昭和11年 長野県松本市に三男三女の長女として生まれる。
活発で社交的な青春時代を送る。
蚕糸試験場で大学から研修で派遣されてきていた父と知り合い文通の末結婚。このとき24歳。
慣れない東京での暮らし、しかも父の兄弟4人と姑のいる家の嫁として尽くす。
昭和37年 長女出産。帝王切開の難産であった。
昭和40年 次女出産。これも帝王切開。翌年 仙台に父転勤にともない引っ越す。
その後、金沢、岡山と転々とするが、姑から離れて自由を満喫、日本各地を家族で旅行しまくった。
東京に戻ってからは、パンフラワーなどの講師、PTA活動に精を出すが、姑の脳血管性の呆け症状も出て、家族介護の中心的役割を担う。
当時はまだ、話題にもならなかった在宅介護をかれこれ十年余り続け、様々な問題点を見出す。中野区に直訴すること数回。うるさい区民だと思われていたことだろう。
姑を看取ってからは、以前より続けていた油絵にハマル日々。銀座の画廊で個展なども行なって、充実した日々を送った。
また、痴呆症のお年よりを介護する家族のための区民によるデイケア「桃園デイクラブ」を発足。地域の在宅介護に尽くした。
平成2年ころより、身体の不調を訴える。乳がんの摘出手術。椎間板ヘルニアの手術。そして、難病ALSの発見。と立て続けに辛い出来事の連続にも、気丈に耐えつづけ、笑顔を絶やさなかった。
平成7年気管切開の後、寝たきりに。
ベッドの上から、在宅での難病患者の過ごし方について問題提起。新聞社やテレビ局取材に応じる。
また人権擁護委員会に手紙を書き、在宅投票制度の必要を訴えた。
このころより、精神的に(家族も)非常に苦しくなって来て宣教師のベックさんの訪問を受ける。洗礼は夫の反対で出来なかったがベックさんは、そんなことは関係ない、といって母を励ました。
平成9年ころより、コミュニケーションが難しくなる。
大変穏やかな表情で今も、ここにいっしょにいます。
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