尊厳死っ、てなに? 本集会の趣旨
1、「尊厳死法案」上程に待った!
尊厳死の法案化に向けて超党派議連による勉強会があちこちで行われていますが、平成14年から16年にかけて行われた厚生労働省の「終末期医療に関する調査等検討会」の報告書によると「書面による本人の意思表示(リビングウィル)という方法について、「そのような書面が有効であるという法律を制定すべきである」とする国民は、前回調査結果よりも減少して、半数を下回っている(般37%(49%)、医48%(55%)、看44%(52%)、介38%)」
「今回調査の結果を見る限りは、現状においてはリビング・ウィルを法制化することに、国民の多数の賛成は得られていない」「本報告書に盛り込まれた内容が、終末期医療に対する国民や医療関係者の理解を深め、終末期医療に対する社会的コンセンサスが得られるよう国民的議論を喚起させるとともに、終末期における医療提供体制の充実に寄与することを強く期待する。」とあります。
つまり、終末期医療の充実のためには国民的議論が必要であるという調査結果です。しかしなぜ、突然降ってわいたように議員立法による「尊厳死の法案化」を急ぎ、目指すのでしょうか? マスコミも含め、国民の多くは未だ
「尊厳死っ、てなに?」という状況にあるのです・・。
2、 緊急的課題として「医療と介護の充実」をまず求めます。
「在宅介護保障の整備」「緩和ケア病棟の設置と拡充」、「患者、家族への相談体制の充実」、「医師・看護師等医療従事者や、介護施設職員に対する、卒前・卒後教育や生涯研修の充実」から先に検討してください。
* 「住み慣れた自宅で最期を迎えたい」と望む国民は2割。
国民が望む最期の場所は、「病院」が38.2%で一番多く、次いで「老人ホーム」24.8%「自宅」は22.7%。
自宅以外を望む理由には「家族の看護などの負担が大きい」「緊急時に迷惑をかける」「経済的負担」「最期に痛みで苦しむかもしれない」などが上げられている。
一方、医師49%、看護師41%、介護職員の38%は「自宅」での最期を希望。
厚生労働省の終末期医療検討会委員の鎌田寛さん(諏訪中央病院管理者)によれば
「介護負担を懸念する国民と、病院では必ずしも幸せな最期を迎えられないことを知っている医療関係者の現実を、よく反映した調査結果だ。在宅医療の阻害要因を取り除くなど、終末期医療のあり方を国全体で考える時期に来ている」とコメント。(平成116年11月23日毎日新聞より)
平成17年4月16日 「尊厳死っ、てなに?」実行委員会
講演要旨
「患者の尊厳とQOL 難病ケア研究の中で分かったこと」
独立行政法人国立病院機構新潟病院 副院長
中島 孝
WHOは「QOL (Quality of life、生活の質)とは文化や価値観により規定され、その個人の目標、期待、基準および心配事に関連づけられた、生活状況に関する個人個人の知覚である。」と定義し、QOLを一次元的に客観評価するのではなく、その時々に主観的に多次元的に評価するものであると強調している。わが国では、根治療法がなく(incurable)、慢性的で
(chronic)、対応が困難な(intractable)疾患群を難病と定義し、たとえ治療が不可能であってもQOLの向上を行うべく、ケア方法を模索・研究してきた。
難病患者の中で「病気が進行し機能が低下し、QOLが低い状態で生きるのは、尊厳がないので、そうなったら尊厳死を望みたい」と表現することがある。反対に、どんな障害や病気のもとでも、いかなる最後をも「生き生き」と生きる難病患者がいる。人間としての尊厳や価値は難病があっても変わらないという考え方がある一方で、多くの難病患者は、難病になると、QOLが低くなり、生きる意味はなくなると考え、悩み、将来を考え、生きる希望を失っている。難病患者のQOLはどうすれば向上できるのだろうか?また、QOLはどのように評価すればよいのだろうか?
このような問いに対する研究(参考文献1から8)の中で、現在使われている“QOL”と“尊厳”には相反する二つの異なった概念があることがわかってきた。二つのうち、一つは、人は機能が高いほどQOLが高く、尊厳があるという考え方である。もう一つは、生命は神聖であり、つねに尊厳をもっており、機能とQOLとは無関係という考え方である(表参照)。この二つの尊厳、QOL観を明確に区別した上で、難病患者の生きる意味をケアにより支えていくために、QOL概念を深め、Narrative
based medicine(NBM)や患者個人のQOL評価尺度であるSEIQoL-DWを研究してきた。
患者は障害や病気の進行に応じて、常に自らの価値観を変え、Narrative(人生の物語)を変換し生きている。それにより、人間は機能低下や障害のもとであっても「生き生き」といきることが可能である。現代医療倫理の衣の下で将来の自分の状態を想定させ、QOLが高いか低いか、尊厳があるかないかを、詳しい情報提供もないなかで、事前に自己決定により判断させることは問題であり、矛盾がある。 難病に悩む人は、どんな状態であっても、その時々の適切なケアにより、生きる意味を深め、価値観や、Narrativeの変換をおこない「生き生き」と生きることを援助されるべきである。この考え方の前提には、難病、障害、財産の有無も、地位の高低も、人間の尊厳に影響をあたえないという本来の自律に基づくケア概念がある。健康時に「自分が将来、重度の障害者になり、効用のない生命になったら、尊厳はないので、いたずらな延命を希望しない」という自己決定をおこない、病気の発症後もこの価値観が不変という前提の下で人が生きているとすれば、その人へのケアはどのようにおこなえばよいのだろうか?患者の何を支えるためのケアをおこなうのだろうか?そのとき真の人間尊厳は支えられているといえるのだろうか?
