薩 摩 維 新 年 表 二
明治維新は薩摩に始まり薩摩で終わる
京都と薩摩天保(1824)〜安政(1860)万延(1860)〜明治(1877)|
西暦 元号 月日 出  来  事
1860 安政七年
(万延元年)
03/03 <桜田門外の変>
薩摩藩士、有村次左衛門が主謀となり、大老・井伊直弼を暗殺する。
 ・水戸藩諸士17名と桜田門外で大老井伊を襲撃する。
 ・次左衛門は井伊直弼の首級を上げる。
 ・襲撃後の撤退時に後より不意を狙われ次左衛門は背部に重症を負う。
 ・遠藤但馬守の屋敷前にて自刃する。
(西暦1860年3月18日より万延元年に改元)
--- --- 03/13 藩主島津忠義公は幕府参勤のため鹿児島を出発する。
--- --- 03/20 忠義公は筑前にて大老:井伊直弼の暗殺の変を知る。
 ・変の首謀は藩士の有村次左衛門と聞き、参勤代理を川上式部にして鹿児島に帰る。
1861 文久元年 01/01 錦江湾を望む天保山にて城下士2530人操練を行う。
(万延二年の改元で西暦1861年2月19日より文久元年)
--- --- 07/-- ★幕府は、木曽川工事と称して7万2千両もの出費を薩摩藩に要求する。
--- --- 12/07 御用金出費・参勤を拒否する為に、島津忠義公の命により江戸薩摩藩邸を自焼させる。
1862 文久ニ年 02/-- 錦江湾の沿岸砲台5門にて射撃演習を実施する。
--- --- 03/16 島津久光候候(藩主の父)、藩兵1200人の兵を率いて鹿児島出発する。
--- --- 04/23 寺田屋騒動
薩摩藩士、鎮撫士と急進派有馬新七以下が寺田屋で、乱闘する。
 ・薗苑g同士間による乱闘ため斬殺、切腹、自刃の10名が死亡する。
 ・内訳は鎮撫士側1名(道島五郎兵衛)と急進派有馬新七以下9名が死亡する。
--- --- 06/07 ★久光候は幕府に勅命を伝える為、藩兵1000余名を率いて江戸に到着する。
--- --- 08/21  <生麦事件>
勅旨護衛の為に帰京する島津久光候の行列を、イギリス人が生麦で妨害する。
 ・無礼打ちの為に、イギリス人4名を護衛の藩士が斬殺しようとして3名を殺傷する。
--- --- 09/07 ★久光候は藩兵1000余名と江戸より鹿児島に帰る。
1863 文久三年 03/04 久光候は上洛の為、従士700余名を連れて船で鹿児島より2度目の出立をされる。
 ・久光候は「3月14日」京師に到着してすぐに近衛家に向かう
 ・中川宮、鷹司、一橋、容堂らに来会して京師の治安等について議論する。
 ・知恩院に陣を敷き、3日のみ滞在する。
 ・イギリス艦船が鹿児島に向かうとの情報あり、国許の備えのためにて直ぐに帰鹿する。
--- --- 05/20 姉小路少将が朔平門外(猿ヶ辻)で賊と斬り合った件で、薩摩藩士が捕縛される。
 ・疑いをかけられた仁禮源之丞(範景)の陪臣・田中新兵衛は潔白を主張自刃する。
  ※陪臣=家来の家来(範景>*家来>新兵衛)
 ・姉小路卿が襲われた際に賊の刀が落ちており、それが薩摩の刀工の作だったとされる。
 ・この件で薩摩藩士は、宮城の乾門の警衛と九門内への立入を禁止される。
5月26日近衛前関白と近衛大納言より、連署で事件は薩藩に対する悪計なりとの報あり。
