薩 摩 維 新 年 表 一
明治維新は薩摩に始まり薩摩で終わる
京都と薩摩文化(1809)〜安政(1860)|万延(1860)〜明治(1877)
西暦 元号 月日 出   来   事
1809 文化六年 06/-- 第二十七代の領主島津齊興(斉興)公が薩摩・大隅・日向諸県郡・琉球を世襲される。
 ・従三位参議左近衛権中将大隅守
--- --- 09/28 後の島津斉彬公の邦丸忠方が誕生する。
1824 文政七年 06/28 <イギリス人宝島襲撃>
薩摩西南諸島の宝島(十島村)に、イギリス捕鯨船が来航して食料等を要求する。
 ・在番役人が要求を拒否すると、イギリス人は小銃を発砲して牛を奪い取る。
 ・応戦の銃撃戦によりイギリス人1名を射殺。
1825 文政八年 02/-- <攘夷の実行>
幕府より、「異国船無二念討払令」(異国船打払令:文政令)が出る。
 ・幕府は日本全土に外国船を攻撃・撃退することを奨める。
--- --- 08/-- 調所笑左衛門を茶道役より御側用人に抜擢して藩の財政の改革を開始する。
1827 文政 12/07 西郷吉之助(隆盛)が鹿児島城下の加治屋町で誕生する。
(文政十三年の改元により西暦1830年12月10日より天保元年)
1837 天保八年 06/28 <モリソン号事件>
モリソン号は浦賀に現れ、幕府に漂流民の引取りと貿易を求めるが砲撃され引き返す。
--- --- 07/11 武装を解除した米国船「モリソン号」は、薩摩山川に来航して入港する。
 ・日本人漂流民(7人)を送還と貿易を求める書簡を藩主斎興公に呈して交渉を望む。
 ・幕府より「外国船は攻撃・撃退せよ」との命あることを伝える。
 ・藩命により漂流民はオランダに託して送還すること諭す。
 ・同船に対して威嚇砲撃を行い退去させる。この後に沿岸防備の強化を行なう。
漂流民は尾張の岩吉・久吉・音吉と肥後の庄藏・壽三郎・熊太郎・力松の合わせて7人。
1842 天保十三年 07/24 <天保薪水令を発布>
幕府は今までの外国に対する強攻策(異国船打払令)を、緩和する。
 ・緩和の理由は清国(支那)がイギリス敗れるとの報に幕府は恐れをなす。
1844 弘化 元年 03/11 <フランス・イギリス艦隊の那覇来航>
清国より琉球・那覇にフランス東洋艦隊支那派遣隊の艦船が現れる。
 ・支那派遣司令長官トーマ・セシール(Jean-Baptiste Cecille)海軍少将の命による。
 ・艦長ホール・レルー・ボランが、乗船、交渉にあたる。
 ・フランス側は、在番奉行の汾陽次郎右衛門に、「通信・貿易・キリスト教布教」を強要する。
 ・フランス側は認めなければ琉球を攻撃占領する」と脅す。
 ・ただちに藩に応援部隊の派遣を要求する。
 ・その後、幕府の許可を得て、琉球警備隊128人を増派する。
 増派兵器等:
   ・大砲3門・砲弾390発・小銃50挺 ・小銃弾一万発・その他所要の火薬
1846年6月 フランス支那派遣隊司令長官セシール海軍少将(提督)自身が琉球に入港して半月滞在する。藩はフランスとの交易のみを許可してキリスト教布教を拒否する。
(天保十五年の改元により西暦1844年12月2日より弘化元年)
1845 弘化二年 05/-- 琉球にイギリス船が来て、フランス同様に布教・貿易・通信の強要を行う。
1846 弘化四年 --/-- <薩摩藩の軍制改革開始>
藩は「異国方」を改め「軍務局」として軍制・兵制の改革に取り掛かる。
 ・洋式砲術を採用する。
 ・大砲小銃の製造・鋳造を開始する。
 ・火薬製造所を設ける。
 ・薩摩各地に海岸砲台の設営などを行う。
--- --- 08/20 世継ぎの島津斉彬公は藩士3500人参加の砲術館開場式を執行する。
--- --- 10/18 薩摩吉野にて洋式銃砲隊1000余名をもって大調練及び大砲射撃を演習を行う。
 ・別に洋式騎馬銃隊52騎、火縄銃中隊の1000人も加わる。
 ・野戦砲隊24門(十八斤砲、十二斤、六斤砲)
 ・臼砲隊3門(23インチ砲、五十斤臼砲)
1848 嘉永元年 12/-- 薩摩出水にて大調練を行う。
