■寺田屋を舞台にした二つの重大な事件■
| ●女将のお登勢の切り盛りで大いに繁盛していた伏見寺田屋の事件には、「薩摩藩の内紛(寺田屋騒動)」と、「坂本龍馬が幕府側に襲撃」された歴史上の重要な二つの事件が発生しています。しかし、何らかの誤解があり、よく間違われる「寺田屋騒動」=「坂本龍馬襲撃」の認識は、内容も年月も違います。しかし、二つの事件は薩摩藩が関わったことは間違いのない事実です。更に、この二つの事件の起きた寺田屋は、薩摩藩の定宿して利用されており、また伏見は京都と大阪の船よる交通の要所であったことから、この重要な事件の舞台を提供したのかもしれません。 |
【寺田屋騒動】
●文久2年(1862)4月23日の寺田屋騒動は、島津久光候(藩主忠義の父)が1千名の薩摩藩兵を率いて上京したことからこの事件が始まります。この時急進派の薩摩藩士を含諸国浪士など数十人の尊攘派が集まり、関白九条尚忠と所司代酒井忠義を襲撃して、相国寺獅子王院に幽閉された尊融法親王をお助けして島津久光に詔りを賜り幕府を誅伐するとの過激な計画を実行しようとして寺田屋に集まっていました。
そこに、公家方よりの至急の通報を聞いた久光候は、計画を中止させるために藩の鎮撫使を派遣し、説得して計画を中止するように命じました。しかし、鎮撫使側は上意討ちの許可が出ているために、藩邸への同行を頑なに拒否した急進派藩士の有馬新七以下数名を、その場で斬殺せんと及んだ為に、激しい剣戟を伴う乱闘になり、静かな伏見の町に薩摩の剣士の鋭い奇声が突然沸き起こった後には、多くの死傷者が出す惨状となり、急進派側の藩士はその場で6名が死亡すると共に、2名の重症者(翌日藩命に背いた罪で切腹)を出し、鎮撫使側も1名死亡して、どちらも多数の負傷者を出しました。また、4月27日には急進派の藩士が1名自刃して果て、これを加え9名、合わせて10名の薩摩藩士の死亡者を出してしまいました。
●急進派の藩士の遺体は、伏見の呉服屋井筒屋伊兵衛(斎藤酒造「英勲製造元」の4代前)とその手代数名が駆けつけ、
白木綿で包み丁重に大黒寺に葬ったとされています。この大黒寺は、寺田屋より700〜800メートル北にある藩の菩提寺で、九烈士の墓には、西郷隆盛の筆による墓碑が一緒に並んで建っています。西郷は泣きながら亡き薗苑g(誠忠組)同士たちの為に、大黒寺の墓碑を書いたとされています。
藩はこの時、同士討ちを恥じると共に、迷惑をかけた寺田屋に対しては、乱闘で破損した家財一切を即日に修復をさせると共に、多額の金子を渡し他言を禁じたそうです。 |
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・寺田屋は内部を見学でき、宿泊も可能とか。
←寺田屋騒動のあらましが英文と日本 語で紹介されてい ます。 |
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【坂本龍馬遭難】
●坂本龍馬の関係する事件は、慶応2年(1866)1月23日薩長同盟の締結した翌々日に薩摩藩士を装い宿泊していた龍馬と長州藩士三吉慎蔵ら4名を捕らえようと、百数十人の伏見奉行配下の捕り方が寺田屋を急襲しました。
異変にいち早く気づいた婚約者のお龍は、入浴中にも関われず、素っ裸に近い状態のままで裏階段より龍馬たちに急を知らせ、龍馬は所持したピストルを利用して多数の捕り方相手に大乱闘となり、手傷を負いながら
も屋根づたいに逃げ、川端の材木屋に隠れました。
一緒に逃げた長州藩士の三吉慎蔵は、あまりの捕り方の多さや追撃の厳しさから、あきらめて切腹しようとした為、龍馬はこれを押し留めて伏見薩摩藩邸に行くように指示し、自らは捕り方の囲みの突破は、困難と悟った龍馬は手傷を負っていることもあり、薩摩藩 の船による救援を待ちました。
