「安楽な死より、安楽な生を」    

NPO法人ALS/MNDサポートセンター 

さくら会  川口有美子      

私はALS患者ではないが、実家の母は在宅人工呼吸療法(以下Home Medical Ventilation =HMV9年目。母の介護の合間に他の患者さんの御用達で吸引のできるヘルパーを探していたら、いつの間にかそれが仕事になってしまい、さらに権利擁護やら交渉やら呼ばれれば飛んでいく最前線を自負していたら、さくら会の橋本操(HMV11年目)にスカウトされ一年半経ったところである。障害の当事者といえば原則本人を指すが、ALSの場合、神経内科医の多くは呼吸器装着の意思決定を家族の合意に求めるし、十数年の長期に渡って介護に拘束される場合も多いので家族は運命共同体といわざるを得ない。日本におけるHMVの歴史を30余年遡る。人工呼吸器にかかる経費一切が自己負担だった当時、HMVは金持ちの夢でしかなかった。しかし、親子3人水入らずで暮らしたかったその人は都立神経病院の療養相談所のサポートを受けて日本初のHMVに踏み切った。当然、介護の大部分は妻がひとりで担うことになり、医療器材の購入維持費や衛生費は嵩むが稼得収入がなくなった家計は火の車、3人の生活は非常に制限された。しかし家族は明るさを失わなかったという。そして歳月は流れ、難病制度はいくつも出来たが介護は依然として家族中心主義が主流で、むしろ家族愛が支えるALSの在宅療養のイメージは、近代家族規範のお手本のような美談として定着し、その脆弱さは隠されてしまった。だから、たまに社会問題として報道等で取りあげられたとしても、当の障害の重さに比すればあまりに甘すぎたといえる。  

呼吸器は「一度着けたら止められない。」当たり前のことも問題ありげに告げられる。だから病名を知ることから始まるインフォームド・コンセントでは、家族のやる気が暗に問われ、そして家族の合意で呼吸器装着を決めることが大切だとされる。しかし実は多くの家庭では「その話」はタブーになってしまう。というより闘病で疲弊して話し合う気力もないのだ。だがぼやぼやしていると、ある日突然、呼吸筋麻痺になり気絶して救急で運ばれてバタバタと気管切開、呼吸器装着ということになる。そして、ALSは病院経済には全く歓迎されないので、満足な介護知識も心の準備もないまま退院の日となり、不毛の在宅原野にさっさと戻されてしまう。ほどなく24時間不眠不休の介護は破綻寸前になり、結局患者家族の双方から出る言葉は「呼吸器を着けなければよかった」「こんなになるなんて説明を受けていない」やがて「死にたい」である。だから療養の安定のためにも2000年の介護保険制度は非常に期待され迎えられた。しかし決して安くない自己負担が発生することを知ったのは施行直前で、しかもヘルパーは肝心の吸引をしないと分かった。また些細な事が不便極まりなく同居家族の洗濯は別、ちょっとした買い物も断られてしまう。患者とて家族を少しでも休ませたい。だがヘルパーが全く役に立たない。そしてまた要介護度5で3万円強の応益負担もサービス利用を抑止した。さらに介護保険優先の原則によって支援費制度は給付されず、いまだに支援費制度など知らないという患者家族は全国的にかなりいて、今回の改革案のことなどさっぱりわからないのである。介護保険制度は橋本流に総括すれば「ALSは煮え湯を飲まされた」ということになっている。