難病ケアでは功利主義、効用主義(utilitarianism)を超える価値として、人間尊厳やQOLを捉えている。 効用のない生命、意味のない生命、いたずらな延命という概念自体は難病ケアとまったく、相容れることができないものである。難病ケアの原理は、英国のホスピスケア、緩和ケアにも見出すことができる。本来、緩和ケアとは「徒に延命せず、死期を早めてもよいから苦痛を和らげるために行う」“尊厳死”というものではなく、意味の崩壊や絶望により損なわれた自律を、効用主義を乗り越えて、回復しようとするケア原理である。難病ケアと尊厳死はまったく反対の概念であり、難病ケアと緩和ケアは同じ目標を目指すケア概念である。
表:尊厳死、緩和ケア、QOLなどの意味の混乱を整理した対応表。ケアモデル2が本来の難病ケアおよび緩和ケアモデルと考える
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ケアモデル1 |
ケアモデル2 |
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緩和ケアとは |
消極的安楽死。尊厳死を導く合法的ケア技術 |
自律の回復。生きるためのケア。死は人間にとり避けられないが、早めもしない |
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疾病観 |
病気は人間の尊厳を損なう |
病気は偶然性により起きる事象。それ自体は尊厳に影響しない |
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価値観 |
人間の価値観は不変 |
人間の価値観は病態や関係性の中で変化する |
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QOL |
QOLが低い状態で生きることは無駄 |
QOLは人間同士の関係性の中で決まる |
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QOL尺度 |
人間としてふさわしい理想的QOL尺度がある |
QOL尺度は病態と関係性の中で決定される相対的尺度 |
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尊厳 |
QOLが低いと人間の尊厳は失われる |
どんな病気、病態でも人間の尊厳は失われない |
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死 |
努力すれば人は病気や死を免れ、尊厳の維持が可能。そうできない場合、死を自己決定することで尊厳を保てる |
死は人間にとり避けられない事象。死によって人は尊厳を保てない |
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自己決定 |
自己決定には苦痛をともなうことがある。自己犠牲は美しく、誇るべきもの。 |
自己決定のプロセスにより成長し幸せになれる。自己決定は誇るために行うものでない |
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自己決定内容の表示 |
リビングウイルを作成 |
インフォームドコンセントを通してAdvance directives(事前指示書)を作成 |
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病院 |
QOLが低く、高められない患者、アウトカムが評価できない患者の診療は病院の本来業務ではない |
どんな難病患者に対しても患者の自律を守り育てる医療を行う。NBMの利用 |
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限られた医療資源・総費用の分配モデル |
QOLが低く、高められない患者の診療は社会的負担が大。QOLに応じて医療費の再分配が必要、ピンピンころり思想。 |
既存のQOL評価より医療費の再分配は不能。すべきできない |
参考文献
1.
難病患者等ホームヘルパー養成研修テキスト(総監修,中島孝)改定第6
版、社会保険出版社、東京2004
2.
中島孝、筋萎縮性側索硬化症患者に対する生活の質(QoL)向上への取り組み、神経治療学、20:139-147,2003
3.
中島孝、緩和ケアとはなにか、難病と在宅ケア、9:7-11,2003
4.
中島孝、これからの緩和医療とは何か、新医療8
月号138-142,2004
5.
中島孝、神経難病(特にALS)医療とQOL、ターミナルケア、14:182−189,2004
6.
中島孝、神経難病とQOL、p5-p10、神経内科の最新医療(先端医療技術研究所)2004
7.
中島孝、難病の生活の質(QOL)研究で学んだこと ― 課題と今後の展望―、JALSA, 64:51−57,2005
8.
中島孝、生をささえる共通基盤をもとめて−QOLの価値観は健康時から重症時へとどんどん変化していく、難病と在宅ケア、10(12):7-12,2005
◆ 講演者紹介
中島 孝(なかじま たかし)
独立行政法人国立病院機構新潟病院 副院長
1958年生、1976年甲陽学院高校(卒)、1983年新潟大学医学部(卒)、1991年新潟大学大学院医学研究科終了、医学博士(脳研究所神経内科)、1987〜1989年,米国NIHにfellow。2004年1月〜現職。
厚生労働省難治性疾患克服研究事業(H14-H16)「特定疾患の生活の質(QOL)の向上に資するケアのあり方に関する研究」班 主任研究者、独立行政法人医薬品医療機器総合機構専門委員、新潟大学脳研究所非常勤講師
専門領域:神経内科学。難病、脳血管障害、アルツハイマー病、DNA検査領域の診療のほか、脳機能イメージング、遺伝子解析研究、インフォマティクス、QOLの質的研究、治験評価研究などの広範囲な関連分野を研究している。

◆2005/01/28 「重症ALS患者の呼吸器外し、厚労省研究班が是非検討」
『読売新聞』2005/01/28朝刊
「全身の運動機能がまひする難病「筋委縮性側索硬化症(ALS)」患者が装着した人工呼吸器を外すことを容認できるかどうかについて、厚生労働省研究班が検討を始めたことが明らかになった。
呼吸器を外して患者が死亡すると、現行法では殺人罪に問われる可能性が高いが、研究班は容認する場合、どのような条件があれば違法にならないか指針作りを目指す。生命倫理に直結する問題だけに論議を呼びそうだ。
ALSが進行すると自発呼吸が困難になり、人工呼吸器をつける場合も多く、国内の患者約6600人の3割近くが装着している。だが、さらに進行すると意思疎通も困難になる場合があり、「コミュニケーションができなくなったら呼吸器を外してほしい」と事前に意思表示する患者も出てきた。このため「特定疾患の生活の質の向上に資するケアの在り方に関する研究班」(班長・中島孝国立病院機構新潟病院副院長)は、呼吸器の使用中止が、患者の意思による治療行為の停止として容認できる条件や、事前の意思表示を生かす仕組みなどを検討する。班員には、慎重な意見もある。
