あれから
3年ほど介護記録の更新していなかったので、たまった分を記録しておきます。ですから、以下は日記のようなものです。
母がロックトインしてしまったので、他人に介護を任せることが気持ちの上でも体力的にも楽にできるようになりはしたのですが、しばらく放心状態が続きました。そして結局ALSから離れることはできません。24時間介護した癖が抜けないのです、夢の中まで難病のこと考えている変な人になってしまいました。
◇しろうとが介護事業をはじめるという思いもかけない展開
はじめて2ヶ月。区に請求書を書きながらこれからの困難に思いを馳せて頭抱える毎日です。経営感覚が未発達です。自覚してますが、みんなの生活がかかってます。責任の重さに食欲減退の日々です。どんぶり勘定が自慢の私にとってこれは青天の霹靂以上の何者でもないのです。もともと、夫の転勤で海外のあちこちで遊び暮らしていた社会経験の浅い能天気な専業主婦ですし、なぜ、こういうことになってしまったのか、今もって自分でもよくわかりませんが、こういう人生が始まってからは困難のたびに最善策を選んで何とかやってきましたら、こうなりましたとしか言えません。
私は難病の人々の生きる覚悟にいつも感動します。今も難病の方々を訪問して、時にはお手伝いもさせてもらってますが、欲をどんどんそぎ落として、なお清清しく生き続ける患者さんたちの姿は崇高な輝きを放って私を圧倒してしまいます。人間の尊厳などという言葉は、あまり使い勝手のよい言葉には思われませんが、人に生まれてよかったと思わせてくれる力強さのことをいうのでしょうか、そんなものを患者さんからはよく感じています。友人にオーラの見える人がいますが、彼女にはきっと見えると思います。何色のオーラか想像してみますが、きっと浅黄色、美しい命の輝きだろうと思います。もっとも弱くて強い人たち。このはかなさと強靭さのアンバランスが私を惹き付けて止まない魅力なのかもしれないです。でも、難病の人が好きであるいはお気の毒だから助けたいから、介護事業を始めたのではないと思います。たしかに「人助け業」ですし世話好きだった母方の遺伝的要素が働いてそうなりましたとも言えますが、でもそうじゃないと思います。私は難病の母の介護を始めたときから、ずっと今の今まで母だけでなく私も当事者であると思ってきましたし、これからもそうです。私は介護の当事者です。介護は好きでも嫌いでもありません、やりがいという物差しで計ったこともないし、家族だけがやるべきことであるとも思いません。なのに日本では家族の介護負担があまりにも当たり前のこととして求められ、相変わらずの美談で飾られて済まされています。ずっとそれはおかしいのでは?と思いつづけてきました。自分も介護の負担をこれ以上増やしたくないし、行政に任せたままでは介護保障もろくに進まないし。ならば自分たちで支援費をいただきてうまくやり繰りしたらまだましかもと、まずは自分ちのために、そしてヘルパー仲間や近隣の患者家族の多少のお役にも立つかもしれない、それで介護事業を始めました。そのように、まずは申し上げておきます。
◇むこう3軒両隣から
きっかけは2年前2001年に主治医が区内で主催した映画会を手伝ったのがきっかけでした。老人を素材にした映画の上映会でしたので会場は区内の介護事業者やヘルパーさんで一杯でしたが、そこで以前、我が家に出入りしていた元ヘルパーで今ケアマネのNさんと偶然再会しました。そして、彼女はその場で現在ALS患者家族の在宅に関わっていること、介護者がいなくて介護をしている奥さんもぼろぼろだということ、誰かよい介護人がいないか、ということを相談してくれました。私にとっては同じ難病の人は家族も同然なので、すぐにつてをたどって元看護師さんと看護学生の2名を都の全身性障害者介護人派遣制度の介護者として紹介しました。それが縁となり、我が家とそのお宅Kさんの介護の輪ができ、さらにどんどん広がって支援費制度の始まる直前2003年春には3軒プラス2軒、計5件の家族の交流が始まったのです。
