| |京都と薩摩| |
京都府京都市伏見区御香宮門前町 |
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■御香宮神社・鳥羽伏見の戦い・新選組壊滅の地■ |
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【御香宮神社】
●伏見には、色々な歴史的史跡があり、この地もその一つです。交通は近鉄電車の桃山御陵前(ももやまごりょうまえ)駅より東に250mほど、京阪電車の伏見桃山駅からは、300mの利便の良い場所にあります。
この御香宮神社(※ごこうぐう)の社名の起こりは、二つの説があるようです。清和天皇貞観4年9月に社内に清泉が湧きだし、万病に効いたり、香しい匂いが四方にしたことにより、御香宮と名づけたとする説と、遥か古代の朝鮮征伐(新羅・三韓征伐)の際、神功皇后の筑前糟屋郡の香推の明神を祀って名づけたとする説があります。延喜式では御諸神社と呼ばれ、祭神は、神功皇后・仲哀天皇・応神天皇が祀られています。また、御香宮神社は伏見の守り神的な神社で、古来より何か事が起こると伏見の住人はここに参集して事に当たったのことです。※地元では「ごこうぐう」と呼ばれています。
●明治維新の先駆けとなった戊辰戦争も、この地での戦闘等が切っ掛けとなりました。特にこの一帯で起きた戦を「鳥羽・伏見の戦い」と言い、伏見派遣の薩摩藩兵は、戦いが始まる直前まで伏見藩邸を本営としていましたが、 旧幕府軍の過激派が、伏見奉行所に続々と終結するのを知ると、島津式部を大将に参謀は吉井幸輔が、御香宮の有るこの地や周辺に陣を敷きました。また、伏見より北西2.5キロにある「鳥羽」と呼ばれる一帯にある城南宮(鳥羽離宮址)にもここ同様に薩摩軍による約800名の陣地が設けられました。この地の伏見には約700名(一個大隊)の薩摩藩兵が、伏見の町を東西に走る大手筋を境に、百数十メートル先の伏見奉行所を本拠とする旧幕府歩兵隊・会津藩兵・新撰組等の1500人以上とされる数千人規模の敵と対峙しました。鳥羽・伏見の戦いは、城南宮方面(鳥羽)よりの砲声を合図にするように、この地の御香宮の東側高台にある龍雲寺からも薩摩砲兵隊の正確な射撃が、伏見奉行所を本営とする会津・新選組砲兵隊や旧幕府歩兵隊に行われました。
旧幕府軍の過激派は、大砲陣地を潰されると手出しも出来ない甚大な被害を受け、特に新撰組は壊滅的な情況となり、抵抗もままならない事態となります。その後新撰組や会津藩兵・旧幕府歩兵隊は伏見の各地に火を放って淀方面へと敗走していきます。しかし、追撃する薩摩藩兵の更なる攻撃で、新撰組に至っては150名いた隊士うち100名余りが戦死や重症負うなどの被害を出し、周辺の諸藩などからも味方する者も無くなり、取り残され耐え切れなくなった旧幕府過激派は、大阪方面へ敗走し、船で関東へと落延びていきます。
現代の物語やTVドラマの中ではヒーローの新選組の隊士も、当時の京の民衆が捕らえる姿は、現代のイスラム過激派等の犯罪集団と化したテロリスト達と同様に嫌われ者であり、強い恨みを持たれていた事が、当時の瓦版による辛辣な内容からも伝わります。
「みんな嫌がる壬生浪(新撰組)も
先に打たれるは 気味よく冥土へ総勢逝く」
彼ら新選組の屍は、他の藩兵と違い誰も拾う者も無く放置され、見かねた会津藩と関係の深いヤクザたちが拾い集め埋葬したようです。 |
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この神社も神功皇后が祀ってあります。本殿横の植木には南方の植物が植えられています。
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【独り言】
●小枝橋を渡ろうとして、薩摩軍に攻撃された旧幕府軍の行為を、江戸薩摩藩邸焼き討ち事件にリンクして、さも薩摩が悪いから打つために上洛して、戦闘になった等も史実とは違うように思います。12月9日には、朝廷より徳川家の領地没収・官職返還の命が出ており、その時点で旧幕臣の扱いは決まったも同然です。薩摩を怒らせようと、色々画策して戦闘を誘発させた本来の原因は、旧幕府側にあり、その上、朝廷の命に背き、武装して強固に上洛して来た旧幕府側の姿勢は誅罰されてもしかたのない行為だたようです。
このとき、「薩摩討つべし」で主家の徳川家さえ困惑した半狂乱状態の過激派の新撰組・見回組・会津藩や桑名藩の不穏な行動を、察知した朝廷は、伏見に屋敷を置く各藩(徳川家の尾張、紀伊も含む)に、京師や伏見を警護するように命を出しています。また、この時点での長州藩の戦力も言われるほどはなく、鳥羽・伏見の戦は、薩摩藩の活躍で大きな戦果を上げたのは間違いないようです。何故、徳川慶喜が簡単に撤退したかは、自ずとこれらの経緯からも想像できると思います。裏切りでも何でも無く、常軌を失った過激派の部下たちの行動から、単に勝算の無い戦いに、多くの兵を用いても勝ち目の無いことを悟ったのだと思います。
官軍側の伏見(御香宮近辺)での戦力
●薩摩藩・・・・伏見派遣:約700名(6個小隊:一個大隊。他に鳥羽方面に大隊約800名)
・京都方面への派遣出来た最大人員:約2千500名(約二十個小隊:一個連隊)