人工呼吸器を巡っては、神奈川県相模原市で昨年8月、母親(60)がALS患者の長男(当時40歳)の呼吸器の電源を切って死なせ、殺人罪で起訴され公判中。長男は再三「外したい」と訴えていたという。
米国やオーストラリアの一部州は延命治療を拒否する権利を法律で認め、患者の意思で呼吸器を外すことは違法ではないとされる。
◇ALS=運動神経が侵される進行性の病気で、厚生労働省の特定疾患(難病)に指定されている。全身の筋力が衰え、次第に手足が動かなくなるが、意識は鮮明で知覚も正常だ。」(全文引用)
◆2005/01/28 1月28日付け読売新聞「重症ALS患者の呼吸器外し、厚労省研究班が是非検討」に対する厚生労働省厚生科学研究費難治性疾患克服治療研究事業
「特定疾患の生活の質(QOL)の向上に資するケアのあり方に関する研究」班(H14
年〜H16 年)主任研究者、独立行政法人国立病院機構新潟病院副院長
中島孝によるコメント
*PDFファイル(内容は同じです):http://www.arsvi.com/2000/0501nt2.pdf
この研究班のテーマとして、特定疾患の筋萎縮性側索硬化症(ALS)患者さんが生き生きと生きていくためのケアの質の向上を研究しています。ALS
は病気の進行にともない、経管流動食などの栄養補給療法を工夫したり、ベンチレータ(人工呼吸器)による呼吸補助療法を工夫しなければ、生命維持ができなくなる疾患です。療養の質を向上させるためにはこのような対症療法やケアの質を高めることと並行して、患者自身が病気の理解を深め、治療法に関して十分なインフォームドコンセントを行うことが必要となります。いままでALS
のケアについてさまざまな議論が、保健・医療・福祉従事者のみならず、患者、家族、市民から行われております。その中の一つとして、人工呼吸器装着の可否の自己決定や人工呼吸器の中断についての自己決定権の議論が患者、家族、医療従事者からも出てきています。
まずこの議論の前に、ALS 患者が人工呼吸器装着した際のケアの質や地域でのサポート体制を充実させることが必要です。その中で、約三分の一のALS
患者が人工呼吸器療法を選択されているようです。しかし、現時点での現実として、「こんな難病になって生きる意味がないから人工呼吸器療法は望まず、尊厳死を望みたい」、「植物状態のようになったら、生きる価値がないので人工呼吸器をはずしてくれ」と、患者や家族が言われることがあります。主任研究者としてはケアの質を高め、工夫することで、このような感情、考え方を乗り越え生きることができると考え、特定疾患のケアの質の向上についての積極的な研究を推進しています。
具体的には、研究班のテーマとして、ALS
と診断され、告知された時点から、インフォームドコンセントとして、どのような治療法、対症療法があるのかの情報を患者と家族に十分に伝えて、自律的に自分の治療法、対症療法をとらえ選択していくことが療養にとり必要であると考えています。そのためには、患者自身が医師に対して事前指示(書)という形式でインフォームドコンセントの内容を記録していくことは、診療プロセスとしても患者の療養の質を高めるために必要と考えています。したがって、事前指示書は、人工呼吸器療法の中断の条件を記載するために書くものではありませんし、医療現場で使われる事前指示書は一方向的でインフォームドコンセントの無いリビングウイルと異なり医師との対話に基づき作り上げていく療養のプロセスと考えています。今後、事前指示書の内容や作成の仕方などについて詳細な研究が必要であり、研究を行っています。読売新聞の記事の中の「呼吸器を外して患者が死亡すると、現行法では殺人罪に問われる可能性が高いが、研究班は容認する場合、どのような条件があれば違法にならないか指針作りを目指す。」と書かれていますが、研究班ではこのような人工呼吸器の中断に対する違法性阻却の条件を探る目的での研究をおこなっているわけではなく、誤解と思われます。
また、さらに、記事の中で間違った情報があります。
「米国やオーストラリアの一部州は延命治療を拒否する権利を法律で認め、」という文章がありますが、これは別の取材源からの間違った情報であり、当研究班からの情報提供ではありません。正しくは、オランダやベルギーではある一定の条件を満たした患者に安楽死または医師による幇助自殺を認める法律があり、米国のオレゴン州では尊厳死法の名のもとで、医師による幇助自殺を認める法律があります。これらについてはALS
患者がこの問題に巻き込まれているため当研究班では正確な情報の収集をおこなっています。(オーストラリアの一部の州では以前そのような法律が制定された歴史がありますが、現在は廃止されています。)
このような法律では結果的に、患者の自己決定という形式のもとで、ある病態や病気に限り、患者の生存権が制限されてしまう危険性があり、この法により人間が等しく持つ基本的人権や普遍的な尊厳が侵害されるのではないかという危惧を主任研究者は持っています。この問題は、まだわが国では十分に議論されてはおらず、今後、幅広い、深い議論が必要です。
参考文献
1. 難病患者等ホームヘルパー養成研修テキスト(総監修,中島孝)改定第6
版、社会保険出版社、東京2004
2. 中島孝、筋萎縮性側索硬化症患者に対する生活の質(QoL)向上への取り組み、神経治療学、20:139-147,2003
3. 中島孝、緩和ケアとはなにか、難病と在宅ケア、9:7-11,2003
4. 中島孝、これからの緩和医療とは何か、新医療8
月号138-142,2004
5. 中島孝、神経難病(特にALS)医療とQOL、ターミナルケア、14:182−189,2004
6. 中島孝、神経難病とQOL、p5-p10、2004、神経内科の最新医療(先端医療技術研究所)
7. 中島孝、難病の生活の質(QOL)研究で学んだこと―課題と今後の展望―、JALSA, 64:51−57,2005
講演資料
「 安楽死・尊厳死をめぐる世界情勢 」
東北大学大学院医学系研究科 医療管理学分野
伊藤 道哉
(詳細は,立岩真也氏のホームページ(http://www.arsvi.com/0p/et.htm),および著書『ALS──不動の身体と息する機械』医学書院 2004年,および拙稿「諸外国におけるALS患者の安楽死・自殺幇助の動向,ALS告知・選択『人工呼吸器をつけますか?』,メディカ出版,137-166,2004年」,
日本医師会編 高久史麿 監修 伊藤道哉 著:医療倫理,メヂカルフレンド社,89-178,2004年を参照。外国の研究は枚挙に暇がないが,1冊のみ挙げる。
Robert H. Blank (Editor), Janna C. Merrick (Editor) : End-of-Life Decision Making:
A Cross-National Study (Basic Bioethics S.) The
MIT Press,2005)
1.
