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●この港は、片浦湾の入り口近くにある港で、天然の良港として昔から栄え、幕府の鎖国政策の中でも西洋や中国などの外国との交易も盛んに行われ、幕末の頃には砲台や、外国船取締り番所が置かれました。片浦の入り江は、片浦・仁王崎・小浦の順番で港が有り、入り江の一番奥が小浦の港になります。
奥に見える島は立羽島と呼ばれ、切り立った断崖は人を寄せ付けず、海鳥のみの住む島となっています。この島に向かって右側(東側)にある島が、神ノ島と呼ばれ、古事記に登場する「竹ノ島」を思わせるものがあります。この島の山頂にはニニギノミコトを祀った祠があります。なお学説等では竹島は野間岳とされています。
片浦には、野間神社の宮司をされている家がありましたが、過去に何度かの大火に見舞われる等した為に、保管されていた笠沙の重要な文書等の古い伝承等が失われ、笠沙は歴史の波にのみこまれるてしまいました。学説には色々あり、古事記や日本書紀の研究等で、鹿児島県西南部やその周辺に散らばる島々には、研究の対象から除外した考え方などをよく見かけま。それらの研究は、笠沙の地を他の地としたり、その部分は省いて考証するなど、 薩摩半島南西部を最初から受け入れようとしない考えには、違和感さえ覚えます。 また、そこで育ち地勢・地理的な特長や人の繋がりを知る者からすれば、これらの古事記等の考証は、何の説得力も無い机上の空論にも思えてきます。 しかし、このような意図的に薩摩半島南西部地域を外したとも受け取れる歴史考証も、発達した考古学や遺伝子研究などの実証的な科学技術の力で、失われた笠沙や薩摩半島西南部地域の歴史も、徐々に解き明かされつつあり、近い将来には決定的な物証などが出てくるのも近いのではないでしょうか。
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