ただいまALS闘病中です

島田祐子


平成7年7月
何か、難しい病気でしょうか・・・・・・
そうですねー
パーキンソンですか・・・・・・
いいえそれとは症状が違います。
病名は・・・・・・○○○側索硬化症・・・・・・ニューロン何とか(医師の声小さくて聞きとれず)
病名ですか、・・・ そうです
                            原因はわかりません
                            進行を止めることはできません
                            なおす薬もありません
すみませんが紙に書いてくださいませんか・・・・・・(書いてもらえず)
難しい病気が疑われます。どこかもう一か所で診てもらってください。一か月後また診せてくれませんか。
神経内科の医師とのこんな会話から私とこの病気の闘いが始まりました。
 
○○○側索硬化症 かすかに聞きとめたこの聞き慣れない病名を、家庭医学全書で調べましたが簡単に書いてあって内容はよくわかりませんでしたが正式病名がわかりました。 筋萎縮性側索硬化症・・・ALS
何となくこれは大変な病気ではないかとおもいました。一刻も早くこの聞き慣れない、  病気のことを知らなければとおもいました。
 
私は平成6年3月北里研究病院で、右側乳ガンの手術をうけました。
それまでは病気もせずボランティア活動や趣味の油絵を描くなど、元気にすごしていました。乳ガンの手術のとき心臓に変化がでて手術時間が長引きましたが、そのご胸にはる  テープと血流をよくする薬とまたホルモンカットの薬を服用しながら2週間に一度診察を受けるために通院をしておりました。
手術直後から右足のふくらはぎが、毎晩けいれんを起こす様になり6月頃からは、体中の筋肉がピクピクとけいれんするようになりました。そのことをDr.にはなしました。
が、たいしたことはないと取り合ってもらえませんでした。
平成7年2月家族で熱海へ梅の花を見に行ってきました。その帰り道急に足の運びに異常を感じ後からくる夫に、「私の歩きかたがおかしくない」と歩き方を見てもらいました。
「そういえばすこし足を引きずるような歩き方をしているよ」
足に異常を感じたこの日から、少しずつ歩きにくさがましていきました。痛みもなく、足の感覚もあり私自身思いあたるようなこともなく、近所の診療所や針灸医院、整形医院など8軒あまりで診察を受けましたが、骨が弱くなっているとか言われカルシウムの注射をしたり、針や灸をしましたが思うような効果はありませんでした。
北里研究所病院でもCTやMRI、骨シンチ、筋電図などの検査が始まりました。
特別異常は認められませんでした。
整形外科で造影検査をすることになり、入院をして検査をうけました。
その結果腰椎にヘルニヤがあるそのために、歩きにくくなっていたり、数回ではありましたが失禁があったりするのだと説明があり、緊急に手術をしんければいけないと言われました。
造影検査のため吐き気と頭痛がひどく大変に苦しいおもいをしておりましたが、その翌日に緊急手術をすることになりました。
とても不安で、たまりませんでしたが歩けるようになる、歩けるようになるからと自分にいい聞かせて手術にのぞみました。
一か月あまりの入院で手術は成功と言うことで、5月15日に退院しました。
退院直後は、杖を突きながら家のなかや近くの商店街まで歩くことができ、病院でのリハビリにも一人で車にのっていくことができました。一時間あまりのリハビリは、体力を使い果たす結果となって、帰り道はよれよれになって車のなかでは口をきく元気もなくなっていました。
そのころDr.からは歩けるようになるのに2,3年はかかると言われ、その日を夢見て家でもリハビリができるように、足を上下させるときにつける重りも用意して、病院の  メニューができるようにしていました。
区の健康課にリハビリのために訪問指導を受けたいとお願いをして金川保健婦が訪問してくれることになりました。この頃は私も、保健婦さんもこんな病気がかくされているなんて夢にもおもっていませんでしたので楽しくリハビリに励んでいました。
 
このころは、まだ家の中は歩くことができ、簡単な料理は作ることができていましたし  またボランティア活動の桃園デイクラブにも参加していました。
桃園デイクラブとは痴呆性老人とその家族を支援するために、活動してきたボランティアによる手づくりのデイクラブで3年半あまり活動をしてきました。
退院一か月が過ぎたころから、左手が上げにくくなりまた言葉が出にくくなり、何とな  く、変だな退院をしてから良くなるのが当たり前なのに、だんだんと歩きにくくなって手上がらなくなっていくなんて、不安でたまりませんでした。
内科のDr.に症状を訴えそして神経内科の受診をしました。その時の会話は前述のようでした。6月28日のことです
 
 
 