安楽死(Euthanasia),尊厳死(Death with
Dignity)の概要
安楽死は,本人の持続的で真摯な自発的要請を受けて,医師が致死薬の注射等によって,患者の生命を速やかに終息させる行為である。
1995年横浜地裁判決の医師による積極的安楽死の4要件は,
1)耐え難い肉体的苦痛,
2)死の不可避・切迫,
3)肉体的苦痛の除去・緩和に尽くし他に代替手段がない,
4)生命短縮を切望する患者の明示の意思表示,である。
尊厳死は,意識回復の見込みのない持続的植物状態の患者や,積極的蘇生を望まないがん末期の患者自身のリビング・ウイルに基づき,生命維持装置による医療を中止し,尊厳ある死を迎えさせる行為である。具体的には経管栄養のチューブを抜き,飢餓死する過程をケアに当る者が見守り,最期を看取る。
慈悲殺は本人の自発的要請がないのに,介護者が苦痛を見るに忍びず,思い余って殺害することである。
自発的安楽死容認の法律は1995年5月オーストラリア北准州「終末期患者の権利法
」が世界初であったが,現在は廃止となっている。アメリカの,ワシントン,カリフォルニア,オレゴン各州の尊厳死法案はオレゴン州のみが成立している。オレゴン州尊厳死法は,実質「自殺幇助」法であり,医師が患者に致死薬を処方することにより,自殺の手段を提供するものである。
オランダでは1993年の「改正埋葬法」,94年6月の最高裁判決により,末期でない精神的苦痛にさいなまれる患者の自発的安楽死も容認されるにいたった。2001年4月安楽死が合法化された。続いて,ベルギーでも2002年5月安楽死容認法が成立した。
リビングリビング・ウイル (Living
Will)とは,望まない医療・無益な延命治療から解放される権利に基づき熟慮の上文書によって表明された「尊厳死の宣言書」であり,法的には生前発行遺言である。世界最初の法制化は1976年の「カリフォルニア自然死法」による。
リビング・ウイルは,判断能力のあるうちにあらかじめ行う医師への「事前指示書」(advance
directives)に含まれ,その実施を確認するために代理意思決定者を委任する「持続的委任権」(durable
power of attorney)によって患者の意思が保証される。
日本では1976年に憲法13条「自由および幸福追求の権利」による自己決定権を行使するため,日本安楽死協会が創設され,83年には日本尊厳死協会と改称,
1)不治の病で死期が切迫した場合の延命治療の拒否,
2)苦痛の緩和,
3)3か月以上植物状態が続き回復の見込みがない場合の生命維持装置の取りはずし
に賛同した登録会員は現在約10万7千人である。94年には日本ホスピス・リビングウイル協会が設立され,ホスピス的尊厳死の普及を目指した。
2.各論
1)自然死
自然死natural deathとは,終末期の患者が,医療の介入をやめて,寿命がくれば死を迎えられるような自然の状態にしてもらって,自己の尊厳を保ちながら迎える自分らしい死のことである。
2)尊厳死
カリフォルニア州法でリビング・ウイルが法制化されてから,他の州でも同じような法律をつぎつぎと制定したが,州によっては自然死法と呼ばず「尊厳死法」とした。それは“終末期に生命維持装置による医療の介入をやめ,寿命がきたらいつでも自分らしく死ぬことができるのは,自己の尊厳を保った自分らしい死の迎え方,つまり尊厳死(death
with dignity)をすることである”と考えたからである。これが,元来の尊厳死の意味であり,“狭義の尊厳死”である。自然死も狭義の尊厳死も,患者本人の自発的な意思表示によらなければならず,家族などの付度ではいけない。あくまで本人のリビング・ウイルが必須となる。
3)広義の尊厳死
自己の尊厳を保った自分らしい死,すなわち“尊厳ある死”ならば,方法を問わず,すべて尊厳死であると解釈する人々も出て,用語の混乱があるので,
“狭義の尊厳死”に対して他の“尊厳ある死”を“広義の尊厳死”として区別することを提唱している。なお,1981年には,世界医師会総会で“患者の権利に関するリスボン宣言”が採択され,“患者は尊厳のうちに死ぬ権利をもつ”と宣言された。この場合に“患者は死ぬ権利をもつ”と解釈するべきではなく,“患者は死の迎え方を選択する権利をもつ”,と解するべきであろうと思われる。
4)慈悲殺
患者の家族やごく親しい人が患者が激痛やひどい苦痛にさいなまれていたり,見るに見兼ねるようなひどい身体的あるいは精神的状態のときに,これ以上徒(いたずら)に生存を長引かせることが,かえって本人を苦しめ続けることであり,いっそひと思いに死なせてあげたほうが患者のためになると確信して患者の生命を終焉させるのを慈悲殺mercy
killingという。 慈悲殺の場合,患者本人の明示の意思表示がないのに,患者への憐れみの気持ちから起こる当事者の思い込みで実行するという特徴があり,
法的には他殺行為であり,殺人罪となる。
5)消極的安楽死
消極的安楽死passive euthanasiaという言葉は,
1995年3月28日の横浜地方裁判所での松浦繁裁判長の判決文の中で“消極的安楽死は,治療行為の中止としてその許容性を考えれば足りる”と述べて,消極的安楽死という概念の導入を否定している。
6)通常の医療行為中止による患者の自然死
1995年横浜地方裁判所の判決文の中で,裁判長は,通常の医療行為の範疇での医療の中止の対象を示し,通常の医療行為の中止による患者の自然死のための要件をあげて,終末期医療の中止を安易に容認しているわけではないことを明らかにしている。
7)自発的安楽死
自発的安楽死(voluntary euthanasia)は,従来,積極的安楽死(active
euthanasia)といわれていた。しかし,積極的安楽死には,本人の意思の明示と医師が本人の強い要請に基づいて積極的に実施することが必須であるという考えから,“自発的積極的安楽死”と表現している学者もいる。さらに,医師による自発的安楽死,医師による患者の自殺幇助のように表現する場合もある。
このような用語の変遷は,1971年にオランダで起こった母親の要請によりポストマ医師が行った積極的安楽死事件以来のオランダにおける30数年にわたる,オランダ議会,オランダ王立医師会,多くの判例,種々の分野の学者ならびに住民による真剣な努力の積み重ねの経過を反映している。
8) WHOの見解(がんの痛みからの解放と積極的支援ケアに関するWHO専門委員会,1989年)
WHO専門委員会はパリアティブケア(緩和ケア)における治療法が発達している現在,安楽死を法律によって認める必要はないとの立場をとる。なぜなら,痛み苦しみながら死ぬことを避けるための実際的な方法が存在するので,法律によって安楽死を認めよとの圧力に従うことなく,パリアティブケアの実践に集中すべきである。委員会の結論は以下のようにまとめられている。
a. 生命維持治療が疾患の経過を好転させず,死への過程を延長するにすぎなくなり,しかも患者の希望に合致しないとき,生命維持治療を開始しないことも,あるいは中断することも,倫理的に正当である。
b. 意識がない患者や意思を表明できない患者の代わりに,
患者があらかじめ指名した家族,保護者,近親者と協議した上で,医師がこのような決定を行うことも倫理的に正当である。
c. 患者の命を縮めるかもしないとの理由のみによって,痛みその他の症状の治療に必要な量での薬の投与を差し控えるべきではない。
d. 安楽死(薬を用いて死を積極的に早めること)を法律で認めるべきではない。
9) 法律
刑法 第二十六章 殺人の罪
(殺人)
第百九十九条 人を殺した者は,死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。
第二百条 削除
(予備)
第二百一条 第百九十九条の罪を犯す目的で,その予備をした者は,二年以下の懲役に処する。ただし,情状により,その刑を免除することができる。
(自殺関与及び同意殺人)
第二百二条 人を教唆し若しくは幇助して自殺させ,又は人をその嘱託を受け若しくはその承諾を得て殺した者は,六月以上七年以下の懲役又は禁錮に処する。
(未遂罪)
第二百三条 第百九十九条及び前条の罪の未遂は,罰する。
10)法律家 の見解