東京都には、2003年の3月まで全身性障害者介護人派遣事業という使い易い、介護保険などとは比べ物にならないくらい便利な介護保障制度がありました。この制度も20年あまりの壮絶な障害者運動の末に徐々に獲得されてきたものです。都内でも各市区町村により提供される介護時間数などはまちまちで平均しておよそ8時間、私の母の住む区でも1日8時間分の介護費用が現金で介護者の口座に振り込まれます。この制度を使えば、自薦のヘルパーといって自ら探してきたよい人を自分の家のヘルパーとして登録してお手伝いしてもらうことができました。
これはもともと、脳性まひなどの全身性障害者が獲得した制度だったわけで、だから使い勝手もそちらの方々に向いている制度であったとは言えます。彼らは思うように動けないとは言っても、ALSなどとは比べ物にならないくらい行動的ですので介助者を探す作業自体も社会参加であり、よき協力者がいれば大変うまく使えていたわけです。ただ、ALSなどの呼吸器を装着して医療行為まで必要な患者にとっては使いづらいばかりでした。先天性と後天性の違いも歴然としてました。障害に慣れた障害者とれっきとした障害があっても障害者ではないと思っている病人とでは、介護者の精神的な負荷もかなり違ってきますし、利用する側が介護者に求める介護の難易度にも大きな差がありました。介助と介護の違いといってもいいでしょう。だから、というわけだけではないのですが、この制度はなかなかALSなどの難病の全身性障害者には使い辛かった経緯があります。(区によっては家族同居だと使えないところもあったのです。ALSの在宅はほぼ100%家族が同居です。)また、患者も家族も外出さえ困難な難病患者には家族に代わってボランティアとして走り回って介護者を探す人が必要なのですが、それをなぜだか区の職員はやってくれないのです。制度があっても使えない、と文句をいうとこちらに言われても仕方なし、やる気なし、という感じでした。ちょっとでも税金を使うことはお世話したくないのでしょうか、区にはお金がないので、とまで言われました。それでは私がということで、区内の患者宅に介護者を探しては紹介し、登録させ、区に負担させるということを行って、どうにかこの制度を使えるものに広げてきたのですが、それがそのまま今春の事業化へとつながっていったのです。ですので、立ち上げのための雑務の手間はいろいろありましたが、働き手は既にすばらしい介護人が何人もそろっていました。
皆、気心の知れた仲間であり、患者や家族の好みや症状に的確に答える技量が育ってきていました。中には全身性・・・事業のヘルパーとして介護をしながら介護福祉士資格をとってしまった人もでてきました。もし、ここで自分たちで事業を起こさねば、この仲間はそれぞれ別々の業者に各自登録をすることになり、せっかく作り上げてきた上質の介護チームは解散の危機にさらされることになります。また、彼らの賃金についても,他事業者に登録してしまえば今までの基準を大きく下回る予測がたちましたので、これはもう、自分たちでやるしかない、ということになりました。
また、すでに何軒かの様子を見ていたので、他の家族からのニーズも想定できました。患者を在宅で24時間ひとりでらくらく介護している人はそうざらにはいない、でも時々いるのですが、体力や忍耐力やその他の様々な素地才能で私の場合は1日連続12時間が限度でした。だから、他の家族も多かれ少なかれ、在宅当初は自分たちだけで頑張ってみたもののたぶん半年もしないうちに看護師でなくてもいい、ヘルパーでもいいから他人を家に入れることを切実に望むようになるだろう、と思いました。私とて母の介護の質を保つためにはどうしても途中で誰かにバトンタッチする必要があったのです。だから一般のヘルパーでさえ不足している現状からしても、吸引などの医療的ケアもでき、躁鬱になっている患者や家族のカウンセリングまでなんとかこなしてしまうヘルパーの人材はさらに非常に乏しいのですが、指導的な役割のできるベテランヘルパーの募集と新人ヘルパーの養成は急務で常時行っていかねばなりません。しかし、それを受け持ってくれる機関というものが現在はないのです。だから、なのか、しかたなしにっていうのもありますが、介護の当事者や経験者がまずは、踏み切って始めなければならないだろうと思いました。外堀が埋まれば患者さんの生活の質は確実に向上するだろうと信じて、とにかく実験的に行ってみる、私が失敗したら他の患者の娘か息子かが屍を踏み越えていけばいいさ、とそれくらい悲壮な覚悟もちょろっとあったのですが、難病専門介護事業のスタートに踏み切ったのです。しかし・・・(2003/6/7)
