本当のジャクリーヌ コックピット コックピット 2 自殺志願 病人に教える事勿れ チェロとわたしと子供達 ふたつの家族 帰国当日 病人 神経病院
本当のジャクリーヌ
今となっては暇を見ては外出も好きなようにできるようになったけれど、当初は家に缶詰でいらいらが爆発寸前だった。そんな私たちの唯一の楽しみはビデオ鑑賞だった. 昨日、 話題にもなった「本当のジャクリーヌ・デュ・プレ」をレンタルして、観たらもう堪らなかった。話は一声を風靡した美貌のチェリスト、ジャクリーヌの半生で難病の多発性硬化症でなくなる前までの姉との関係を描いたもの。
姉も音楽を志していたのだけれど妹の才能に吸い取られるかのように、音楽への情熱がしぼみ普通の恋愛をして幸せな家庭生活に入るのだが、妹は妹でそんな普通の家庭の愛に餓えて、ある日姉の一家に突然現れ夫婦の間に入りこもうとする。当然、姉妹の仲は険悪なものとなっていくが、最期には姉妹の確執も消えて。。。そこまでは何でもない普通のストーリー展開なのだけど、何が泣けたかって冒頭と最終の一場面で泣けてしまった。
海辺で幼い二人は海を見つめる一人の女を見つける。ジャクリーヌが走っていって何かを囁かれて、また帰ってくるのを姉が尋ねる。
”何ていってたの?”ジャクリーヌはこう答えた。
”大丈夫だって。何も心配することはないって。”
二人は黙ってそのまま抱き合う。この場面が冒頭で、そしてエンディングにももう一度流れる。エンディングではその女の正体が大人になったジャクリーヌ(亡霊)であることが分かる。全てを終えて一番幸せだった時に戻ってきたジャクリーヌの魂が、それからの過酷な運命に翻弄されるはずの二人の 元に暗示を与えにきたのである。
高校2年の時に、新宿の母という有名な手相見のおばさんに占ってもらった事があった。高校での生活と進路の相談であったのに、おばさんはこう言った。「お母さんは元気?ああ、そう。お母さん、もしかしたらずっとあちこち痛いといいながら、病気するかもしれないけど、大丈夫よ。大丈夫。長生きするから。」その時には何も感じなかった。なんであんなに元気な人の将来の病気の予言ができるのかと全く信じなかったが、どこか心に引っかかっていた。
15年後、母が気管切開をする、しないで悩んでいたとき、このおばさんの予言が大きな心の支えになっていたのは事実である。必ず母は生きていく道を選ぶだろうし、そうなっていくだろうと。
コックピット
かねてから呼吸器を付けて懸命に命の灯を燃やしている人達を、F1レーサーのように感じている。
最先端の技術と大勢のスタッフとそしてなによりも生きているその瞬間にかける緊張感、狭い空間で自分の精神力を試している。同じだよね。
車の好きな青年がいて彼は筋ジスを患っているのだけれど、彼のHPには明るさがいっぱい。彼だけじゃなくって、彼のリンク先の筋ジスの仲間さんたちのHPにも、微塵の暗さもない。どうやって、その辛さを乗り越えてきたのか、その秘訣を教えて欲しいです。
難病の人や障害の重い人に付き合って、世の無関心さに憤っている健康な自分はばかみたいです。どうやってその境地に至れるのか教えて欲しいです。
さて、そういう達観した道志のような君たちに、24時間コックピットにいる人生を背負わせているのは、どんどん進んでいく医療技術の成す技で、だから君たちは人類の可能性をその身に背負って生きているわけで、そういう風に考えたら君たちが安全にレースを続けていけるように、私たちのようなスタッフ(呼吸器付けていない人は皆スタッフだ)がしっかりサポートしていかないとね。
もし、最先端の技術に支えられて走り続けている君たちが幸せでなかったら、それは人類が間違った方向に進んでいる事になる。
いつだったか、レーサーのセナがレースの事故でなくなったけど、あれはハンドルを新しく変えた途端の事故だったのでしょう?よく知らないけど、そういう風にまわりのもののご都合で君たちの生活が危ういものにならないように、しっかり見張っていくからね。安心してて。K君。
