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尊厳死 QOL 知りたくない権利 インターネット パソコン 短歌 母、歌人となる 桃源郷 クリスマス会
尊厳死
尊厳死の法制化などと言いながら、わたしは大きな矛盾を犯してしまっている。
他人様の尊厳死は認めるけど身内の尊厳死は絶対に認めたくない、という矛盾。
そして、母本人の至り知らないところで本人の命を操作してしまったかのような罪悪感にずっと囚われてきた。
今、ここにいる母はもう、何も発信することができない。
でも、この中には確かに生の母の魂が息づきている。まだ、柔らかい感情が入っているはず、そう思うと堪らない。
自分を弁護するなら、母だって自分で尊厳死を選べたとは思えない。
もし母本人がキリストとの出会いですんなり死を選べたら(喜んであちらに行く覚悟が出来ていたら)とも密かに願っていたものの、母は天国よりも家族といたいといっていた。
家族といたいけど、呼吸器を付けて生きていくのはイヤだ、
家族に迷惑をかけるのはいやだ、だからどうしよう、死ぬのもこのまま生きるのもどっちもイヤだと言っていた。
そう呟いている母の傍らにいる娘に、がんばって生きていこうよと言って欲しかったのではないだろうか。
生きていくのは嫌だけど、娘が生きてくれというのなら生きていこうか、とその言葉を待っていたのだ、と思う。
でも、とうとう母の待っている言葉は最後まで、私の口からも妹や父の口からも出ることなく,母は自分で決断を下せないまま呼吸器に繋がれた。
 尊厳死というが、本当に喜んであちらに行ける人は少ない。
よほど神を信じていないと誰だって死の世界にたった独りで行くのは怖い。
独りで知らないところにいくより、知っている人といたいと思うのが素直な気持ちだと思う。  死を選ぶ患者さんは自分の命に自ら終止符を打つことで家族を守ろうと考えているのだろう。厳しい宣告をわたしが蓋をして決して見せなかったので、母はそういう意味合いで尊厳死という選択をを真剣に考えていた。
だが、もしロックト・インになるかもしれない、という診断結果を母に知らせていたとしたら、尊厳死どころか絶望死だ、と私は震えた。
そんな残酷な告知はできません、と高元先生にお願いした。
先生は母にMRIで撮った脳の断面図を見せながら、若い脳ですね、と一言のコメントで母をほっとさせた。
でも、真実は告げねばならない、みんなでよく話し合わなければならない、と後で私を呼び出されて付け加えられた。
もし、あのまま母が呼吸の麻痺とともにあっちに逝ってしまっていたら、
私は深い後悔と不完全燃焼にも似た脱力感に囚われて、やはり自分を責めていただろう。それがいやで母から尊厳死の機会を奪ったのだ。
後悔にも似た気持ちが沸いてくると「命は自分だけのものではない」、
と私は自分に言い聞かせている。
そういうお守りがなければ、生きることがなんであるのかまだ全然判っていない私にはこんな介護生活は続けては来られなかった。
QOL
お守りと言って、免罪符とは言わなかった。
母が今の状態でいることに関して自分を責めつづけ、また、母の命の行方について本来であったら父が背負うはずの重荷をなぜ私が背負わねばならないかと思って父をも恨んだことはあった。
そうして、あいまいな気持ちをごまかすくらいならめちゃくちゃに生きてやろうと自暴自棄になった時期が1年続いた。
家族の絆などないほうがいいと思い自分の家庭もすんでのところで崩壊寸前になった。
しかし、ここに来て、わたしは逃げるのを止めた。ひとつは新しい出会いからある思いに至ったこと。
それは、近くの杉並の患者さんとの出会いで、彼は呼吸器をつけないという。
母と比べたら比べようもないほど軽い症状である。
呼吸器を付けて生きていけば、まだ一旗も二旗も揚げられる。
何をもったいないことを、ととっさに生きていきましょうよといってしまって口を押さえた。
他人が口出しすることではない、これは本人が決める事。
呼吸器をつけてからのQOLの問題であろう、とも思った。人が何を持って生きがいとなすか、それは人によって違うのだ。
翻って母の今の状態をQOLが低いというのだろうか、と考えた。
確かに医学的には自由度もないし、意志の疎通を阻まれているからQOLはかなり低いといえようが、本当にそうなのだろうか?
わたしはそうは思えない。なぜなら、母はいまだに母親としてこの家で絶対に必要な存在として居るのである。
自分の役割を元気な時とかわりなく果たしつづけている人をQOLが低いと言えようか?さらに言えば、母が元気であった頃にはなしえなかったこと、つまり、娘の内面的な成長を促すということを、このロックト・インの状態になってから行ないつづけているではないか。
私と母、妹と母は、特別に仲がよかったというわけではない、
その辺に普通にいる普通の母子関係だった。
だからごたぶんにもれず、子供は母親に批判的であったし妹など顔を見るたびに縁談を催促されて切れる寸前であった。
この病気がなければ今ごろは、どうなっていたかわからない。
今こうしていても、母から私の中に流れ込んでくるものを確かに感じる。
それは、絶対的な命の賛歌、といったら変かもしれないが
人間は愛によって生かされている確固たる証拠である。
毎日を懸命に生きている母の姿をみていて私は自分にしっかり生きよと命じた。そして、自分を責める暇があるのならひとりでも多くの患者さんやそのご家族の助けになる何かをせねばと思った。
このHPを読んだ患者さんやご家族を傷つけまいかと一時悩んだが、
告知の問題を闇の中に葬ったままにしてはおけない。
真実を見据えてもなお生きていく勇気、またそれを支える勇気を持って欲しいと願っている。
知りたくない権利

