平成18年6月11日    DPI総会特別分科会、命の重さを問う「生まれる権利そして生きつづけるための思想」

わたしたちの自立生活運動、自己決定する尊厳ある生



1、   重度障害者の人権はどこまで確立しているか?権利とは?

重度障害者の人権を保障する法・制度が不可欠である。

たとえばALSの人たちの運動を振り返ってみる。

*     ALSの人権運動

・ 2000年、公職選挙法における在宅郵便投票の代筆を求める

選挙権があっても麻痺などで自筆できない者(高齢者を含めると20万人以上)は郵便投票できなかったが、ALS患者が原告となり国に損害賠償を提訴した。2002年に敗訴したが東京地検は「違憲状態」とし、2003年3月に議員立法提出、全会一致で選挙法改正。だが、周知していない。手続きが面倒で在宅投票はあまり進んでいない。

・     2002年、ヘルパーの吸引を求める運動(全国からおよそ17万8千の署名を集めた)

医師法第17条「医師でない者は医療行為ができない」の解釈→ 家族だけに容認→ 家族が24時間介護をするなら呼吸器を付けてもいい(家族介護がALSの生存条件)→ 家族に優先的に選択権を付与したことが、本人に病名を告知はしない状況をもたらした。介護負担と経済的問題から、医師と家族の合意で呼吸器の選択がおこなわれている。幼児の場合も同じ。

・     2005年、自立支援法に独居のALSの24時間介護/介助保障を求めた →重度障害者等包括支援(呼吸器TPPV装着者のみ優遇し、ALSの病態に配慮が足りない給付システム)

・     2005年、尊厳死法案反対(NPO法人さくら会) 

日本尊厳死協会のリビングウィル原文には「私の精神が健全な状態にある時に私自身が破棄するか、又は撤回する旨の文書を作成しない限り有効であります」とあり、麻痺により文章の破棄や書き換えが困難な重度身体障害者や知的精神障害者、認知症の意思撤回は困難である。植物状態(PVS)ならなおさら。対話性と同時性がなく撤回や書き換えの困難なものは「念書」「宣誓書」であり、そこに法的罰則を適応すれば危険な文章になる。将来は尊厳死法(仮)や治療不開始・停止のガイドラインは国がその生存権を保障しきれない重度障害者や重病人の受け皿になる恐れ。

 

2、 24時間必要な介助を受けてくらすこと。是とするための論理

介護介助から家族を切り離す。そのためには・・・、

・     最重度の障害者の自立生活モデルを確立。これまでの到達地点から一歩も後退をしないこと。

・     高齢者福祉では本人ではなく家族が方針を決める。疑問がもたれていない。自立生活運動は健常者にとっても思想的価値がある。特に「介護」「育児」の担い手として要請(養成)されてしまう女性の意識改革は重要課題と思っている。まず女性が<介護をしない>と、<家族に介護をさせない>を運動として行っていく必要がある。だが、女性は直系の女性に介護や育児を望む傾向があり、介護や育児の円環は強固なものを感じる。たとえば、本音では母親は実の娘に介護を依頼したい。それができない/させたくないと、死の選択肢しかない。(私の母の場合)

・      

3、呼吸器を外す時。自己選択・自己決定は可能か。

1)社会制度的文化的背景が違ってもALS人の言葉は国境を越えて驚くほど似ている。「命の尊厳」「生きる喜び」「麻痺がどんなに進んでも、まだできることがあること」を強調している。病者は死ぬまで真理を見続けるが、問題は社会の価値観。(立岩氏の連載「他者を思う自然で私の一存の死」参照)

“Focus on what you can do. Don’t cry over what you cannot do” (Jens Harhoff, Denmark ?Philadelphia 2004) できないからといって泣かないで。できることに目を向けて。

 “We choose life. We are not dying. We are living” (Gudjon Sigurdsson ,Iceland?Dublin 2005)

私たちは生きることを選びました。私たちは死にかけているのではないんです。生きているんです。

 “Will you use a wheelchair if your legs can not support you, will you use a pacemaker if your hart does not function right, then I think the answer is easy, if you want to use a respirator when you don’t get enough air.”( Tommy Pedersen, Iceland−Denmark2006)

歩けなくなれば車椅子を使うでしょうし、心臓が悪くなればペースメーカーを使うでしょう。だから、呼吸が苦しくなってもし呼吸器を使いたくなったら、答えは簡単です。

私の母「美しいものを美しいと感じる限り、生きることにしました」自分の感性と共感に生きる価値

 

2)海外の難病治療

*イギリスでは、ALSやMND(神経難病全般)には人工呼吸器は付けない。

  一生病室から出ることができないが全額健康保険でカバーする。ALSに対応する在宅ケアのノウハウも制度もないので患者も呼吸器を望まない。呼吸器を装着しない終末期の緩和ケアとスピリチュアルケアが発達。発症と同時に導入されプログラム通りに「ハッピーに」亡くなる。

*アメリカでは、呼吸器をつけても後で外せる自己決定主義。「娘の結婚式まで」など期限が設定される場合がある。今年オレゴン州では致死薬の処方を許可。患者に判断能力があり余命6カ月以内と、同州の免許を持つ医師2人が診断した場合→どの病気の末期よりALSに適している。

