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ボランティア 告知 闘病生活 究極の選択 出会い 気管切開 混乱 落ちていく ナースコール 文字盤 喧嘩 選挙 父 介護猫みぃ ALSに選ばれた人達 親子はどこかが繋がっているのか 覚悟
ボランティア
昔から、人の和の中心にいつもいるような人だった。
決して美人ではないけれど笑顔が印象的で一度会ったら忘れられない、そういう感想をいただく事が多い母だ。
実行力の塊で、思い立ったらすぐにとりかからずにはいられない、そんな因縁の性質をきっちりと受け継いだのは長女の私。意外とオクテの妹はそんな母と姉に囲まれて甘えん坊に育ったけれど、母の発病をもってすごい勢いで成長を遂げていったと思う。母が娘に授けていくものは、こんなひどい難病との戦いの中でもいっぱい見つけられる。妹の場合は、なんであろう?私の場合は母譲りの闘争心と実行力かな。
長男の嫁として、姑を看取った経験から行政がとりこぼした痴呆老人とその家族のための居場所を作ろうと思い立ち、区民による区民のためのデイクラブ"桃園デイクラブ"
を発足した母。以後、難病を発病して呼吸器につながれるまで、全力を尽くして地域の痴呆老人とその家族を支えてきたが、その桃デイが今年都知事より表彰された。発足して8年、母が倒れてからもその役割を果たしつづけて大きく育った地域の人の輪だ。
1995年の春、乳がんの手術で片方の乳房を失うも、立ち直ってボランティア活動に専念した母だたっが、翌年1996年の春に両足の異変に気が付く。みるみるうちに歩き辛くなり針、灸、マッサージなどを試してみるが甲斐なく、整形外科でヘルニアの手術を受ける。術後、回復の兆しもなく、中野区の保健婦さんの紹介で都立神経病院の高元喜代美医師の診断を受ける。そこで、初めて難病ALS(筋萎縮症側索硬化症)と知る。
告知
1995年、夏の盛り、ロンドンより一時帰国した長女のわたしと夫に付き添われ最終の診断、告知を受ける。ショックを隠そうと母ひとり明るく話しつづけた帰りのタクシーの思い出を後に歌に詠んでいる.
闘病生活
告知を受けてからは、まるで坂道を転がり落ちるかのように、病気は進行の速さを増した。夏の終りには、ロンドンに再び戻るわたしと孫達を玄関先まで見送る力もなく、ひとり食卓のテーブルで涙を流していた。妹の千佳子は会社の仕事を調整しつつ、必死に母親の介護に全力を尽くした。
ボランティア仲間の多くの友人たちも日替わりで訪れては、母を支えてくださり、毎日、笑い声が居間から耐えることはなく、不吉な予感を誰もが必死で振り払おうとしていた時期だった。
究極の選択
闘病中に決断しなければならぬことは、呼吸器を装着することによって、この先ながらえるか、それとも呼吸が止まった時点で死を選択するか。この残酷な選択を刻一刻と迫り来る肺の麻痺のその時までに、家族で話し合わなければならない。1年前には考えられなかった深刻極まりない話題が同じ食卓の上で交わされる不思議。そんな尊厳死だとか安楽死といった重量級の話題がまさか我家の究極の話題になろうと、誰が予想していただろう。
娘達は即座に呼吸器を装着して生き続けて欲しいと懇願したけど、その先、もしかしたら何十年もの間、家族の世話になり続けなければ生きて行かれい人生をそう簡単には選べない母親だった。当然、娘の人生を狂わせることとなる。仕事も結婚も看病によって縛られていくだろう。経済的な遣り繰りの困難さも想像できる。この先、年老いていく夫の身体にも負担をかけるだろう。器械を付けてベットに縛られる毎日って、いったいどうなんだろう。どうなっていくのだろう。
出会い
高元医師は、熱心なクリスチャンで、ある日ベックさんを連れてこられた。ベックさんは、ドイツからいらした宣教師で毎日布教のために日本どころか世界中を巡っていらっしゃる。会えば分かるが、神が人に与えることのできる最上級の温かさを持ち合わせている方だ。
もともと宗教には関心の薄い家族であったが、心の支えに何かが必要な時期に来ていた。家の仏壇を守る立場の長男の父は、ベックさんの訪問にあからさまに反抗の意志を示し居留守を使った。わたしと妹はそれでも母とベックさんの出会いを望んだ。ベックさんは母の枕元で、キリストの言葉を引用され、「もう、何も思い煩わないで全てをキリストに委ねてしまいなさい」。とおっしゃった。その言葉によって不吉な黒い雲が払われ、わずかながらも明るい晴れ間がのぞいてきた。必死で頑張る生き方しか知らない家族だったが、何も望まずにただ神に任せて生きていくという生き方があることを知って急速に肩から力が抜けていくのを感じた。