多数の研究があるが,最近のよくまとまった論文として,佐瀬恵子:安楽死と自己決定権
The Euthanasia and the Right to Self-determination,創価大学紀要 平成15年度,43-67頁を抜粋引用する。
尊厳死をめぐる議論が,「死ぬ権利」をはじめとする患者の権利の保障を中心に行われているのに対し,安楽死をめぐる議論が,医師などの行為者による安楽死の刑法学における法的許容性を中心に行われている点に注目をすると,刑法においては,消極的安楽死にあたる行為についても,その法的許容性を検討する余地が存在することから,消極的安楽死の概念が必要であったと思われる。つまり,消極的安楽死を行った医師の行為が,不作為として刑法の構成要件に該当する場合も考えられることから,消極的安楽死の概念が存在していると思われる。
なお,刑法学上,安楽死と尊厳死の間にはどのような差異がみられるかについて,内藤謙教授は安楽死と尊厳死を対比し,尊厳死には以下のような特徴があると指摘されている1)。
第一に,尊厳死は,尊厳死許容の基礎となる患者の自己決定権について,特有の特徴を有していると論じられている。これによれば,尊厳死は,患者に意識がないか,少なくとも判断能力を欠く状態にあることから,患者がどのように自己決定を行っているかを判断することが,安楽死よりもさらに困難であると理解されている。
また,第二に,尊厳死は,患者に対する客観的利益の存在について問題があると論じられている。安楽死は,死にまさるような耐え難い肉体的苦痛の緩和または除去といった,患者にとっての客観的利益が存在するが,尊厳死は,患者にそのような耐え難い肉体的苦痛はないとされている。このため,尊厳死は,患者にとっての客観的利益が必ずしも明白ではなく,むしろ,患者以外の家族,病院,財政などの負担軽減が客観的利益とされるおそれが大きいとされている。
第三に,尊厳死は「尊厳ある平和的死」という概念から,人間の尊厳を尊重した当然の権利の結果であるように受け止められがちであるが,実際における生命維持治療の中止による死が,端的に人間の尊厳を尊重した尊厳ある死と結びつくかどうかは疑問が残るとしている。
刑法学で問題とされている積極的安楽死の適法性について,並びに尊厳死及び消極的安楽死と自己決定権の関係
@積極的安楽死をめぐる議論
積極的安楽死の適法性をめぐる議論は,従来から,安楽死を適法であるとする学説(違法性阻却説)と,安楽死を違法であるとする学説(責任阻却説)に二分されている。前者の安楽死を適法であるとする学説には2つの見解が存在している。第一に,積極的安楽死は,生命侵害に対する真摯な嘱託に基づくものであるが,生命侵害という結果的違法が存在することから,侵害される生命と肉体的苦痛の除去とを比較衡量し,侵害される生命よりも肉体的苦痛の除去に対する利益が上回るとして,違法性阻却が認められるとする学説がある
2) 。第二に,積極的安楽死は,一定の要件が具備されることによって社会的に相当たる行為であると認められ,違法性が阻却されると解する学説がある。これにあたるものとして,「死に直面して耐え難い肉体的苦痛に襲われている状況の下で,病者自身が死を選択した自己決定を尊重することは人道主義にかなうものであり,その自己決定に基づく安楽死は嘱託殺人罪の構成要件に該当するが,安楽死の要件を備えて社会的相当性を有するものとして違法性を阻却する」という学説がある
3) 。続いて,後者の安楽死を違法とする学説であるが,これは,人の生命を絶対的価値あるものとみなし,自己決定によっても生命の短縮を行うことは許されないとして,安楽死はすべて違法であるとしている。この学説によれば,安楽死が不可罰となるのは,期待可能性の欠如によって責任が阻却される場合に限られている4)
。現在では,名古屋高裁及び横浜地裁による積極的安楽死の適法性をめぐる判決の影響から,積極的安楽死についても違法性が阻却される場合があることを認め,安楽死を適法であるとする学説が通説的見解となっている5)
。
刑法は,「被害者の承諾」における「法益処分権」によって,個人的保護法益に対して「法益保護を放棄する権利」を認めている。この結果,法益処分権の範囲内であれば,有効な承諾に基づいて行われた法益侵害行為は違法性が阻却される。ただし,刑法において,生命は個人的保護法益の中で最も尊重されていることから,法益処分権の範囲を超える重大な法益であると考えられる。生命の絶対性から考えれば,どのような場合であれ,刑法において最も尊重されている生命を侵害する行為は違法であり,安楽死が許容される場合は期待可能性の欠如による責任阻却に限られると解すべきであろう。しかし,有効な生命処分の承諾がまったく法的に認められていないというわけではない。例えば,刑法202条の嘱託・承諾殺人罪は,承諾があることによって,刑法199条の殺人罪と比してその刑が減軽されている。このことから,生命に対する有効な承諾は,生命侵害行為の違法性を減少させるものと解することができる。生命の絶対性を強調する学説に従えば,刑法202条の嘱託・承諾殺人も承諾によって減軽されるべきではないということになってしまうだろう。さらに,生命に対する有効な承諾は生命侵害行為の違法性を減少せしめるに過ぎないから,積極的安楽死の違法性が完全に阻却されるためには,承諾とあわせて,その他の具体的な事情を考慮して安楽死の適法性を検討すべきである
6)。ここでいうその他の事情としては,名古屋高裁及び横浜地裁の判決で示された要件を適用すべきであると思われる。
A尊厳死及び消極的安楽死をめぐる議論
尊厳死は,回復の見込みのない末期状態にある患者に対して,生命維持治療を中止し,「人間の尊厳」を保持させながら死を迎えさせることの可否が問題とされている。このことから,尊厳死をめぐる問題は,患者の「自己決定権」及びそれに基づく「治療拒否権」や「死ぬ権利」といった問題と関連している。現在,延命医療技術の進歩により多くの患者の生命が救われることとなったが,それとともに,体中にチューブや器具を装着され,意識を回復することのないままベッドの上で衰弱するといった,いわゆる植物人間状態となるケースが増えてきている。このような医療の進歩に伴って,尊厳死及び消極的安楽死は,積極的安楽死よりも日常的に起こりうる可能性が高くなっているといえよう。
末期状態にある患者が,生命維持装置の中止に関する自己決定を自ら行える状況にある場合,患者の自己決定権あるいは被害者の承諾を認めることは,比較的困難なことではない。
しかし,生命維持装置を既に使用している時には,患者に意識がないとか,あるいは,判断能力が欠けているというような理由から,患者の自己決定権をえらない場合が多い。このような問題を解決するためには,二つの方策が考えられる。第一に「患者の自己決定権の代行」である。これは,カレン事件の判決で述べられたような,患者の家族あるいは後見人に患者の自己決定権の代行を認めることを指している。
第二に「リヴィング・ウィル」である。これは,末期状態において,意識不明ないし判断能力の欠如・減弱が現実に生ずる前に,患者があらかじめ延命措置や治療拒否に関する意思表示を書面に書き残すことができる「生前に発効する遺言類似の文書」を認めるというものである。既に述べたとおり,アメリカでは,リヴィング・ウィル及びアドバンス・ディレクティブを認め,患者の自己決定権を尊重し,末期状態における延命治療の拒否を法的に許容する法制度が存在している。
わが国において,以上の二つの方策を実施することや,法制化することをめぐって議論がなされている。第一の「患者の自己決定権の代行」であるが,これに対して,「家族の同意を『代行』として構成することが法的に可能であるとしても,それが患者本人の意思そのものではなく,『犠牲』としての性格を有することがいなめない」とする批判がある。
しかし,この批判に対しては,「家族などの同意を法的に意味がないこととしてしまうのは,医師に過大の裁量権を認めるだけでなく,医療の実情にも反することとなる」という反論がなされている
7) 。さらに,「患者の自己決定権の代行」を行うことを許容する場合は,家族の同意は「患者の意思を最もよく推認しうる家族」によって行われなければならず,「患者の最善の利益を実現するという意味で患者の意思をくんだものでなければならない」として,「患者の自己決定権の代行」を厳格に解し,適用すべきであるとする学説もある
