されている「ピカソとクレーの生きた時代展」を見たからだ。2008年10月18日から12月14日まで開催されているこの展覧会は、ドイツのノルトライン=ヴェストファーレン州立美術館が多く所蔵している西洋近代美術を展示してくれている。中でもピカソとクレーのコレクションは高い評価を受けているらしい。美術館が改修されるために日本で展覧会を開催することができたそうである。その展覧会を見に行く機会があり、ピカソ・クレー・マティス・マグリット・エルンストなどの作家の絵画をじっくり見ることができたのだ。 考えてみれば、認知運動療法に出会ってからは様々な芸術に触れる機会が増えた。学生時代や若い時分はまったくといっていいほど芸術には興味がなかった。以前の雑感でも触れたが、クラシックなども聞くことはまずなかったし、美術館などに行くこともまったくなかった。興味がなかったからだ。それが、認知運動療法を勉強していくことで、表現や感情、そして人間の内実や心理などを表す芸術に少しずつ魅かれ始めてきている。もちろん、そんなことを言っても僕は素人なので作品の良し悪しだとか、これは○○を表しているなどといった批評を加えることはできない。単純に作品を見て「好き」かどうかが僕の中では重要だし、批評や解説を読んで「なるほど」とか「面白い」といった感想を持ち合わせる程度である。それでもそういった深く感性に切れ込んでくる作品などを見て、人間や心理や感情や内面といったことを考えることが増えた。そういった「考えること」は、認知運動療法に出会う前より後では明らかに増えている。 さて、展覧会の話に戻る。今回の展覧会に行こうと思った最も大きな理由はクレーの作品が多く見ることができることであった。クレーの絵が好きだ。クレーと一番最初に出会ったのは結構最近で、最初の出会いはNHKで放送されている「迷宮美術館」という番組だった。そのころは第8回日本認知運動療法研究会学術集会の学会長に任命されて、右も左も分からずに、さまざまな芸術方面の情報を集めたり調べたり関心を深めたりしていた頃だ。その番組の中の特集でクレーは取り上げられて、音楽を絵画で表現しようとした芸術家であると紹介していたのだ。 ここで簡単にクレーの生い立ちを記しておきたい。パウル・クレーは、1879年12月18日にスイスのベルン近郊ミュンヘンブーフゼーで生まれる。父はドイツ人の音楽教師で母は声楽を勉強したスイス人であった。姉マティルデにつづく第2子として生を受けた。小さい頃に祖母アンナから絵の手ほどきを受け、またヴァイオリンも相当上達していた。若くしてベルン市管弦楽団に参加するなど音楽の才能にも恵まれていたそうである。高校卒業後、ヴァイオリニストと絵画のどちらに進むべきか悩んだが、絵画の勉強をするためにミュンヘンに出る。不協和音絵画から現代的な美しさを目指すが、理解されずに不遇の時代をすごし、挿絵画家として生計を立てていた。苦難の時期ではヴァイオリンの演奏をして気を紛らわせることもあったそうである。1914年に友人のモワイエと画家アウグスト・マッケとともにチュニジアに旅行する。このとき、クレーは絵画において開眼と言うべき経験をする。1914年4月16日のクレーの日記にはこう書かれている。「色彩が私をとらえて離さない。・・・・この幸福なひとときの意味、それは、色彩と私がひとつになったということだ。私は色彩画家となる」 その後、色彩を巧みに用いた絵画や、音楽を絵画で表現するなど、革新的な作品を数々生み出していった。しかし、第2次世界大戦の戦火が高まり、ドイツではナチスが台頭し、クレーの作品は退廃芸術とされて焼却処分されるなどの扱いを受けることになる。自身もユダヤ人であるとの疑いを掛けられ、1931年からドイツのデュッセルドルフ美術アカデミーの教授に就任していたが、ついに1933年スイスのベルンに亡命することとなる。1935年免疫不全症の一種である皮膚硬化症を発症。動きにくくなった手で作品を書き続け、黒チョークで「天使」を表現した線描画を描いては床に放り描いては放り、最晩年まで多くの作品を残した。代表作「忘れっぽい天使」はこの時代に描かれた作品である。また、興味深いことに1937年にピカソがベルンにクレーを訪問してる。そしてその3年後の1940年6月29日にムラルト=ロカルノの病院にて永眠された。 僕のクレーへの興味は「音楽を絵画で表現する」ということから始まっている。例えば1921年に描かれた代表作「赤のフーガ」は音楽との類似性を暗示させる。