家を帰るとすぐに、中野区の保健計画課の黒田保健婦に電話しました。黒田保健婦とは痴呆性老人の問題で共に活動してきて、私にとってももっとも信頼のできる保健婦さんでした。急いで話たいことがありますと伝えました。
私のただならぬ気配に1〜2時間で家にきてくれました。
○○○側索硬化症の疑いがあると言われましたがどんな病気でしょうか?
黒田さんは一瞬言葉が出ないようでした。
でもすぐに気をとり直して、わかりましたすぐ調べてみますからねといって帰って行かれました。
その日のうちに、都立府中病院が専門であることを伝えてきました。それと同時に北里研究所病院の内科のDr.から府中病院のDr.の紹介があり受診することになりました。
緊急にとお願いをして7月5日の11時に高元Dr.の予約がとれました。
翌日には金川保健婦が訪問してくれて、この病気の資料と症例のプリントを渡してくれました。
まだ信じられない様子で・・・どうして島田さんが・・・2人で泣きながら病気のことをはなしました。まだ決まったわけではないから・・・ あまり心配をすることはやめましょう・・・
この資料も今見なくてもいいからね・・・ この日金川さんとはいろいろ話したように思うが、あまり記憶にありません。
 
金川保健婦さんとは4年ほど前に中野保健所主催のシンポジウムの準備委員会でご一  緒しており、また桃園デイクラブには何にかと協力して頂いていたので、何でも話せる関係ができていたことには本当に救いでした。
金川さんが帰ったすぐあと、持ってきてくれた資料を読みました。人事の様に冷静に、  受信までの数日間、この資料を何回も何回も読み返しました。この頃はまだ何かの間違いできっと違うに決まっているとおもっていました。
でも、主人や千佳子には見せることはできなくて、目のつかないところに隠しました。
この頃の病状は一人で歩くことはできなくて、車椅子を使用していました。左手は肩から、力が抜けていて上に上げることはできませんでした。
言葉はとくに、ら、り、る、れ、ろ、がうまく話せませんでした。
 
7月5日  都立府中病院 神経内科 高元Dr.受診の日 雨
健康課の金川保健婦が同行してくれるとのことで、私も主人もどんなにか心強くおもいました。
タクシーで9時30分に自宅を出発して1時間あまりで病院につきました。
車の中では、あまり会話はなくて特に主人は緊張しているようでした。私はもしかしたら・・・という気持ちと、この病気ではありませんね・・・と言われることを期待していました。
病院について受付で手続きをする夫の姿をみて、とても不思議な光景を見ているようなきがしました。それは長いこと、いろんな場面で私の役目であって主人が自分から、手続きをするなんて考えてもいなかったので・・・何とも言えない気持ちと選手交代の時かなとおもいすごく寂しさを感じていました。
しばらくして、島田さんとよばれ診察室に入りました。診察室といってもDr.の休診日にお願いしてありましたので個室ではなくて、受付の窓口の近くの机で、処置をするベッドがあり、看護婦さんやDr.、患者さんが私たちが話をしている後ろを行きかうような場所で、高本Dr.の診察を受けました。
高元ですよろしくと挨拶をされ、私たちもそれぞれ自己紹介をしてから今までの経過を 話しました。
高元先生はゆっくりと時間をかけて私の話を聞き、そして診察にはいりました。
足や手の筋力や唇の開き具合など、細かくチェックされました。
 
ときには大きなため息をつかれ悲しそうな表情を私は見ていました。
診察の後、聞きたいことに対して私は何でもお答えします、と言われました。
筋萎縮性側索硬化症ですか?
残念ながらそうです・・・                   そのあと何をどのように聞いたか良く覚えていませ んが、自分の知っている限りの知識でこの病気のことについて質問したように思います。体のすべての筋力が失われること、呼吸麻痺のこと、嚥下障害のこと、余命のことなどを質問しました。主人はショックのあまり顔が赤くなったり青くなったりしていました。  私は倒れないか心配で、あえて冷静をよそおっていました。
金川保健婦さんは、自分がしっかりしなければと思われてかいろいろと質問をしていました。しばらく先生と金川さんとのやり取りがあって、中野区のなかでのこの病気にたいする対策について先生から質問をされて、金川さんは何回か電話をしにいきました。  その時印象的だったのは、先生は私と話す時はとてもやさしい目で時には笑みを浮かべながら話されていましたが、主人や金川さんと話される時はきっとしたとても怖い表情で話されていました。
人工呼吸器の話になった時、私は以前姑の介護をした時の経験から、長い介護をする介護者の大変さを誰よりも知っていました。そのために人工呼吸器をつけて生き永らえることを拒否していました。ですから先生からその話が出た時、介護の問題が解決しない限り呼吸器を取り付けることはできないと話しました。
そして私のまわりには、桃園デイクラブの大勢のボランティアさんがいること、その方達に協力を求めてみたいと話しました。
もし、そのような事ができたら本当にすごいことで、たくさんの患者さんを診てきましたが、初めてのことですがんばってください。
私は急に悲しくなって、こんなことを言ったことを思い出します。
私はいままで、自分の人生を一本の線にして、その上に何才の時には何をしてとか、今家を建てると、主人の退職までにローンが終わるとか・・・いろんな事を考えることがすきだった、また実現させることが喜びでした。でも自分の終末までもこんな形で見るのはつらいですね・・・
私は、はじめて涙声でいいました。
3時間あまりのすごいやりとりが、夢の中のできごとのように感じていました。
 