母にしてもそうだった。背負っているものが重すぎて倒れる寸前だったのをキリストが現れて荷を代わってくれたのだから。
気管切開
1995年の12月。
まだ、呼吸器を付けるか否かの選択はなされていなかったが、軽い風邪から予想よりもかなり早く呼吸に麻痺が訪れてしまった。
都立神経病院に救急で運ばれた母は、私に応急処置室でこう言い残している。
"たすけて。"と。気管を切開して、呼吸器をつけますが、いいですね。と担当の医師に最終の確認をされて、本当の事をいってほっとした。これであとは闘病に全力を尽くすだけでいいのだ。思い悩む生活はピリオドを打ったと。
確かに究極の選択はわたしたち家族の意思とは全然関係のないところで決定され、わたしたちは従うだけであった。思い煩わずに運命は運命の転がる方にまかせればよい。あとは、必死に頑張るだけ。
混乱
呼吸器につながれて手術室から出てきた母を慰められる人はいなかった。ある日突然にやってきた器械に頼らなければ生きていけない生活に母は動転して、パニックを起こしつづけた。看護婦さんの態度に腹を立て、今すぐに退院すると言い張ってまわりの者を困らせた。2分おきといっていいほどに、頻繁にナースコールをするものだから、しまいにはコールを外され、悔し涙にくれる毎日だった。
看護婦さんにとってもそんな手のかかる病人は御免だったであろう。だから、片道1時間かかる国立の病院に朝は9時から夜は母がねむりにつくまで、誰かが必ず付き添った。そばに家族がいない時は一時たりともない、そんな手厚い看病生活のスタートだった。
落ちていく。
気管切開をしてもしばらくは、鉛筆を持って筆談する事ができたが、退院する頃にはもう手にも力がなく、口の形で読み取れと、うるさく要求する母とよく喧嘩になった。口の形を読む方法もあっという間に使えなくなる。早く文字盤を使って訓練を始めないと。焦るのは病人以外で、病人はといえば口が開けられなくなるなんて考えたくもないからなかなか文字盤の訓練に同意しようとしてくれない。思い返すと、全てにおいてそうだった。簡易トイレも最後までその使用を拒否していたし、台所に立ってお料理することも鍋が重くて持ちあがらなくなっても、まだ、味噌汁を作りたがっていた。この病の残酷さは、その機能が落ちる最後の瞬間を本人がしっかり認識できてしまうところだと思う。これが、最後の…・だ。と何度諦め、何度別離を繰り返してきた事か。
そして、決別したら最後二度と蘇る事はない。最後の2階の物干し場。最後の台所.最後のお料理。最後のトイレ。最後の散歩。最後の絵描き。最後の……
ナースコール
だから、ナースコールも一般のものはすぐに使えなくなった。使えないと、人を呼んで頼む事もできない。ほっておかれて何にもしてもらえない状態にさえなる。1日中天井をみて過ごす余生。それではなんのために気管切開したのかわからない。付き添いにとったらナースコールはないほうが、ずっと楽だから、いじわるな看護婦さんだとわざと鳴らないようにしたり、無視したりする。一度.病院で無視されて危うく死にかけたことがあったので、母はナースコールにひどく神経質になった。指に力が入らずに普通のコールでは埒があかなくなったので、私は、なんとか小学校の理科の知識を総動員してお手製のコールを改良しつづけた。最後の最後、指先が1ミリも動かなくなるまで、工夫に工夫を重ねたがこれにも決別の時がやってきて、さすがにわたしもベットの脇で敗北感に駆られて泣けてしかたがなかった。努力したら報われるはずのことで愚痴をいってくる友人たちに冷たく当たってしまった頃だった。ごめんね。
文字盤
アクリルの透明板に平仮名50音を黒字で書きこんで作る。たいていが家族のお手製で標準タイプのほかにも、いろんなのがある。それを患者と介護者の間にかざして、目と目でひとつの文字を指す。そうやって、一文字づつたどって言葉を交わす。文字盤をつかわない人は瞬き何回でなんと言う字をさすか、ルールを決めてそれこそ神業のような方法で会話を成立させていく。感心するのは介護者で、家族ならとっくにいらいらが募って喧嘩になるような忍耐のあるこの通訳を、1日何時間も付き合ってくれる。仕事といえば仕事なのだが、よほどの忍耐と理解とプロ意識がないとできたものではない。家族には情はあってもプロ意識がないから、こういう仕事で患者と喧嘩になる場合が多い。そんな時に優秀な介護者がいてくれたら、患者と家族の間の潤滑剤としても大変貴重な存在となる。ありがとう。Sさん
