病人の言葉や呟きや沈黙は病んだ肉体の表出であろうとしている。しかし声は喉にひっかかる。あるいはむしろ、声が病巣にひっかかる。肉体が救いを求める声が、病巣にひっかかって声にならないのだ。だから、聴かれるべきは、持たれるべきは、言葉や呟きや沈黙ではなく、病んだ肉体が発しているはずの声である。病んだ肉体の受肉のロゴスである。あるいはむしろ受肉のノモス(ドゥルーズ+ガタリ「千のプラトー」)である。もちろん私たちはそれを聴き取る耳は持っていないが、「ナイフの研ぎ方を指示してくれるもの」は、それ以外にあろうはずがない。したがって、病人たちの立場に立つなら、生命倫理とは別の道を辿らなければならない。(P83) そして、病人を肉体に直面する者として捉えてきたのである。 生命倫理は、病人を心理化することを通して、また、各問題を社会問題・心理問題に転化することを通して、心を肉体の墓場となし、肉体を直接的に思考することを放棄してきた。しかし、現代思想は一貫して肉体について思考してきたと捉えなおすことができる。用語を列挙するのなら「剥き出しの生」(レヴィナス)「器官なき身体」(ドゥルーズ)「コーラ」(デリダ)「ホモ・サケル」「残り者」(アガンベン)「身体なき器官」(ジジュク)などである。私は生命倫理と批判的な距離を保った上で、現代思想と現代生命科学技術を総合して救済知の探求を再開することをよびかけておきたい。さらにつけくわえるのなら、生命科学技術問題に関わる諸立法は、肉体の処置に関わっている。・・(p84) 第一に、病人の闘病の経験、病人における病んだ肉体の経験、これを心理化することなく、的確に記述する理論と倫理を獲得する必要がある。・・・・ 第二に病人の闘病の意味と目的にたじろぐことなく問うべきである。そして、病むことと死ぬことの意味と目的を、肉体の次元において、考え抜くべきである。・・・ いまや苦笑をもってしか受け止められない陳腐な言い方になるが、現在の生命科学技術と医療の水準は過去の病人たちの闘病の成果である。そして、現在の病人は、自己の肉体のためだけでなく、将来の病人の肉体のためにも闘病している。病人は、受肉の次元においては、自己のためにではなく、他者のために生きているし、そうならざるをえない。そのような病人たちの肉体の絆を肯定すること、それに見合う仕方で、肉体についての知識探求を始めること、これが生命倫理にとっては「超倫理的」であらざるをえない、受肉の善用のための知識の探求の方向である。 (P85) |