これからの検査を予約して診察室をでたのは2時すぎでした。
まだ昼食前だったので、病院の中の食堂で食事をすることにしましたが、みんな食べる気もなく、それでも食べなくてはと主人と金川さんはフライのランチで、私はカレーライスをとりましたが、二人とも食べる気がないようで、むりにのみ込んでいる様でした。
私はこんな時にはむりにでも食べなくてはと思ってカレーをぱくぱく食べました。
腹が減っては、戦はできない・・・そんな心境だったのでしょうか・・・
病院を出る時、金川さんが帰りはご主人と二人で帰って下さい。私は電車で帰りますから・・・金川さんの気持ちは十分に理解できましたが・・・
私は今ここで二人にされたら・・・とても普通の神経では耐えられないと思って・・・
一緒に帰って下さいとたのみました。
車の中では主人は相変わらず無口で、私は今までやって来たこと、金沢に転勤した時は、パンの花を習ったこと、岡山では教室を開いたこと、また自分がしたいためにテニスクラブを作ったことなどを話しました。家を建てたときも、姑を介護したときも、子育ても、桃園デイクラブをつくった時も一生懸命に全力投球でやってきたので、いま自分の人生が終わろうとしていても、私はなんの悔いもないなどとはなしたと思います。
私はこの告知を冷静に受け止めることができたと思います。でも主人はなかなか受け入れることができないようで、何かの間違いだといっていました。
 夕方佐藤ひろこさんが、何も知らず訪ねてきました。
今日この病気を告知されたことを話しました。そして皆さんに協力してほしいとお願いしました。
私は病気のことを隠さずオープンにして、興味本意ではなく本当に私のことを考えてくれる人々には支援をお願いしようと思いました。
 
金川保健婦の記録       ALSを宣告されたケースの今後の対応について  NO1
経過
H6、3月   狭心症発作
 6、3月17日 北里研究所病院にて右にゅうがんope実施ope後より右ふくらはぎ痛出現
 毎晩右足ふくらはぎのみ、こむら返り(+)その後全身肉がピクピクするようになる(顔面をのぞく)(狭心症薬の副作用の影響もあるのでは、ということで薬変更するもピクピクとするのは止まらず)
H7、1月19日 杉並にサイクリングに行った折りに、幼児を避けようとして、右胸部打撲。翌日石坂整形外科受信 X−P実施の結果ヒビだろうとの診断。この時に足の筋力低下を指摘される。
H7、2月4、5日熱海へ旅行に行った折、足の運びに違和感(+)を感じはじめる。
   2月〜3月 足に力が入らない状態が続く。
   4月    腰から下がタコのように感じるようになる。尿失禁突然(+)
          北里研究所HP 神経内科受診して(1)
                                MRI
                                CT
                                骨シンチ            実施する−すべて異常なし
   4月10日 北里研究所HP 整形外科に検査入院 (骨髄造影のため)
     12日 骨髄造影実施 腰椎4、5椎間板ヘルニア判明
     13日 緊急ope  ope後尿疾患(−)
   5月16日 退院
   6月末   両肩に力が入らない感じ(+)
   6月28日 北里研究所HP 神経内科受診(2)
                                Dr.は 原因はわかりません
                                     進行は止められません
                                            薬はありません
                                と言うので、本人が病名を尋ねるが返答なし
                               
結局Dr.から本人が病名を聞きだす 小声で早口に筋萎縮性側索硬化症と言われる。
他の病院でもみてもらって下さいと言われる。
                                黒田さんに話す。
    7月5日 都立府中病院    高本Dr.の診察をうける。
                     受診時の主張      右下肢脱力  左下肢つっぱり ろれつ不良
   高元Dr.からの質問      
○歩きにくさは進行しているのか?
○止まっているか?
          歩きにくくなっている
 ○口の動きが悪くなったのはいつからか?
 ○6月第1週ころからこの頃からのみこみが悪くなり、むせたので、少量をよく噛んで飲みこむようにしている。
 診断     ALS
アドバイス                                   気管切開の時期を間違えないように
Dr.が必要と認めた時はうけいれバックベット ることが大切
呼吸器の説明
 今コミュニケーションがとれるうち佼成病院   に、今後のこと打ち合わせしておく
 (滝野沢ケースワーカー)にきくように。ノンコミュニケーションの時期が来  た時のこと。
                                                                                                    