喧嘩
母は気管切開をして家に戻ってきたものの、以前のような生きていくぞという意気込みが感じられない。生き甲斐を失ってただ呆然と1日が過ぎていく。気に入らない事があると、ものすごい形相になってまわりの者を睨み付ける。器械を装着した人間が言葉でなく目で怒るとめちゃくちゃ怖い。それで、憤慨してよく親子げんかに発展した。ただの親子げんかなのだが(よーく考えてみたら)お見舞いにきた人や、主治医の先生や看護婦さんがそういう場面に遭すると、とんでもないところにきてしまったと思ってショックを受けたらしい。身内の看病には限界がありますね。といわれて頭にきた頃だ。
確かに病人が一番辛い、けれど自分の人生をほったらかして、付き合わねばならない若い家族たちにはそれなりの言い分も悔しさもある。
ストレスだって溜まるが発散する方法がない。第一、外出が制限されるから仕事だってそれなりにしかできない。妹はとうとう長年勤めてきた会社を退社して、請負仕事を在宅でできるようにした。発想の転換とか言って、なんでも肯定的に考えようと、テレビで誰かが言っていて、これにも腹が立ってテレビを消した。発想を転換して解決できるような、お気楽な問題は、悩みなんていわないの。
わたしも妹もいつ終わるともわからない介護の日々に、眩暈がして、当初の誓いが甘かった事に気がついた。
思っていた100倍も闘病生活は過酷を極め始めている。想像できなかったのは、明るく気丈だった母の落ちこみようと、まるで人が変わってしまったかのようにわがままを言い続ける難病患者の母の誕生だった。お願いだから、看病に協力してと何度、病人本人に訴えたかわからない。
こうしたら、母のためであろうと工夫し考えて実行すると、とたんに却下されてしまう。毎日の着替え、おしめの交換方法、体位交換の仕方、何から何まで介護者のいうとおりにはならないよ、っという意地さえ感じられるほどだった。そうやって何とか自分の人権を主張していたのだ。
今思えば、なされるままにされることにささやかな抵抗を示すことで、こちらに教えてくれていたのだと思う。
健康な時には気がつかないが、一度健康を害したり身体が思うようにいかなくなると、とたんに脇道に追いやられていくような錯覚に陥る。錯覚であればいいのだが、果たして、この世の中は健康で強いものに有利にできているものだ。わたしは、運良く健康を保っているけど、母の病気を通して障害者の立場を疑似体験しているから、ささいな社会の仕組みでも不公平や偏見を肌身に感じる機会が多い。みんながいつかは弱者になるという前提で世の中を見るようになれば、街の仕組みももっと優しく住み易いものになっていくことだろう。
選挙
母が難病を患ってから、選挙が立て続けにあった。衆議院選挙、参議院選挙、都知事選、区議会選。母は若い頃から生徒会の役員をやったり、ボランティアに燃えたりしていたので政治にはそのへんのおばさんにしては、かなり関心の深いほうだった。それにお祭りが大好き。まあ、選挙とは政治のお祭り,一大イベントみたいなものだ。選挙には必ず足を運んだし、わたしが誰に投票したかとか、結構うるさく聞いてきたりして、本当にみーはーな母だと感心したこともあった。
そんな母もさすがに呼吸器を装着した姿で投票所には行かれなかった。人目が気になる、気にしなければいいじゃない、と説得したものの、近所ほど出歩きにくい母の気持ちもわかる。実際に少しだけ外出した事があったが、有名人だったのが災いして、寄ってきてはじろじろみる人もいる。確かに珍しい姿にはなってしまったが、そんな目で見るなよ。っと怒鳴りたい気持ちを押さえるのも難しい時もある。とうとう選挙権放棄か、と思ったら、選挙管理委員を自宅に呼んでという。そんな公職の人,忙しいのだから、またわがままを言わないでと、またしてもわがまま(我がママ)だと思ったが、あまりにも真摯な訴えにこのことを主治医の中村先生に伝えたら、先生はさっそく知り合いの新聞記者の方を紹介してくださった。
