「家族は介護を拒否せよ」

そもそも、なぜ家族が介護をしなければならないのか。

介護をするとしても、それが24時間不断で続くような場合、家族であるという理由だけで請け負う労働量をはるかに上回る身体的、精神的、経済的負担が伴う。時には介護者自らの命さえも危険にさらされていくこともある。それだけの負担を家族だという関係性の理由だけで担わねばならない根拠はどこにあるのか?法で定められているのか?そうでなくても慣習上、あるいは社会の規範上、そうなっているというのなら、考え直す時期に来ているのではないだろうか?

まず、患者本人が介護の担い手として家族を望むから、というのもある。
また、家族自らが介護したいと望むからというのもある。
介護を拒否せよと言って同胞から袋叩きにあう確立のほうが、賛同されるそれよりずっと大きいのだが、リスクを犯してもあえて、介護を拒否セヨと私は言いたい。100%拒否セヨだ。でないと何もかわらない。他の障害者、たとえば脳性まひ者の過激な運動の歴史をここで思い出す。みずから家を出て「家族」というものを拒否し拒絶していくことから始まったではないか。そして少しずつだが介護保障を獲得してきたのである。今、まがりなりにもALS患者が受けている介護補償制度の幾分かは彼らCPの体をはった運動の賜物である。しかしだから、ALSも運動せねばならないとはいえない。難病ALS患者の場合は、その症状からいっても他の、こちらからみたら元気で自由な障害者たちと足並みをそろえて行える可能性はずいぶん低い。平成14年に行ったヘルパーによる吸引問題の解決を求める署名活動はALS患者団体が初めて本気で行った社会運動であったと記憶されるはずであるが、実際に委員会を傍聴し、各党議員を回り、街頭に立てた患者はわずか数名であった。患者が動けないという前提があって運動自体が難しいのだからメディアを使うとかいろいろ宣伝方法もあるのだが、そろそろALSの知名度も上がってきて呼吸器をつけて暮らしている人をみても世間はたじろがなくなってきている。映像もまたじょじょに威力を失う。そうして次第に世間に訴える迫力も手段も乏しくなってきたら、私たちにできることは、家族がまず介護を放棄することである。そして患者は措置の発動を拒み家に居座ることである。

 しかし、現実はご存知のとおり甘くない。これでも介護保障の進んでいる東京でも、難病ALSの場合、家族が介護できないとなり24時間の介護保障の交渉を始めようとすれば、(しなくても)ありがたいことに、すぐに措置が発動されてしまう状況もある。埼玉のH病院には自宅で暮らせないと行政側が判断し、また家族も看れないとなったALS患者が他県からも多数入院してきている。以前はそこは小児の難病患者が主であったが少子化の傾向で大人の難病の受け入れも可能になってきていると説明を受けた。だが、措置し、される前に他人による24時間介護で在宅継続を、という発想が行政、家族そして患者本人にもあったかどうか知りたいと思う。そこで行政の配慮を拒否できる、たくましい患者は非常に少ないだろう。だから他者の判断に身を委ねるのか?それで満足で安心なのか?事実、病院と自宅とどっちがいいかと問えば私の知っている限りの患者は皆自宅をと望む。それは、何も家族に介護をしてもらえるから、という理由だけではない。本人の居場所として自宅を選んでいるのだ。自宅にいる限り、父親は父親であり母親は母親である。病院にいけば患者は患者として存在するを強いられる。だから病院や施設は嫌なのではないか?
 個人のアイデンティティは自宅に居る限りはなんとか保たれる。だから、家族の存在意義は介護の担い手としてではなく、患者のアイデンティティを認識し維持しつづける存在として発揮されるべきではないか。ここで納得してもらえない場合は、家族の介護技術に対する患者のこだわりとか固執、また家族側の意地とか愛情とかそういう問題になってくるがここではそれを問わないし、別に機会を用意するつもりだ。私は介護を全面的に請け負う覚悟が弱者となった家族への愛情を代表しているとは思わない。そしてまた介護しないことを愛がないとは言えない。

 ここでまたそれはそうだが、介護してくれる他人をどうやって探すのだという反論がかえってくる。介護者がいなければ自宅では暮らせない。家族が介護をしないのだからそれに代わる他の労働力を必要とするのにそれを誰が担うのか。卵が先か、鶏が先かのような問いがある。だが私はただ、シンプルに社会が負担すべきであると思う。現物・現金その両方の保障をだ。当たり前のことだ。それをほとんど本気で要求せずなかば諦めてきたのが、今までの難病在宅介護の現状であった。家族のことは家族で解決するべしと、他者と身内の線引きを行ってきたのは社会ではなく家族の側であったのかもしれない。また社会も、それを家族の絆とよび家族の福祉代行機能に甘えて、難病患者を家庭内に放置してきた責任は重い。介護保障うんぬんを論じる前に現実を見よといいたい。介護破綻してぼろぼろになった介護者とその被害者である患者がごろごろと転がっている。にもかかわらず救いの手はどこからもさし伸ばされていない。家族は中途半端に求め、社会はその場しのぎ的に解決しようとするから、そういうことになっているのだ。

そろそろ100%の介護保障を求めるときが来ている。
家族は同居していても別居していてもよい。家族の有無と個人の介護保障にはなんの関連性もない。患者は自ら家をでて他人介護を求めることができないならば、同居の家族が介護を拒否すればよい。

そして、その行為を認めない、認めたくない社会が存在しているのだから、今度は介護当事者である家族が自らの自由と人権を主張して運動を始めたらよいのだがしかし、介護者もまた患者と共に家の中に縛られているのだから運動は盛り上がる気配も興る可能性も、今はないに等しい。しかし、あきらめない。

如何に、介護という労働を家の外に出すか。その如何にの部分にかなりの知恵と体力と時間を要することになるだろうが、これには介護をしながらもできうることがある。だからあきらめずに探ることだ。(2003・6・23)

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