その知らせを聞いた藩邸では、濠川(ほりかわ)沿いに舟を出し、龍馬を援護すると共に救助して伏見薩摩藩邸に匿いました。それを聞き及んだ幕府の伏見奉行所側は、再三にわたり、伏見薩摩藩邸に龍馬の引き渡しを要求しましたが、これを「知らぬ存ぜぬ」で押し通し、龍馬たちの鹿児島への脱出の機会を窺わせました。
その後、坂本龍馬たちは京師の錦小路藩邸へと移り、お龍と龍馬は共々に鹿児島へと旅にでます。龍馬は襲撃で負った刀傷を霧島の温泉で治すなど、激動する時代やその後に起きる悲劇のの狭間でありながら、お龍と二人で水入らずのひと時を鹿児島で過ごすことになります。
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←お龍が急を知らせるために駆け上がった裏階段。
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龍馬の部屋より外を望む。
見学時間:
AM10:00〜PM3:40受付終了。
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【独り言】
●薩摩藩が龍馬の暗殺に絡んでいるとの説を、実しやかに扱った本やTVドラマ等がありますが、何を根拠にしているのでしょうか?薩摩藩と龍馬は、何の利害の対立も無く、また、龍馬の企画した重要な事業に、多くの資金を藩は提供しており、これらのことからも龍馬を暗殺しても薩摩藩には、何らの得や利益もありませんでした。
また、新選組が事件の際に龍馬を襲った等の話しも、現代の物語の史実ではあまり扱われませんが、逆に薩摩に罪を被せる事で、その後の日本の歴史で得を得ようとしたのは誰だったのか?何故か?と考えれば、自ずと陰になって表に出ない策謀者達の実像が、浮かび上がって来るのではないでしょうか。鳥羽伏見の戦いに至るまでの、色々な出来事の中で、先に暴虐な手段や武力を用いたのは幕府側であり、薩摩側では無かった事も事実の筈です。
旧幕府側の江戸薩摩藩邸焼き討ちをモデルにした物語等の中にで出てくる「益満休之助」なども、本来の所属は城下士遊撃隊の本営斥候役であり、幕府転覆の為に盗賊を働くなども話も、作り話といえ信じがたい話です。三田藩邸に他国からの多くの浪士が集まった事は事実かもしれませんが、薩摩藩士が策謀の為に盗賊を行うなどの行為は、当時の薩摩藩の戒律からしても考えられず、この物語の飛躍を当時の薩摩の侍達が聞いたら唖然するのは間違はないと思います。
旧幕府側が、先に起こした龍馬への襲撃事件の経緯や、幕府滅亡(大政奉還)から丁度一ヶ月位と近江屋での暗殺の日が符合しており、龍馬暗殺は、どの角度から見ても幕府側の策謀に間違いないと思います。また、目障りとなって新選組に謀られ、惨殺された御陵衛士の伊藤甲子太郎達も、同時期に暗殺されており、旧幕府側の目障りと成った人々は、この大政奉還後の日本の闇の中に次々と葬られたのではないでしょうか。もし、西郷や大久保がこの時期に在京して、迂闊な行動をしていれば、恐らく策謀者達の放った暗殺者達による凶刃を、薩摩側も防ぐことは出来なかったと思います。
なお、最新の情報では、龍馬が構想したと言われる新政府への旧幕府側外しに、危機感を抱いた井伊家の彦根藩が、会津藩と結託して見回組に暗殺を依頼したとの証拠が、京都の旧家より出て来ているようです。そろそろ、薩摩藩の陰謀説のような、根拠の乏しい裏読み的な発想を基にした歴史解釈を、いかにも真実と捉えた物語やTV歴史ドラマは無くして欲しいものです。百数十年前とはいえ、日本の先々を思いながら明治維新の中で散った薩摩の侍達は、死んでも死にきれない思いが残るのではないでしょうか
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三校 2001年10月28日
更新 2004年01月25日
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