前のページへ
気管切開から退院へ パニック 告知 宣告 疑惑 神と医者と DR.キリコ がんばれ 尊い仕事
幽体離脱 衛生管理 ホーキング博士 ヒトゲノム 主治医
主治医
母には主治医の先生が二人いらっしゃる。
このことを考える時、いつも母は運がいいと思わざるを得ない。この病にかかったのは確かに不運の極みだけれど、その代わりと言ってはナンダが療養に向けての条件がことごとくどんどん整っていた。保健婦さんのなかには母はボランティアをしていた時からの知り合いでお仕事を超えた特別な思いでうちにやってきては わたしたちの相談に乗ってくれたkさんもいたし、区役所に顔がきくので、いろいろな制度も迷うことなく初めから使えたものが多い。母が福祉に明るかったから、私は介護者でありながら母に聞けば、そして、そのとおりにすればどんどん事が運んでいった。呼吸器がつくまではね。
さて、主治医の先生のお一人は神経病院の高元先生。神経難病に半生を奉げてこられた方で、この方から告知を受けられたことは今になって思うと本当にラッキーだった,と思う。
告知のことは、私のHPの主題でもある。
ひどい方法で告知を受けて傷ついた患者さんもたくさんいらっしゃる。また、隠されてしまうこと、全てを明らかにしないこと、勝手に療養方針を立てられてしまう事、など声に出さねばならないこともたくさんある。高元先生とはお会いしたり、電話したり納得するまで話が出来た。私の質問にもゆっくりと答えてくださった。わたしの個人的な相談にも乗ってくださって、姉のように感じた時もあった。高元先生の話はあとで出てくるので、もうお一人の中村先生の話に移ろう。
中村先生は近くの中村診療所の若先生。お年はわたしの夫と2歳違いだから、ほとんど同世代だ。初めてお会いしたのはまだ、母がどこも悪くない普通のおばさんに見えた頃。我家にいらっしゃった先生の膝にそそくさと猫のみーがお邪魔した。猫って不思議な生き物で、第六感でその人が判るらしい。みーに見初められて先生は母の病室に正座されている。あれ、聴診器を忘れました、と言われて、私たちはこの先生で大丈夫かしら、とその時思ったのだが、、、
先生は極めて普通のおじさん感覚を持って患者に接しておられるので、インフォームド・コンセンサスなどいう言葉があるけど、そんなことごく当たり前、という感じで我家の療養計画は民主的に進んでいった。とにかく納得できるまでお聞きしたし、こちらのわがままともとれるようなことも、遠慮なく言わせていただけた。手当て、という言葉のとおりに先生がいらして母の顔を見て手を当てられる、それだけで、母の症状が穏やかになった。
気管切開から退院へ
突然の入院からほぼ2ヶ月で在宅に切り替えたいと母が懇願する。言葉が話せないので目に独特の力がこもっている。私だって妹だって父だって、できる事なら今すぐにでも家に連れ帰ってやりたいけど。でも、看護のいろはの"ろ"か、"は"くらいまでしか知らない家族が超ド級に手のかかる難病患者@呼吸器付きを指導者なしで看病したらどういう事になるか。言うまでもない。泳げないのにスキューバダイビングするようなもので、危険を通り越してむちゃくちゃである。そんなの無理だよ、と母に言ってはみるが、目がまたしても抗議の色に変わる。普通の患者は在宅よりも病院の方が安心するんじゃないか、とも思ったがどうしても帰りたいという。今帰ったら看護ミスで死ぬよと言ってみたが無駄だった。死ぬのはイヤだけど帰ると言い張る。それで、仕方なく退院したい旨を病棟の先生に伝えた。
先生は目を丸くされ、どうやって看ていくつもりかと言う。どうやって、って言われても、ガムシャラにやります、としか答えられない。とにかく私の母ですから家に連れて帰りますと、こっちもいつのまにか頑固一徹になってしまって、病院関係者,保健婦さんの心配を背中に感じながら母を連れ帰った。
我家では家の前にみーが待っていた。先頭を切って家の奥へと消えていく後姿に尻尾がぴんと立っている。嬉しいんだね。ご主人様のおかえりだもんね。でも、不安なんてものではない。運転免許がないのに高速道路を運転するようなものだもの。