コックピット 2
ALSの集いで必ずと言っていいほどいつも会える方がいる。そうです。練馬のMさん。あなたです。
ショッキングピンクの車椅子に跨って(?)過激なALS道をばく進しているMさんに会うたびに、在りし日の母のことを思い出して、ああ、なんか面影が重なってしまいます。
私の母もね、元気だった頃は、痴呆のご老人とその家族のための場所作りに東奔西走していました。どんな世界にも引っ張っていく人って必要です。ある意味でカリスマ的な存在って。裁判所でもお会いしましたね。覚えてくださってて、いつもにこっと微笑んでくださる。完全に家族の手を頼らずに在宅生活の環境をそこまで整えられるって、すごいです。4年前、わたしも母を病院から連れ帰って、それからどうやって在宅を軌道に載せようか、頭を悩ませていた時にMさんの記事を読んで、すごく励みになったのを思い出しました。不可能にみえるようなことを実現している人がいると私だって出来るはず、と思うでしょう。ね。
ALSの患者さんが、ここ数年マスコミに打って出ているのを同情の目だけで見ないでね。単に苦労話を聞いて欲しいというだけじゃないんです。誰もが皆、ある日突然、障害者になる可能性があることを、この人達は肌身に染みて知っているからこそ、訴えているのだと思ってください。自分たちだけの権利を主張しているのではないのよ。そう思って、今度どこかで見かけたら心の中でエールを送って。
自殺志願
明るく強い人達のことを書いたから、勢いで一番暗い話を書いてしまおう。この病気ALSの患者さん、年に必ず一人か二人、報道されない事件を入れたらそれ以上かもしれないが、不審な事故で亡くなる。自分で呼吸器のスイッチを切れるはずはないのだから、あきらかに他殺ということで報道されるけど、犯人が捕まったという結末は報道されない。私は、なんとなく、森鴎外の”高瀬舟”を連想してしまって胸が痛む。
話しは違うけど、寝たきりの母親を置き去りにして失踪してしまい親殺しで逮捕された人の話を聞いた。彼は確か私と同じ年だった。彼は一人で母の世話をし続け、その挙句の逃走だったのだけど、ニュースのコメンテーターは、お母さんがかわいそうだ、と同情していた。
母の看病に慣れるまで、息も抜けない緊張の24時間を繰り返して、これが永遠に続くように思われて、わたしも母を道連れにあっちへ逝ってしまおうと思った。やる気にさえなったら、うちには薬品もいっぱいあるし、介護機器は天井のほうから、長いロープが垂れていて、首を引っ掛けてスイッチを入れたら簡単に首が絞まる。母の命は呼吸器を外してしまえばそれまでだ。
超簡単、こんなにかんたんなことはない。さて、実行しようとしたら母がすごい目で睨むので、私は、いっしょに逝くから心配しないでと母を諭した。でも、薄暗い明かりの中に母の向こうで眠っている三歳の息子が見えたら、母の言いたい事が耳にはっきり聞こえてきて、思い留まった。その時は。
また、しばらくして、次に実行したのは、母を置き去りにして自分は車に轢かれてしまおうという手段で、母を残して出かけて道の真ん中で座り込んで、(今考えると正気だったとは思えない)できるだけ大きな車が来るのを待ったけど、車は来ないで代わりに人垣が出来そうだった。
近所で実行したから、どうしたの、どうしたの、と知っているおばさんが集まってくる。ここは東京でも下町の風情があるので、みんな私を子供の時から知っていてそう簡単には見殺しにしてくれない。仕方ないから、諦めて戻ってくると唾液の海の中に母が目に涙を溜めていた。一人残されて、余程心配だったんだ。運良く痰は詰ってはいなかった。
自殺はわたしだけでなく父も考えたようだし、妹も考えたようで、実行しかけても消極的な手段だったから、大事に至らずに済んだ。結局はただのパーフォーマンスだったのだから、本当に実行してしまう人達とは比べ物にならないくらい、それでも心に余裕があったのだと思う。