 ・天下の形勢が日に日に切迫している事も伝えられ、久光候に早々に上京すること促される。
 ・御内勅書が下り、京師の騒乱や偽勅への対応などについて早急の上京を命じられる。
「6月21日」には宮城九門への出入り禁止が解かれる。
--- --- 07/02 < 薩 英 戦 争 >
★薩摩山川沖に英軍艦7隻を発見、狼煙を挙げて知らせるが直ぐに谷山沖までくる。(06/27)
イギリス支那艦隊7隻が、生麦事件の賠償・報復のため錦江湾(前濱)に現れる。(06/28)
 ・折田平八・伊地知正治・今藤新左衞門・重野厚之丞はイギリス艦に乗船して交渉。
 ・城下士と諸郷士が集まって小船奇襲の壮士隊(数十人)を結成するが不発。(06/29)
 ・交渉の為と称してイギリス艦隊は、海賊行為を働き薩摩藩軍艦3隻を奪取する。(07/01)
 ・藩は直ちに沿岸防備砲(87門)や臼砲・小銃隊・水雷等を総動員して逆襲に転じる。(07/02)
 ・城下は、イギリス艦隊の艦砲攻撃の為に、築地町から冷水ノ里まで延焼(城下の1割)する。
 ・イギリス艦船に、薩摩側の多数の砲弾が着弾・命中して多数の死傷者・破損などを及ぼす。
 ・イギリス側の艦砲射撃の為に、一部の薩摩側の沿岸砲台が交戦不能となる。
 ・英側に司令官・指揮官2名の戦死を含む63名を死傷させる多大な被害を与える。
 ・英国水兵の戦死者(13名)と負傷者(50名)や数隻の英軍艦が大破した。(07/03)
 ・支那艦隊は、薩摩藩の十字砲火の猛攻に恐れをなし、錦江湾を敗走・脱出する。(07/04)
 ・城下には外国人の手負いの死体や船舶機械等の多数の漂着物が打ち上げられる。
 ・薩摩藩軍艦は、すでに追撃出来るのものが無く、追撃を諦める。(07/06)
イギリス側の60余名の死傷者やイギリス艦船を大破させる等の被害に比較して、薩摩藩側の人的損失(死亡8名・負傷1名)は少なかったが、集成館、琉球船3隻焼失、沿岸砲台の一部が破壊されたり、鹿児島城下が砲撃による火災で、延焼するなどの被害(城下の10%)が出て、イギリス海軍の艦砲射撃の威力を知りると共に、藩の沿岸防備の欠陥を知る。この出来事が薩摩とイギリスを近づけさせる結果となり、また、お互いを知ることもなり、イギリスとの友好関係を結ぶと共に、軍事力の強化を前進させる。その後イギリスに賠償金を支払うが、支出は全て幕府よりの出され、賠償金の薩摩藩の支出は全く無かった。また、イギリスよりの軍艦購入を決定する。
--- --- 08/18 < 大 政 の 変 >
京師で活動する過激な長州勢や下級公家などを宮城や九門から排除する。
 ・藩士の奈良原幸五郎・高崎左太郎は中川宮・近衛父子を通じ朝廷工作を行う。
 ・偽勅をに関わった議奏・廣幡大納言・傅奏国事掛・参政寄人など19人の参内を停止する。
 ・長州勢(桂小五郎等)は堺門の守衛を解かれ、替わって薩藩が守衛にあたる。 
 ・長州勢に荷担した過激な三条實美(実美)などの下級公家七卿は都より落ちる。
--- --- 09/12 孝明天皇より上洛の勅命あり、久光候は従士1500余名を連れて3度目の出立をする。
 ・近衛家より8月18日の大政の変より、上洛の督促が切実なもとな為に急ぎ出発する。