 ・出水・阿久根・長島・野田・高尾等の各地の郷士3000人参加する。
 ・鹿児島城下士(本府士)の16名も合わせて参加する。
(弘化五年の改元により西暦1848年2月28日より嘉永元年)
1849 嘉永二年 04/-- 藩内での大砲・小銃等の銃身鋳造が出来るようになる。
 ・薩摩天保山に城下士6組の2400名の調練行なう。(6個大隊は先込め式ゲベール銃を所持)
 ・野戦砲隊6隊このうちの一隊は大砲6門を保有する。
★09/25:吉野原にて城下士踊り(士気振興の訓練)を行なう。
 ・城下士2番組および諸郷士(伊集院・郡山・東郷・横川・日置・・・等)6,519人が参加する。 
1851 嘉永四年 01/03 <大型砲船の造船>
アメリカ船に救助され米国で教育を受けたジョン万次郎(萬次郎)琉球に帰着する。
 ・万次郎に琉球在番奉行島津登(久包)は、米国の地理・形成・捕鯨・人情等を詳細に尋ねる。
 ・琉球での7ヶ月に及ぶ取調の後に、薩摩山川港に万次郎一行を送致する。(7月28日)
 ・万次郎より軍賦役・田中C右衛門、田原直助、船大工等にアメリカ造船学等を学ばせる。
 ・この情報や作らせた模型等が「琉球大砲船」の基礎になる。
 ・その後幕府の鎖国規定により、藩から長崎奉行に万次郎一行を引き渡す。
中濱萬次郎・傳藏・五右衛門等は、嘉永四年(1851)に琉球の摩文仁間切の番所(糸満市大渡)で、帰国上陸した際に発見される。この十年前の天保12年(1841)に万次郎を含む5名の日本人が、アメリカ捕鯨船ジョン・ハウランド号(John Howland)に鳥島で救助される。その後万次郎だけは、米国マサチューセッツのファアヘブン(Fairhaven)の、米国大統領ルーズベルトの曽祖父にあたると言われている捕鯨船船長ホイットフィールド(William H. Whitfield)の養子同様となり、船乗りとしての高等教育を米国で受ける。
--- --- 02/08 第二十八代の斉彬公は父の島津斉興公の隠居により家督を継がれ薩摩藩主となる。
1852 嘉永五年 08/06 ☆鹿児島天保山にてフランス式バタイロン(大隊)操練を実施する。
 ・参加の藩兵5714人にて装備洋式小銃5184挺及び大砲隊12門が参加する。
 ・古来よりの島津戦法と折衷したフランス式バタイロン操練を行った。
--- --- 10/-- フランス式の城下士騎兵隊を設立。
   騎兵隊指南:            騎兵隊教導:
    ・島津登                  ・大番頭・小姓組番頭
   騎兵隊掛
    ・家老川上筑後
   騎兵隊総指揮:
    ・相良太夫、補佐:島津登
   騎兵隊差引:(一個大隊四小隊、一個小隊:24騎)
    ・成田正右衛門・江田平藏・新納四郎右衛門・指宿納右衛門
    ・三原金平・伊集院市郎・關勇助・磯永孫四郎
1853 嘉永六年 02/02 沖縄防備のため大型船(琉球大砲船)の建造許可が制限付きながら幕府よりでる。
 ・条件は、琉球と薩摩領内のみの運行に限られた。
--- --- 04/19 <アメリカ艦隊の来航・琉球条約>
支那上海より那覇港に米国東インド艦隊司令長官ペリー(ペルリ)が艦艇5隻で来航する。
 ・アメリカ側は、条約締結・貿易の開港を威嚇して強制する。
 ・入港した艦船はサスケハナ(旗艦)・ミシシッピー・サラトガ・プリマス・サプライの5隻。
 ・琉球条約を締結する。(薪水・糧食の供給と上陸船員の宿舎の提供)
5月26日には来航したアメリカ艦隊の5隻のうち4隻が江戸表に向かう。
--- --- 04/-- 島津斉彬公は、長崎よりの情報(オランダ商館)で、米国艦隊の那覇への来航を知る。
 ・アメリカ艦隊による江戸湾への急襲に備える。
 ・江戸の羽田海岸にて薩摩藩兵160人よる洋式砲術調練を実施する。
--- --- 05/02 江戸を発たれた島津斉彬公は、6月に薩摩に帰着される。
 ・米国船の来襲に備え、薩摩各地で軍事演習を行う。
 ・斉彬公は薩摩各地の海岸防備や砲台を巡視される。
--- --- 06/03 米国の東インド艦隊司令長官ペリー(ペルリ)が艦船4隻で浦賀に到着して上陸する