イエス様と再会を果たして重荷を下ろしたのは母だけでなく私も、妹もだ。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
マタイ 11・28
病人に教える事勿れ
病院で気管切開した母は、意識が混濁して始終怒ったり泣いたりしていた。それも仕方がない事だった。
気管切開は突然やってきて母は全く心の準備が出来ていなかったのだから。
まだ、指が動いていたので、言いたいことは筆談できた。大きなスケッチブックを買ってきて、ベットの上において母に握らせた鉛筆に手を添えて上げる。そうするとふにゃふにゃな字で何か書くのでそれを読み取るのだけど、うまく読めないと本人もこちらもいらいらしてくる。ナースコールにしても始めはどうにか指で押せていたのが、あっという間にうまく押せないようになって、ますます絶望感が漂ってくる母。
そんな母を残して帰るに忍びなく、泊まり込んでもいいのか聞いてみたが、病院の規則と、患者の自立のために家族は消灯時間には帰らなくてはならなかった。そんな風に夜遅くまで居残っている家族はいなかったけれど。
夜中の母の様子はやはり不安がいっぱいで、看護婦さんを呼びつづけたらしい。看護婦さんも暇を見つけては、ALS一年生の母に付き合って世間話をしたり、慰めたりしてくれていた。しかし、看護婦さんにもいろいろな方がいるから一概に感謝の気持ちばかりとはいえない。悪口ではないけれど、母に対して病人の心構えを説いている人がいて驚いたことがあった。病人本人が一番病気の苦しさ、死の予感を感じとって健康な人間には想像もつかないような厳しい修行をしているのだ。そんなこと分かっていいはずなのに、病気とどうやって闘うべきか、その看護婦さんはかなり真剣に母に向かって講義を始めた。たぶんそれは善意からだったと思うが、しかし、校長先生に一年生が道徳を教えているようなものだ。それくらいのことがわからないのかと、愕然としてしまった。
病人に付き添う人は、病人から教えてもらえばいいのでしょう。お世話する側が何か勘違いして少しでも病人に対して、言い含めるような高圧的な態度が見えたら、家族は、はっきりと言った方がいい。
チェロとわたしと子供達
イギリス滞在時には猛烈な教育ママだった私が、母の病のおかげで人の運命のはかなさを知って、お稽古事も何もかもそんなことはみな無駄に思えてほうり投げたので、子供達は帰国すると同時にかなり自由な身分になった。
イギリスの一般家庭の教育熱心なのは日本のそれを遥かに超えている。
それに便乗してイギリス式にぎゅうぎゅう育てられていた我が子たちだから、この降って沸いたような自由気ままな身分を謳歌して、帰国子女にありがちな登校拒否問題、いじめの問題、学力の問題等は無縁であった。
帰国したその次の日から保育園にフルタイムで突っ込まれた息子と、時差ぼけも治らないうちにマラソン大会に出場させられ、担任の心配をよそに完走した娘と。この二人の無言の応援がなかったら、あんなには踏ん張りがきかなかったのではといまさらながら思う。
でも、娘のために力をいれていたバイオリンだけは残念だった。上の娘は2才からバイオリンを習っていてかなりの線まで行っていたのをぷっつり止めてしまったのだから。それは母親として勇気のいることだったが、娘自身がそれほど楽器に執着していなかったのと、弦楽器に興味があるのはむしろ自分だとその時にわかって、発想の転換で、じゃあ自分がお稽古をしようと思い立った。
この年で始めるのだからどこまで上達するのかは期待できそうもないが。。 そこで、考えた。バイオリンよりもチェロだ。
ヨーヨーマがアフリカの草原でチェロを弾いていた。
その映像がどういう訳か頭に焼き付いている。
セロ弾きのゴーシュも大好きな童話だ。
ああやって病気の人が治ったらいいのに。
いろいろ連想していくとだんだんチェロしかない、という気になってくる。
先生は口コミで見つかり月2回ここにいらしていただくことになって、念願のチェロのお稽古が始まった。