◇支援費制度がはじまるという噂 2002年はある意味怒涛の一年でした
支援費制度というものがスタートするという情報はかなり早い時期からつかんでいました。ここ3年くらい、区議の佐藤ひろこさんのHPの作成を暇つぶしにやらせてもらってて、それが区政の勉強にもなっていましたので、さまざまな情報はそこからタダでもらっていました。また、直接佐藤さんに聞いて事の真偽を確かめることも気安くできていましたので、さっそく聞き込みを入れましたら、そうそう2003年の春からね、ということでした。
訳もわからず、ただ、今まで使ってきた全身性介護人派遣事業はどうなるのだろうという不安が湧き出して、そのことも佐藤さんに聞きましたら、まだわからないけど、支援費制度の開始で事業自体なくなる可能性は大だと言われました。これは困るということになります。今まで全身性・・事業を使ってヘルパーを頼んできた訳で、この制度がなくなれば今働いてもらっている人たちはどうなるのだろう、と思いました。
この焦りがなければ、自ら事業を始めるという発想はなかったと思います。ちょうどその頃、以前から我が家で働いている介護福祉士のSさんの方がずっとアンビシャスで、彼女が介護事業のNPOを作りたいと言い出していて、それなら協力してあげようというお気楽なポジションを選びとろうとしていた矢先だったのです。ですから、当時といっても1年ほど前の話ですが、介護は私のvocationではないと、そういう自覚が強かったのです。家族の立場としてボランティアはずっと続けるだろうという気持ちはあったものの、介護は私たち家族の者にとったら「無料奉仕」が原則でありますし、身内の身体が商品になるということには嫌悪感、(これはかなりしつこくまだつきまとっているどうしようもない感情ですが)があって、とてもじゃないけど仕事では出来ないとそう思っていました。それに、元もと、教育者の端くれで、学校という職場にかなり未練がありました。戻りたいところは学校であり、介護をしながらもその手の仕事の引き合いはケッコウ来ていましたので、心はずっとそっちにもっていかれていました。実際1ヶ月だけ近くの学校へ職場復帰したのですが、母の介護のローテーションに穴が開き続けてはみんなの迷惑、ということで泣く泣く、校長の慰留を断わって去ってきた、母の元に戻ってきたという経緯もありました。 ということで、正直言って支援費制度のスタートがなければ、全身性・・を使って、事業の当事者などにならずにのんびりやっていけた、将来的には学校に職場復帰もできていただろうから、今でも、ちょっとなーー(ひどい)・・と思うことはあります。
そもそも、支援費制度がよくわからなかったのです。今でもよくわかんないところはありますが。
概略説明用パンフレットが届いてすみずみまで読むと、とてもじゃないけど、信じられないような甘い言葉の羅列です。まず、「措置から契約へ」「自己選択で好きなサービスを選べる」とか書かれてます。しかも、好きなだけサービスを受けられるような書かれ方です。ここからして、そんはずないじゃん!です。全身性介護人派遣事業や、それに似た制度がある地域は全国的にも限られてて、それを使いこなしている人は少なくて、使いたくても介護者がいなくて・・・ですからね、使いたいサービスを選べるなんてことは、どう考えても嘘としか思えなかった。それを佐藤さんに言ったら、はじめは、よい制度が始まるのだと信じていた彼女もだんだんいっしょになって不安になってくれました。ここが大事です。なんでもいいから、自分の不安を回りに速やかに伝えることです。当事者だから勘ぐれる事というもんがあって、嫌な予感がしたら、それは大抵当たっています。だから、制度や政治が今までと違って突然動くとき、勘を研ぎ澄ましてこれは変だ嘘だと思ったら、まずは近くのそれなりに実行力のある人とか研究者に告げてみることです。自分の頭はひとつしかなくて、特別な知識などまったく足りないのですが、生活がかかっていますので、第六感は働くのです。これは、やはり当事者だからこそなせる業だと思います。