矛盾するが、知りたくない権利もあるのではないかと思い出した。
知りたくない権利を行使するためには、前もって、わたしはこういうようなことは知りたくありません、と誓わねばならない。
そういえば、母ははっきりとは知りたくないとは言わなかったが、診断の結果を聞くたびにがくんと症状が悪化するので頭では知らねばと思っていても身体は拒んでいたのかもしれない。
父のように絶対に認めないという手で拒否することが出来たら、どんなにいいだろう。でも、それでは闘えない。
こうやってHPに書いて事実を公開すると、
たまたま通りかかった人に知りたくもない事実を知らしめて(押し付けがましく)苦しめてしまうのではないか、と迷い出す。
知って欲しいから書いているのに今一歩のところで勇気が挫ける。
尊厳死だのロックト・インだの言って不吉な予感で懸命に闘っている患者さんの意気を消沈させはしまいか、と。

インターネット
在宅で過ごす時間が多い難病患者の必需品になりつつあるパソコンであるが、やはり年配の患者さんには敷居が高いのかもしれない。
それに費用もかかる。
政府がもう少し太っ腹なら、こういう在宅の必需品としてベッドの貸与と同じような感じでPCの貸与と接続費の軽減等をお頼みしたいところである。
こう書いたらたった今、友人からメールでのアドバイス。
「ちなみに、パソコンは、障害者では「ワープロ」という名目で補助があります。上限118,500円、身障手帳の所持者で、上肢もしくは言語・上肢の重複障害、程度は1級または2級です。
障害者こそ、パソコンは必要よね。まさよちゃんは、パソコンのおかげでずいぶん世界が広がったし、「共働学舎だより」の編集長もできてる。
でも、一面、あじが書いたように、「会ってこそ」というのも真実。
パソコンは、きっかけと、情報源だよね。」
Nちゃん、ありがとう。。


このように、居ながらにして全国の人と会話でき必要な情報もただで手に入る。患者だけでなく介護者にとっても便利である。
または、気分転換にもなる。
しかしながら、やはり文字は文字であり、交友が進むとちょっとした言葉のすれ違いから思わぬ誤解がさらに誤解を招く。
目と目を合わせて話し合えば,絶対に起こり得ぬ事態も発生する。
また、年齢,性別等、いくらでも誤魔化す事ができるので、ネットの中で培われていくものは、やはりそれなりのものでしかない。
こうやってHPを作りリンクを張らせていただいても実際に会って話したい衝動に駆られる。
病気の人や介護者のネット交流はますます盛んになるだろうが、やはり忘れてはいけないのは、訪ねていき手をとって対話する事ではないか。
病気の人や障害のある人ほど生のふれあいが大切ではないか、と実感している。