案の定、非常事態が次々に起こって気が動転した。帰ってきた次の日には緊急事態発生で主治医の中村先生を夜中の1時に呼び出した。痰が詰って吸引してもとりきれないのだ。そもそも在宅のゴーサインを早々に出したのは先生だった。病院の看護婦さんや先生の心配をよそに早く帰って来ましょうね、と言って母に期待を持たせたのだ。先生に言わせたら病院はバイ菌の巣だから一刻も早く在宅に切り替えたかったのだろうけど。抱える家族の身になってごらんよ、と介護者3人は心の中で呟いていた。先生は寝起きの顔でやってきて、泣きべそをかいている母を診察してくださった。特に原因があるわけでもないのに家族の不慣れと皆の不安が母を不眠にし、母の体調を崩したのだ。家族が大変なのはもちろんだけどこんな難病患者を看取ろうと手を挙げてくださった中村先生も根性が違う。
その晩から1週間は私も妹もろくに着替えをしなかった覚えがある。24時間がずっと繋がってて忍耐耐久レースとはこんなものか、とも思った。介護のトライアスロン。トイレに行く暇も惜しんで母に付き添った。それに病院のバイ菌と家のバイ菌と戦わせたらどっちが勝つだろうとも思った時期だった。
パニック
呼吸器は電気で動く器械です。ある早春の日暮れのことです。東京都中野区は珍しい停電に見まわれましたが、そこには在宅1週間目のALS患者とわかばマークの介護娘がおりました。
その娘のその息子は3歳になったばかり、いやな予感は必ず的中するという不思議な能力がありまして、その夜もごろごろという不穏な雲行きにもしやと思っていたのでした。かみなりは近くのどこかを直撃しあっという間に真っ暗闇、そこに呼吸器のアラームオンの悲しい音が響き渡ります。患者と介護者とその息子は一度にパニックになって悲鳴と泣き叫ぶ声がアラーム音と狂騒です。娘はまず手探りで息子を背中に担ぎ上げ夢中で母の顔をさがしなんとか耐えている様子にほっとしてアラーム音を消しました。
パニクルことはないでしょう。停電だって内蔵バッテリーは1時間持つのだから。そう言い聞かせて心を落ち付けたのでした。そういえば高元先生はアンビューバック(手動で空気を気管に送るゴム風船)さえあれば死なないとおっしゃっていたじゃない。どんどん落ち付いてくる。ここまできたらもともと腹は座っている方だもんね。手探りで台所のブレーカーを調べにいくとなんのことはない、ブレーカーが飛んでうちだけが停電になっていたのでした。呼吸器は酸素供給器と吸引器をお供に連れてきます。さらに病人の部屋の温度を保つために電気カーペットとエアコンは24時間フル活動です。柔なブレーカーではもちません。
告知
宣告と告知の違いとは?
辞書を引いてみたら分かるのだろうけど、わたしなりの解釈を施してみると告知は1回目、そして宣告は何回もされるもの、と言う風になる。
初めてお会いした高元先生は都立神経病院で神経難病に携わっていらっしゃったベテランの女医さんで、小柄な身体のどこからでもパワーを感じる男勝りのばりばりの・・・・っていうイメージの方だった。母の診断がついたその日、母が廊下で待たされている間,父と私は診察室に呼ばれた。まるでドラマのように先生がゆっくりとわたしたちの顔を覗きこんで、やはりALSですね、とおっしゃる。みるみるうちに父の顔が赤くなり、そして青くなっていった。
わたしは父の気の小さいことを知っているので、母の診断結果よりも父がこの場で倒れてしまうのではないかと思い一生懸命に父の顔色を覗っていたのを思い出す。先生のお顔も恐かった。このような告知の場面を何回繰り返していらしたのだろう。人が人の命の行き先を予言する、ある時は断定にもなる。そんな過酷な仕事を生業にして、この華奢な身体のどこに耐えうるだけの精神力が潜んでいるのだろう。
一回目の告知はショックではあったが、2回目以降の宣告にはさすがのわたしも動転して天を仰いでしまった。
宣告
在宅に突入して2年目を迎え、私達は介護にもなれ難病の母も短歌に生きがいを見出し始めた頃だった。文字盤の操作も家族のほとんど(除く父)が出来るようになったし,不便な中にも温かい家庭らしさが戻りつつあった。このままいけば(慣れとは恐ろしいものだ)難病患者との共同生活もそんなに大変って言う事はない。たかをくくって持ち前のお気楽な性格が顔を出し始めてきた。秋田の患者さんや練馬の患者さんはもう在宅十数年で、それこそ介護者をあごで使って王様気分である。不自由ではあるが温かい人達に囲まれた有意義な人生もある。そうだよ、どんなことでも非日常は日常になっていく。乗り越えられないことはなかったとこれからの母との生活にも何か目標をもっていこうと誓った矢先、何かの用事で神経病院を訪れた私にまたしても話があると先生が呼ぶ。