 ・9月29日兵庫に到着する。10月3日京師に到着二本松藩邸に入る。 
  --- 12/24 <長州藩の武力活動>
芸州藩は、薩英戦争の戦勝を祝し薩摩藩との交易を申しでる。
 ・交易が始まるが、長州藩はこれをよく思わず。
 ・赤間関で異国船襲撃と偽り、幕府より借用の「長崎丸」を長州藩は砲撃する。
 ・薩摩藩士を乗せた「長崎丸は脱出中に機関より炎上して沈没する。
漂流した薩摩藩士は、小倉藩に救助されるが、薩摩藩士宇宿彦右衛門以下の士官9人機関員19人が行方不明になり合わせて30余名が溺死する。この件で長州藩の桂譲之介が鹿児島まで陳謝にくる。
1864 元治元年 01/17 孝明天皇より、薩摩藩主等に英国艦船への攘夷を賞して恩賞を賜る。
 ・島津少将久光公は、参朝して謁見すると鞍馬一匹も賜る。
 ・薩摩少将茂久公には、御馬一匹また家臣には金十枚を賜う。
(文久四年の改元で西暦1864年2月20日より元治元年)
--- --- 07/17 幕府側よりの長州勢討伐の藩への出兵要請を受ける。
 ・池田屋事件に絡む長州・会津の両藩の私戦として、幕府側の要請を無視する。
 ・幕府側との同盟は結ばす。
 ・京師に進軍する長州藩の動向を独自につかむ。
 ・朝廷へ禁裏護衛の為に長州藩勢討伐の提言を行う。
 ・提言は「薩摩藩・土佐藩・久留米藩」のみで朝廷に行う。
--- --- 07/19 <禁門の変、蛤御門の変>
長州藩勢は、上洛して京師・伏見の各地で幕府側と戦闘が勃発する。
 ・長州勢が宮城・御所に迫り中立売門の筑前藩を突破する。
 ・さらに蛤御門を守る幕府側の会津藩・桑名藩と交戦し、これを突破する。
 ・長州勢は会津藩兵を多数を殺傷し、御所内に乱入せんとした為に朝敵となる。
 ・朝敵を迎撃する乾門守備の薩摩藩による攻撃のため長州勢は敗走する。
 ・敗走する長州勢が、京の各地に放火する。錦小路の藩邸も炎上する。
会津・長州の両藩の私戦として開戦協力をともに拒んだが、宮門に長州勢の弾丸が降るに至り、島津備後を大将に、西郷隆盛などの薩摩の兵が長州勢に殺到し駆逐した。この禁門・蛤御門の戦いでの薩摩の活躍が京師中で大変な評判となる。
--- --- 07/23 <第一次長州征伐>
幕府より薩摩藩を筆頭に西国21藩に長州征伐が命じられる。
--- --- 08/05 長州藩は関門海峡を武力封鎖するが、欧米艦隊により砲台が殲滅される。
 ・長州藩に対して、英・米・仏・蘭の欧米連合艦隊が、長州藩を攻撃する。
 ・全ての砲台を占拠されて大砲陣地が破壊される。
1865 慶応元年 09/16 英・米・仏・蘭の連合艦隊兵庫に入港する。
(元治二年の改元で西暦1865年4月7日より慶応元年)
--- --- 12/21 ★朝廷より徳川将軍は、第2次長州征伐の勅許を受ける。
1866 慶応ニ年 01/08 ★桂小五郎(木戸孝允)が長州から京に向かう。
--- --- 01/20 西郷隆盛は桂小五郎を伏見に出迎える。
--- --- 01/21 西郷隆盛と桂小五郎が相国寺二本松藩邸で会談を行う。
--- --- 01/21 ★坂本竜馬が、相国寺二本松藩邸あらわれる。
--- --- 01/21 相国寺二本松薩摩藩邸で、薩長同盟が成立する。(中立要請か?)