ところで振り返ってみると、佐藤ひろこさんは母が痴呆老人とご家族のためのボランティア活動をしていたときからの知り合いでした。佐藤さんは当時、まだぴかぴかの区議1年生で母からはいろいろお節介を受けていたようです。そして私は当時、頭の固い若い母親で介護のことなど完全に他人事、もっぱら自分の子どもをどうやって有名学校に通わせるか、バイオリンで身を立てさすか、天才児に育てられるかに全神経を集中しておりまして、たとえば、母が区のスポーツ施設がどえらい田舎に出来るというようなことに憤慨しているのを聞けば、区民が皆平等に使える施設ならば、一部の弱者たち(障害者やお年寄り)にお金を使うよりよっぽど平等(まし)である、次世代を担う子どもの教育にこそ、税金を投入せよ、と豪語してた娘でした。母は娘のその言葉をタクシーの中で聞いて、頭から湯気がでるほど怒りだし、私はあやうく車から追い出されそうになったのです。母は税金は、より困っている人に重点的に使われるべきで、子どもは親が守るのだからほっておいてもいいんだと、それはそれで極論を申しました。このことは後々、いろんな場面で思い出されました。母の言っていたことはほぼ正しかったようです。そして私が当時もっていたような子ども第一主義、全市民公平主義的発想は、社会の大半を占めている、とりあえず健康で一応幸せな人たちの福祉の考え方のようにも思われます。そして老人対策としての介護保険にも、「浅く広く平等であれ」はその運用のされ方にひどく鮮やかに表れているように思われます。
巻き込まれた、と思ったが、後でよかったと思うこと
支援費のスタートを控えて不安が募る一方で、中野区は4年ぶりの区長選挙を控えておりました。平成14年の6月です。区の財政は破綻寸前、23区でもっとも深刻といわれ、以前のような山の手の下町、中野の勢いもなく、これもすべて12年も続いた区長の任期の長すぎたことに原因がある、この年こそは区長が交代するだろうと囁かれてしました。噂どおり、現職の区長は再出馬を遠慮することになり、新しい候補者が何人も立候補しました。佐藤ひろこさんがそんなある日、母の介護をしている私のところに引き連れてやってきたのが現中野区長、田中大輔氏なのですが、初対面の田中さんはフツウすぎるくらいフツウのおじさんでした。で、なぜ、区長選挙の話をここに書くかというと、話の成り行きで選挙活動を介護しながらでもできるということで、WEB担当者として手伝うことになったのですが、その作業をしながら、区民参加というキャッチが知らず知らずのうちに身についた、それがコミュニティーケアの必要性を実感するよい機会となって、今のような活動につながっていく勢いになりました。区長候補の田中さんとは何度かじっくりと福祉や介護のことについて話しをする機会がありまして、その時に、私は「区は父親のようなものである、区民を守る義務がある」と言いましたら田中さんは「区民は子どもじゃないのだから、自分たちのことは自分たちで始めないとダメ」と言われ、私はそこで初めてはっとして、行政に頼って待つばかりでは何も進まない、期待していてもいつまでも報われないだろうということがよく分かったのでした。
そういえば、在宅生活6年の間、介護疲労はもう限界であると思った時にも、どうにかして欲しいと区に訴えたことがなかったのでした。区に現状を知らせて、拒まれたり、理解されなかったりしたら、きっと私はそこで怒っただろうと思うのです。そしてその怒りが契機となり、きっと何か勝つための策を練ったことでしょう。なんでもそうなのでしょうが、人とのぶつかり合いは嫌な経験ですが、そこを通り過ぎないと次にいけない、これはどんづまりの事態を改善するためのルールと言ってもいいのです。行政とはほとんどの地域でまだまだ障害者に冷たく理解がないものです。いわば敵対関係といってもいいのでしょうが、そこを変えていくためには、まずはぶつかり合うことです。誰かが交渉(場合によっては喧嘩)を始めないと新しい何かは生まれないのですから。