いやな感じ。そう、普通の用事だったらこんなにもったいぶるはずがない。なんであろう?母が手術した乳がんの再発だろうか?それとも。何かいいたそうな真剣なおももちの先生を見ていると不謹慎にもやっぱりテレビドラマの一場面のような気がしてくる。どこの先生も,言いたくない事を言わなければならない時には、こんな風に恐い顔になってしまうのだろうか?そうこうするうちに先生と向った 先の病棟に着いた。どうぞ、と招き入れられた奥のベッドに若い女の患者さんがよこたわっている。とっさにALSだ、と気がついたが寝ているのか、目を閉じたままびくともしない。先生はやさしい声で耳元に話しかけられた。Aさん、島田さんの娘さんですよ、と。先生の声は空しく病室に響いて呼吸器だけが規則正しく返事をしている。聞こえているのだろうか?
眠っているのならそっとしておいて上げたほうが、とそこまで思いが至った時、先生の意図している事がはっきりと見えてきた。目を閉じて眠っているかのようなこの若い患者さんはしっかりとした意識があって今ここにこうしておられるのだ。私の声を聞いている。握った手の温もりを感じている。きっと心の中で私に何かを伝えている。。。。ああ、目の上の方から暗い幕が静かに降りてくる。目を閉じて倒れ伏して大声を出して今ここで泣きたい。
先生は宣告をしたのである。誰よりも、まず、長女であるこの私に.
いや、これが初めての宣告ではなかった。母の診断がおりた直後の8月にわたしはやはり先生にひとり呼ばれて、MRIの結果について説明を受けている。母を母の友人に頼んで一人神経病院の高元先生を訪れた時だった。MRIで映像化された母の脳の断面を見ながら先生の顔はみるみる曇っていった。
ほら、ごらん、この病気になってからというもの、よい話なんて聞いた事がなかったじゃないと心の準備。改めて覚悟を決めて次の言葉を待つと、先生の口から”LOCKED IN”という英語が唐突に発せられた。意味はわかる。鍵をかけて閉じ込められる事でしょ。時に英語とは日本語よりもその状況をうまく説明するものだ。海外に生活していたから、というわけではない。
ピンと来てしまって後は質問する気にさえなれなかった。重い口を開いて先生は言わなければいけない事をたんたんと説明し出した。素人のわたしに分かり易いように。「ALSの患者さんで呼吸器を装着された中での数パーセントの方がこの状態に至ります。そうなると眼球の運動までもが疎外されるために文字盤等を使ったコミュニケーションもできなくなります。お母さんの脳のこの部分に萎縮が見られますが、このまま進むとロックト・インの状態になる可能性が高いです。呼吸器を付けても進行はどんどん進みますが、どうしますか。」
家族でよく話し合って決めましょうとおっしゃるが、ロックト・インに至ると言う事はとてもではないが、母に伝える事などできないと私は思った。そんな事を言ったら、なんとか気を取り直してわずかな時間を大切に前向きに生きていこうと文字通り頑張っている母は、望みを完全に絶たれて死んでしまうに違いない。呼吸器を付けないと覚悟する前に生きる意欲をなくしてしまうに違いない。しかし、事実を隠してそのままいけば、母を騙して生き長らえさせる事となる。。。
それでもいい。その十字架はわたしが一生背負ってやる。大事な決断はいつも即決。そして大抵は外した事がない。変な自信があった。母に黙っていてください、と私は先生に頼み込んだ。もしかしたら呼吸器を付けても、そういう風にならないかもしれない。1%でも可能性ががあるのなら、それに賭けてみたいのです。
先生は黙っていらしたが、ひとこと、そうですね、とおっしゃって、望みがないわけではないし、もう少し様子を見てからお母さんに相談しましょう。といわれる。どうしても宣告しないといけないことなのですか。と食い下がる私に、お母さんは耐える事ができる強い方ですよ。真実は隠さないで本人に決めさせないといけません。という。
医者の中には宣告できず、患者本人に病名も告げないで逃げてしまう人もいる。また、家族が本人に伝えられないまま病名を知らないで亡くなる患者さんもいる。告知の是非は大きな問題である。もし、癌のように何らかの方法で抵抗できるのなら,告知して患者も一丸となって闘うのが1番いい。それは誰でもそういうだろう。しかし、難病の場合は人間の力は限りなく無である。その場合の告知は患者のとりようによっては死刑の宣告と同じに聞こえる。医者にしたって自分の無力をつくづく感じる事だろう。だが、命は本人のものである。その大前提を忘れてはならないのだ。
