伏 見 薩 摩 藩 邸 址
京都と薩摩
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伏見丹波橋・薩摩藩邸址 その三
  京都府京都市伏見区東堺町

古い地図を見ると、この地の近辺には、幕末の歴史の中で関係の深かった薩摩支藩佐土原家・尾張徳川家・因幡池田家・肥後柳川家・紀伊徳川家・安芸浅野家と層層とした大名の屋敷に取り囲まれていたことが分かります。

【伏見藩邸址】
下板橋通り伏見の薩摩藩邸址は、下板橋通りの伏見板橋小学校・福祉事務所(尾張徳川家址)・下板橋交番(旧伏見警察署)を過ぎて濠川(ほりかわ)に架かる小さな橋を渡ると、Tの字交差点があり、その正面に松山酒造株式会社の酒蔵が、昔の藩邸の土蔵の佇まいを髣髴とさせるように見えてきます。ここが明治維新や幕末で憂国の志士達が活躍する舞台となった伏見薩摩屋敷(鹿児島藩島津家)の址です。

 この伏見屋敷は、鳥羽・伏見の戦いが勃発すると空家状態になり、そこを退却する会津藩の大砲隊(白井五郎大夫)の手により火を放たれまます。白井隊は、中書島・京橋方面から、この藩邸まで来ますが、近くにいる官軍側の土佐藩兵に、何故か全く手を出されることもなく、易々とここまでやって来ます。薩摩藩士達が、出払っていることが分かると、会津藩兵達は直ちに薩摩屋敷に火を放ち、淀方面へと退却して行きます。彼らは正月5日になると、淀に進軍する薩摩小銃隊・大砲隊・外城隊と旧幕府軍側の戦闘が始まり、白井隊も淀から旧幕府軍本隊へ応援に駆けつけます。しかし、彼らは良く戦い奮戦しますが、富ノ森付近で白井五郎大夫以下の多数の会津藩兵は、抵抗も空しく頓死していきました。
 この屋敷には、開戦直前まで大将島津式部が城下士小銃隊を率いて本営にしていましたが、全ての隊を御香宮方面に投入した為に、屋敷は全くの無防備状態になっていました。

坂本竜馬との関わりは、慶応2年1月24日未明(1月23日夜から)、伏見寺田屋において、幕府伏見奉行配下のの捕り方達(百数十人)に、龍馬が潜んでいた寺田屋を急襲された際、お龍の機転で逸早く逃れて、濠川の川筋で材木屋に隠れているところを、伏見薩摩屋敷に急を知らせて駆け込んだお龍と長州の三吉慎蔵の通報から、この藩邸の留守居役の大山彦八に船を出してもらい助けられる舞台にもなりました。(濠川は寺田屋周辺を通過)
 龍馬たちは、一ヶ月ほど藩で匿われ、傷の癒しやを兼ねて、鹿児島へと新婚旅行に出発します。
伏見藩邸跡03藩との繋がりは分かりませんが、現在の屋敷址は、伏見の清酒の一つとして知られる松山酒造株式会社の酒蔵に成っており、「明君」等の銘酒製造元になっております。また、隣接して玉乃光酒造があり、「玉乃光」も伏見の銘酒の一つです。これらの酒蔵で使用されている土蔵は、歴史の古さを感じさせ、薩摩藩邸の址を思わせる風情が漂っています。

隼人と酒の繋がりも深くあり、近衛家領地の摂津伊丹なども、伏見と醸造の覇権を争いながら、共に酒の産地として良く知られています。



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二校 2001年08月12日
更新 2003年01月09日
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