--- --- 01/23  <坂本龍馬遭難
★坂本竜馬は、幕府伏見奉行所の役人に伏見寺田屋で取り囲まれ襲撃される。
--- --- 01/24 薩摩藩は伏見藩邸より船を出して坂本龍馬を救出して匿う。
--- --- 02/28 ★坂本龍馬を大阪藩邸より鹿児島に脱出させる。
--- --- 06/07 第二次長州征伐開始される。薩摩藩は両軍どちらにも参加せず。
--- --- 07/20 第十四代将軍徳川家茂、長州討伐の途中の大阪城中にて急死する。
--- --- 07/-- <丙寅洋擾>
朝鮮国の大同江にアメリカ商船のゼネラル・シャーマン号が現れる。
 ・平壌に至るが朝鮮側に襲撃され、商船乗員の全員が朝鮮人により虐殺される。
 ・その後(1871年)に発生する朝鮮の「辛未洋擾」の原因となる。(朝鮮:丙寅洋擾)
--- --- 10/-- フランス艦隊は、朝鮮が行ったフランス人宣教師及び教徒に対する虐殺の報復を行なう。
 ・虐殺されたカトリック教徒は8000人に及ぶとされ、それ以前にも度々弾圧殺害を行なった。
 ・フランス艦隊は朝鮮の江華島に現れ、報復ため攻撃及び占領する。(朝鮮:丙寅洋擾)
 ・江華島はソウル(漢城)の北西に位置する戦略的な要衝。(大河(漢江)の河口にある島)
--- --- 12/05 ★第十五代将軍徳川慶喜、就任。
--- --- 12/25 孝明天皇崩御。
1867 慶応三年 01/09 ★孝明天皇の第ニ皇子、皇位継承(明治天皇)。
--- --- 01/-- 朝廷より孝明天皇の大喪のために幕府に第二次長州征伐の解兵を命じられる。
--- --- 03/15 久光候は、西郷隆盛や城下士小銃隊等の一個大隊を率いて4度目の出立。
--- --- 04/01 藩はフランス・パリ万国博覧会に「薩摩藩政府」として特産品を出品する。
 ・徳川幕府の日本国政府との主張を、日本国は天皇の主権であることを表明する。
 ・フランス高官に薩摩藩独自の勲章を贈る。
 ・現地の新聞でも幕府の日本政府について妥当性を正す。
 ・これにより徳川幕府の内情を欧州列強の各国も知ることになる。
 ・幕府役人は博覧会より早々に退去することになる。
--- --- 04/12 久光候と1000余名の従士は京師に到着する。
 ・9月まで京師に滞在する。
--- --- 10/13 <幕府討伐開始>
★薩摩藩に、朝廷より幕府討伐の密勅が下る。
--- --- 10/14 徳川幕府の第15代将軍が、朝廷に大政奉還を行う。これにより幕府は崩壊する。
--- --- 11/13 藩主・忠義公は1000名の藩兵を率い鹿児島出発する。
--- --- 11/15 坂本龍馬暗殺
坂本龍馬と中岡慎太郎は旧幕府見回組の隊士によりの襲撃を受ける。
 ・襲撃され暗殺された場所は、河原町三条の近江屋(間近は土佐藩邸!)。
 ・不可解なことに、現場の斜交で間近の土佐藩邸からは救援すら行なわれなかった。
 ・暗殺側は旧幕府側の彦根藩・会津藩等の策謀に因ってか!?