パソコン
そういえば、思い出した。
母が闘病生活に入った5年前は、まだいまのようにインターネットの普及する前であったため、コンピューターの導入に際しては知識のある人が回りにおらず,本当に困ったことを思い出した。
何を買ったらいいのかわからずに、行き当たりばったりで障害者用のパソコン(マックでもない,ウインドウズでもない,他のソフトも入らない)を購入した。
確か少し公費の援助も出た。母の意志伝達装置としてのコンピューター導入計画であった。
だから、今のように情報をそこから得るという発想は全くなかった。
すっかり忘れ去られているのは、あまり役に立たなかったからである。
なんでかというと、まず、その入力方法が病気の進行とともにどんどん変わって、工夫が追いつかなかったからである。
結局は文字盤のほうがずっと早く、本人の意思を伝達できる事がわかり、高額なパソコンはおよそ、数回、母の言葉を代弁してその役目を終えた。
入力方法はまばたきを感知する光センサーを使った。
その前は指先にタッチセンサーをつけて行なっていたが、それもわずかな期間しか利用できなかった。
パソコンを使いこなして、全国の障害者にその利用価値を伝えていらっしゃる患者さんもいらっしゃるのを知り、同じALSでも症状によっては、こんなにも違うのかと認識を新たにした。
まあ,症状の違いだけでなく、文字盤や目の合図の読み取りと言った原始的な方法のほうが、熟練するとずっと早いので,初めから伝達機器としてはパソコンを使わない人も多い。

短歌
在宅に切り替えて半年たって、何か生活に張り合いをと思っていたら、
母が突然、川柳をやってみたいと言い出した。
この決心が鈍らないうちに先生を見つけて指導していただこう、と思ったが、どうやったら先生が見つけられるだろう。
通いで習いに行くのは無理だし。そう思っていたら公共のサービスにやたら詳しい母が中野ゼロのロビーにそういうサークルを紹介してくれるところがあるから問い合わせなさい、と言う。
区のサービスや福祉に関してド素人のわたしは、やはり母に教わる事が多い。さっそく出向いていってみた。閑散とした窓口に行って見ると係の人が待ってましたとばかりにやってきた。
さっそく川柳のサークルを探してもらったら、ない。やっぱりと思って、では短歌でも俳句でもいいです、といい加減な娘。母の事情を話してみたら、係の人の目が輝いた。偶然というのか、ラッキーなことにその係の人の姑さんが東中野に住んでいて短歌の女流歌人だという。
ボランティアで短歌の添削指導をしてくださるという。さっそくその方にご指導をうけようと連絡をとってみた。
東中野の高級住宅地の一角に先生のお宅があった。
初めて会った樋口先生は気さくな方だった。
母の様子を話すと先生も一度交通事故で辛い思いをされたと自分の経験から母の身体の動かない様子にいたく同情された。
私は先生のお人柄の素敵なのに圧倒され、是非一度母に会っていただきたいとお願いしたら、先生も是非にとおっしゃってくださった。
数日後先生と母との対面が実現して元気な頃には考えられなかった歌の世界に家中でのめり込んでいくことになった。
人と人との出会いについて、そのタイミングのよさに驚きの連続である。
こういう人に出会いたいと願っていると本当にそういう人に出会えるものである。気のせいばかりではないようだ。洒脱な人生の法則に確信が持てるようになっている今日この頃でもある。
母、歌人となる

作文は得意な母であったが韻文系となると、たぶん真剣に取り組むのは生まれてはじめてだったのではないだろうか。
病気になってほとんどどこも動かなくなってからの初挑戦にみんなも同乗することとなり、元来乗りのいいお調子者ばっかりの我家の介護スタッフが燃えた、燃えた。
 
しかし、短歌の57577に歌がはまり込まない母であった。
字余りの連続で、頭の中で数えられないのか、と文字盤に顔を埋めて、
呆れかえる娘を尻目に○を57577と文字盤の端っこに書かせてその中に合わせて歌を読みこむ工夫をした母。
ああ、脱帽。でもね、文字盤で読み取る歌は、お世辞にも短歌といえない、それは川柳かどどいつ、だよ、と言ってみんなで笑った。
短歌の風情っていつになったら現れてくるのだろう。そう思いながら毎日少しづつ歌を詠んだ。
 
 好きこそ物の上手、とは絶対に嘘だと思うけど、気合と根性で歌がだんだん短歌に近づいてきた。
家にいたのでは題材が少ないので、河口湖にでも行ってみるかと出かけて行っては歌を詠んだ。私も母につられてにわか歌人になった。そんな私たちを激励してか、樋口先生は、若手の女流歌人が少ないんです、とおっしゃり私と介護の松山さんの心をくすぐった。
歌人といったら、なんだかかっこいいじゃない。転んでもただでは起きない、母の難病のおかげで新たな才能が芽生える私。。と頭の中では歌壇にデビューした和服姿のわたしが光り輝いている。(たぶん、松山さんも同じことを考えていたかも)