厚生労働省へ 障害者運動の真似事&吸引問題 (秋)
そうこうしているうちに、練馬の橋本みさおさんがリーダーシップを発揮して、ヘルパーの吸引問題の解決を図るための署名運動を始めました。これはずっと前から家族の介護負担を軽減するためには絶対に解決が必要なこととされていましたが、ようやくその一歩を踏み出したのです。それより前の選挙権行使の訴えは裁判を起こす、国を訴えるという方法で始まったのですが、それがもう亀の歩みで遅々として裁判は進まず、原告のひとりであったはずの母はロックトインしてしまい断念、また裁判の途中でひとり亡くなるという事態で、もう裁判はこりごりという事で署名集めという方法をとったのでしょうが、これがまた思いのほか看護協会のかたくなな抵抗にあってびっくりでした。吸引問題については別にきちんと経過をまとめてみようと思うので、ここで詳しくは書きませんが、その過程で数寄屋橋で署名を集めたり、みさおさんにくっついて議員会館に行ったりして、介護の合間のよい「運動」になりました。議員会館では後藤田さんのお孫さんの後藤田まさずみさんが若くていい男で、私は秘書の人にブロマイドをもらいましたが、実はミーハーなみさおさんは、おじいちゃんのサインをください、なんておねだりしたりしていました。そうこうするうちに吸引問題の解決に向けてALS協会の人たちや他の吸引を必要とする人たちの連携は深まったようですし、こんなに本気の運動はALS協会始まって以来だったのではなかったでしょうか。
CILや他の障害者団体との交流、心に火が点る(冬)
ALS協会は上品で動かない、と言われますし、内部関係者もそう言ってますが仕方ないことです。とにかく障害があまりにも重すぎで本人が外出する気になれない、コワイ、実際に人手もないのでそう簡単に動けないし、そしてまた、介護している家族も慢性疲労に睡眠不足です。介護に関する事態のすべてにおいて改善を強く望んでいるものの、自分たちでどうにかするという気力がでないのです。家族の立場の私が比較的元気に動けているのは、例外中の例外といっていいのです。私はまず、すでに嫁いだ娘であり今は母と同居ではありません。当初はキーパースンとして実家を仕切っていたものの、今はその役目を妹に譲っているので、実家のためというよりも自分の信念などで勝手に動ける位置にいます。夜は実家から自宅へ戻るので睡眠不足も今は解消されてます。またHPなど作ったため、全国からメイルなどいただきまして、患者や家族の情報が自然に集まってきて、ALSという病気の持つ問題が全般的になんとなく掴め始めていました。と同時に、たとえばCPなどの他の障害者と比較して、ALSもまた障害者でありながらも特殊である、いっしょには出来ないなという事もわかってきて、思いは複雑であります。
たとえば在宅における介助や介護は他の障害者においても大きな関心事、問題でありますが、それは大抵の場合、利用する側が何時間分もらえるかという量の問題が多いようです。しかしALSの場合は、サービスの提供者の質の問題がいまだに一番の関心事なのであります。つまりまだ量を要求するまでいってない、他人介護の導入が家族側の理由で遅れている、利用者当人の理由で遅れている、あるいはよい介護者を見つける事がとっても困難だ、その困難さを患者自らが作り出している場合も含めて困難だということなのです。いまだに介護者を誰に、資格も含めて誰に、ということで右往左往している状態ですので、支援費制度などといっても、ピンとこないのは仕方のないことなのです。介助者のとっかえひっかえが可能であって始めて自己決定とか選択とかが生きてくるのです。サービスを選べるといううたい文句はALS患者には嘘っぱちに聞こえます。介護の担い手の絶対数が他の障害者と比較にならないほど少ないのですから。