 ・坂本龍馬は頭部に致命傷を負って即死する。 
 ・中岡慎太郎は重体その後に死亡する。
--- --- 11/18 御陵衛士の伊東甲子太郎は、新撰組に謀られ、数名の新選組隊士に襲われ惨殺される。
--- --- 11/18 ★新選組は、謀って伊東の遺体を「七条油小路」に放置する。
 ・御陵衛士のわずか7名を、数十名の多数の新選組隊士が襲い惨殺を実行する。
 ・襲撃の難を逃れた御陵衛士の4名を薩摩藩邸で匿う。
 ・4人の中に薩摩出身で元新選組伍長の御陵衛士・富山弥兵衛(四郎)も含まれた。
--- --- 12/09 朝廷より、王制復古の大号令が発せられる。
 ・徳川家に、領地と官職の返還を要求する。
--- --- 12/21 伏見を巡察する薩摩私領第一隊(都城)の隊伍6名に新選組は銃撃を行う。
 ・本隊への報告により藩兵の小銃隊・大砲隊(500人)を伏見に派遣する。
 ・索敵を行うが発見できず、私領第一隊は東寺に帰隊する。
 ・私領第一隊の隊士は交戦の虚偽を疑われ、潔白を主張して6名自刃(12月26日)する。
--- --- 12/25 旧幕府は薩摩江戸屋敷を包囲して襲撃する。
 ・旧幕府は悪浪士等の行いを薩藩のせいとして、出羽庄内藩等を主力にして襲撃する。
 ・藩邸は炎上して多数の死傷者が出る。
1868 慶応四年 01/02 旧幕府軍艦が大阪湾にて薩摩藩軍艦を攻撃する。
--- --- 01/03 戊辰戦争開戦
鳥羽・伏見で上洛を強行して関門を突破した旧幕府側と戦闘が勃発する。
 ・鳥羽の小枝橋での幕府側の銃撃により戦闘が開始する。
 ・薩摩守備兵は伏見約700名、鳥羽約800名の各大隊が戦闘に参加する。
 ・半狂乱の状態の旧幕府側は、一万五千人以上の大軍で押し寄せる。
 ・薩軍の小銃隊・や大砲隊・遊撃隊・兵具隊・外城隊・番兵隊等の逆襲により敗走する。
 ・鳥羽伏見の戦いは正月6日頃まで続き、旧幕軍の敗走で、この地域の戦闘は終結する。 
--- --- 02/30 朝見のため京師に訪れた英国公使パークス襲撃される。
 ・薩摩藩士、中井弘(弘蔵)の働きにより賊を討ち取る。
1868 明治 08/-- 明治天皇即位。
(慶応四年の改元で西暦1868年9月8日より明治元年)
--- --- 07/-- <東京御幸>
朝廷より「江戸」を「東京」と呼ぶとの詔が発せられる。
--- --- 10/13 ★天皇が御幸の為に東京に到着。江戸城を東京城と改名。
--- --- 12/07 朝敵とされた会津藩主松平容保候は、「逆臣の謀反の為」とされ、死一等を減じられる。
--- --- 12/-- 王政復古の通告ために派遣された対馬藩と李氏朝鮮の間で書契問題が発生する。
 ・朝鮮は外交文書に「皇」「勅」の文字が有る事を嫌い文書の受け取りを拒否する。
 ・この朝鮮の態度は、何の根拠も無く、日本を蔑ろにした行為であった。
--- --- 12/29 新政府が政権を樹立する。西欧列強は明治政府を承認する。
1869 明治ニ年 03/28 天皇が再度東京に御幸して東京城を皇城(皇居)と改める。
 ・事実上の「遷都」といわれるが、京師から江戸への「遷都の詔」は全く出ていない。
--- --- 05/18 <戊辰戦争・函館の戦い終結>
★旧幕府軍は函館の五稜郭で降伏する。
--- --- 06/17 版籍奉還を申し出る。
--- --- 07/14 廃藩置県となる。
1871 明治四年 01/19 ★長州藩士の参議広沢真臣が暗殺(犯人不明)される。
広沢は長州藩総代表をしており、木戸孝允と対立していた。
--- --- 02/13 薩摩藩・長州藩・土佐藩の東京への出兵が政府より命じられる。