赤で表現されている形は上から何層にも重ねられており、それぞれの輪郭を保持しながら流れていくさまは主題と応答の連続を感じさせており、まさにフーガとよぶにふさわしい作品となっている。音楽と自然と美術との結合を納得いく形で表現させることに成功している。こうした作品は代表作である「パルナッソス山へ」でも表現されており、音符やリズムを絵画の中に取り入れて見るものを音楽の世界へいざなってくれる作品であるとも言える。 それにしてもクレーの絵が好きになってからよくよく見てみると結構いろんなところにあることに気が付いて愕然とした。まずは「子どもの発達と認知運動療法」の装丁である。1934年の「芸術の都」という作品が使われていた。この本はもちろん読んだし、宮本省三先生らが書かれた結語に相当する「心のなかの身体を育てる」も読んだのだが、僕はその時、殆ど気にしていなかったようだ。宮本先生らはこの中で『本の装幀には、P.Kleeの「芸術の都」(1934)が使われている。芸術は世界認識の新しい創造行為であるが、子どもの発達も世界に開かれた驚異的な創造行為である。だからこそ、リハビリテーション技法もまた創造的なものでありたい』と述べている。また、2005年に開催された小児のベーシックと2006年に開催された小児のアドバンスコースの表紙にも1927年の「潟の町」が使われている。もちろんこの絵は「認知運動療法と道具」の装丁でも使われている。子どもの落書きのような絵かもしれないが、見るものにとってはとても心が安らぐ絵である。それにしても「芸術の都」はまったく気が付かなかった。自分は本の内容や表紙に注意を向けていなかったのだと反省した。 半年ほど前、NHKの「迷宮美術館」でクレー作品におけるトピックスが紹介されていた。最晩年の1940年に描いていた「グラス・ファザード」という作品にあるとてつもない仕掛けがされていたというのだ。クレーの最高傑作とも言われているこの作品は、時間とともに表面の絵の具が剥げ落ちるという危険が迫った。修復のため絵をよく分析してみると、なんとキャンパスの裏の剥がれた絵の具の下に少女の姿が現れたのだ。この少女の絵はクレーがよく用いた線で描かれており、不思議な円と不思議な形の絵も同様に現れてきた。しかもよく観察すると木枠には「少女が死に、現れる」と鉛筆で書かれていた。これはいったい何を意味するのか。さらに研究が進むと、この少女像は頭が上に描かれていたのではなく、頭を下にしてまさに下に向かって落ちていくように描かれていることが分かった。この少女は実在の人物といわれており、友人の建築家ワルター・クロビウスの娘マノンであることが有力視されている。クレーはマノンを非常にかわいがっていたらしいが、不幸なことにマノンは18歳の若さで病死する。クレーは深く悲しんだ。「グラス・ファザード」の裏に描かれていた少女像。その横に描かれていたのはクレーが晩年多く描いた天使像であり、そのなかの一つ1939年に描かれた「いまだ女性の天使」に酷似している。つまり研究者の見解はこうだ。マノンの死を非常に悲しんだクレーはマノンを少女に見立てて上から落下するように描いた。これは上から下へ落ちるということから死を意味する。その横に描かれた「いまだ女性の天使」。マノンはまだ女性のままだが、いずれ天使となり天空へ昇華していく。そのさきに、円が描かれている。これは天国を意味するのだと。修復の際に発見されるように仕組まれた絵画。時間までも操るクレーの感性。クレーは、音楽という音だけでなく時までも絵画の中に、芸術作品の中に表現したのだ! クレーの天使シリーズが大好きだ。クレーの絵には日本を代表する詩人である谷川俊太郎が多くの詩をつけている。好きな詩や好きな絵はたくさんあるが、その中でも特に好きなのは1939年の作品「天使、まだ手探りしている」につけられた詩だ。 「天使、まだ手探りしている」 わたしにはみえないものを てんしがみてくれる わたしにはさわれないところに てんしはさわってくれる わたしにこころにごみがたまってる でもそこにもてんしがかくれてる つばさをたたんで わたしのこころがはばたくとき それはてんしがつばさをひろげるとき わたしがみみをすますとき それはてんしがだれかのなきごえにきづくとき わたしよりさきに わたしにもみえないわたしのてんし いつかだれかがみつけてくれるだろうか 皆さんはこの詩を読んで何を感じるだろうか。「わたし」とは誰か。「天使」とは誰か。もしかしたら「わたし」は患者かもしれない。そしたら「天使」は? 「天使」はセラピストであるべきである。