*カナダのSWの研究発表「事前指示書の保管場所をどの家にもある冷蔵庫にして、誰にでもわかるように空きビンに入れて救急隊員に「ここにある→」と冷蔵庫にステッカーを貼っておくことにより、確実に死ねるようにする」というもの。多くの患者がリビングウィルや事前指示書の文章を完成させないから、医療専門職はいかに患者のdecision making を支えるかがテーマ。有効な事前指示書の作成のさせ方の研究が盛ん。。

*日本でも徐々に事前指示書が普及する方向で進んでいる。ルール作りは止められないので、できるだけ当事者に有利なものが普及するように努力している。医師や家族にこそ都合のよい事前指示書の研究も散見するので、ALS本人の生きる力を支援するための事前指示書の在り方に変えていかなければならないと思っている。(必要悪。しかし・・・という感じ。)

3)あいまいな「安楽死」と「緩和ケア」の概念

ALSで呼吸器を付けないと決めた人には、呼吸不全の緩和のためにモルヒネを使用することがあるが、分量によっては安楽死のように死んでしまう。(二重効果=ダブルエフェクト)。治療をしない尊厳死は容認されても、薬物を利用した安楽死を認めている国は少ない。ALSの緩和ケアと安楽死の境界には曖昧な点が多くあり、医師も困惑してしまうことがある。たとえば次の調査。

「ドイツの神経内科医長411人に対する調査に回答を寄せた152人中、32%は呼吸緩和のための投薬を違法と考え、45%はモルヒネの使用は安楽死と同様と信じている。患者の4%しか事前指示書を完成しないが、88%の医師は事前指示書を有効と答え、回答者のおよそ3分の1が患者による安楽死や自殺幇助の要求に直面している。(Brasio GD,et al,Nervenarzt,2004Dec;75(12):1187-93)」事前指示書があれば、安楽死に近いような死に方をしても医師は免責になり、モルヒネを使うタイミングも医師の都合になる恐れ。投薬は家族にとっても患者が一定期間内で死ぬから都合がいい。また、最後の瞬間に患者が「死にたくない」と意思を撤回しても、医師の裁量でどうにでもできる。

誕生も死も医師の都合でコントロールされるが、実は医師もまた国にコントロールされている。

4)リビングウィルが医師の倫理観を削ぐ

日本ではリビングウィルには法的根拠がないので、医師は治療を拒否する家族を説き伏せても、必要とあれば治療を開始できる。だから、病気や事故から蘇り多少の障害が残っても楽しく人生を全うすることが可能である。しかし、リビングウィルが法制化されたら、医師は助かる者にも治療ができなくなってしまう。リビングウィルとは、救命治療の結果、心身に障害が残ることを拒否したい健常者の優生思想。それを、10万人もがそうとも知らずに受け入れている。法制化されたら、医療は市場倫理に絡め取られ効率主義にますます傾斜してゆくと考えられる。そして確実に弱者に対する福祉の分配に影響しその枠を狭めると思われる。

5)「外せるようになれば着けられるようになる」?ALSの人も言うがそれは間違い。外せるようになれば、介護保障は伸びない。ますます生きられなくなる圧力になる。海外の事例が証明している。

6)重度障害者に「自殺の自由」はあるのか?

また、呼吸器装着者が死にたいといい、呼吸器の取り外しが許されるのであれば、一部の者に限って自殺も公認されることのなる。そういうと、ALSなどの肢体不自由なものには、「自殺の自由」もないのかと、ALS本人に言われることがある。だが「自殺の自由」を認めたとしても、他者にはそれを「止める義務や自由」はある。しかし、尊厳死法が制定されたり、治療停止ができるということになれば、一部の者に限って「自殺の自由」を与えると同時に、他者の「止める義務や自由」もなくすということだ。それで公平か? またそう考えると、呼吸不全に陥ったALSが目前の呼吸器を拒むのは、自殺を遂行しつつあるということであり、その場に立ち会った者は無理にでも呼吸器を装着しなければ、見殺しにしている状況にある。しかし、現在、治療開始時の拒否「行為の不作為」(救命しないこと)は日本でも容認されていることになっている(本来は罪である)。このようなことから、倫理的問題として、しっかり議論しなければならないはずだが。

 

7)自立生活運動や自己決定主義から、死ではなく、いのちの尊厳を守る運動へ

  尊厳死・安楽死法、出産にまつわる選択など、死に淫する法では障害者運動のテーゼ「自己決定」や「自立」も、別の側面「自己責任」が強く作動させられかねない。私たちが恐れるのは、今までALSに見られてきたような、自己決定で死ぬこと、が一般化することである。「自己決定」「自立」から「自己責任」をどのように切り離したらいいか?その理論は?

地域で暮らす障害者を最後まで地域で支える仕組み作りには、いまだ共通言語に乏しい人たちの理解と協力が望まれる。

また、「迷惑をかけたくない」「できなくなる」から死ぬという人々の尊厳死思想には、「勝手にすれば」と言いたいところだが、「滑りやすい坂」のたとえのように、社会全体が、犠牲の死を手本に学ぶべきものとして次々に尊厳死するようになると、いやでも真っ先に巻き込まれるのは障害者や病人である。だが、正直言って医療福祉の切り詰めは速度を増しているし、今後はますます弱い立場にはなる。連帯と責任を呼びかけて、多くの人に応答し承認してもらえるには、どうしたらいいのだろう。私こそDPIの今後の運動方針をお聞きしたいと思います。