8) 。
また,第二の「リヴィング・ウィル」であるが,わが国においてリヴィング・ウィルを法制化して患者の意思表示に法的効力を与えることに対しては,「医師の免責を確実にするために意味をもちうることは確かであるが,生命尊重の基本思想を危うくするとともに,実際には,老人や病者のような弱い立場にある者にそのような意思表示を強いる結果になるおそれがある」という批判がなされている
9) 。
刑法学上における,患者の生命処分に関する自己決定権は,「被害者の承諾」における「法益処分権」の根拠とされるものに過ぎず,また,自己決定権によって行われた生命処分の自己決定は,違法性阻却の一つの事由として,生命侵害行為の違法性を減少させるに過ぎないものであるといえる。このことから,積極的安楽死の場合においても,尊厳死及び消極的安楽死の場合においても,患者の生命処分に対する自己決定はあくまでも違法性阻却のための一つの要件に過ぎないものとして考えていくべきであろう。
尊厳死及び消極的安楽死状況における患者は,意識がないため肉体的苦痛が認められない。このことから,患者の「肉体的苦痛を除去する緊急的な正当目的は存在していない」と考えられる。このため,尊厳死及び消極的安楽死の適法性については厳格に解すべきであると思われる。
尊厳死及び消極的安楽死における患者の生命は,「延命措置を講じないことによって失われる利益であり,延命措置のために人為的に維持されているにすぎない可能的生命」であると考えられるが,可能的生命であるからといって,延命措置を継続したとしても,生命力を回復して再生する可能性はないと断言することはできない。
このため,可能的生命を保護法益から排除してしまうことには慎重でならなければならない。尊厳死及び消極的安楽死の適法性は,患者の意思表示の有無を検討する前に,患者の生命力の復活が医学的に否定される場合に限られるべきであろう。その上で,患者の意思表示の存在は適法性の一要素として検討されるべきであるように思われる
10) 。
引用文献 (おことわり : 文献番号は,抜粋にあわせて,伊藤が振りなおした。太字・波線も伊藤が付した。)
1) 内藤謙『刑法講義総論(中)』 1986年 544頁〜545頁参照。
2) 平野龍一『刑法総論』 2000年 252頁参照。
3) 大谷實『刑法講義総論』 2000年 282頁〜283頁参照。
4) 責任阻却説には,安楽死を正当化することは「自己決定権などによって患者に『死ぬ権利』を認めることとなるが,他者に対しても『死なせる権利』を認めることになる危険性があるため,(中略)安楽死を合法とすることはやはり不当であり,せいぜい責任阻却が認められるだけである」と述べる有力な学説がある。町野朔『犯罪各論の現在』
1996年36頁参照。
5) 川端博『集中講義刑法総論』 1993年 218〜221頁,及び,川崎一夫『刑法各論』
2000年 21頁〜22頁参照。
6) 川崎前掲注38) 21頁〜22頁参照。
7) 以上のことに関して詳細なものに川端博『集中講義刑法総論』
1993年 231頁〜232頁参照。
8) 内藤謙『刑法講義総論(中)』 1986年546頁〜547頁参照。
9) 内藤謙『刑法講義総論(中)』 1986年547頁参照。
10) 川崎一夫『刑法各論』 2000年22頁参照。
11)テリ・シャイボさんの“尊厳死”
http://washtimes.com/op-ed/20050331-083141-7202r.htm
Who would have thought that the life
of one unassuming
Supporters of Michael
Schiavo's campaign to remove his wife's feeding
tube often cited poll numbers that seemed
to suggest a majority of Americans agreed
with their view. The more cynical seemed
to enjoy the idea that this was a poor political
decision by the Republicans. Notwithstanding
the media and political circus, fundamental
societal issues have been raised that now
the country cannot ignore. Politics may have
motivated certain participants on both sides,
yet it is our judgment that however Americans
viewed this extraordinary case, on the whole
their reasons were genuine and entirely apolitical.
To dismiss this as just a political game
is to miss a chance to discuss these issues
as they continue to play out in our daily
lives. We suspect states will be revisiting
laws that govern both guardianship and government
authority over life in the years to come.
Mrs. Schiavo's death does not signal the
end of the discussion -- it begins the discussion.
We sympathized with
those who found constitutional reasons to
fault congressional intervention in a state
case. It should be remembered, however, that
Mrs. Schaivo's condition, as well as the
laws governing that condition, had moved
beyond certainty. It wasn't that those who
wanted to keep Mrs. Schiavo alive simply
disagreed with the
Unfortunately for
Mrs. Schiavo's parents, Bob and Mary Schindler,
and Mr. Schiavo, the case is not quite over.
Both parties will wait expectantly for the
results of Terri's autopsy. Since the procedure
should be able to help determine the severity
of Mrs. Schiavo's brain damage, as well as
answer other lingering questions surrounding
her collapse in 1990, the autopsy should
go forward. We hope the people who cared
for her in life, which includes both family
and strangers, will find some closure in
the coroner's report. It will then be for
the country to address the questions raised
from Terri Schiavo's life and death.