一方、ヘルパーの吸引問題は未だ決着をみない。だが対人サービスの能力と資格は必ずしも一致しないことは先輩患者たちが強調する点でもあり、よいサービスを受けるためには本人が自分のニードを把握していることが大事なのだと付け加える。  介護は生存に不可欠である以上、他者による侵襲的な介入にさえなりえるので、発声できないALS患者が療養生活で主導権を握るためには豊かな表現力と忍耐強さが必要だ。そしてこれらを習得した患者は、素人のヘルパーにも十分上手に介護方法を教えることができるようになる。努力は利用者側にこそ必要とされているのだ。だから何でも待っていれば自動的に与えられると信じて、障害者運動など自分には関係ないと言う大人のALS患者は家族を犠牲にしていると世間に言われても致し方ない。だが、福祉のお世話にならないことや家族介護を誇りとする患者家族も多かったので、先駆的であろうとすれば内外双方から風当たりは強かった。だから具体的に示されていない「極めて重度の障害者を包括的に支える仕組み」の青写真に対して物が言える者は未だごく僅かである。このようなALS患者の実態を先に述べてから通称「包括案」について検討を始めよう。
 まず「ALS等の極めて重度な障害者」として「包括案」の対象に指名されたことだ。障害種別のよるサービス格差は一種の線引きである以上、むしろ他の疾病/障害の中にも長時間の包括的サービスが必要な人は多くいることをALSの人は知らねばならないだろう。障害種別を基準とする審査は差別を引導しやすく過去においても患者運動を分断してきた。注意を要する。包括給付とは上限設定のことである。無論足りなくなれば追加料金は制度外に事業者から個別に請求され、自己負担の上限も空しくなる。

また、人的資源が乏しい状況下で、包括的サービスを提供せねばならない事業者の孤軍奮闘は予想される。介護者の不足は医療的ケアを伴う長時間介護の適正単価を工夫しない限り改善されないだろうし、よほど良い条件でなければ「包括案」を引き受ける事業者はいないだろう。また困ったことに「包括案」では単価が高くなれば給付時間は減少するのである。事業者と利用者が揉める原因は既に予想可能である。
 さらに障害施策でありながらも医療と介護の協働はここに初めて提示された。望むところだが心配なのは在宅の医療化、病院化である。たとえば生真面目な専門職の責任感が発揮されれば患者の自由は極度に制限されてしまい、橋本操のようなお気楽患者は二度と出現しなくなるだろう。重症患者の日常にも「思いつき」や「気まぐれ」は必要なのだ。だからこそ、私達が医療専門職に望むのはストレスを与えずにポイントは押さえる専門性であり、それ自体が非常にグレードの高い医療なのだ。医療はあくまでも名脇役として当事者の主体性を鍛えて欲しいのである。  
 さて、これまでの自立生活運動では必要な者が訴え24時間の他人介護を得てきた。そうして地元の支援は紡がれ、患者や障害者の独居は(リスクがあり過ぎると言われても)実ったのだった。しかしこのような地域福祉と在宅の自治は、地域格差をなくそうという国の三位一体のかけ声と共にかえって弱体化しそうな気配だ。また、必要だからこそ訴え獲得してきた者たちの流儀を「強いものが得をして平等ではない」と批判する人々にどう切り込んでいくか。財源論の前に医療や福祉の平等を公共的合意として求める国に対して、これまでの自立生活運動のテーゼでもある基本的生存権におけるニーズの平等は今が正念場である。そして数ある論点の中でも支援費制度のおかげでようやく実現しはじめた当事者主体の地域生活を必要な者には124時間保障を基本として守らなければならない。これは積年の運動の末にやっと見えてきた自由への灯だから絶対に消してはならない。ALS患者に至っては世界的にも稀有なことなのだから。
 そして、ここで踏張らねば国は別の方法で最重度の者から順に救いの手を伸ばそうとしているのだ。それは「終末医療のおける治療停止のガイドライン策定」により人工呼吸器の停止、さらには「尊厳死法案」を超党派議員団による立法によって積極的安楽死も可能にしようというのである。もちろん、末期癌患者などと違って障害者ユーザーの多くは単なる延命のために呼吸器を使用しているわけではないが、在宅療養が失敗したらかわいそうだから呼吸器を外して楽にしてあげようということにもなりかねない。そして、ALSの場合はコミュニケーションが完全に阻害される前に、本人に事前指示(死の承諾)を書いてもらおうという話に発展していきそうだ。
 それこそ大きなお世話である。「同情するなら金をくれ」とは、母の介護をしながらよく呟いた言葉だったけど昨今は捨て台詞に近い。だが心して丁寧に「生命倫理ではなく政策で何とかしてください」と言い換える隣で橋本が「生きることは義務だ」と口文字で怒っている。そしてガツンと言えと目で合図してくるのである。


DPI(障害者インターナショナル)日本会議 『 DPI われら自身の声 』20-4号 掲載文

「第10回障害者政策研究全国集会」自立生活分科会での報告と提言から