だからなのか、吸引問題ではけっこう動きがあったものの、支援費制度の時間数の交渉だとか、運用の仕方だとかでは積極的な意見交換がみられないのです。これはどういうことでしょう?もしかしたら既に個別突破で十分な介護保障を獲得して結構安定した介護環境ができてしまった声の大きい元気な患者家族と、そうでない大人しい患者家族との間に歴然とした格差が出来てしまっているということかもしれないです。この場合、他人の面倒まではなかなかみられない、そんな余裕がないのがALS患者家族の個別サバイバル主義ですから、このまま、他の障害者団体のような団結もなく、激しい運動もなく固まってしまうかもしれません。
また話は変わりますが、地方などのまだ介護保障制度の良く出来ていない地域の患者さんからは、それ(支援費制度)はどういう制度なのですか、という質問を受けることがあります。どういうものだか見当さえつかないそうです。それは当事者だけでなく役場の人でさえもそうです。説明して広める立場の人が中央からやってきた新しい制度がどんなものかわからない。はじめからALSは家族同居だから支援費制度の対象外だと言われた人もいます。あるいは家族がすべて介護を担うのが当然であるという古典的な家族意識がまかり通っている地方では、家族もまた何の疑問もなく、あっても口に出せず介護を担っている、だから制度に関心や期待がない。それでうまく行っていればよいのですが、介護疲労は訴え続けているわけです。
疲れた、助けて欲しい何とかして欲しいといいながらも、介護を止めないし他人に任せられない場合も多くあります。ここについてはALSだけの現象ではないだろうと思いますし、介護する人とされる人の関係が、親であるか、子どもであるか、配偶者(妻か夫か)であるか、同居か別居かなどで介護の肯定否定の仕方もさまざまに違うのです。それぞれの関係ごとに、介護者の愚痴(疲労度ではなく愚痴であることが大事です、疲労度調査だけでは見えない部分があり、そこにはまだ全然光が当たってない、調査がされていません、介護者の悩みとは何でしょう)を集めて分類したらある程度の傾向性というか法則のようなものが出てくることでしょう。外部からの支援者はそこを前もって気をつけて接するようにすることが非常に大切です。よく良かれと思って投げかけた励ましの言葉も介護者が極端に傷ついている場合がある。かえってあだになる。このことは後ほど遠慮なく探ってみたいと思います。
◇中野難病家族会結成 名称がある=存在しているということ
まず、いろんなところでこの会は自然発生したと言ってますが、決してそうではないのです。ある程度、狙って作りました。まず、任意団体でも何でもよいので、区に宣言することが必要でした。こういう人たちが街にいて困っていると。何に困っているか、はじめは細かに説明できないくらいこういうことに不慣れなのでしたが、とりあえず宣言してしまおうと。それ以降、その名前を使っていろいろ便利なことができます。たとえば、支援費制度の説明会など、お役所仕事ですから、ひとりひとりには声かけてくれません。文句をいえば、すぐに区報には載せたよと言います。こういう言い訳、慣れてきましたが、常套句です。
それで、一番最初は、中野難病在宅介護支援家族会という長い長い名前で登録しました。一目瞭然で、というのもあったんですが、なんだかスマートな名称を考えたくなかったんです。その、なんというか、固さがいつまでもとれないという私の困ったとこでもあります。今では半分の短さになったもののまだかなり固い名称にどうしよう、と思うのですが。さて、そんなことはどうでもよろしいのですが、そういうわけで名前を得たということは存在している、ということですので、いろいろあちらからも情報が来るようになりました。
とにかく、存在をアピールしてみましょ、ということです。
◇即効性はないけど、、 とりあえず交渉してみる
その後、いろんな方と話をする機会があって、区役所や議会に出かけていく毎日が始まりました。家の方はもともと、どこの家にもヘルパーがいましたので、安心してお任せして出かけました。こういうことは代理は利かないのです。やはり、当事者(病人か家族)が直接行動です。