11)ALSと安楽死・尊厳死
QOL(生命の輝き)を尊重するのなら,その人らしく死を迎えるクオリティー・オブ・デス(QOD)も尊重すべきであるとの考え方かがある。望まない延命のための医療処置から解放される権利を行使するために,医師による自殺幇助,積極的安楽死,あるは尊厳死を希望する方がいらっしゃることも事実である。日本尊厳死協会のリビング・ウイル登録の第1号は,ALS患者の鈴木さんという女性で「平眠」というビデオが残されている(1976年,TBSテレビ)。
1994年11月16日,オランダのALS患者ケース氏が,薬物による安楽死を家庭医オイエン医師に依頼し,実行するテレビ番組が放映された。最後のナレーションは「患者は何度も頼み,医師は彼を助けた」というものであった。しかし,放送局には抗議のファックスが殺到し,翌週の続編で,放送局は報道に偏りがあったことを陳謝した。800件以上寄せられたファックスの一部とともに,「安楽死は老人の幸せを求める制度」(70歳代男性),「人に迷惑をかけず幸せなまま死なせてほしい」(親を看取った女性)「安楽死は,医者として本来やってはいけないこと。断固拒否します」(医師),「どんな状況に追い込まれようと,その中で自分なりの生きがいや目的,あるいは幸せを見つけることは可能だと思っています」(ALS患者)等のインタビューが紹介された。
この番組に登場したALS患者(62歳)とその妻は二人暮らし。ホームドクターと三人で自殺幇助は進行した。勿論,セカンド・ドクターが,患者の意思確認と安楽死条件が整っているかの確認を行っているが,関わりは極めてわずかである。いわば,患者,妻,医師,三人の閉じた世界の中で安楽死が行われた。夫婦は孤立し,仕事も立ち行かなくなり,病状としてはさほど進行していないうちに,死を選び実行することに生き甲斐を見いだす。番組には,親類縁者,友人,近所の人は一切登場しない。もっと多くの人の関わりがあるのが自然であると思われるが,支えてくれるのは,往診の度に「悪くなっている」を繰り返すホームドクター。極めて不自然な人間関係であった。死にむけて誘導する意図が医師や妻にあったかどうか定かではないが,もっともっとやれることがあるというのが率直な感想だった。事実,番組の患者よりずっと厳しい状況下で,りっぱに生き抜いている患者がたくさんいる。
もう一つ,医療費の自己負担回避の視点が番組では抜けていた。オランダの一般医(GP)の収入は登録患者の人数によって左右され,年単位に定額が保険機関から支払われる。したがって,できるだけ不必要な医療行為,投薬は行わない。ALSのように,一般に治療法がないとされる疾患に対しては,より高次の機関に紹介するか,速く治療を打ち切ることがGPにとっての得策となる。妻にとっても物心両面の介護負担から解放されたい,長期の療養生活は経済的にも先行き大いに不安ということなのかもしれない。
この患者の場合,安楽死の要件でありその前提となる「耐えがたい肉体的な苦痛」(特に死苦の苦しみ)がなく,「死期の切迫性」もないケースであり,精神的苦痛の除去が目的であった。わが国で医師により同様の行為が行われたとすれば,安楽死違法阻却事由を満たしておらず,嘱託殺人罪に該当する。
もう一つ海外の事例として,カナダで医師による自殺幇助を受けた女性Sue
Rodriguez氏(1950年8月2日生まれ)をとり上げたい。1991年2月末,40歳のスーは夫婦不仲の末協議離婚。離婚後間もなく勤務先の会社が倒産し失業。家を手放す決意をする。4月に入り左手の小指がぴくぴく動く等の以上が続くので,かかりつけ医を受診,神経内科医に紹介されるが,肉体的,精神的ストレスが原因の一次的症状と説明される。6月に仕事口が見つかったが,8月からの採用で,経済的にも窮地に陥った。離婚後の孤独感は癒しがたく,幼い息子が前夫のもとに泊まりに行った晩などその極に達した。6月半ば,新しい神経内科医を受診,諸検査を受けるも診断に関して説明はなかった。8月担当医師から筋萎縮性側索硬化症に罹っており,原因不明で現在治療法もない難病であると淡々と告げられた。スーは呆然とし,耐えられない悲しみに襲われた。医師はALSを特に専門としていたので,率直にありのままを話したのであるが,スーは冷たく非情な医師と感じた。その後,スーは死の権利協会の政治顧問,ロビンソン議員と知り合いになり,その援助のもとに,自殺する体力がないので医師に自殺幇助をしてもらう権利を認めてほしいという訴えを裁判所に起こした。1993年9月30日カナダ最高裁判所はその訴えを却下した。スーは,臨床心理カウンセラーの面談や,緩和医療専門医の支援をうけたが,死の決意は変わらず,1994年1月に,2月12日を実行の日と定め,ロビンソン議員にみとられながら,匿名の医師が処方した致死量のモルヒネにより自殺した。
このケースの場合,夫婦不仲の末の離婚,失業,孤独,経済苦,自宅売却,突然の不治の病の宣告,医師から見放された絶望感等,生きる意欲を奪うに事欠かぬ条件が幾重にも重なり,夫,子,医師,友人その他大切な人々の支えのないまま,見捨てられたと確信し,生き抜くことを放棄した事例と考えられる。一見,自己決定に基づき,尊厳ある死を選択したかのように思われるが,その実態は棄怨死(見捨てられ世を儚んでの死)であると思われる。
ALS患者のように,一般には回復が見込めないとされる場合でも,かかわり合い・支え合いの絆が強ければ,過酷な条件下生き抜く力を沸き立たせて,病床にあっても社会的役割を担い,自ら癒されるばかりでなく,医療者をはじめ,かかわる人びとをも癒す人が大勢いる。
12) まとめ
世界の情勢を瞥見してみると,「死の自己決定」の立法化に向かう流れが確かにあるという感を抱く。
イギリス:患者自殺幇助法案(2004年1月),南オーストラリア:医療処置と緩和ケアの同意書(2004年7月)さらにフランス:末期患者の権利法(2004年11月)等である。
イギリス,フランスとも,議会レベルで,ALS患者等の闘病をきっかけとした,安楽死,自殺幇助,尊厳死についての活発な議論が戦わされている。特にイギリスでは,ALS患者ダイアン・プリティー氏の自殺幇助法廷闘争をきっかけとした,終末期患者の自殺幇助支援についての議論の全てが公開されている。
この機会にこそ,今一度,尊厳ある生を全うするための議論を深める必要がある。
◆ 講演者紹介
伊藤 道哉(いとう みちや)
日本ALS協会理事、ALS患者遺族、宮城県支部
東北大学大学院医学系研究科(医療管理学分野)講師
1957年生 1989年東北大学大学院文学研究科博士課程修了、同年東北大学助手、2001年東北大学大学院医学系研究科講師(医療管理学分野)、現在に至る。
「在宅及び養護学校における日常的な医療の医学的・法律学的整理に関する研究会」委員、
「看護師等によるALS患者の在宅療養支援に関する分科会」委員など
主な研究テーマ:ALS等神経難病患者の安楽死・尊厳死・緩和ケアに関する国際比較研究、神経難病の遺伝子検査・遺伝子診断と患者QOLに関する研究、家族性腫瘍に関する経済評価の研究
著書:『生命と医療の倫理学』2002年(丸善)、『看護大辞典』2002年((共著)医学書院)、『ハムレットの治療学』2001年((共著)、南山堂、)、『医療・病院管理用語集』2001年(改訂版(共編著)、ミクス、)、『遺伝子検査ガイドライン』2000年((共訳)、厚生科学研究所)、『クリティカルパスQ&A』1999年(共著)、日総研)『生命と医療の倫理学』、2002年.