ベットの上から投票できる日までがんばります。と母の訴えは母の写真と共にかなり大きく紙面を飾った。その日から、いくつかの新聞社の取材とテレビ局の取材が相次いだが、興味本位の取材申し込み以外は全て受けた。全国の患者にも同じ志の人がいて、ALS協会はこの訴えを、人権擁護委員会に訴えでた。
本人の知らないところでどんどん大きな波紋となって、今年2000年の春、原告3名は国を相手取って人権侵害の損害賠償と公職選挙法の改正を要求する訴訟を起こした。母は残念ながら原告となって戦う機会を逸してしまったが、今でも心の中で最後で最大の戦いを国に挑んでいるに違いない。
父
父と母の仲の良いことは子供であるわたしたちふたりが証人になれる。だから、なのか、しかし、なのか、母の身体がどんどん衰えていくのを父は決して信じようとせずに、娘達を困らせた。難病と戦うにはまず、その正体を見極めないといけない、でないと作戦が立てられない。なのに、告知を受けても先生の話を信じないばかりではなく参考資料となるALS介護読本も何もかも押入れの奥深く隠してしまって、わたしたちの戦意を削ぐようなことばかりした。
中央の官庁の官僚として、難しい仕事をしてきたはずの父の幼稚な反応が信じられない毎日であった。一番の中心となってリーダーシップをとらなければならない父が腑抜けで、我家はしばらく羅針盤も航海地図も失った船みたいに、不安と不満と恐怖に揺られつづけた。仕方がないから、というよりも逆境に強い母の気質を受け継いだ娘達の必死の努力で母の介護態勢は着々と進んでいったが、平行して父の権威は失墜の一途をたどっていった。
役に立たないばかりか、逃げ腰で現実を受け入れられない臆病者。
これがわたしと妹が父に下した新しい認識。
介護4年目に入って、わたしも妹も疲れが出てきた。そろそろ自分の人生にも目が向けたい欲求は隠せない。ふと気がつくとスロースターターの父が母に寄り添っている。厳しすぎる現実を受け入れるのにただ時間がかかっただけであった。それほどに、父にとっては娘の何倍も厳しい告知であったのだ、と今ごろになって気がつく娘達であった。
介護猫のみぃ
我家には実は3番目の妹がいた。
人間ではないのだが彼女のことを語らないで母の在宅療養は語れない。みぃは白地にクロの模様が入ったメス猫で、私が結婚する半年前から我家に住み着いた。いうなれば私の身代わりに島田家にやってきた末の娘ということになる。頭のいい子で、主治医の中村先生に大変懐いていた。
見舞い客には必ず挨拶に行って、時々うちで行なわれたカンファレンス(介護に関する会議)では、みんなの輪の中にちんまり座って事の成り行きをしっかり見守っていた。地獄耳のみぃには我家で起きたことで知らないことは何一つなく、母の看病にしたって誰よりも積極的に参加していた。
ステーブルという英単語が思い浮かぶ。いつも同じという意味合いで。
付き添いの看病はすごく疲れる、疲れるとつい病人に辛くあったたりヒステリックになったりして、自己嫌悪に陥る。
そんな時にふとみぃを見つけると、いつも母のベットの上でいつも同じ安らかさで添っている。添うということをわたしはこの年寄りになってしまったみぃに教えられた。いつも同じ、いつも同じ。。。ただそこにいつもいっしょにいてあげることの大切さ。
そのみぃが老衰でどんどん弱っていったのは1998年の冬のこと。母を最期まで看取ることが出来ず、お先にとばかりに逝ってしまった。
みぃには特別な延命治療をしないでね、と母がいうので脱水を防ぐための点滴を毎日動物病院に行ってしてもらうだけにして、最期はわたしと千佳子のふたりに前足を握られて静かに召されていった。あまりにも安らかな死だった。悲しかったけれども、飼い猫として愛玩動物以上の役回りを果たして逝ったみぃは幸せな猫だったと、充分に飼い主を納得させる大往生だった。
ALSに選ばれた人
罹患している患者さんたちには、不思議と元気であった時にリーダー格だった人が多い。教師や社長さん,ボランティア活動で燃えていた母などもそう。前向きに生きてきて自分の力でなんでも乗り越えられると信じて疑った事のない人が多い。たまたま、そういう会合に集ってくる人に、病気になっても元気な人が多いのかもしれない。そうでない人は、どうやってこの病気に選ばれてしまった事を自分に納得させるのだろう。なんで、自分が。と思わないと母は言っていたが、呼吸器に繋がれて本当に苦しい時には、なんで?と宙を見つめていた。何で,自分が?何をしたっていうのだろう?