区の担当の方にもいろいろ癖があって、難攻不落、みるからに頑固という人もいれば情に厚い方もいる。でも区民からの要望となるとはじめから苦虫をかみ締めたような顔で来る人が多いのです。これはなぜ?と思うのですが、まだよくわからないです。他の区や市の職員はどうなのでしょうか。それで、私も素人ですので、ひとりで行っても拉致があかない場合は前述の佐藤さんや他の区議さんにいっしょに行ってもらいました。そして、自分の言葉でどう困っているのか率直に話してみます。まずは一回や二回の面談で、納得してウンといってはくれません。そこは何度も足しげく通ったり、文章で要請してみたり、いろいろやってみます。
それでも最後に支援費制度に移行するというのに全身性の介護人派遣制度から時間数は伸ばさない、8時間のままですよ、と言われたのには、がっくりきて、そんなものかと諦めようとしたのですが、また佐藤さんにお尻をたたかれて、1日は最大でも24時間。24時間だしてもらうまでがんばろう、ということにだんだんなってきました。交渉しながら障害学の勉強なども始めたり、なんでもやってみることです。しつこいようですが、障害は社会で負担しないといけない。誰かが背負わねばならないコトなのに、「じゃ、よろしく!」ってのが今の社会です。多くの荷物を背負う人にはその分多くの賃金を支払うものでしょ。でも、労働じゃないでしょう、それこそ、労働していない人になぜ、そんなに金を使うのかっていう人がいると思いますが、その労働を平等にできない不公平な条件がはじめにあるのですから、その分の損害賠償は、じゃ、どこで、ってことになる。 というような話は職員にしている時間などないので、大事な話の時にはサシでやりました。大勢でいくと一人一人話をしたいから、結局はみんなのガス抜き、介護の愚痴で終わってしまう。話しただけで何も煮つめてこなかったということになります。区の職員も忙しいし、だからといって話しを聞かないわけにもいかないので、うんうんとうなずいてはいるのですが、まずは、検討しておきます、でバイバイ、おしまいです。だから、大事な話、決着を必要とするコトはサシが基本です。というと、大勢で行ったほうがよい、という人もいます。そういう大勢の耳が必要な話の場合、とくに聞きにいく場合は大勢でいきます。使い分けていくとだんだんうまくなります。
急いで決めたい時には、データを出します。その事前調査にはいろいろ資料を集めました。詳細は書けないですが、周りの区と比較できるよう簡単な表にして区長から係長までどんどんFAXで流しまして、それを元に区議さんに動いてもらいました。やはり政治家に動いてもらえると心強いです。とくに地元の区、市議とのつきあいは大事だし勉強になります。介護しながら、仲良くなる方法は、介護などに熱心な人のHPにどんどんメイルすることです。そのうちに勉強会などのお誘いがきますから、出かけていって現状をお話すると大抵、心動かされて協力者になってくれます。患者みずからの参加をお勧めします。感動して味方になってもらえます。がんばってね。
でも、
結局のとこ。最近思うのですが、難病を囲む様々な問題について、当事者は全部自分たちで何とかしようと思わないことです。私たちがもっとも有効にできることは、真実を世間に伝え、人々の感情を突き動かすことで、単純にいえば支援者を増やすことだけじゃないでしょうか。事業にも学問にも興味がありますが、どれも私には向かないような気がしてます。とくに事業(商売)は仕方なしにやっていくんだという思いがあり、葛藤していますが、私の使命というか天から与えられた仕事とは何だろうと考えてみますと、それは目撃者として証言していくことしかないような気もします。ただ、そんな自覚まで至っても、代わりに動いてくださる人がいない、という現実があります。私たちの代わりに介護したり研究したり運動してくれる人があまりに少ないのです。だから、結局は、辛い辛いといいながら、目撃者、証言者に徹することはできずに自分でやってしまっていくのだろうな、と、また覚悟を決めます。
捨てる神、拾う神
難病専門があだになる、かも。