それがもう三年前。母のベッドサイドでビービーやるから、母はたまったもんではなかったのだろう。しばらく我慢していたけれど、文字盤で「お願いだからあっちに行ってね」といわれて、すごすごと逃げた事もあった。チェロはピアノのように孤独で孤高な楽器ではなく、その一体感と音色の優しさで完全無敵の大人の楽器だと思う。指先から伝わってくる振動とお腹に直接伝わってくる振動とが、身体全体で弾く楽器といわれる所以だ。
過干渉気味の教育ママだった私が子供を解放し自分も解放されて、こうして母の隣でチェロを弾いている。
ふたつの家族
母のために夫に単身赴任をお願いしなければならない、帰国して看病せねば、と思った時,まず,頭によぎった事だった。
イギリスに来て2年半が経ち、ようやく娘も英語に慣れてきたところだったのに予定外の帰国は口惜しかった。早過ぎた。こんなことになるのだったら、無理に現地校に通わせる必要はなかった、とも思った。うろ覚えの英語はきっとあっという間に彼女の頭からも口からも消えうせてしまうだろう。
文化交流とは、かっこいい響きだが、その矢面に立たされている海外駐在員の子供達は大人以上にシビアな人種差別の経験をしている。その幾重にも押し寄せる大波小波を乗り越えて一人前の帰国子女になっていくのだ。帰国してちやほやされるのには、それに見合うだけの努力をしているのだ。おいしいところを採り損ねるのか、そう思うと悔しくてならない。
それに、ひとり残される夫の事が心配だった。マイホームパパだ。子供は今がかわいい盛り。それにこの広い家。ここで週末いったいひとりでどうやって過ごしていくのだろう。。。思わずうちの裏手に住んでいる未亡人のベティーに相談したら、何を言っているのか、と叱られた。『夫が大事。離れたらいけません。』男はひとりにしてはいけないそうだ。そうか。。「それでもいいのなら、覚悟ができているだろうから、、」と言う。
いろいろな人に相談した。夫婦は離れてもいいのか,否か。
日本語教師の先輩にも聞いてみた。(私は当時、日本語教師の派遣社員をしてた)夫を残して帰国するとは駐在員の妻失格とまで言われた。キツイ口調だった。親の死に目に会えぬさだめが駐在員だという。そういう時代ではないだろう、とも思ったが怖かったので反論しなかった、それだけの人だ、と判ったのでもう相談しないことにした。
夫の家族にも事後承諾の形になったが報告した。案の定、お母さんはびっくりして夫の身を案じている。ごめんなさい、としか言いようがなかった。今は目先のことしか考えられない、そうも思った。うろたえる義母を説得してくれたのは夫であった。結婚以来どんな局面にも必ず私の側についてくれる夫に感謝するとともに、でも、今後襲ってくるであろうあらゆる災難、あらゆる困難をこの人は、想像さえしていない、とも思った。わたしには、家族水入らずの平和な日々が、もうこれで最後だと判っていたので悲しかった。
帰国当日
ロンドン郊外の一軒家、築200年以上の古い家。
天窓からは明るい冬の陽射しが降り注いでいる大好きなキッチン。
小さいながらもよく考えられた作りになっていて白地の壁に高い天井。
南に向かって腰高の流し台があって、庭を見渡せる大きな窓がついている。
窓からはひょろひょろのアカシアと数本のヒイラギの大木が見えて、
その向こう側にお隣さんの瀟洒な建物がのぞいている。
今から行くよ。と日本の実家に電話したら久しぶりに母が出た。
もう、息苦しくて電話に出られなくなっていたのに。
息絶え絶えに
「晩御飯に。。山田さんが。。。春巻きと。。煮物と。。。作ってくれるから。。。」
それを聞いて涙が出てきた。それらのメニューは母の十八番でわたしの好物。
一時帰国の際にはいつも必ず作って迎えてくれたメニュー。もう母は自分で台所に立てないので
お友達の山田さんの腕を見込んで自分の代わりに作っていただくつもりらしい。
あと、20時間後の晩御飯のメニューを知った。
ヒースローには主人が車で送ってくれた。手荷物は青いスーツケースとダンボール箱が二つ。