この世の中には自分の努力ではどうしようもないことが、たくさんある。特に命に関わることは自分を納得させるのは難しい。でも、どうにかして諦めなければならない。でも、この病気になってしまったことを諦めるのであって人生そのものを諦めるのではない。乗り越えるのが難しい逆境にあって、初めて人は命の前に謙虚にひざまづく。
宗教にすがるのも悪くはない。どんな宗派であれ、自分が納得できて救われたと思うことが大切だと思う。実際にいろんな宗教がやってきて、母やわたしたちを勧誘したけど、人間同志の相性にも似てだめはだめ、ぴったりと自分の心にはまり込む、そういう感覚が持てたのはキリスト教だった。
不幸は生前から持ってくるものでもなく、子孫に伝わるものでもなく、雨粒に当たるように運悪く、当たってしまうものだ。もしかしたら、母やその他の不幸にして苦しい人生を歩んでいる人が、自分の変わりに、ほんの数センチの差でもって不幸を身代わってくれているのかもしれない。わたしのALSの解釈は、こうなのです。
親子はどこかがつながっているのか
母の病気の正体がわかってから、恐ろしいイメージが時折,頭の中をよぎっていく。
それは、母が底無し沼に沈んでいく映像だったり、砂漠で砂地獄に落ちていく母に懸命に手を伸ばしているのに届かない悔しさだったり、絶壁から今にも落ちそうになっている母のやるせない表情であったりした。
こどもと母親とはどこかがつながっているのでは、と思うことがよくあった。母の病がわかる直前に得体のしれない恐怖感がわたしにはあって、ロンドンで生活しながら,今この幸せは長くは続かないだろうと,密かに覚悟を決めていた。自分が病気になるのだろう、そんな不安はそれまでの私の人生の中で感じた事がなかったので、そう思っていた。そうしたら、東京から母の発病の話が届き,やられた,と思った。わたしには、来ないで母にきたのか、とも思った。
電話での母の声はいつもと変わらないのに、その内容は深刻極まりないものだった。わたしは電話を切った後,日本から携えてきた医学事典で、その聞いたこともない名前の難病を調べた。信じられない。よく似た症状の病気も全部調べて、1日で神経難病の項目全部をそらんじられるくらいになった。パーキンソンだったら、あるいは他の神経病だったら、、そういう可能性もありそうだった。母が春に手術した癌の転移を恐れていた昨日までが懐かしかった。
覚悟
告知は何も本人だけのものではない。家族に対する告知もある。
母が電話でこの病気の説明をはじめた時まず、一番に言ったのは、死ぬ病気ではない、ということだった。ちょっとほっとしたが、続けざまに、でも、呼吸器を付けたら生きていけるけど、24時間の看病が必要だって、と言う。わたしに選択権があるというのか。母の命に対して。
この先いつまで続くかわからない看病がいやだと言ったら、母は死なねばならない。けれど、承諾したら、自分たちの生活はどうなるのだろう。具体的なイメージもわかないまま、大変な事になったと思いながら、生きればいいジャン、と言っている自分がいた。娘として、人間として当たり前の反応だったと思う。即答。面倒見るから生きなさいと。しかし、それは、自分の運命が変わっていくという告知でもあった。
普通の家族生活が当面無理になるだろう、という予感。妹は結婚できないのではないだろうか?子供の教育どころではないだろう。夫は納得してくれるのだろうか。なによりも自分の志はどうなるのだろう?24時間の介護とは?経済的な問題もある。人を頼むのだとしたらお金はかかる。
背負う物の大きさを想像すると頭の中がくらくらしたが、持ち前のいい加減さと勢いが味方して、介護生活に突入した。
はじめてみたら、思っていたのより何十倍もしんどいことが分かった。
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