--- --- 03/-- 東京に薩摩藩兵の城下士小銃四大隊、大砲隊四砲座が到着。近衛兵となる。
--- --- 05/18 ★土佐藩兵の小銃ニ大隊、騎兵一小隊が東京に到着する。
  --- 05/30 ★出兵に最後に応じた長州藩兵の小銃一大隊が東京に到着する。
--- --- 06/-- <辛未洋擾>
アメリカ艦隊は、朝鮮の江華島に現れ、報復攻撃及び占領する。
 ・1866年に発生した朝鮮によるアメリカ商船への襲撃・虐殺事件に対する報復。
 ・朝鮮側ではアメリカ艦隊を撃退したとする。(朝鮮:辛未洋擾)
1873 明治五年 12/03  太陽暦に改暦する。(明治6年1月1日)
--- 明治六年 01/01  太陽暦に改暦する。
--- --- 05/-- <朝鮮問題発生>
李朝鮮国の官吏は、在朝鮮日本国公館への不法な妨害行為等を行う。
 ・朝鮮官吏は、日本の主権を侮辱した文章を日本国公館の門前に張り出す。
 ・これにより居留日本人の保護の為に、陸・海軍の派遣が検討される。
 ・西郷隆盛は武力派遣に対し反対すると共に、自ら朝鮮国の反省を促す為の使節を志願する。
 ・西郷は問題が多く発生している樺太に、まずロシア制圧の為に武力を送ることを主張する。
よく現代では、「征韓論」などと、この時代にまるで韓国(朝鮮)が独立国して成立していたような誤解を与える表記を使うが、この当時にまだ「征韓論」の表記は無く、「朝鮮征伐」・「朝鮮論」などいうのが一般的であった。「征韓論」の表記が使われるようになったのは、当時、清国(中国)の朝貢属国であった朝鮮が、「大韓帝国」(明治30年:1897)と李氏朝鮮から国名を変えた辺りから「征韓論」の表記が使われだしたと推測している。
--- --- 10/24 天皇により、西郷の朝鮮派遣とされた案件が撤回される。
 ・外遊より帰国した岩倉卿は「西郷の朝鮮派遣の延期」を上奏、裁可される。
 ・西郷の主張した朝鮮国への使節派遣案が政府より完全に排除される。
 ・西郷派の薩摩出身者の600余名が政府要職を辞して帰郷する。
1874 明治七年 01/14 高知士族による岩倉卿への暗殺未遂。
--- --- 02/04 江藤新平による佐賀士族による佐賀の乱が勃発。首謀者・加担者達は死刑・梟首になる。
1875 明治八年 09/20 李氏朝鮮との間で、日本海軍艦船が砲撃され応戦する外交問題が発生。(江華島事件)
1876 明治九年 03/22 <江華条約批准>万国公法(日朝修好条規)
特命全権黒田清隆は、日本国と朝鮮国との間で江華条約(日朝修好条規)を批准する。
 ・朝鮮国の独立を認め、日本と平等の権利を認める。(宗主国清国よりの独立の承認
 ・従来の通商に使用した港を釜山の他に新たに2箇所開き通商を盛んにする。
 ・台風等の避難船舶に対する寄航の自由及び食料・燃料の提供すること。
 ・朝鮮国に通商を行なう日本人が、土地や家屋の賃借をすることを許すこと。
 ・両国船舶の遭難時は、直ちに救助・保護を行い両国官吏へ引渡しを行なうこと。
 ・交通の安全の為に、朝鮮国の沿岸領域の測量して両国旅客の危険を無くすこと。
 ・日本人及び朝鮮人の公平な裁判権の確立すること。
 ・貿易(通商)は人民に任せ、官吏は制限を行なわない。
 ・ただし法を犯した両国商民はそれぞれの国の官吏により厳しく取り締まる事。
 ・罪科を犯した日朝人民は、所属国官吏が捜査して所属国の法律で裁くこと。