そう考えると「天使」は認知運動療法かもしれないし、言語かもしれないし、道具かもしれない。20世紀を代表する芸術家の描いた絵を、日本語の詩という言語に変換する日本を代表する詩人。ある感覚から違う感覚への転換はクレーが試みた音楽と絵画のシフトであり、それはよく観察してみると僕らの臨床場面でも常に行われている変換なのである。 つまり、なぜクレーの音楽を絵画で表現するということに僕は興味を持ったのかというと、ある現象を違う現象で表現するということを芸術を使って見事に表現したためだからだ。クレーは音楽を現象学的に絵画で表現した。茂木健一郎は著書の中で『アウェアネスの中で多彩なクオリアが同時に感じられるという意識の側面を、「現象学的意識」と呼び、そのうちの一部に注意が向けられ、言語化されたり、記憶に残ったりするという側面をその内容に「アクセス」できるという意味で、「アクセス意識」と呼ぶことがある』と述べている(脳内現象、NHKブックス、2004)。多彩なクオリアを同時に感じるということは、ひとつの事象を様々な観点・方向から吟味できることを意味する。ある事象を多角的にとらえるのであれば、その事象をまったく違ったイメージで表現することも可能だろう。勝手な解釈で、それを現象学的と捉えるならば、クレーは自身の聞く音楽を(クレーはモーツァルトとバッハを敬愛していたそうである)絵という違ったクオリアで捉えて表したのだろう。となれば、運動や行為を違った表現で表すことも、摩訶不思議なことではなく、それが「モーツァルトの曲のような肘の動き」や「ベートーヴェンの交響曲のような肩の重さ」という表現になるかもしれない。しかしまてよ。ある事象や運動や行為を表現する場合、多くは言語を用いる。ならば言語もすでに現象学的といえるのではないだろうか。つまり、ある事象や運動や行為を現象学的な方法を用いずに表すとすれば、それはその事象や運動や行為を行なうことになる。しかし多くの場合、特に患者の場合はそれは不可能だから言語を用いることになる。それは現象学的なのだろうか。 患者の感じている世界を患者が捉える。そしてその捉えた世界を患者の言語で発話する。その発話された言語をセラピストが言語で聞く。この言語は文脈や状況も多分に含まれる。さらに聞いた言語を理解・解釈・分析して、認識論的視点や認知的視点を作成し訓練を組織化していく。患者が感じている世界からセラピストの訓練の作成までは相当な隔たりがあるような気がしてならない。少しでも解釈を誤まると正確に「問題」を突き止めることができないだろう。どうすれば患者の内面に迫れるのか。クレーの絵画はひとつのヒントになりうるのか。 「亡き王女のパヴァーヌ」という曲がある。「ボレロ」であまりにも有名なラヴェルの初期の作曲である。この曲の解釈は、ある音楽家の解釈とある作家の解釈とある演奏家の解釈で相当に違っていた。ラヴェルが作曲したこのメロディーを後世に生きる僕らが聴いたとき、どのような感情を立ち上がらせるのかはある意味自由であり束縛されない。つまり違うことが問題となったのではない。この音楽はこのように聴かなければならないなどと規定されたのでは、面白みも何にもなくなる。むしろ、人と解釈が違うことがある種の面白みを醸し出しており、他者の意見を聞くことでなるほどと唸ることも多々ある。では、音楽家たちは「亡き王女のパヴァーヌ」を聴いて様々な解釈を述べていたのだが、誰が正解で誰が不正解ということを言うつもりだったのだろうか。つまり、彼らは「この音楽はこう聴こえる、正解か不正解か」という問いを挙げたのだろうか、それとも「わたしにはこの音楽はこう聴こえる」という経験を挙げたのだろうか。 患者が発する言語・記述を「ヘン」と思うことこそ「ヘン」なのである。小林秀雄という日本文壇会を代表する大批評家がいた。最近、ちょっと小林秀雄にはまっていて、思い切って講演CD集を全巻買ってしまった。先日発売された「新潮」(2008年12月号)では『小林秀雄の「響き」』として特集が組まれていて名講演選のCDが付録でついている。小林秀雄は講演の中でこんなことを言っていた。ベルグソンの念力に関する解釈の話である。ベルグソンがある心理学会に呼ばれて講演に行ったとき、戦争に出兵した兵隊の婦人がある夢を見たという話を彼は聞いたそうだ。その話とは、その婦人が夫が戦死する夢を見たという話である。戦死した状況も周りにいた兵隊の顔もしっかりと見えたそうだ。あまりにも生々しい夢であったのでその話を兵隊にしたところ、まさに夫の戦死した状況と酷似しており、また周りにいた兵隊も夢に見たとおりだったそうだ。