 そんなこんなで母に便乗してみんなの歌詠みの会が始まり、樋口先生は母は完全に無料で、あとの人たちには四首千円で添削してきださる日々が続いた。先生の添削は温かく直していただく事で、川柳が、どどいつが、短歌に化けた。
久しぶりにプロの技を見せていただき、歌壇の夢はどんどん遠のいていったけど、普段の生活を読む事で起伏のない療養生活が毎日新鮮な驚きの連続となっていった。
桃源郷

母はこの病が始まるまで一心に油絵を描いていた。
私の祖母を看とって完全に身軽になった母は読売文化センターに毎週通い詰め、あれこれ7年くらいの歳月を油絵に賭けて暮らしていた。
いくつかの展覧会に出品してそのうちのいくつかには入選を果たせるようにもなってきていた。
銀座の個展を友人と開くようにもなって老後はきっと油絵三昧だね、と言っていた矢先に絵筆も持てない残酷な病にかかってしまった。
もし、どこか1箇所でも機能が残っていたら、例え口にだって筆をくわえて描きつづけていたに違いない。

さて、元気だった時写生にいった桃の里、山梨県の御坂にもう一度行きたいとベッドの上で母がいうので、そんな遠くの外出は気管切開して初めてだったが、母の主治医の中村先生もいっしょに行こうといってくださったので、総勢10名ほどで車2台連ねて出かけた。
前日のお天気がよくなかったので心配だったのだが、
お天気おじさんが二人、お天気坊やもひとりいて(学校を休んで同行)春霞みの山は薄黄緑に煙って見え、なんとも美しい光景になった。母はやっぱり運がいい。。
 桃の山に登っていくとふもとの町は全体がピンク色に染まってどこからともなく桃の甘い香りがしてくる。
 さっそく同行の母の友人2名、桃農家の人を捕まえ収穫後に送ってもらえるように手配していた。向こうの方には遠く南アルプスが連なって見える。
母に見えるように車椅子の向きを変えながら今度はあの山を越えて松本に行くよ、といったら文字盤で、”故郷は錦を飾るところ”などと言う。やはり呼吸器を付けて間もない母にはまだ自分の姿が受け入れられないらしかった。
 お昼過ぎにはかの地を後に東京へと帰路についたが、みんな母に感謝していたよ。こんな機会でもなかったらこんなところまで平日来られないもんね。

クリスマス会

毎年恒例になった我が実家でのクリスマス会。
今年も開催する事ができそうで、ほっとしている。
いいだしっぺは、いくちゃんだった、と記憶している。訪問看護婦のいくちゃん。
お歳を書いたら叱られそうだけど、母と私のちょうど中間ぐらい。
身長も書いたら叱られそうだけど、私と晃の丁度中間ぐらいだった。今は晃と同じくらいかな?

楽しい事を考えついて、当日は誰よりも楽しんで(病人よりも)くれるので、母も介護してもらっている甲斐があるというもんだ。
母の耳元でよくいろいろな感謝の言葉とか慰めの言葉をかけてくれていた。たまに、私と母との大喧嘩の最中に訪問してしまい、1人暮しのいくちゃんにはそのごちゃごちゃでもなんとかやっていける家族関係が理解できなくて困っていた。
思わずいくちゃん、母に私の根性の悪さや覚悟のなさや躾の悪さを告げ口してしまって、つまり母の味方についたつもりがかえって母の怒りを買っていたりした。どんなに不出来な娘でも他人に悪く言われると猛然と憤慨するのが母親というものだ。それがわからないいくちゃんであった。

一度、いくちゃんが企画して、システィナ礼拝堂の少年合唱団のコンサート、本番は呼吸器の音が迷惑なのでいけないけれど、そのリハーサルに潜らせてもらった事があった。場所は目白の東京カテドラルだった。
やはり誰よりも興奮して、思わず植えこみに落ちちゃったいくちゃん、母は苦笑いしながら楽しんでいました。

訪問看護を引退して今は何をしているのだろう?
身体がキツイっていってたけど、看護にもいろいろあるから、たとえば話し相手だけだっていいからALSの人のところに残って欲しいなあ。
天職があるのなら、難病訪問は天職だと思うよ。いくちゃんの。
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