 7月6日作成 金川
金川保健婦の記録              ALSを宣告されたケースの今後の対応について  NO.2
H7年7月6日  担当保健婦として中村診療所、中村洋一Dr.を尋ねる。
 目的 1  このケースの主治医を引き受けていただきたい  ALSを宣告されたケースの今後の対応についてNO.1持参
  2       このケースの他3つの病気 乳がん、狭心症、腰椎4、  5椎間板ヘルニアope後のフォロー の主治医も受けて頂きたい。
 ○ 保健婦からDr.に伝えたこと
1  自分の人生は自分の意思で決定したい、自分の思うように人生をとじさせてほしい。
 2   自分の体のことは、自分が知っていたい。情報をオープンにしておいてほしい。
3  現段階では人工呼吸器をつけることは拒否する
 ○ Dr.から保健婦に
  1  7月7日(金)PM外来受診の指示あり
 2  今診てもらっている北里研究所病院より、
    椎間板ヘルニア 整形外科
                                    狭心症    内科
                                    乳がん     外科
                                    3通の、紹介状を取り寄せること
   3  中野区医師会在宅難病訪問診療ルートにのせておいて欲 しい
顧問Dr.  佼成病院神経内科 小林Dr.
理事        東中野 神経内科専門医 飯国Dr.
主治医    中村Dr.
H7年7月7日  本人(車椅子利用)二女、保健婦、3人で中村診療所受診
○ Dr.から本人へ
1   都に提出する難病申請用の診断書は府中病院、高元Dr.に 書いて頂くように。
2   中野区在宅難病訪問診療にのってほしい         本人了解
    年3回実施している事業               拒否することもできる
  もし気管切開が必要となった場合には、佼成病院が受けてくれることになる。
 3        気管切開のタイミングについて
☆本日のO2濃度98%正常            O2濃度が下がった時
☆呼吸困難が強くなった時
 タイミングをはずすと、苦しいのは本人なので必要と認めた時は実施する
4        飲み込みの悪さについて
☆とろみをつける
☆この病気はやせていくので、少量で高カロリーのものを、摂取するように
  5        今後は2週間に1回の往診体制をとることを約束
24時間連絡がとれるナンバーを教えて頂く
 ○ 本人からDr.への質問
今やりたいことをやっていいですか・・・・・ OK
夏ロッジに行きたいがいいですか・・・・・ OK疲れない日程で
Dr.から本人へALS協会に入ってはどうか・・・・・・ 保健婦より紹介
                                       ↓
在宅でこの住み慣れた部屋でこのALSと向き合っていくために、みんなに課題が与えられたと思ってくれる人に集まってもらいたいという本人の希望もあって、声かけするひとをリストアップする
 高元Dr.のアドバイスにもあった「自分で自分の意志をしゃべれる うちに、どうしたらいいのかを方向づけておくことが大切、話し合いは早ければ早いほどいい」
これをうけて7月8日(土)3時〜6時
本人、夫、二女、ボランティア、保健婦  10数名集まることにする。
                                                                                                                健康課 金川
 7月8日              土 PM3時
佐藤さん黒田さん金川さんから話を聞いて、協力しようという人々が集まりました。鈴木さん、園部さん、吉野さん、市村さん、徳永さん、山田さん、加瀬さん、佐藤さん、黒田さん、鈴木さん、金川さん、米山さん、鎌田さん、急用で参加できないが協力しますと電話してくれた方、平塚さん
本当に私の事を心配して集まってくれました。どんなにかうれしく心強く思ったことでしょう、私も家族も・・・
黒田さんの司会で、簡単な病気の説明があり、これからのかかわりかたについて、話し合いました。私はこのころは自分以外のもう一人の島田祐子がいて、その人のためになにをしなければならないのか、どうすればいいのか、人事のようにつきはなして物事を考えている時がありました。
また一方では、仲間からはずれて行く寂しさをひしひしと感じ、何とか今までの生活を続けたいと言う強い希望がありました。体がこんなになったからって、私をすみにやらないでと皆さんの前で自分の気持ちを一生懸命話しました。
娘の千佳子は会社に事情を話して、午前中は自宅で仕事ができるようにしてもらったので私の世話もできて大変助かりました。夜間と午前中は家族で対応して午後1時30分から6時頃までお願いしたいと伝えました。それぞれ自分の都合のいい日に参加するということで日程を組みました。
私の症状はこのころは、物につかまれば立つことができていました。しかし一人で歩くことはできませんでした。歩行は介助してくれる人の腕につかまって歩くことができていました。
トイレも連れていってもらえば一人でパンツの上げ下げはできました。手は左手はほとんど上がりませんでしたが、右手と手のひらと指先は感覚もあり動きましたのでまだかなりの事はできていました。
そんな私の症状をお話して、保健婦さんが立たせ方や食べさせ方、また高カロリーの食品が必要であることなどを話してくれました。これはやがて食べられない時が来た時のために、体力をつけておくとの説明がありました。
とても暑い日でしたが、皆さん熱心に聞いてくれました。そして私を励ましてくれました。7月10日から早速実行されることになりました。
 