これで、当面親子3人暮らしていかねばならない。8歳の娘はバイオリンのケースを抱えている。
搭乗口で引き裂かれるように夫と別れた。
3歳になったばかりの息子が察知したように泣き出して父親の方に戻ろうとするのを
抱えて金属探知機を走りぬけた。夫も目頭を押さえている。
いつになったら、日本へ帰国命令が出るのだろう。
想像もつかない病との闘いが控えていてる。ばらばらになっていく私の家族。
緊張の糸がほどけた機内でうわっと涙が出てきて、とうとう止まらなくなってしまった。
声をあげておいおい泣いた。息子は黙って首にすがり付いていた。
どこからともなくハンカチがまわってきた。
病人
たった3ヶ月ぶりだというのに。
夏の一時帰国で見送ってくれた母はその時はまだ、座位が保てたし、ご飯もいっしょに食べる事が出来ていた。だのに、実家で再会した母はもう起きあがる事すら出来なくなっていた。家に到着すると、すぐに父も妹も寝入ってしまった。疲労困ぱいの様子だった。母にすぐに付き添って、手,足,首,頭とひっきりなしに動かしてあげた。筋肉が落ちる時どうにも表現できないけだるさが全身を襲うらしい。自分でのた打ち回れないから、付き添いがしてあげるのだ。それを24時間ぶっつづけでやっていて、父も妹も疲れきっていた。ヒースローを飛び立って一睡も出来ずに,ここに着き、そのまま3日間、ほとんど眠らずに母の身体を動かし続けた。苦しくて言葉にならない母。こんなにも容態が進行してたなんて誰も言わなかったじゃない。帰国のタイミングがぎりぎりだった。
睡眠をとらないで3日間が過ぎたが全く眠くならないし、疲れも感じない。こどもたちは時差ぼけをおして翌日から保育園と小学校に行ってもらった。母の様子がどうも尋常でない感じがしたので中村先生に診て頂いたら、そろそろかな、という事になった。そろそろ病院に行って、気管切開に備えましょう。ということだ。母を説得したのは中村先生だったが、母は苦しさのあまり,思考力をなくしてしまってただただ、苦しいとしか言えないでいる。父は、もうおろおろするばかり、全く役に立たない状態だった。結局お願いします,といったのは私と妹で、このまま入院したら安楽死、という選択を免れる、という安堵感から、なんだか大変うまくいったような気さえした。変といえば変なのだけれど、呼吸器さえついたら、当面は母を失わないで済む、そういう安堵感だった。
しばらくして、救急車が来た。運ばれていく母に必ず,帰って来られるからね,と父がチンプンカンプンな事を言うのが腹立たしかった。
神経病院
緊急処置室から病室に運ばれた。母の病室は看護婦さんの詰め所のまん前だった。情緒不安定の母にはできるだけ人の出入りの激しいところが安心だった。母が汗をかいているようなので窓を開けたら、突然、酸素濃度の値が下がり出した。はじめ95%くらいだったのが、どんどん下がって85%になってしまっている。冷や汗だったのか。苦しいそうだった母の表情が柔らかくなって気を失っていくのが
判った。驚いて、詰め所に走ると看護婦さんがふたり飛び出してきてくれた。そのまま、私は廊下で腰を抜かしてへたり込んでしまった。人工呼吸気が運ばれて、鼻からチューブが差し込まれた。気管切開しなくても、このまま鼻でいけないのですか。と尋ねたら鼻の粘膜が耐えられるのはせいぜい1,2週間だという。これも、大変苦しくて痛いのだともいう。呼吸は楽になってもそのかわりに粘膜が痛い。かわいそうで堪らなかった。
廊下でK先生が、「もう一度,確認しますが、呼吸器をつけていいのですね。」と言う。そして、
「呼吸器はめがねをかけるようなもの、いや、そうでなければならないんだよ。」とおっしゃる。さらに、
「妹さんは仕事を続けなさい。お姉さんは離婚にならないように頑張りなさい。」
と、なんだか意味深。大袈裟だなあ、と笑ってきいていたが、ちっとも大袈裟でなかったことが、その後に続く2年間で実証されていくのを私は想像もしなかった。