  ・米艦サスケハナ(旗艦)・ミシシッピー・サラトガ・プリマスはの4隻で浦賀に現れる。
  ・幕府はフィルモア大統領からの親書を久里浜で受け取る。
  ・6月12日に東インド艦隊は退去する。
東インド艦隊司令長官=Commander in Chief U. S. East India Squadronのペリー(Matthew C.Perry)が日本に開国を求める前に、既に弘化3年(1846)には、東インド艦隊司令官のジェームズ・ビッドル提督がヴィンセンス号とコロンビア号で浦賀に現れ幕府に退去させられている。前任の司令長官オーリック(J.A.Aurick)は嘉永四年(1851)に日本への派遣を命令されていたが、直前になりペリーが東インド艦隊司令長官になり日本に派遣された。
--- --- 06/22 小姓組番頭・島津隼人(久芳)、若年寄・島津右門(久福)に江戸警衛が命じられる。
 ・米国艦隊の来航への備えとして城下士96人を江戸藩邸に派遣する。
--- --- 07/10 藩主斉彬公は、幕府に対して海岸防備の強化、及び大型軍艦の建造を進言する。
 ・勘定奉行は「反対」、安部伊勢野守は「賛同」するも表ざたに出来ない。
 ・筒井紀伊守は「賛同」のみ等の幕臣が意を解さぬと判断する。
 ・近衛・右府に出した内勅を得る為の公文書を使う。
 ・尾張・徳川慶恕(慶勝)公を通じて、幕府に大型艦船造船の解禁依頼する。
 ・水戸の老公(斉昭)への海防事務が委任されるように、忠告を合わせて依頼する。
--- --- 09/15 <大型船造船開始>
幕府より本格的な大型船の建造が解禁される。
--- --- 12/23 幕府より薩摩藩に大型西洋式砲艦や蒸気船の建造が依頼される。
 ・提案した艦船の造船の依頼を幕府より受ける。
 ・合わせて総船印(日章旗)の制作も依頼される。
1854 嘉永7年 01/16 <日米和親条約締結>
米国の東インド艦隊司令長官ペリーが艦船9隻で浦賀沖に再来する。
米国海軍のポーハタン(旗艦)・サスケハナ・ミシシッピー・マセドニアン・バンダリアン・レキシントン・サザンプトンの7隻とサプライ・サラトガの2隻が後よりが到着する。
--- --- 01/25 薩摩藩の江戸守備兵が鹿児島を出発する。
 ・藩士物頭・上野敦、軍賦役・松元十兵衛以下124名。
--- --- 02/13 二番手の江戸守備兵に江戸出張の命が下る。
 ・小姓組頭・島津藤馬以下132名。
--- --- 03/03 幕府はペリー提督と「日米和親条約」を調印・締結する。
 ・横浜にて条約が締結され、開港する港は「下田」と「函館」と決まる。
 ・通商は拒否する。
ペリーは米国艦隊の威を借りてか、肩書き以上の権限を持って日本側と交渉し、日本を開国に追い込む。その後、間髪を居れず、米艦隊は開港した各地の港に現れる。
--- --- 04/03 <昇平丸建造>
新造した琉球大砲船より西洋式砲艦に改装した「昇平丸」が進水する。
 ・伊達宗城公の家臣34名が進水式に参列する。
 この時に伊達家家臣:?川壮左衛門が詠む。
 「つとめよや皇国(みくに)のためにいくさ艦(ぶね) つくりそなへむわざをまなびて」
--- --- 04/06 <尊王の実行>
京師の御所は女官の不注意により失火炎上する。
 ・斉彬公は尾張徳川慶恕公を通じて御所の速やかな再建を幕府に依頼する。
 ・幕府は動かないため斉彬公は近衛家と連絡をとり再建に尽力される。
 ・斉彬公の尽力に対して孝明天皇より安政2年5月9日に和歌を送られる。
 ・京師に公御納戸奉行・有馬次郎右衛門を派遣して和歌などを拝受する。
孝明天皇が斉彬に贈られる。「武士も心あはして秋津州の 国はうごかずともにをさめむ」
「右府も又、あつき仰せをかしきみて武士の心も君がめぐみもてげにいやましに国やをさめむ」
--- --- 04/12 米国艦船が琉球那覇に来て、「日米和親条約」をたてに乗組員が強引に上陸する。
 ・アメリカ人の乗組員は、泥酔すると徘徊する。
 ・物品の強奪や婦女子の強姦等をアメリカ人は行い非道・狂行の限りをつくす。
(弘化五年の改元により西暦1854年11月27日より安政元年)