私は10年余り井上先生について油絵を描いていました。
井上先生も心配してお電話をくれました。都立府中病院でALSと診断されたことを話して、もう手も上がらないこと、歩けない事、話もうまく話せない事などをはなしました。でもかろうじて、小さな絵が描けることそれが今の私の唯一の楽しみである事を話しました。
すると先生は、個展をしようといってくれました。考えてもいない事でびっくりしましたが、でもその頃の私は先に希望が見えなくて・・・希望のないことはとてもつらいことです  今までカレンダーは予定で詰まっていて毎日の様に出ていたのが、1、2ヶ月の間に急に動けなくなってしまい、悪い夢の中にいるような、どうしても納得のいかない日々を送っていました。
予定がほしい、希望がほしい、夢がみたい・・・・・・心のなかで叫んでいました。個展をしようと言ってもらったことで、先に希望がもてました。
私のような未熟な絵を人目にさらすことは、とても恥ずかしいことですがでも少しでも先に予定を作ることで、生きる希望がもてました。
4ヶ月先の12月の初めならまだそんなに寒くはないし、体の方も大丈夫だろう、12月を目指してがんばろう・・・目的ができたことで生きる気力が生まれました。
絵の会の友人たちも、何かお手伝いすることがあればと協力を申し出てくれました。展覧会のお手伝いをお願いすることにしました。快く引き受けてくれて心強くおもいました。高山さんはえのぐを買いにいってくれたり、こまごまとした用事を引き受けてくれ助かりました。また笠原さん、滝本さん、土方さん、和田さん、小沼さん、も協力を申し出てくれ、また大勢の方から励ましのお手紙をいただき心強く思いました。
告知後の検査が始まりました。
CT,MRI,筋電図の検査は苦痛でした主人は、治すくすりもないのに、つらい検査を受けさせることにとても納得が行かないようで、不機嫌になっていました。
検査結果はこの病気に間違いないということでした。
この頃の私は、居間のソファーにながながと横になって、天井の一点に自分を置いて、そこから私がいなくなったら、この部屋の中はどうなるのかなと、いろいろ想像をしていました。
いままで主人と千佳子は会話もあまりなかったので、どうなるのかとても心配でした。でも私が病気になってからは、二人で台所で話をしながら食事の用意をしている様子を見て安心しました。
主人は今迄家事にさんかすることはあまりなく、仕事仕事の人でした。ですから家事が全くできなくなった私に代わって、洗濯をしたり、食事の用意をしたり、私の世話をし  なければならなくて、ベットからその様子を見ていることはとてもつらいことでした。
千佳子も、出版社に勤めていましたので、仕事と介護と家事に振り回されている様でし   た。でもすぐに介護も家事も、完璧にできたので本当に安心して寝ていることができました。
有美子もロンドンから毎日のように、電話をしてきて励ましてくれました。8月には一時帰国をするといってきましたが、私は聖さんを残しての帰国を反対しました。
有美子は子供としての私の気持ちも大切にしてほしいと言われ、また主人も千佳子も、  不安と心細さから有美子の帰国を望んでいました。
 8月2日帰国することになりました。薫や晃に会えると思うと私も主人も千佳子も、元気がでてその日が待ち遠しくなりました。
 
