小 枝 橋
京都と薩摩
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京都府京都市伏見区中島秋ノ山町
  激戦小枝橋・鳥羽伏見の戦い

【激戦小枝橋 】

慶応四年(1868年)一月三日夕刻この小枝橋付近で、洛内への強行突破を試みようとする旧幕府軍と、それを阻止しようとする薩摩軍とが死闘を行った所です。このとき薩摩藩兵は小枝橋から城南宮・竹田街道と東西に約800名(一個大隊)ほどで長い布陣をしき旧幕府軍を迎え撃つ体制を整えました。
 そこに朝廷への使者だと名乗る旧幕軍は、見回組・会津・桑名の各藩兵を中心に一万5千人を従え鳥羽街道(東海道)、鴨川西岸より強硬突破を図り薩摩藩兵に襲い掛かります。
 小枝橋より南西百数十メートルの秋の山に陣戦跡取る薩摩大砲隊が直ちに砲撃を開始します。旧幕軍はことごとく自らの大砲隊が殲滅されると乱れて軍の態を成さなくなります。そこに薩摩の兵具方隊や遊撃隊が抜刀して切りかかり、更には古来よりお家芸とされる薩摩得意の「釣り野伏」の戦法を使い、旧幕軍をおびき寄せては撃退する戦法を有効的に用いて、ついに数日後には薩摩軍は僅か数百名の戦力で旧幕軍の大軍を大阪方面に敗走させます。またここより南東に2.5キロの御香宮神社方面(伏見)でも同時に戦闘が開始され、こちらでも旧幕軍を敗走させました。
小枝橋 小枝橋は、平成13年7月に新橋が北側に出来て通行禁止になっています。
平成14年に小枝橋は撤去されました。
橋名
←鳥羽街道を南側から北上してくる旧幕府軍と対峙。

 西詰から城南宮方面(東方向)を、望む。右手の建物は京セラ本社ビル。→        
小枝橋西詰

【独り言】
尚、故郷の近辺の参加部隊は戊辰戦争に各二隊が参加しているようです。

 ・外城第2隊(加世田、伊作)
  指揮官(隊長・幹部等)=土持雄四郎、石~彦七、伊東新八
 ・外城第6隊(川辺)
  指揮官(隊長・幹部等)=調所藤内左衞門、三原金平

 特に外城2番隊は、さも激戦となった大砲の置かれた「秋の山」を中心に展開して活躍したようです。また、ここで活躍した薩摩抜刀隊(兵具方隊)は、警視庁を創設した大警視の川路利良(正之進)も参加しており、その流れは、後の西南の役では陸軍省に徴用された警視庁の警視・巡査抜刀隊となり、隼人が敵味方に分かれ争うことになります。警視庁抜刀隊の伝説には、旧幕臣の薩摩に対する仇討ち的な話もありますが、真実は違う視点に有るようです。なお、西南戦争で投入された警視隊は、熊本城の攻防初戦より兵士として活用されており、現在の民生警察のお巡りさんとはかけ離れたもので、純然とした軍事警察として理解するべきだと思います。

 また、ここで起きた鳥羽伏見の戦いで、銃砲の優劣で旧幕軍側が負けた等の記述を色々な書物で見かけますが、これもまた真実とは全く違うように思えてきます。この戦いで使用した薩摩側の小銃は先込め式の単発発射の小銃であり、火縄銃よりは、弾込めから発射まで時間は少し早い程度で、その後に登場する薬莢と弾が同一のカートリッジになった小銃とも違う物でした。この戦いの10年後に勃発した西南の役(西南戦争)でも、抜刀・白兵戦で優勢を極めたのは薩摩の西郷軍側であり、政府軍がその劣勢を補う為に投入した警視・巡査の抜刀隊は、その戦力の9割近くを西郷軍により撃破・殲滅されており、如何に薩摩の抜刀隊が勝ったかの証明にもなり、銃砲の優劣だけで、鳥羽伏見の戦いが終わった訳でもないことが、このことからも証明されると思います。



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三校 2002年11月17日
更新 2003年01月23日
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