それを聞いていたフランスの研究者の医者が、その話を信じたいが、問題がある、夢で見ることは本当のこと以外にも間違った夢も多く見ている、なぜわたしたちは多くの間違った夢を取り扱わないのかと、発言したそうだ。すると横にいたある娘さんが、そのフランス人医師に向かって、先生の言っていることは間違っていると思いますと反論したそうである。そのやり取りを聞いていたベルグソンは、私も娘さんの言っていることが正しいと思うと発言したそうだ。 このやり取りは相当に深い意味を持っていると直感した。科学とは何かをも考えさせるような内容だ。この後、小林秀雄は「問題」と「経験」の区別を語り始めた。この婦人の言ったことは「問題」を話したのかそれとも「経験」を話したのか。つまり、こういう夢を見たとき本当になるのはどのぐらいの割合で間違っているのはどのぐらいなのかということが、議論の中心なのかそれとも婦人の語った夢そのものが議論の中心なのか。合っている間違っているというということなら統計的にそれを数字で表して有意なのかどうかを検定することもできるだろう。しかし、それをすれば圧倒的に間違いが多くなることは容易に想像がつく。夢はヘンな夢が多いからだ。それは僕らが体験している。婦人は、私の見た夢は本当だったのか間違っていたのかという「問題」を話したのではなく、こんな夢を見たという「経験」を話したのである。ある事象を「問題」と捉えるか「経験」と捉えるかで、その事象に相対する態度が変化する。僕らは患者が話した言語記述を、そんなことがあるのだろうかそれともないだろうかという「問題」として捉えるのではなく、その患者はその「経験」をしているという捉え方をしなければならない。つまり「経験」は否定をすることができないのである。反証をすることが不可能なのだ。もし「経験」を否定されればどのようなことが起こるのか。自分自身で考えてみるといい。自分が他者にこんな「経験」をしたと話をしたら、その他者がそんなことはないと否定してきた。なんども否定されれば、自我の崩壊に繋がる。自分や自分の感性感覚までも否定されると感じてしまうからなのだ。 科学的な視点を忘れてはいけない。患者の出来ない行為を「問題」として捉える。これは当然必要だ。だが、患者の生きている世界までも反証することはできない、つまりそれは「経験」として受け入れるしかない。どのような世界に生きているのか、ある事象をどのように捉えているのか、この患者はいま僕らとは違う世界を生きている、反証を超えた経験世界の存在は心にとどめておくべきである。リハビリテーションの世界は人間の復権の世界だ。人間は自ら考え、行動する動物である。人間はときに想像を超えた行動をする。とすれば、数字ですべてが割り出される世界でリハビリテーションを解釈することは困難であることは容易に想像が出来る。そこには常に「経験」という難解な壁があるからだ。その壁を取っ払ってしまったら確かにシンプルに見えるかもしれない。学生にも教えやすいだろう。でも「経験」のない人間はいないのであり、決定的にその人間の行為に関連してくるのだから、「経験」は避けて通れない。 僕らがよりどころにしている科学はいったい何を基礎にしているのか。クレーの絵画が美しいと思うこと。クレーの絵画を見て音楽を感じること。色彩の魔法にかかったように色の世界を旅すること。「グラス・ファザード」を見て時間を感じること。命の儚さや尊さを感じること。絵から詩というインスピレーションを受けること。その詩を読み心震わせること。これらはみな「経験」であり、それを否定することは出来ない。クレーの絵画はそんな「経験」を感じさせてくれる。 スイスのベルンに「パウル・クレー・センター」という美術館がある。アーレ川の深い谷に囲まれるようにしてあるその美術館にはクレーの作品が四千点余り所蔵されているそうだ。美しいスイスの風景を想像しながら、いずれ行ってみたいと思った。 今日(11月24日)まで名古屋でアドバンスコースが開催されていた。パンテ先生のすばらしい講義、サントルソの果てしない頂にただ脱帽。そして手・歩行・24時間の情事とさまざまなことを考えさせられたコースでもあった。そのことについて語るにはさらに雑感が長くなるのでまた後日。それと明日11月25日は僕の41回目の誕生日だ。また一年、2027年のリハビリテーション訓練室に近づいた。 |
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