私は、そういいつつも大矛盾を犯そうとしていた。つまりALSの告知に対しては非常に的確に母に伝えもしたし、いっしょに勉強もした、がロックト・インになることについては完全に自分の胸の奥にしまいこんで密封してしまった。
疑惑
家に戻ると母は何も知らないのでいつものようににこにこしている。笑うことさえ困難なこの局面にして周りの人を楽しませようと元気を装う母である。どうやって、そんな残酷な事が言えようか。先生は何て言っていたの?と聞き込みを開始する母になんと言って誤魔化したか記憶にはないが、ひとつだけ。
あれは何かの拍子に私がいらいらして母に決断を迫った時だった。誰だって責任は回避したいものだから、十字架を背負う覚悟はしたものの、やはり母自身の言葉で”生きていきたい”といってもらいたい。しかし,母としては娘の口から”生きようよ”の言葉が出るのを待っているのだ。妹には,真実を告げて父にも話したが結局鳩が豆鉄砲を食らったような顔になって凍ってしまってこれっきり。妹も私も今後の展開の厳しさを予測できたから、以前のようにお気楽にいきていこうよ!!とはいえなくなっている。
母はその微妙な変化を見逃さなかった。ある夜、妹に”お姉ちゃんは看病したくないんだろうか。”と話している声が聞こえてきた。台所で夕飯の準備をしていた私に気付いているのかいないのか。そんなはずないじゃない、と否定してくれる妹に救われながらも,一番母に生きてもらいたいとおもっている娘の私達が母の疑惑の対象になりつつあるのが悲しかった。
神と医者と
この病気の前では人間は完全に無力である。医者は病を治してこそ医者である。そう言った意味合いでは母にはお医者さんは存在していないと思ってきた。だから、うちの場合は私が母の命の全責任を負う覚悟をしてヘルパーさんにも医療行為を任せてきた。そうでもないとこんな病人,家に連れては帰れない。
神にも医者にも見放されて在宅で療養している難病患者は自分の命を自分の責任で(または家族の責任で)生きぬいていく。そうして生きてきたALS患者に出会うといつもその精神力に圧倒される。人間の本当の崇高さは身体が言う事をきかなくなった時点でスイッチが入るのではないかとさえ思う事もある。現に友人たちの中で”あれ、昔と違ったな、”という印象を受ける人は人の病気や生死に深く関わってきたという。人の無力さを思い知って初めて謙虚になれるのだと思う。
医者の友人で医学を捨てて宗教家になった人が数名いるが、その気持ちもわからないことはない。無力を思い知らされたのだろう。身体は救えなくても心や魂を救おうとおもったのであろう
だが、人間が人間を救えるだろうか。否。人は自分の願ったようには救われない。現世ご利益的に救われたらそれが幸せというものだろうか?否、人間の欲には限度がないからいつまでたっても救われない。人の願いを祈りで簡単に聞いてくれる神がいるだろうか。人類の何割の人に重荷を背負わせると決められて実行しているのが神である。その神が祈りによって、ではかわいそうだから救ってあげましょう、と簡単に心変わりするのであれば、それは神でもない、なんであろうか?私は自分も含めて周りの人間に起こりうることを人類全体の中で考える。即ち、わたしがこうならなかったら、誰かがそうなっていたであろう、誰かがそうなったのは私の身代わりだと。私の信じる神は善とともにきっちり悪や災難をこの世に残し、運悪くそれを背負って生きていくものには最大限の慈悲の眼差しを向けてくれている。でも、決してそこから救い出してはくれない。そう信じる事によって大抵の事は納得ができるし、人類の一部分である私が代表して背負っている事柄については精一杯努力させていただこうと謙虚な気持ちで日々を送れる。
医師という仕事につきながらそれを断念してしまうのはあまりに惜しい。なぜなら、医者は人間の病を実際に治すことを許された唯一の職業だからだ。治せなくても楽にしてあげる事は出来る。同情しいっしょに分かち合う事だってできる。難病患者は医者に治してとは期待しなくても分かって欲しいとは願っている。本当の身体の痛みや苦しみを和らげてあげる権利をいただいておきながらその権利を放棄して神にのみ託された人の魂に近づこうなんて救おうなんて、なんで考えるのか、もったいないことだとつくづく思う。