○薩摩藩の鳥羽伏見での戦死者・負傷者等・・・・・・・・・・・・約百数十名
●長州藩・・・・伏見参加:125名(京の総戦力不明1000人?500人程度では)
・長州勢は、支藩との合同参加の為か、長州藩・徳山藩・岩国藩の諸隊
が混成で参加しており各隊は数十名の小隊単位と思われる。
○長州藩の鳥羽伏見での戦死者・負傷者等・・・・・・・・・・・・・・・・・48名
●土佐藩・・・・伏見参加:100名(初戦は参加せず)
・戦闘禁止の藩命に背き一部の部隊は参戦する。
※薩摩・長州・土佐の京都地域の総戦力は「六千や五千人」とよく言われますが、実際には開戦当初は、京都や伏見の地域には合わせても戦力になる人員は「三千五百人」ほどしか居なかったようです。
◆旧幕府側・・・伏見奉行所(1500名以上)
総戦力は、「1万5000人以上」とも言われており、他の説では旧幕府側の「総兵力は3万人」とも言われ、鳥羽伏見の戦いの勃発当初でも、旧幕府側は鳥羽・伏見に少なくても5千人弱(歩兵十二個大隊伝習隊一個大隊・見回組・新選組・会津藩兵・桑名藩兵等)の部隊を配置しています。この事からも伏見に10分の1程度の戦力しか置かなかった話にも疑念がわきます。
◇旧幕府過激派の鳥羽伏見での戦死者(負傷者は数千人規模)
・会津藩砲兵隊・各諸隊・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・130名
・幕軍歩兵隊・同砲兵隊・同遊撃隊・見回組・新選組・・・・・・・・・・・・・・・・・119名
・桑名藩・大垣藩・浜田藩・岡崎藩・小浜藩・淀藩・高松藩・・・・・・・・・・・・・・45名
※裏切り者扱いをされる「淀藩」も幕軍として戦死者を出しています。
●鳥羽伏見の戦いを語る色々な文献では、旧幕府軍は、近代装備が無かった云々とか、錦の御旗に恐れをなして逃げたかのように伝えられていますが、実際には旧幕府軍や会津藩は、十分は洋式銃砲を装備し調練されており、また、旧幕軍は、その時代では最新の小銃等を携えた歩兵隊十二個大隊や伝習隊一個大隊なども参加して居ることからも、装備が劣った等も事実ではないように思います。旧幕府側の戦死者の記録を見ると大砲隊・鉄砲隊の大砲隊甲士・先鉄砲頭・鉄砲組頭等の銃器に関わる兵士が殆どで、槍や刀を武器にしたと思われる兵士は、少ない事が戦死者の記録からも読み取れます。
また、鳥羽伏見の戦いで、よく語られる「錦の御旗」は、女物の帯を利用して造られた急拵えの物で、それほど権威を感じさせる物でもなかったようです。よくよく考えれば、「錦の御旗」がどのような物かさえ当時の一般の兵士は、殆どが知ることも無かったのだと思います。さらに、その後の2年近くに及ぶ旧幕府側の抵抗運動を考えても、これらの話は、他に何らかの意図があって作られた話に思えてきます。ここの鳥羽伏見の戦いも、何故か戊辰戦争の際に負けた側の資料や、西南の役以降の資料に基づき多くの本等が書かれた謎も、戊辰戦争では薩摩は活躍しながらも、西南の役で多くの貴重な人材を薩摩が失った影響ではないでしょうか。
唯一、御旗(官軍)に対してやむを得ず発砲したり抵抗した高松藩や浜田藩は、責任者が直ちに切腹して、恭順の姿勢を示しています。また、旧幕府の過激派に味方をしなかったからと、元幕府側の藩を裏切り者扱いする記述を、幕末の物語の中に良く見聞きしますが、果たしてそうでしょうか。藩と藩や勢力圏の同じ藩などが諍いを起こし、敵味方に分かれるレベルの話であれば、そのよう表現もあるとは思いますが、この当時は、日本が国の存亡が問われる国家的を危うくする事態が迫る中での戦争であり、藩を超えて日本といいう国がどう結束するかを問われている時代であり、それらを見誤り、今まで持っていた既得権や権益にしがみついた旧幕府の過激な者達への反乱鎮圧に過ぎなかったのではないでしょうか。特に新選組等では、人を殺害する度に幕府や会津藩から多額の金品を貰い受けたいたことからも、その既得権益の影響が大きかったのかもしれません。
しかし、現在は歪曲された史実やフィックションを、真実の如く脚色した歴史小説・TVドラマ・映画があまりにも多く出て持て囃されています。多勢に無勢のなかで、誠の武士としてよく戦った薩摩は、あまり取り上げられることもありませんが、彼らが、私利私欲を捨てて日本国や日本民族の為に戦った歴史は、掻き消すことの出来ない真実ではないでしょうか。旧幕臣の過激派が、自分達自身で暴発して、自分自身で壊滅して行った歴史を、必死で塗り替えようと画策しているとも思える現代の歴史観は、国の存亡の危機を思って戦った者と、自らの権益を守る為に変革に抵抗した歴史こそが本筋と捕らえ、それを美化しようとする思惑と、日本への嫉妬や憎悪の感情等から派生している周辺諸国の歴史観に、影響を受けた人々の利益とが融合しているとも思える現代の歴史観は、第二次世界大戦以降のアメリカ賛美等と同じく、この勘違い小説・TVドラマ歴史観は、日本人の歴史観に大きな影響を与えているようにも思えます。 |
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更新2004年10月18日
三校2001年12月14日,四校2004年10月18日
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