 7月10日から桃園デイクラブのボランティアさんと保健婦さんの支援が始まりました。金川保健婦から、介助の仕方、食べさせ方、緊急時の連絡先など細かに指導されて、参加してくれました。
 私にとっては、告知直後の苦しい時期を毎日毎日訪ねてくれるボランティアのみなさんと、一緒に泣いたり笑ったりしながら過ごすことができたことは、幸せなことでした。
 時には、スーパーへつれていって買い物をさせてくれたり、絵の具を買いにいったりして、保健婦さんたちもボランティアとして、協力してくれどんなにか心強く思ったことでしょう。つらいなかにも楽しい時を持つことができました。
 7月の末には、障害者手帳2級の申請もすませて、いよいよ福祉をうける身をせつなく、悲しいおもいで受け止めていました。自分では、もう何もできないのだから、仕方ないとわかっていてもつらいものです。 最初につえをつくように言われたとき、車椅子に乗ったとき、人に見られないように、  知人に会わないように、今まで車椅子介助の時は、安全第一で人の気持ちまで考えたことがなかったが、車椅子に乗る身になって初めて本当につらく、外になど出たくなく    ないそんな気持ちを乗り越えることが大変でした。主人や千佳子それにボランティアさんの積極的な働きかけで、徐々に外出が出来るようになりました。 鈴木さんの車で園部さんや吉野さんが買い物や検査につれていってくれました。
 8月2日ロンドンから有美子達が帰ってきてくれました。28日に帰国の予定で来てくれましたので、8月は家族で対応することになりました。薫も晃もびっくりするくらい大きくなって、急に家の中がにぎやかになって活気が出て来ました。
有美子も府中病院の高元先生のお話を聞く機会があって、検査結果を聞いてこれからの 対応についてもお話されました。主人が高元先生がクリスチャンであることを聞いてきました。
 私は信仰についてお話を聞いてみたいとおもいました。特に人工呼吸器をつけて生きなければならないのなら、その苦しみに耐えるだけの気力もありませんでした。
 死ぬためには信仰はいらないが、生きていくために信仰がもてたらきっと楽になると思い耐えることができると思いました。
 高元先生とベック宣教師が訪問してくれました。島田家は禅宗で、私は長男の嫁として  嫁いできたので、この家の宗教をまもりお墓を守ることが私の役目とおもっていました。ベック先生は、宗教と信仰についてお話をされましたが、私にはよく理解ができませんでした。また人工呼吸器の問題にたいしては、神様のみこころに従いましょう。
あまり頑張らないですべてを神様にゆだねておみちびきに従いましょう。本当に申し訳ありませんでしたが、今の私にはこれくらいの理解しかできませんでした。真夏のとても暑い夜でした。
主人は夕方、会社から電話があって来客で遅くなるからといってきましたが、異宗教に対しての、精一杯の抵抗であったと思います。
お盆がすぎた頃八ヶ岳中央高原のまさかロッジへ2泊3日の旅にでました。まさかロッジは昨年桃園デイクラブの皆さんと利用したことがあって、車椅子対応ができ、入浴も機会浴ができますので安心して出かけました。
 松本からも、母や兄弟たちが会いにきてくれて夕食を共にして、にぎやかにすごしました。久しぶりの旅で、高原のすがすがしい空気をいっぱい吸って、野の花を写生したり、おいしい料理をいただいたりして、家族みんなで楽しい思い出をいっぱいつくりました。
 旅にでて感じたことは、車椅子トイレが少なくて困りました。そのためにロッジをいったりきたりしながら、トイレの心配ばかりしていました。
8月は孫たちにふりまわされて、私も比較的元気に過ごすことができました。 8月の終わりの頃、障害者福祉課のケースワーカーとヘルパーさんが、今後のサービスの提供について説明に来てくれました。  有美子がロンドンに帰ることになって、9月からの支援について2回目のケース会議を持つことになりました。黒田さん、金川さん、鈴木さん、吉野さん、園部さん、市村さん、徳永さん、山田さん、幸田さん 私の症状も一ヶ月のうちに進んで、一人対応では難しくなってきていましたので、その対応について話し合うことになりました。
 もう、部屋の中をつかまって歩くことも困難になって、車椅子での移動になりました。  区からのヘルパー派遣も始まり、またほほえみサービスからも有償ボランティアさんを  お願いすることになり、桃園デイクラブのボランティアさんと保健婦さん訪問看護の  看護婦さんと9月に入って急に人の動きが激しくなりました。
 千佳子の負担を少しでも軽くするために、夕食をつくってもらえる人をお願いしました。山田さん、由紀子さん、敬子さんが引き受けてくれて本当に助かりました。桃デイの方々も、お忙しい中時間をつくってきてくれトイレ介助をしてくれました。
 初めは、いままでの仲間にトイレ介助をお願いすることはとてもつらいことでした。みつやさんに「スッパリわり切ってやってもらいなさいよ」と励まされましたが、割り切るまでには時間がかかりました。 桃デイで一番最初にトイレ介助をしてくれたのは、徳永さんで今まで、自分では一番   頼りにならない人といっていましたが、すっかり自信がついてニコニコしながら介助してくれました。
 
また加瀬さんも火曜日一日を受け持ってくれることになりました。本当に大勢の人に見守られて、不幸な中でも幸せを感じ、感謝の日々を過ごすことができていました。私たち夫婦は、今まで順調に人生を歩んできました。夫は私を本当に大切にしてくれました。結婚して35年、幸せな幸せな日々を送ってきました。
 こんな病気になってからは、過ぎ去った楽しい思い出話しにはなを咲かせることが多くなりました。高尾山に登ったこと、北海道旅行の美英の丘陵やラオス岳の雄大な美しい姿など、また九州旅行の湯布岳のあの美しい色は、ことばでは言い表すことはできない感動をおぼえました。
35年の生活の中には、苦しいこと、つらいこと、もありましたが、いつも話し合って乗り切ってきました。
これからもこんな状況の中でも、気持ちだけは幸せな夫婦でいたいね・・・。でも、時々とても悲しそうな顔をしていることがあってすまない気持ちで一杯です。
こんな病気になって本当にごめんなさい。
 千佳子は本当に完璧に家事や介護ができたので、突然襲ってきた事態でもあまり混乱もなく、初期段階を乗り切ることができました。でも、症状が進み歩くことが困難になってくると、背中に痛みが出たり寝不足で疲れが出てくるようになりました。
 この頃から、夜中の口の渇きは異常で、いままで経験したことがないような、のどがくっついてしまうような感じで、夜中に何回も水を飲ませてもらわなければなりませんでした。
 それに、寝返りをうつことが困難になって、体位の交換のために夜中にからだを動かしてもらうため、主人も千佳子も寝不足で疲れがたまってきているようでした。
 エアーマットをつかったり、スライスさせるきれを使ったりしましたが、まだ解決できていません。
 夜中の水飲みは、スポーツ用のストローのついた水筒で解決しました。
 8月ころから、口の中が気持ち悪く、舌に白いこけのようなものがついて、口のなかがネバネバしているようになりました。金川さんが口のなかを掃除する道具を持ってきてきれいにしてくれました。
吸引器も東京都から借りることができて、使い始めました。
 まだ一人で吸引することができましたので、加減をしながら使っていますが使用後は、  とても気持ちがいいです。