DR.キリコ
手塚治の漫画ブラックジャックに登場するライバル。DRキリコは患者を死なせることを医者の使命と信じて、ことあるごとにブラックジャックと対決する。
高校の頃親しくしていた友人にDR.キリコがひとりいる。仲間が何人も宗教家になってしまうので、ためしに宗教には興味がないの?と聞いてみたら、どう頑張っても創始者にはなれないからね、と言う。初めから人を救おうなんて考えていない彼だから、たずねた私がバカだったのだが。軽蔑されついでに聞いてみたのは、何で医者になったのかということ。それには医学に興味があったからとかなりまともな答えが返ってきた。自分のように人に全く期待もしなければ使命感ももたない者でも研究を続ける事で貢献できるでしょう、とさらりと答える。この人の私とはまったく違う次元ではあるけど人類全体の中で自分の位置を見極めているのだと少し嬉しく思った。だめだと思う患者は初めから助けないの、殺すんだ。とまたしても、さらりと言う。でも顔が恐いよ。信念もって殺すんでしょう?と水をかけると さあね、とはぐらかす。家族にはできないからね。素人さんにはね。とさもお医者らしい言い方をする。その素人さんにも選択させなよ、と言いたいのを堪えながらじっと待つ。こちらの出方を待っているのが分かって、わたしは少しほっとした。彼は今も某国立大学の研究室で遺伝子を相手にストイックな闘いの日々を送っているに違いない。がんばれ。
がんばれ。
思い出すまま、つれづれに書いているので時間の経過がめちゃくちゃである。書く事で忘れ去られそうだった事がしっかりと整理されていく。今の私には癒しにさえなりうるこの作業があの母と難病との格闘の毎日の中ではとてもじゃないけどできないことだった。
よく書きとめておくようにと薦められたが、書くことにはある程度客観的に自分や回りを見つめる事が出来ないと不可能である。そんな余裕があるようには絶対に見えなかったはずなのに、無神経だなとも思った。実際、される事,言われること、ことごとく気に障った時期もあった。
丁度夫が帰国するまでの1年半の間だ。いじけていたから?ではないような気がする。そういう緊急事態に遭遇していると日頃には全く気にも止めないような事、些細な事が心の琴線に触れる。鋼の心臓かといわれる私の心臓も不整脈となり動悸で眠れない夜が続いたりもした。
病人に絶対に言ってはならない言葉がある。参考までにここに記す。それは、頑張って、という一般的などうでもいい励ましの言葉と、顔色がいいじゃない、というわけのわからない言葉。病人も家族ももう限界というくらい頑張っているのに、さらに頑張れというのは酷というものだ。顔色や肌艶を誉めるのも他に言いようがないのを何かいわないと、というもので、舌足らずの料理評論家が、まったりとしたお味ですね、とかいうのと同じに聞こえた。止めましょう。一番心に染みたのは素直な涙の一筋や、無言のマッサージや、道端の季節の花を手折ってきてくれた、そういう心遣いだった。
今は介護生活も軌道に乗り客観的に自分や回りが見えてきた。友人の励ましが素直に嬉しい。では、あの頃感じた憤りはいったいなんだったのであろうか?よく、病気が人を変える、というが、病人に付き添っている者の立場である私も世間に怒りを感じる事が多かった。病気の人がわがままに思えてもそれを責めてはいけないと思う。健常者にはわからない苦しみは何も身体の痛みだけではないのだから。
尊い仕事
在宅での介護が半年で、わたしも妹も体力の限界に来ていた。私は朝から夜7時まで、妹は帰宅から明け方まで徹夜で、文字通りつきっきりの介護生活である。文字盤を使っての会話が7割、あとは筋肉の脱力に伴ういいようのないだるさを手、足、首、腰等,交互に動かしてやる事でごまかす。体位交換から排便のお手伝い、たんの吸引とひっきりなしのお世話が続く。当に気力も体力も限界をむかえているのだが、かわってくれるヘルパーさんが見つからない。
まず、気管からの吸引をやってくれる人がいない。法律でまだ自宅での医療行為が許可されていないのだ。それに紹介所を通して探すと区の補助金が出ないという。(介護保険施行前)都や区の制度は、あっても使えないようなものが多い。その件でも区の福祉課の人に食らいついてなんとか補助金がでるようにしていただいた、のだが肝心の介護者が見つからない。