1855 安政二年 03/18 薩摩藩が建造した日本最初の西洋式砲船「昇平丸」が江戸湾に到着する。
 ・日章旗(日の丸)を揚げた昇平丸は江戸市中の評判となる。
昇平丸:総トン数:370トン・備砲16門
--- --- 05/14 島津斉彬公は、幕臣達に昇平丸を披露する。
 ・幕府老中・阿部伊勢守などの幕閣訪れが乗船する。
 ・会津藩主・松平容保候の見学で、操船、砲撃演習を披露される。
 ・芝浦一帯には、江戸市中の老若男女の群集がの見物に訪れる。
 ・昇平丸見学で出店等まで出て異常な賑わいを見せる。
--- --- 06/07 ★水戸老公の徳川斉昭公と子の慶篤公が昇平丸の操船、砲撃演習を見学される。
 老公は感激され詩を詠まれる。
 「そなへする名も高輪のいくさぶね 聞きしにまさるつくりなりけり」
--- --- 06/17 斉彬公は、幕府より要望のあった「昇平丸」を幕府に献上することを快諾する。
 ・日本国の船である事を示す総船印の二案を幕府に提出する。
その後、この軍艦は幕府では船名を「昌平丸」と改名、幕府軍艦として長崎にて海軍伝習の用に充てる。
--- --- 12/06 越前春嶽公と斉彬公は、江戸渋谷別邸において外交・国事について密議を行う。
1857 安政四年 05/-- 洋式製鉄の反射炉が竣工する。
 ・この反射炉や制作・作業所を合わせて集成館と命名する。
 ・集成館は色々な工業・科学生産物の工場として機能した。
 ・鋳造、火薬類製造、ガラス、製紙、刀剣鍛冶、各種科学物質の抽出・分析、陶磁器製造など。
--- --- 12/25 ★斉彬公は米国領事ハリスの進める条約締結について建白書を幕府に提出する。
1858 安政五年 04/-- <安政の大獄>
彦根藩主の井伊直弼が大老に就任する。
--- --- 06/19 <不平等条約締結>
徳川幕府の家臣は、朝廷の許可の出ない事を知りながら不平等通商条約を調印する。
 ・米艦ポーハタンで米国総領事ハリスと幕府が「日米修好通商条約」を調印する。
--- --- 07/09 斉彬公は鹿児島天保山にて藩兵の操練を観閲中に、何の兆しもなく急に倒れられる。
07/16死去される。08/05福昌寺に埋葬。
--- --- 09/-- ★尊王攘夷の志士で元若狭小浜藩士の梅田雲浜が幕府伏見奉行により捕縛・投獄される。
1859 安政六年 07/11 ★幕府は昇平丸の献上の際に、斉彬公より願い出された懸案(総船印)のを布告する。
 ・総船印=日本国識別旗(日の丸)を制定し、全国に布告する。
--- --- 11/-- 島津忠義(藩主)・久光(父)両公は、薗苑gを諌める。
 ・安政の大獄や数々の罪を犯す朝敵の大老・井伊直弼・所司代酒井忠義の討伐計画。
 ・藩士達が井伊直弼・酒井忠義を討とうとして脱藩を企てる。
誠忠組(薗苑g):
 ・西郷吉之助・大久保一藏・有馬俊斎・有馬新七・鈴木勇右衛門・柴山龍五郎
 ・中原猶介 ・森C左衛門・伊地知龍右衞門(正治)・吉井友實・税所篤・奈良原喜左衛門
 ・奈良原喜八郎(繁)など40余名
 西郷隆盛は急進派の大久保等に宛詠む。
  
「思い立つ君が引く手のかぶら矢は 一筋のみ射るぞ賢き」
         「一筋に射るてふ弦の響きにて 消えぬる身をも呼び覚ましつつ」
1860 安政七年 03/03 <桜田門外の変>
薩摩藩士、有村次左衛門が主謀となり、大老・井伊直弼を暗殺する。
 ・水戸藩諸士17名と桜田門外で大老井伊を襲撃する。
 ・次左衛門は井伊直弼の首級を上げる。
 ・襲撃後の撤退で不意を狙われ次左衛門は背部に重症を負う。
 ・遠藤但馬守の屋敷前にて次左衛門は自刃する。
 ・薩摩藩を巻き込んだ出兵の画策は失敗に終わる。
(安政七年の改元により西暦1860年3月18日より万延元年)
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更新2004年10月13日
二校2001年09月07日,三校2004年10月09日
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