色んな人々との出会い
入院をせずに、家で生活をしていくために、地域で診てくれるドクターが必要になりました。金川さんがいろいろ調べてくれ、家から比較的近いところに、中村診療所があってそこのドクターが引き受けてくれることになりました。
 中村洋一先生と初めてあった印象は、とても無愛想でなにをどう話したらいいのかとまどいました。2週間に1回往診をしてくださることになって、訪問回数を重ねるうちに   気持ちもほぐれて、いろいろなことをお話できるようになりました。
 人の気持ちが良くわかってくれて、なにかと細かに私を見ていてくれることに安心感がもてました。この頃は冗談も言えるようになり、先生の往診日を心待ちするようになりました。
 金川保健婦さんは、とてもフットワークがよくて、次々でてくる症状に素早く対応してくれ、医療器具の導入や福祉のサービスなど的確にやってくれました。
 それも事務的ではなく、どんなことでも聞いてくれ私の気持ちを大切にしてくれました。元気で明るくて、暗くなりがちな私たちにとって何よりの救いでした。
 特に印象的だったのは、まだトイレ介助が始まったころのこと、車椅子トイレで私の介助をした後、島田さんちょっと後ろ向いていてねといってご自分も用をたされました。この時まだトイレ介助になれてなくて、恥ずかしいやら、せつないやら、とてもみじめな時でした。このことがあって私はこの保健婦さんと一緒にこの病気と闘っていけると信頼感が生まれていったような気がします。
 福祉も人によって、倍にも10倍にも生かされることを実感しています。
 また週一回看護婦の生田さんが訪問看護をしてくださることになりました。とてもユニークな方で、絹の5本指のくつしたを愛用していて、わたしにもさかんに使うことを、すすめてくれあすが、もう少し格好がよければ考えてもいいがとおもうが、なかなかはくきになりません。とても聞き上手でよく話を聞いてくれますのでたすかります。
 障害福祉課のヘルパーさん達はとにかくすごいパワーで、わが家にとっては救いの神となりました。明るくて元気で、パキパキしていて、やれることできないことをはっきりといってくれましたので、家族もそれにそっていくことができました。
 入浴介助は特に、疲れのたまってきた家族にとってとても助かりました。家のなかも   ピカピカに掃除をしてくれ、気のめいりがちな家の中が清潔に保てて気持ち良く過ごすことができました。このヘルパーさん達も形だけではなくて心を感じさせてくれました。
 中野スポーツ文化公社の事務局長の大沢さんから、絵を一枚いただけませんかといわれました。なかのZEROに飾りたいといわれ、本当?最初は信じられませんでした。うれしいやら、はずかしいやら、でも本当にうれしかった。ここ数ヶ月いい事がなくつらいことが多かったので、心からよろこんで飾っていただくことにしました。
 あの人形の絵は、足に力が入らなくなって上手に歩くことが困難になったころで、毎日のように、あっちの病院こっちの病院と訪ね歩いているころでした。
 その時を同じくして私がここ数年やってきたボランティアによる手づくりのデイクラブ  活動を、若いボランティアから批判の声が上がり、その対応に日夜心を悩ませる日が続いていました。なんとかわかってほしいと思い、何回も話し合いをもちましたが、分かってもらえず、体の不調と不安のなかで苦しい日々を送っていました。
 その苦しみから逃れるように、キャンバスに向かって描きはじめたのがあの人形の絵で、なんとなくこの家にいられなくなるのではという不安から、人形に自分を重ねて、私はこの家この部屋にいたいという思いを絵にしました。
苦しみの渦中から生まれた絵にしては、とても明るく描けました。私にとってもまた家族にとってもとてもうれしいことでした。
 
10月に入って私の体は、足に力がほとんど入らなくなって、寝返りはまったくできなくなりました。
 そのために、体位をきめて眠りに入るまでが大変で、左の足が1センチこっちとか、頭の位置が2センチ右とかいって、なかなか眠りにつくことが出来なくて、2〜30分は   あ〜でもないこうでもないといって家族を困らせています。
 ようやく体位がきまって眠りについても、2時間たつともう目がさめて、また次の眠りに入るまで、2〜30分同じことの繰り返しで、千佳子と主人と交代に面倒を見てくれますが、1ヶ月もたつと寝不足と疲労とでよれよれになって、目の下にくまをつくっているのを見ると何とかしなくてはと考えるようになりました。 疲れから問題がこじれて必要以上に感情的になったりすることが多くなりました。
 これから先のことを考えて、千佳子さんかご主人に仕事をやめていただけませんか、といわれ、3人で話し合いをしましたが、これから先の介護費用や医療器具などの費用を、考えると、なんの保証もなく仕事をやめてどうやって生活するんだと主人は頭を抱えこんでいました。
 千佳子も自分が中学生の時からこの仕事がしたくて、努力をしていまの仕事をさせていただくようになったので、何とか工夫をしながら続けていきたいと言う。
 私も、姑の介護体験から自分が仕事をやめて姑の介護をして、あの息のつまるような、逃げ場のない辛さをさせたくないと言う思いもあって、いままでがんばっていましたが 私自身もこの病気のむごさを実感してきて、先日のNHKニュースのALSの特集をみて、本人の大変さもさることながら、家族の負担の重さに唖然としました。
 こんなに大勢の方のお世話をうけて、ただ死を待っているような私には、もう何のお役にも立てなくなって、つらさのみがましてきました。人工呼吸器をつけて生きていく希望も目的もなく、自信を持って生きていくこともできないので人工呼吸をつけたくないと家族に話しました。
いまの私は死ぬことより生きるほうがつらいのよと、一生懸命に話しました。主人もしかたなくかすかにうなずいてくれました。
 