藁をも掴む思いでやっと見つけた人は、自分の子供を亡くして、まだ2年足らずの、私より2つ若く妹よりひとつ年上の珍しく若い介護ヘルパーさんだった。経験はないものの、面接してみたら責任感の強いきちんとした人柄が伝わってくる。このひとなら出来るかもしれない、と直感する。在宅でのごちゃごちゃしたややこしい、器械がいっぱいで患者本人も家族もパニック状態の、そんな過酷な環境に自ら飛び込んで来ようというのだ。なんで好き好んでこんな現場の仕事を選ぶのだろうとさえ思ったがこちらにしては願ったとおりの人なので、すぐに来てもらう事にした。
彼女の根性はすごかった。見た目は細身の日本美人で介護のような3Kの仕事からは程遠いように見えるのだが、そのプロ意識たるや母にどんなに睨まれようと崩れない。腹が立つことがあっても顔に出さない。日毎に家族の信頼は増し、あの人見知りの父でさえ娘には言わないような事を彼女には相談するようになった。彼女の存在なくては我家の在宅介護は始まらなかった、というより転覆,浸水していたであろう。
たくさんの介護を生業にする人に接してきて、やはり心に祈りのある人は違う。それは別に宗教を信じている、いない、ということではなく、ただ命に対して正しく理解しているか否かの差が身のこなし手の優しさに表れるのだと思う。病院でたくさんの患者さんと接する看護婦さんには当初の誓いを忘れている人が多い。忙しいのは分かるけれど患者をまるで物を扱うようにするのは止めて欲しい。時々、じっと自分の手を見ることを薦めたい。自分の手の温かいか、優しいかを時々確認するくせをつけていただきたい。
幽体離脱
もしも、万が一病気がこのまま進んでしまってロックト・インになってしまったらコミュニケーションが絶たれて大変退屈なことになるだろう、と思いだしてもいた。そうなる可能性があるとは母には言えないが、もしそうなってしまったら、と思うとなにか先手を打たねばとも思って、思いついたのが幽体離脱の訓練だった。
身体から自由に離れる事ができたら何も全く動かない体なんてほおって置いて好きなところに出かけていけばいい。むちゃくちゃな発想であるが何も方策がないとは考えたくなかった。そこで、妹に試しに話してみると,妹は妹でテレパシーの訓練を密かに開始していた。似たもの姉妹である。
でも、おかしいのは何も知らない母が幽体離脱の訓練の話をした時に、さっき練馬の貫井に行って来たという。そんな地名があるのかと地図で調べたら本当にあった。何しにいったの?と聞いたらナンダか知らないけどそこにいた、と言う。これは、すごい!もともと霊感の強そうな人だったからもしかしたら簡単に幽体離脱が出来るようになるかもしれない。なんでもいい方に考える癖は絶体絶命の局面でも時折顔を出して、回りを呆れかえらせる。丁度、まだ病院に入院していた頃だったので夢のようなことばかり話している島田さんちの長女さんはいったい何もんだろう?と看護婦さんに思われていたかも。でも、母は私の期待に応えるかのように昨日はロンドンに行ったとか、松本に行ったとか報告してくれる。すっかり自信を深めたわたしはいい気になって本屋で「臨死体験」の本を買ってきて読んだりしたが、臨死体験とは本当にあるらしい。人が死の間際になって脳内の血流に二酸化炭素が溜まってくるといわれもないようないい気持ちになって、それまでの人生を走馬灯のように思い出したり、遠隔地の友人を訪ねたり、ということができるらしい。でも、さらに読み進むとそれが本当に霊的な体験であるのか、それとも脳が見せる幻覚であるのかは定かではないとくくってあった。まあね、さもありなん。でも、母にとったらどちらでも同じことだった。好きな夢を好きなように見られたら、それはそれで幸せな事だ。身体が動かなくなっても目玉が動かなくなっても魂の自由は奪われないのだから。どうにも抵抗できない病の前にでっち上げにも似た希望を掲げて、わたしは自分の行ないを正当化したいだけだったのかもしれない。。
しかし、そんな訓練の心配をしている間に、画期的な機器が発明されていた。マクトスという脳内の微弱なベータ波を拾い出す器械だ。頭にセンサーをつけて脳に力を入れると、ピーとなる。他の器械にスイッチとして繋げたら脳に力を入れることでテレビや電気のオン,オフが出来てしまう。人間の力は侮れないと思った。それさえあれば、例え目玉が動かなくなっていっさいの合図が出来なくなっても脳を侵されない限りはコミュニケーションは絶たれない。ひとつの大きな救いが形となって現れてきたのだ.