現在では、朝鮮系の人々から江華条約を「不平等条約」と指摘されるが、全くの的外れであり、当時の朝鮮国の実情から見れば、何ら不満も問題もある条約ではなかった。勿論この当時、朝鮮側より抗議も改正交渉も無かったことは事実である。しかし、これに対し日本国内では、朝鮮を古代(※)よりの「日本の属国」と見る風潮が一般民衆に有るなどした為に、当時の日本人からするとこの条約は、妥協し過ぎとの認識から非常に「不正な条約」として日本国内に大きな不満が有った。
:神功皇后の新羅征伐(三韓征伐)などの故事が、その根拠とされた。
--- 10/24 熊本士族による神風蓮の乱が勃発。熊本県庁知事・鎮台長官を襲撃。鎮台兵直ちに鎮圧。
--- --- 10/27 福岡の秋月士族による秋月の乱が勃発。鎮台兵により数日で鎮圧。首謀者2名は死刑。
--- --- 10/28 山口の萩士族による萩の乱が勃発。鎮台兵により数日で鎮圧、首謀者2名は死刑となる。
1877 明治十年 01/29 <西南の役(西南戦争)勃発>
★警視庁警部らによる西郷隆盛等の暗殺及び火薬庫の焼き討ちの謀反が露呈する。
鹿児島私学校生徒に因って、政府側の鹿児島草牟田弾薬庫が襲撃され弾薬を奪取される。
--- --- 02/12 ★02/09:海軍大輔の河村義純は高雄丸で来航して県令大山綱良しと会談する。
鹿児島県令に対して、三将連署で兵を動かす為の通告及び要請を行なう。
 ・三将は西郷隆盛(陸軍大将)・桐野利秋(陸軍少将)・篠原国幹(陸軍少将)
 ・通告の内容は、政府へ尋問、無用の混乱が各地で起きないように要請する。
県令大山綱良(格之助)は、朝廷・通過各府県・各鎮台に通達・布告する。
 ・西郷などの暗殺を企てた警視庁警部中原尚雄らの刺客の供述を添える。
 ・西郷軍の東上に対して、人民保護と安全通過の為としての通達布告する。
 ・イギリス外交官へ県令よりの大久保利通への書状を託す。
☆02/12(旧暦大晦日)に薩摩各地に雪が降る。桜島に冠雪。
☆02/13(旧暦元旦)に鹿児島市内に、数十年の近年にない降雪。
--- --- 02/17 ★02/14:連日の大雪の中、西郷軍の前衛隊は鹿児島を出発する。(旧暦正月2日)
★02/15:篠原国幹は部隊を率いて出発する。(旧暦正月3日)
★02/16:桐野利秋は4000名の部隊を率いて出発する。(旧暦正月4日)
★政府への「尋問の筋あり」として西郷隆盛は東上開始する。
(旧暦正月5日)
 ・西郷隆盛と護衛隊50名及び大砲隊16門は鹿児島を出発する。
 ・この4日間で、鹿児島を出発した西郷軍の部隊は総勢にして約1万4千名。
--- --- 02/20 <政府軍発砲>
政府軍の第13連隊2個中隊は、川尻の西郷軍を強襲偵察して襲撃発砲する。
 ・西郷軍は、応射発砲禁止ため発砲せず、抜刀にて政府軍将兵を殺傷・捕虜にする。
 ・捕虜より、陸軍卿よりの命令で、既に西郷軍迎撃の戦備を鎮台が行なっていることを知る。
 ・これにより、熊本鎮台長官の西郷軍殲滅に対する意志も判明した為、攻撃進軍を決定する。
 ・熊本鎮台司令長官は谷干城(土佐士族)、鎮台参謀長樺山資(鹿児島士族)。
★02/24;長崎に三菱汽船で政府軍の陸軍部隊1600名が到着する。
02/26:福岡に政府征討総督有栖川宮及び陸軍卿山県有朋が上陸する。
 ・政府の陸軍兵力8000名が終結を完了する。反乱はの鎮圧は5月中旬までの予定。
 ・世論は無能な政府を非難し、西郷軍に好意的な情勢。
--- --- 02/21 熊本士族の有志隊(熊本隊)1000人余りが西郷軍に合流する。
--- --- 02/22 西郷軍は植木で、戦闘後に政府軍の第14連隊(元長州藩士:連隊長乃木希典)より連隊旗を奪う。
--- --- 02/23 熊本民権党員の有志隊の40余人が共同隊を編成して西郷軍に加わる。
