|京都と薩摩|
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京都府京都市上京区今出川通烏丸東入玄武町 |
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■相国寺・薩摩藩邸址その一■ |
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| ●島津家の京都での各薩摩藩邸は御所の裏の「相国寺二本松藩邸」、錦小路東洞院の「錦小路藩邸」、伏見下板橋通りの「伏見藩邸」が、京都と伏見にはありました。各藩邸の位置を地図に配してみると、ほぼ烏丸通り東側に沿って、北から南に並んでいることが分かります。また、これ以外には、立命館大学の南側にある京都十刹の「等持寺」近くに、小さな屋敷跡が地図に記されていますが、ここは小松原薩摩藩調練場の一角に有った勤番屋敷のようです。 |
●二本松薩摩藩邸跡のこの場所は、現在では同志社大学構内を含む場所になっております。この旧薩摩藩用地は、何故か、鳥羽伏見の戦いの際に薩摩藩兵に捕らえられ幽閉されていた会津藩士「山本覚馬」の所有となっていたものを、1876年に同志社の用地を探していた「新島襄」に破格の価格で譲り渡されたようです。
この時期は明治9年となり、朝鮮問題(征韓論)の処理による意見の対立から、西郷隆盛などの薩摩の偉人や志士達が、おかしくなった明治新政府を離れだし、薩摩へと下野してから3年後にあたります。また、西郷隆盛の朝鮮使節派遣に反対した岩倉卿の暗殺に始まる士族の反乱が、西南諸県で起こり、丁度この年には熊本士族の反乱が勃発したり、翌年の明治10年には鹿児島士族による西南の役と、激動の時代の幕開けの時期に、この地に建つ同志社も熊本洋学校の生徒を迎えるなど、波乱の開校当初(開校は明治8年)を経て、現在までの約130年の歴史を刻んでいます。
現在は二本松薩摩藩邸の跡を示す石碑は、同志社大学の西側の門近くに立てられていますが、御所の北側に有る今出川通りを隔てて、近衛家の屋敷(御苑内)と向かい合うように藩邸は建っていたようです。正確な二本松藩邸の場所は、相国寺南門・勅旨門の横から西側にL字型に相国寺境内に沿うように作られていたようです。また、この近くには藤原の定家を祖とする冷泉家などや、公家屋敷・御付武家屋敷も立ち並んでいた様子が古い地図で確認できます。
御所の北辺にある武家屋敷は、御付武家を除いては薩摩藩邸のみが置かれており、幕末の他藩との違いが、このことからも読み取れると思います。
さらにこの薩摩屋敷の南向かいに有った近衛家は、古来より島津家と関係の深い家柄であり、五摂家(近衛、九条、一条、二条、鷹司)筆頭として、広く知られるように天皇の摂政として代々使えられた家柄です。このような関係の中からも、如何に薩摩藩が明治維新の為に活躍できたかも想像できると思います。単に強大な武力を持った西南雄藩と捉えただけの現代の歴史教科書からは、この地で、日本国の為に命を掛けて戦った人々の熱き思いなどは伝わりもしませんが、薩摩人の時代を超えて憂国の志士として生きた時代や情景を重ねるのも、現代の混沌とした世の中を生きる為の何かのヒントになるかもしれません。
●相国寺は、室町時代の将軍足利義満の初願による創建で、臨済宗相国寺派の大本山です。号を「万年山」(萬年山)言い正式には、「萬年山相国承天禅寺」と言うそうです。この寺は当初、室町幕府の庇護を受けていましたが、数々の兵火に見舞われ、そのたびに再建され現代に至っています。境内は綺麗に整備されており、現代人の疲れた心を癒すひと時の空間にもなっています。 |
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冷泉家門、後ろの建物は同志社大学。 |
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二校 2001年12月02日
更新 2003年03月03日
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