衛生管理?
呼吸器をつけて胃に穴を開けて管を入れ、道尿もしているので母の身体からは計3本のチューブが出ている。さらに呼吸器をはじめ部屋で使っているありとあらゆる電気器械からはそれぞれコードが出ているので、そういう状態をスパゲッティー症候群と言うのだ,と言われてむかっとしたことがある。でも、確かにスパゲッティーの中に埋まって寝ている母がいる。うちの場合はその上に猫の毛が絡まっているからスパゲッティーもほこりにまみれてしまって、毎日よく掃除しなければ重病人のいる家とは思えないくらい不衛生である。
猫は3匹。みー、むー、たま。もじゃりんというかわいいのがいたけど生後1年を待たずに亡くなってしまい、ミーが逝ってしまった後には、また生まれたばかりのを子供が拾ってきたりして常時3匹という定数を守っている。これがたまたま4匹になったりすると、とたんに猫が目に付くようになるから、3と4の間には無意識下に大きな川があるのかもしれない。どの猫も出入り自由の自由型猫なので平気で土足で上がってくるから雨上がりの日など猫の足跡が床一面にまるでスタンプのように賑やかで、あらら、と思ってふと母の方を見ると猫が皆母のベットに土足で上がりこんで寛いでいる。
これは病院関係者に見られたらお小言ものかもしれない。毛をかきむしるから抜け毛が舞って呼吸器のフィルターはいつも真っ黒。寒くなると、いつのまにか母の布団の中に土足でもぐりこんで暖をとっている。猫は寂しくなってくると身近な人にもみもみをするのを知っていますか?母は身動きが出来ないまま3匹の猫にもみもみマッサージを受け困った顔をしているので私は思わず吹き出してしまった事もあったっけ。
さらにおじいちゃんは(父)いくらいっても手を洗わなかった。そういう習慣がないものを重病人がいるからさあ、といっても三日坊主にもなりゃしません。家族が多いので誰かがいつも風邪をひいているし、我家だからといって病院より安全とは言えないと本気で思っていた。
高元先生と中村先生にそう言ってみたら、住んでいるばい菌が違うのよと全く気にも止めない様子である。まあ、雑菌といえばそうなんだろうけどね。
ホーキング博士
ずっと昔、まだ神経難病の存在さえよく知らなかった頃、テレビのコマーシャルでこの人の姿を観た。車椅子に座ってじっとしている。宇宙はわたしの中にある、というようなコピーだったと思う。世の中にはこんなに残酷な病があるのかと思って涙が出た。そして、この人のお世話をしている人はいったいどういう人なんだろうとも思った。
母がALSの告知を受けて、まず最初に彼の著書を読んだが難しくてよくわからないので、彼の人生を書き綴った本を借りてきて読んだ。発病時、彼は快活で優秀な科学者の卵であった。あちらでは呼吸器を付けないで亡くなる人が多いが彼は当たり前のように呼吸器を付ける生活に突入した。物理学の研究を続けたいという強い意志と彼を支える妻の理解と周囲の要請がそうさせたのだというように書かれていたと思う。まだ、彼は結婚前だったような記憶もあるが発病後にも子供をもうけているし最初の妻の勇気には脱帽する。今では呼吸器を装着して生きていく事は珍しい事ではないけれど、当時では、(もう30年くらいも前になるだろうか、)画期的な試みであったことは想像できる。でも彼のためにオックスフォードやその他の研究機関の階段にスロープが設置されたり道の舗装が進んだりしたらしいから、彼の貢献は単に物理学の分野だけではない。
