京都と薩摩
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薩 摩 藩 士 東 征 戦 亡 之 碑
  京都府京都市東山区東福寺
東山・東福寺即宗院の裏山

【東征戦亡之碑】
薩摩藩士東征戦亡之碑
この碑は慶応4年正月に始まった鳥羽伏見の戦いから、関東・東北におよぶ戊辰戦争で戦死した薩摩藩士等の524名を偲ぶために、戦闘終結後の明治2年に西郷隆盛自らが即宗院に半年一人で滞在し、日々沐浴しながらこの碑のために銘文を書き上げ、刻んだものとされます。
 碑は、即宗院の東北の小高い山にあり、採薪亭の跡を望みながら、急な昇り坂を山頂に上がると、石碑を囲む石柵が見えてきます。柵は欝蒼とした木々に囲まれ、東征戦亡之碑を北向きに、薩摩藩兵の城下士小銃隊から海軍までの戦死した藩士等の名を刻んだ石碑が五機、生きて帰れなかった故郷薩摩に向かってか、西向きに整然と配されています。
 また、猿辻で公家の姉小路卿を暗殺したとの容疑で、会津藩に捕らえられ無罪を主張しながら自刃(文久三年5月26日)した田中新兵衛(雄平)の墓もここの下の墓地にあります。
時代の流れの為か、それとも薩摩が「西南の役」で敗れた為か、墓碑にはひびが入り、錆びた鉄枠で固定さて、時代の流れを感じさせると共に、この碑より南方の下の麓にある長州藩の荘厳な碑などと比較すると、打ち捨てられた薩摩の「西南の役」以降の日本の歴史を見る思いがします。多くの偉大な薩摩隼人が中央政府から去り、その後の日本の歴史や政治に、大きな影響を与えられなかったことも見えてくると思います。また、ここにも柵の中の南角に、小さな碑が立てられていますが、他と同様に月と太陽の形をしたくり貫きが施されています。

 この碑の東数百メートルには、孝明天皇の陵墓の後月輪東山陵が、谷を隔てて泉涌寺の裏山にあります。

※通常は即宗院もこの碑も一般公開はされておりませんのでご注意ください。



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初稿 2002年12月11日
更新 2003年04月08日
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