![]()
![]()
![]()
![]()
![]()
![]()
![]()
八ヶ岳の第二ペンション村に新宿の社会福祉協議会に勤めている鎌田さんのご主人が廃屋を買い取って自分だけで改装して建て直したペンションがある。総丸木作りのおしゃれな一軒家で、中央高速を降りて20分ほどで着く。長年鎌田一家と仲良くさせてもらっていた母は、自分が代表をつとめている「桃園デイクラブ」のお年寄りとそのご家族を引率して毎年夏に避暑に行っていた。
呆け老人を抱えている家族はなかなか自分たちだけで旅行という訳にもいかない。家に篭って長年いるといろいろストレスも溜まるから、自分がやはり姑女の介護で動きがとれなかった時のことを覚えている母は家族と呆けのお年寄りといっしょに連れて旅行にゆくという点に意義を見出していた。
ペンションはさすがに鎌田さんが障害者に理解のある方だけあってどこもかしこも工夫されている。お風呂もリフトが利用できるので動けなくても介助してもらえばゆっくりとお湯につかれる。
お散歩は近くの白樺林と農業学校へ作りたてのアイスクリームを食べにいく。夜は朝市や出店で買ってきたドライフラワーで花飾りの講習会をしていた。蒲田さんの作る食事は裏庭のハーブを使った野菜中心の献立でどれもおいしく老人には飲み込みやすい工夫がされていた。
玄関前に大きな月見草の一株がある。毎年一りんづつ花の数が増えていくのを母は今年はこの花が新しいとか言って、毎年の訪問を楽しみにしていた。
最後に桃デイの皆さんをここに引率してきたのが1993年夏で、その次の1994年の夏にはもう歩けなくなって私がイギリスから一時帰国して母をここに連れてきた。前年は元気に先頭に立って歩いていた母がその年は車椅子の人となっていた。どんなに無情でやるせなかったことか。家族旅行ということで父母、妹と私と子供たち、それに松本から現地に駆けつけた母の兄弟とお母さん。
祖母は年齢相応にちょっと呆け症状もあって母の姿を見てかわいそうに、を連発するだけでさほどのショックを受けなかったのが救いだった。みんなでスイカを割り野沢菜漬けを食べ世間話に花を咲かせるが笑いの中にもいつになく切ないものがあってたまらなかった。母がお祖母ちゃんと会えるこれが最後かもしれないと誰もが心の中で思っていた。
再会より4年後の夏、祖母は松本の懐かしい家で母の兄弟や孫たちに看取られて逝った。老衰による自然な死であった。
料理が得意だった母が寝たきりを余儀なくされ台所にはもう二度と立てなくなった。私たちは母の手料理を食べることができなくなり台所の鍋やザルも母を恋しがっているような気がして切なくて堪らなかった。。
TVで料理番組を見せながら気を紛らわせてみたものの、どんなに自分で作ってみたいだろうと、母の心情は察するに余りあった。
ある日、母の指先にセンサーをつけてPC端末入力ができるようになったのを機会に毎晩の献立を考えてもらおうということになった。母にとっては久しぶりに仮想料理が出来ることとなり、私たちにとっても献立を考える手間が省けて一石二鳥である。母は鯖の味噌煮だとか、煮しめの作り方を丁寧に何時間もかけて入力した。それが私たち姉妹に残す究極の母の味であった。
おかず入力でPCに慣れてきた母は続けて自分の幼い頃の思い出を打ち込み始めた。疎開先での恐ろしい体験話であった。童話のようなこの話は多分というかきっと娘や息子に残したい母の昔話なのだろう。二番目が生まれてすぐにイギリスに飛び立ったたので孫たちとは、ゆっくりと遊ぶ時間を持つ機会もなく私たちが帰国したらしたで、自分の身体が思うように動かないのだ。
家族のために働くことが何よりも生きがいだった母が難病生活の中で必死の思いで見出した役割であった。