驚くのは彼の病気を物ともしない明るさと精神力だ。「わたしには幸いにして時間がたくさんある。他の科学者のように食べる事やトイレに行ったり出かけていくといったような雑事に忙殺され、思考を中断されることなく1日中考える事に時間を費やす事が出来るので幸せだ」とまるで、障害を逆手に取ったような発言。でも本当にそうなのだろう。それでライバルの科学者に嫉妬されるとも書かれあるのには、そういう世界もあるのかと驚いたが。
確かにこういう病気の人は身体を使わない分、頭をフルに使っているので、まわりのぼんくら人間では到底到達できないような事まで気がつくらしい。うちの母は冷蔵庫の中身を見もしないのによく記憶していて、いただいたかまぼこを早く食べないと悪くなるなどとよく文字盤で伝えてくれた。まあ、これは本当に卑近な例で主婦だったので台所が気になりつづけている訳だ。だが、寝たきりであってもテレビ等からの情報はいっぱい入ってくるので株を趣味にしたり,政治の動向に非常に問題意識をもっていたり、新しい商売を考え出したり、と挙げていったらきりがないくらい彼らの内的世界は幅広く奥深い。もう、治ろうとかそういうことは超越してしまっているのである。ベッドの上でも社会に目が向いている、世の中の仕組みの是正を真剣に考えている人も多い。病気の人が健康な人の思い至らない”みんなの幸せ”を考えている。
ホーキング博士は最初の奥さんと離婚して、また一昨年であったか再婚された。動かない彼の中には確かに宇宙が存在していて、科学を突き詰めていくとそこには神の存在があるという。今はどうしておられるのだろうか。一度お会いしたいものである。
ヒトゲノム
ヒトゲノムの解析が終わったという。こういった難病の場合遺伝子レベルの研究が進まない事には原因も治療法も見つからない。ということだから、あともう少ししたら難病といわれるいくつかの病気の原因が解明され特効薬が開発されることだろう。生きているうちにALS患者さんが治ってベッドから起き上がる所を見たい。それを見て死ねたら本望なのだ。お宅のお母さんは残念ながら間に合わないねと、例のDR.キリコに意地悪く言われたけど、母が治らなくてもALSは倒したい。どんどん車椅子から患者さんが立ち上がっていく様は壮観だろう、と夢に描いているんだから。
ただし、治療はすすみ医学がどんどん発達して、それが人の幸せに直結しているかは疑問だ。人間150歳まで生きられるというのは素敵な事とは思うけど、寝たきりの時期が延長されるだけでは意味がない、と思う。いや,寝たきりで長生きはいいの、そうなった時のQOL(生きがい)の問題だと思う。
生きがいを見出すためには、しっかりとした生活の保障がなくては不安だしなかなか進まない福祉制度を尻目にどんどん医学だけが発達したらとんでもない事になってしまう。取りあえず命は救うが、後は知りませんでは寿命がいくら伸びたって悲惨な年寄りが増えるだけだ。
長生きが当たり前の時代が来るのであれば尊厳死の法制化は必要だとも思う。人間の幸せには選択の自由がある、というのが絶対条件だと思うからだ。誰に決められるのでもなく自分で自分のことを決められる、それが大前提だと思う。返していうならALSの場合も、生きたいと願う人には生きていくチャンスを与えてあげたい。介護者がみつからないとか経済的に無理とか、療養する場所がない、という理由で呼吸器を付けないで亡くなる人が大勢いるのも現実だ。
医学が進むのと同じ位のスピードで呼吸器などの医療機器も発達して欲しいとも願う。手に乗るくらい小型の呼吸器や装着するだけで身体が自由に動かせる機械、脳波を読みとって音声化できる機械、小回りのきく車椅子。介護機器の発達が病気の人と元気な人との共同生活を後押しする。画して理想はどんどん膨らみつづけるが。。。