「吸引をめぐるこれからのこと」
看護協会対当事者の図式のようになってしまったが。
過去も現在も、在宅で療養を余儀なくされた難病患者の最大の支援者が看護師(当時は看護婦)だったことを忘れてはならない。
難病患者が人として在宅で暮らしていくのに必要な「医療」という質を提供する側に、難病患者が人として暮らしていくに必要な「福祉」という量をたたきつけたような戦いであった。しかし、お互いの乖離だけは、お願いだから避けて欲しい。ALSはれっきとした身体障害者なのだが、死ぬときがくればあっけなく死んでしまう。その度に私はこの人は病人だったのだと分かり愕然とする。所詮、医療から逃れられないのだ。他の障害者のように、病気を忘れたふりをしながら突然元気に死んでいくのだ。そのたびに残された私たちは悲しみに打ちひしがれる。だから、無理をしないでよい、障害者で在れとは言わない。病人でよいから一日でも長く生きてほしいと願う。
今回、ヘルパーによる吸引を求め、最終段階で「業」としないならやってよいと言われた。その結果、看護協会の責任者らは多くの批難と誤解を身に受けているようだが、彼女らが今まで在宅の難病患者にとことんつき添い、工夫し支えてきた過去を私は知っている。彼女たちもまた、質だけでない量の必要を誰よりも知っている。なれば、なぜ?という子どものような疑問が浮かぶ。与えられるべき十分な介護量をなぜ与えられる用意がなされないのか。彼女たちが知っているように世間は十分にもう知っているではないか。それとも知っているはずと思っているのは当事者だけなのか。
業界の既得権の問題だといわれるし、私も一部にはそのようなお金の絡んだ原因もあると思うし確信するが、看護従事者があえていつまでも反対勢力であろうとする理由は、やはり痰の吸引のみならず、なし崩し的に医療行為が素人に解放され、きっと事故が起こる危険性について、警笛を鳴らし続けるの業界の理念と責任からだと理解したりもする。しかし、事故は今も起こっているし、誰がその場に運悪く居合わせたか、というだけのことで、吸引が直接的な原因になるはずもないのだ。そこのところも関係者は誰もが知っているはずだ。知らなければ関係者とは言えないはずだ。しかし、それだけで看護協会は医療的ケアをヘルパーに許そうとしないのか?もっと単純で愉快でない理由があるような気がしている。困っている人がいて、そこに職業として関わることのできる善意の人が様々いて、そういう光景が頭に浮かぶとき、誰が何を受け持つのか、どう助けるのか係分担することに気を遣うのとけっこう似ているのではないだろうか?みな、私が適任で、一番やりたいしできるのだと主張する。そこで、実際にやれるのは、最適任者とはいえない、他の理由から選ばれた人だったりする。とすると、自ら一番の候補者であるはずと思っている人は面白くない。面白くないだけならよいのだが、それは私の仕事と主張して譲らなくする。プライドの問題ということかもしれないけれど、吸引問題の場合、看護師特有の使命感とか責任感とかいう本来だったら弱いものの味方であるはずの感情が、実は私たち当事者にはめちゃくちゃ大きな邪魔ものだったりしている。そのようなものの総意が、ココになければ吸引問題はもっと単純だったかもしれない。
これからどうしたらよいのか、しばらくわからなくなっている。このまま諦めず運動は続くと思うが、対看護協会の図式だけは、やはり避けて欲しいと思う。ではどうしたら、ヘルパーがのびのび吸引できる世の中になるのか。現場ではけっこう仲良くやっているではないか?
多くの人がそうあるべきだと知っていることが行われない世の中だし、そうあるべきと思うことがそのまま行われると不具合がでてきてしまうこともあり、運動も反対勢力も惰性のように長く続いていくだろう。いつかどんなきっかけ「許される」んだか検討がつかないし、まったく私たちの努力や運動とは関係のないところで、棚からぼた餅のように降ってくる可能性のほうがあるような気もする。しかし、ともかく、あきらめずにやることはやっておくことだ。そして、今、そんな思いとも関係なく、なし崩しにして融解するための、ある企みが動いている。
そして、そんな試みを、あらゆる試みを積み重ねていくことで、私たちは将来へ希望をつなごうとしている。
闘い自体が生きることの楽しみでもある、という、信じられないくらいたくましい難病患者によって、また教えられている。