KAP(knowledge attitude practice)
何かが見えてきたような だ。もやもやとした霧が晴れてきたようだ。
「誰でも私のように生きればいいのに」と橋本みさおさんはさらっと言うけど,それがとても大変なことだということはみさおさんもよく知っている。しかし事実として東京の西北部では人工呼吸器を装着した人たちが自分の思う場所へ好きな時に出かけたり社会参加できるようになってきている。介護保険と支援費を組み合わせて最大24時間の他人介護も実現している。このような地域はたぶん、世界的にもあまり例がなく珍しいのではないか。欧米では依然として呼吸器は装着しない方向だし、日本だって全体としてはまだそういう傾向のままだ。障害者運動をしているような人たちは、まず強い患者や障害者が自治体や政府と交渉をして必要な制度を作れというが、ALSの場合は本当はそれだけではどうにもならない。ALSは、まずあなたは生きていていいという許可にも似た、医療サイドの査定があって初めて生きることを許されるからだ。そのようにまず医療とALSの関係があって、ALSの予後を考える始めることができる。ここに「障害者が自己決定できる」といわれる言葉の危うさがある。ALSのように障害者というよりもまず病人である人たちは、まず医療によって、そして次には家族によって生きることが許されねば生きられないからだ。たぶん、ここ、東京の北西部でおこっている現象では、こういう重病人が生きてもよいという町全体の風紀や理解があり、地域医療の担い手であるかかりつけ医の全人的な在宅指導が多くあり、またALSにだけでなく町の人々が人権に敏感で社会参加意識が高いのだ。
日本全体を見てみると、ちょっと郊外へいけば主治医やかかりつけの医者の見つからないALS患者が多くいる。重病なのに月に一度の訪問しかしてもらえない患者さんもけっこういる。まず、ヘルパーによる介護とか医療的なケアという前に、この人たちには「生きていい」といってくれる医療がないのだ。だから生存の闘いさえも始まらない。まず最初に自己決定とかいっても、ALS患者は病気や障害に対してはまったくの素人だから病気の全体像を知らせて予後を伝えるのは診断をした医者なのであり、そうなっても生きる価値を伝え導くのもまずは医者なのだ。
医者のパターナリズムとかインフォームドコンセントとか言われる。それはずいぶん前から必要性について言及されたり研究されたりしてきているのだが、うまく実施されるようになったかというとALSに限って聞き知るところによるとそうでもないらしく、その社会の規範や流行でなんらかの傾向が強ければ、そっちにそうなる。たとえば、景気がよくなれば過剰医療によって患者は好きなようにされ、反対に景気が悪くなれば必要な医療さえカットされる。ALSはその風を真っ向から受けるのである。だから、時流でどうもこの人たちは生き難いようだとなれば周囲の関係者はそれとなく、生きていても大変だよ、とけっこう親身にアドバイスするのだ。それは何も意地悪なのではなく、本当に傍目からみても介護が大変なのだ。だから呼吸器の装着に関して云々、大変そうだと正直にそう言えば、それは生きていこうか思っている人の生きる意欲を萎えさせるに十分なのである。
だから、今、ヘルパーの吸引を求める運動の原点に戻って考える必要がある。
まず、「生きたい患者は生きなければならない。生かさねばならない。」そのためには、あなたには生きて欲しいと言ってくれる医者の数を単純に増やさなければならない。決定者である医師の査定を生きろという方向に持っていかねばならない。世の中には心優しい人でも重度障害者を見て、そんなになってまで生きていても仕方ないという方が多いかもしれない。自分がそうなったら生きたくはないともいうかもしれない。しかし生まれつき病弱で病気を背負った体で生まれてくる人の人権を無視している傲慢な発言であることには気がついていない。障害者としては生まれなかったが、ALS患者は人生の途中で障害者に生まれ変わるのだ。だから、その生まれ変わりのしんどい時にこそ、自らの意識改革が必要で、家族も同様に必要で、だからこそ、生きたいと思いたい患者や家族にはその自己決定を裏づけして後押ししてくれる人道的な医者のパターナリズムが発揮される必要があるのだ。しかし、そういう医者の数はまだまだ少ないし、そのような医者の信条を支える医療システムがない。患者の自己決定を支える人を応援するシステムが社会にないから、吸引にしても尊厳死にしてもALSを取り囲む諸問題は混沌としたまま残され続けているのだ。また、生命倫理学も海外の学者はあまりALSを語らない。海外のようにきっぱりしていない日本の国民性を象徴するような、ALSに対するQOLのあいまいさが患者の自己決定に双方を生み出している。生きるべきか死ぬべきか、その選択の賛否で患者会が揺れたりもする。
さて、やっと生きられることになり、呼吸器をつけて家に戻ってからも、なお医者は指導的な位置から患者の命の質を守るのだ。それさえ出来ていれば、そこに関わるスタッフの看護師と介護職の間にある不安材料も取り払われていく。誰がなにをどう分担し、患者が主体性を失わずに在宅療養を実現していくのかは、主治医やかかりつけ医である医師がまずは理想を描いてそのように人材の配置をすればよい。しかしそれがなぜかなかなか行われていないという現実があり、そこをどう変えていくかがは、今を担当している患者会とか当事者しかできないことであり、私たちにとっての大きな課題である。在宅医療、そこが整っていけば医療的ケアの問題も次第に自然によい方向に動き出すような気がする。