京都と薩摩 龍 雲 寺・善光寺
京都府京都市伏見区桃山毛利長門町
龍雲寺・桃山善光寺の薩摩砲兵隊

龍雲寺門柱桃山善光寺とも呼ばれている龍雲寺は、御香宮神社の東側高台にあります。現在は閑静な住宅地になっており、袋小路に天台宗龍雲寺と桃山善光寺の石柱が新緑に包まれて、寺の存在を示しています。この石柱の横にある階段を登ると龍雲寺の門が見えてきます。
 お寺は想像したよりも小さな構えで、ここに薩摩藩大山弥助(巌)の指揮する薩摩大砲隊が陣取り、旧幕府軍の徳川家の歩兵伝習隊・会津藩兵や新撰組に対して熾烈な砲撃を加えたとは思えませんでした。また、敷地もさほど広くなく大砲を据えるには難しい立地条件に思えました。そこで調べてみると明治以前は桃山町三河に龍雲寺は有ったとのことで、その地点から伏見奉行所はまさに目と鼻の先以上に絶好の射撃場所になり、伏見奉行所を砲撃された旧幕府側に相当の被害を及ぼしたのも納得の行く思いがしました。
 現在の伏見奉行所の跡は、旧陸軍用地を経て公務員官舎・商店・民間マンション・公団の団地になっております。現在の桃山善光寺(龍雲寺)からは団地の給水塔が伏見奉行所の跡を示すかのように建物の間から見えています。(下段の写真)
伏見奉行所を制圧するのに使用された大砲は、四斤山砲と呼ばれる移動が容易な小型の大砲とされていますが、この大砲の弾には榴散弾(りゅうさんだん)と呼ばれる砲弾が使用可能でした。欧米では当時すでに戦場で盛んに使用されており、薩摩藩もこれを入手していた可能性が高く、数の劣勢な薩摩藩が大軍相手に無傷の近い状態で鳥羽伏見の戦いで圧勝したのもこの砲弾の力が有ったのかもしれません。鳥羽伏見の戦いに先立つ旧幕府側(主力は庄内藩)の江戸高輪薩摩藩邸襲撃の際に旧幕府側の指示書の中に榴散弾の使用に関する記述があり、同時期に薩摩藩が保有していかかった可能性は極めて低く、鳥羽伏見の戦いでも幕府側と同様に大いに使用したのではないでしょうか。龍雲寺門 榴散弾とは単純なイメージでは、大砲が大型の散弾銃に成ってしまったようなもので、砲弾の中に細かな弾が詰められ、砲弾が発射され、設定された距離になると爆発し、人馬への被害を大きくするように設計されたものです。現代の地対空ミサイルや高射砲などもこの砲弾の原理を応用して飛翔体に効果的な弾幕を作るように計されています。
 しかし、薩摩藩には抜刀隊(遊撃隊・兵具隊)と呼ばれる古来よりの刀剣を使い肉弾戦に持ち込む薩摩独自の部隊がありました。また、他藩や幕府の歩兵隊と違い薩摩の兵は小銃・大砲を扱う者は全て士分の者で構成されており、その刀剣の流儀は「一撃必殺の肉を切らして骨を断つ」と言われた実戦剣法の自顕流等(示現流)を得意としており、おかしくなった明治政府ために勃発した後の西南の役(西南戦争)でもこれを証明するように白兵戦で、如何なく薩摩の抜刀の強さを発揮して政府軍を苦しめます。このことからも、偏った可笑しな見方で構成された映画や小説等で描かれる銃砲だけが頼りの薩摩藩兵はフィクションであることが分かると思います。
給水塔の下辺りが伏見奉行の周辺になります

このお寺の墓所には、戊辰の役で薩摩藩と供に御親兵として戦って戦死した十津川郷士が眠っています。今では、あまり使われなくなったようですが、十津川郷の言葉しには、薩摩言葉と同じ単語があるようです。「わがれ」「いお」「ぶえん」・・など古い日本の言葉が残っていたようです。また、昔の郷旗印は、薩摩藩と同じ丸に十の字だったようです。
十津川郷士の墓



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二校 2002年11月16日
更新 2004年07月20日
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