「 弔いの哲学 」   小泉義之

誰かが死ぬ、私は生きている。
誰かが死ぬことと、私が生きていることのあいだには何の関係もない。
誰かの死と私の生は、徹底的に断絶している。
誰かの死と私の生の断絶を、さらには、
誰かの死と誰かの生の断絶を、
思い知ることが弔うということである。

しかしこのような断絶を人はたやすく見失う。
おぼろげながらは見ていても、それを直視することに人は耐えることができない。
というのは、誰かの死を誰かの生が、この世ではいつも関係づけられてしまうからである。
ほんとうは断絶しているのに、そこの何らかの関係があると思いなされてしまうからである。
そのような思いは、〈妄想〉である。
そして、哀悼・追悼や葬礼や喪の仕事は、そんな妄想にささえられているし、
そんな妄想ををささえている。その力はかなり強いので、
それが妄想だということはなかなか気がつかれない。
しかしそれを捨てなければ、弔いは始まらない。
誰かの死と誰かの生の断絶を思い知ることは、おそらくとても大切なことである。




 戒律論     P77

モラルの原則

〈生きることはよい〉。これがモラルの最低限の原則であり最高の原則である。モラルはこれだけで十分に足りる。そして必要ならば、ここからが直ちに〈殺すことはない〉が出てくる。これらのことを戒律と呼んでおく。この戒律を、〈神すなわち自然〉が定める〈掟〉として解釈してもよい。

 第二に、ただ生きることを、さまざまな理由をあげて、おとしめる傾向がある。だとえば、延命至上主義に反対して、意識機能をなくした者を延命させる意味などないと主張する語り方である。しかし、救急医療などを除いた現代医療は、決して本来の延命至上主義に立ってはいない。いわゆる高度医療をほどこすことが本当に延命に寄与するかは実に疑わしいし、死ぬまで時をかけて待つというきわめて簡単なことがやられなくなっている。そして、医療関係者はよくこんなことを言う。他人が意識機能をなくした場合には、その人を死なせてよいかどうかについて迷うけれども、少なくとも自分が意識機能をなくしたら生きるに値しないから死なせてくれてよい、と。一見、謙虚にみえるが、極めて暴力的だ。なぜなら意識機能をなくした「自分」は、定義上自分ではないと決めているのだから、その主張は、意識機能をなくした者はすべて死なせてもよいという全体的主張とひとつも変わりないからである。自分だけは死なせてくれてよいという謙虚な物言いは、実は暴力的な主張なのである。結局のところ、生と死について丁寧に緻密に考察する姿勢が失われていると思う。意識機能とは何であり、それはどのように働きどのように消えてゆくのかを考えようともせずに、「意識機能」という記号を振り回して考えた気になっている。