--- --- 03/04 田原坂南西の吉二峠で、西郷軍一番大隊指揮長の篠原国幹が戦死する。
 ・元薩摩藩外城第一隊小隊長(村田経芳 )の政府軍兵士により狙撃される。
 ・田原坂でも激しい銃撃・白兵抜刀の戦闘が始まる。
田原坂:熊本県鹿本郡植木町
--- --- 03/08 海軍軍艦8隻を伴い朝廷勅使柳原前光と参議黒田清隆が鹿児島に入る。
 ・島津家に自重を即した為に、薩摩の全軍の参戦は閉ざされる。
 ・県令大山綱良は、政府側より「御用召」して同行京都に向かう。
 ・神戸に到着すると大山綱良は官位を剥奪され、司法省にて東京に護送される。(03/17)
--- --- 03/12 鹿児島の政府軍は、弾薬30万発、火薬600トンを長崎に送り西郷軍への補給を完全に断つ。
--- --- 03/13 抜刀・白兵戦に劣る政府軍は、警視庁巡査抜刀隊を投入する。
 ・政府軍は徴募した士族で構成する警視・巡査抜刀隊等を多数導入する。
 ・西郷軍の守る田原坂を突破はできない状態が続く。
 ・田原坂で大勢の政府軍将兵の死傷者がでる。
この時全国より徴募された士族1万1千余人以上となっているが、実線への参加数の詳細は不明(多くても2000人から4000人程度)。投入された警視庁抜刀隊は、9割近くが死傷する。
--- --- 03/19 政府軍の挟撃部隊が八代に上陸する。西郷軍2000人をもって要撃する。
--- --- 03/20 西郷軍は、補給を断たれ、また、装備・人員劣勢ながらも、田原坂を死守する。
 ・政府軍と一進一退の激戦を行い、政府軍に数千名以上に昇る被害を与えるが敗退する。
 ・政府軍は田原坂を奪還しながら、自ら火を放つ。
--- --- 04/14 西郷軍三番大隊長の永山弥一郎は、御船川にて奮戦する。
 ・熊本郷士軍と共に八代に上陸した政府軍の挟撃部隊の北上を阻止する。
 ・西郷軍は玉砕して、民家を買い上げた永山弥一郎は、自刃する。
御船川:熊本県上益城郡御船町
--- --- 05/26 西郷隆盛を敵視し続けた長州の木戸孝允(桂小五郎)は京師で病死する。(真の※征韓論者)
--- --- 09/01 ★西郷軍、熊本・大分・宮崎の各地を転戦して鹿児島に帰る。
--- --- 09/24 <西南の役終結>
09/23夜、政府側の陣地より、海軍軍楽隊による洋楽の演奏が行なわれる。
 ・西郷軍陣地からも、洋楽や和楽の琵琶の音が流れる。
★未明3時55分政府軍による砲撃開始ともに政府軍全軍が突撃を開始する。
政府軍の新撰旅団は、西郷軍の重症傷病兵が収容される各病院を襲い無抵抗者達を惨殺。
城山にこもる西郷軍(300名)は政府軍(5万人)に最後の総攻撃を開始する。
 ・最後の突撃の途中で、大将の西郷隆盛は被弾し、重症を負った為に自刃する。
 ・幹部の桐野利秋、池上貞固(四郎)、別府晋介、逸見十郎太ら各氏も奮戦するが戦死する。
 ・西郷軍は玉砕して西南の役は終結する。生き残った者は、捕縛され政府軍により斬首される。
政府軍の兵は、戦いの終結後に西郷軍側の民家を襲い、金品を略奪、また隠遁する西郷軍側の傷病兵等を各地で襲撃して惨殺する。
1878 明治十一年 05/14 内務卿大久保利通は、福島県令山吉盛典と会見後に、紀尾井坂で石川県士族に暗殺される。

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更新2005年10月31日
二校2001年09月07日,三校2005年10月13日
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