 高元先生が教会の友人をつれて訪問してくれました。
 いつもいつも、気にかけていてくださり心から感謝しています。病気のこと私の様子を  みていろいろと、アドバイスしてくれました。
 信仰のはなしも、友人のかたがたが、ご自分の体験を話されましたが私にはまだ信じが  たく、でもそのうちにきっと、わかる日がくるとのんびり構えていましたが、主人や   千佳子は、死を迎えるための準備をしているようなお話についていけないと、信仰を持つことを反対しはじめました。先生が聖書と聖歌集をプレゼントしてくれましたが、私の  力では見ることもできません。でもこんなことで家族はもめることは、いまの私にはしんどく、由紀子さんに相談しました。どうしたらいいの?お姉さん無理をすることはないわよ、といってくれ先生と話してもらうことにしました。
10月6,7,8日箱根仙石原へいきました。ボランティアとして鈴木さん吉野さん園部さん加瀬さん山田さん、家族は夫と千佳子、一恵さんと私、計9名で出かけました。宿泊は中野区の施設シェモア仙石でこの施設は体に障害を持った人でも利用できるように作られていますので安心して出かけました。
ロマンスカーにのって、みんなでお弁当をたべて、宿ではカラオケをして楽しくすごすことができました。
翌日はお天気に恵まれて、仙石原湿性花園を散歩しました。秋の草花がたくさんさきみだれていて花の大好きな私は涙がでそうでした。来年もこれるかな〜と
みんなでおそば食べて、台が岳のすすきをみました。
 
昨年の秋このすすきのなかにはいって高山さんや土方さん板谷さんと写生をしたことを 思い、今の自分の状態は信じられない夢の中のできごとのように不思議な気がしました。重いえのぐの入ったリュックを背負い、夢中になって描いたことをおもいだしていました。中村先生からもしもの時にそなえて、緊急対応してくれる病院に紹介状も用意して、またボランティアさん達は車椅子トイレの確認などきめ細かく計画してでかけました。なにごともなく、すばらしい秋の一日をプレゼントしてくれました。
 
 10月9日から13日まで「わ」の会の展覧会がなかのZEROであり、私も参加させていただくことができて、仙石原のすすきの絵を2枚飾らせていただきました。
 久しぶりに皆にあえて、うれしいやらまた一方ではつらつらとしている友達達をみて、悲しくおもったりしましたが、こんな体になっても同じ仲間として迎えいれてくれた事に 感謝しています。また12月の個展には協力してくださるとのことありがたくおもいま す。
 美術の秋いつもの年だと上野の美術館へせっせとかよっていたのに〜私絵を見に上野に行きたいの、いっぱいお世話になっているのに、わがままかなあと思いながら行きたいといってみたら〜行こう行こうといってくれ、今年も上野に行くことができました。
二科展はボランティアさんと蒼騎会は家族と一緒に、これからは二紀展が楽しみ。いつもの年と同じだけ見に行かれてうれしかった。
 10月の中頃から夜中の体位交換とのどの渇きから、睡眠パターンが寝つきで2時間  その後は1時間から2時間おきとなり、家族の疲労も限界になってきました。なんとかしなければ皆共倒れになってしまう、そこで夜間だけ見てくれる付添さんをお願いすることにしました。10時から翌朝の7時までで料金は14000円とかなりの  負担になりますが、介護者の疲労を考えるとお金を上手に使うことも大切とおもい、入ってもらうことにしました。
 小笠原さんといって青森の方で、穏やかなゆったりした方で家族とも私とも相性がよさそうで安心してお任せしました。
 この頃は手の力もだんだん抜けてきて、足に力はまったく入らなくなってきました。
いつまで絵を描くことができるのか、またワープロが打てるのか不安とあせりを感じることがあって、急いで急いでやらなければと・・・気がせきます。

* この後、風邪をこじらせて、私が子供二人を連れて帰国した3日後、12月初旬に救急で入院。翌日、気管切開と同時に呼吸器装着。この続きは「私の介護記録」へ

ワープロ→電子テキスト化   川口 薫(孫)


up 20071223