『神経科学創世記』脳・神経疾患と人類
A・アール・ウォーカー 石島武一=訳
The Genesis of Neurosience by A.Earl Walker
工学図書  ISBN4-7692-0472-8 9500円

APPENDIX  A  神経科学発達史の中の芸術

神経学における音楽の位置づけ


紀元前数世紀もの昔には、様々な形の音楽――医療者による太鼓や歌――が病気を追い出すために奏でられた。音階の数的原理を探求したピタゴラスは音楽が悩める心を慰めることを認めて「音楽療法」(musical medicine)を処方した。彼は腰筋炎や坐骨神経通に対しては疼痛部の上で拍動を感じるまで笛を吹き鳴らすように唱えている。そうすれば痛みは消えるという。古代ギリシアの哲学者テオフラトス(Theophrastus 紀元前三七二頃〜紀元前二八八頃)はアリストテレスの弟子であったが、彼は痛みを訴える患者のそばで激しく情熱的な音楽を演奏すると痛みが和らぐと書いている。後期古代ローマでは、たとえばソラノス(二世紀初め)などはこうした療法に疑問を感じていたが、アスクレピアデス(前一世紀)は心の痛みは音楽で消せると書いている。その六〇〇年後、西ローマ帝国のカエリウス・アウレリアヌス(Caelius Aurelianus)は急性・慢性疾患に関する論文の中で、昔の人は音楽が躁病と治すと考えていたが、自分はそうは思わない、というのは歌っている僧侶たちが沿う状態に陥っていくのを見たからだと言っている。何世紀かのちに、アラブの医師たちは精神病院で患者の興奮を和らげるために音楽を使った。中世、全ヨーロッパを戦争と疫病が覆い尽くすと音楽は宗教歌か、修道院の詠唱歌ぐらいしかなくなった。
一四世紀初め、フランスのアンリ・ド・モンドビュは弟子たちに、「ヴァイオリンが10間琴を使って患者たちの気持ちを引き立てよ」と忠告している。
ペストがヨーロッパを席捲して人口の大多数を奪う事態になると芸術は省みられなくなった。音楽が復活し、家庭や教会から離れて上流階級が支える専門の舞台で奏でられるようになるのはルネサンスになってからである。イタリアでは、街頭で歌う世俗的な恋歌が修道院の宗教音楽に取って代わった。医師といわず教養のある人々は誰でも楽器をたしなみ、オルガンとヴァイオリンで精緻に奏でる教会音楽はこの時代、オペラとなって花開く。この芸術に対する最も注目すべき医師の貢献は、ジョヴァンニ・バティスタ・デラ・ポルタによるオペラグラスの発明であろう。オペラ、少なくともグランドオペラにおいては医師はたとえば「椿姫」でヴィオレッタの死を宣告した医師のように職業としての役割を演ずるだけで笑い物にはされていない。
 中世までは音楽というものは耳で認識されると思われていた。トマス・ウィリスは音楽の才能のある人の小脳は柔らかく、才能のない人は固いと言い、音楽の中枢は小脳にあると主張した。フランツ・ヨーゼフ・ガルとヨーハン・クリスティーン・シュプルツハイムは脳の各所に様々な機能を割り当てて、音楽を認識するのは大脳皮質であるとした。ガルの説は証明されなかったが、あとに続く研究を刺激する魅力はもっていた。また、のちの言語障害の研究の中で稀にではあるが音楽障害に言及されている。失語症の研究者として知られている英国の神経病学者ヘンリー・ヘッドは、失語症患者はメロディを口ずさめ、正しいリズムと音程で歌えるのが普通なのだが、楽譜を読んだり、楽譜を見て歌うことはできないと言っている。
 音楽の神経解剖学的な基礎研究は最近になって始まった。簡単にいうと、音楽の認知は言葉と同様に大脳半球の何ヶ所かに関係している。たとえば、数字を読み上げている右利きの人の右の脳頚動脈にアミタールを注入すると音程とリズムが乱れるが、意識と会話は正常である。一般的に、音楽的素養が高い人ほど左半球の役割が大きくなる。一つひとつの旋律やメロディの認知は右半球でなされているが、音楽的に高度に訓練された人の場合は左右両側の半球が関係している。アメリカの精神医学者カール・プリブラム(Karl Pribram)によれば、音楽の統合は発声とその実践的な意味づけと密接に関連していて、前頭―辺縁皮質で処理されるが、その部位と解剖学的機序は自然言語のものとは別だという。しかしながら、皮質下の線維連絡も関係しており、ヘッドによると視床に病巣をもつ患者では、音楽は体の左右に異なった反応を引き起こしがちであるという。ヘッドは言語障害があっても音楽能力(彼によればメロディを想起することとそれを正しい音程とリズムで口ずさむ能力)は必ずしも障害されないと考えていた。失語症患者は歌詞は出てこないものの、メロディを口笛で奏でることは可能であると書いている。
罰や脅しの代わりに音楽が、精神科や小児科領域で、ごく最近では麻酔科領域でも治療手段となってきたが、音楽が脳の活動に及ぼす影響についての基礎的な研究はほとんどなされていない。面白い研究としては、「情熱的な」または「癒し系の」音楽が脳波に及ぼす影響についてのものがある。それによれば静かな歌を聴いている人のほうが激しい歌を聞いている人より脳波のベータ波が増えるという(BruysMA,Swertsen B:Evaluating the effect of music on electroencephalogram of normal subjects.1984).
(pp523-525)

up20060605