丸善株式会社、『「人工呼吸器をつけますか?」──ALS・告知・選択』2004年(メディカ出版)他。


「ALSと向き合って・社会は人が生きていくための場・中立でなく”生の支持”こそ
」
立命館大学大学院先端総合学術研究科
立岩真也
『聖教新聞』2005/03/03から
『ALS』という本を昨年の末に出してもらった(医学書院刊)。ありがたいことに多くの人に読んでいただいている。
題の通りALS=筋萎縮性側索硬化症の人たちのことを書いた本だ。ALSは全身の筋肉が動かなくなっていく、まだ治療法のない病気である。やがて息も苦しくなり、人工呼吸器が必要になる。わずかな身体の動きを使い、近ごろはコンピュータを使い、長い時間をかけて書かれた文章が多くある。それらを読み、たくさん引用し、私なりには考え、本にした。
様々なことが書かれ、語られている。たとえば病気のことを知らされること知らされないことについて。不動の身体とともに生きるすべについて。そして生きることや生きないことについて。
このごろ、周囲はあくまで中立を保つべきで、正確な情報は提供すべきだが、あとは本人が決めることだという話が主流である。わかるが、違うのではないかと感じてきた。この本を書いて、やはり違うと思った。
むろん多くの場合に正確な情報は必要である。また、その人にとって何がよいか、普通は本人に聞くのが一番よい。その普通のことがなされていないから、本人が決めるという主張も出てきた。
だが、とくに生き死ににかかわる時にはどうか。ALSの人は人工呼吸器をつけるかやめるか聞かれてしまう。私は臆病で、息苦しいのは辛い。長生きしたい。だからつける。だが「選ばない」人も多くいる。動かない身体のことや、代わりに動くことになる人たちを思ってのことである。
それが「自然な死」とされる。「本人が選んだ死」とされる。
しかし、毎日機械を使って生きており、そして息をして生きている私たちなのに、息するための機械を使わないのは変ではないか。その方が不自然ではないか。「自分らしく」も「自然に」もきっとよいことだ。ただ、それにこだわりすぎるとかえって、自分らしくも自然にもなれない。
そして、周囲が大変だからとその人に思わせてしまう社会とは、まず中立でさえない。次に、人は生きても死んでもどちらでもよいというのが社会のあり方だろうか。人が生きていくためにある場が社会であるのに。
周囲に左右され、自分の意志を通せないのは、主体性がなく、よくないことだろうか。そんなことはない。その人は優しい人である。そんな人にこそ「生きていなさい」と言うのが基本のあり方ではないか。実際多くのALSの人たちが、周囲が中立でなく、生を支持したために、生きることにして、暮らしている。
その同じ今、「尊厳死法」が検討されていると聞く。本人が前もって決めたなら、生きるための処置をしなくてよいとしようというものらしい。
ALSの人のことに続けて尊厳死法について書くと、この法は生きられる人でなく「末期」の人のための法で、話が別だと言うかもしれない。
たしかに呼吸器をつけて十何年、何十年というALSの人がたくさんいる。しかし、ALSの人の自発呼吸が困難な状態が「末期」と言われ、人工呼吸器装着が「延命措置」と言われてきたのも事実だ。また「尊厳死」を支持する時よく使われる「機械に生かされる」とか「たんなる延命」といった言葉もALSの人にずっと使われてきた。だからその人たちがこの法律が「怖い」と言うのは当然だと私は思う。
ならば「末期」を厳しく規定すればよいだろうか。だがそうすると、末期とはまさにもうすぐ亡くなる時になる。ならば急ぐことはない。末期ならなおさら、ゆっくりかまえたらよい。もちろん痛いこと苦しいことはいやなことだ。それはよくわかる。しかし多くの場合には、痛みや苦しみを和らげることができる。
意識がない状態はどうか。だがその時は苦しくもなく、死にたい思いもない。その人自身に死を早めたい理由がない。そしてどうしてほしいとその人は言いようもない。
だから事前に決めておいてもらおうと尊厳死賛成の人は言う。けれど、人は何を知り、何を思って決めるのだろう。
みなさんは違うかもしれない。だが、面倒が長引くからと、「延命」を希望しない関係者、希望しないでくれと本人に言う関係者がいる。また、まわりの人がそんな人であることを知り、弱気になり、書面にサインするだろう人を、私は具体的に思い浮かべられる。
そして人は「ただ生きているだけ」などと言われてきたALSの人たちが、実際どのように暮らしてきたかも知らない。知り、ゆっくり考えてよいことがたくさんある。命を救う時には急がなければならない。しかし尊厳死法ができても命が助かる人はいないのである。
* 会場で販売しております「資料集1」をご参照ください
◆ 呼びかけ人 紹介
立岩 真也(たていわ しんや)
立命館大学大学院先端総合学術研究科大学教授
佐渡島出身1960年生、東京大学大学院社会学研究科社会学博士課程修了、社会学者
障害や病気に関する研究のほか、所有、分配、労働など広く研究している。
著書
『私的所有論』1997年、勁草書房
『弱くある自由へ』2000年、青土社
『自由の平等』2004年、岩波書店
『ALS:不動の身体と息する機械』2004年 医学書院
他
HP:『arsvi.som』http://www.arsvi.com/

◆ コメンテーター紹介
清水 哲郎(しみず てつろう)
東北大学大学院文学部研究科教授 1947年生、北海道大学文学部助教授などを経て現職。
研究領域:古代中世哲学・医療哲学。西洋中世における言語と論理に関わる哲学的思索を古代ギリシア哲学およびキリスト教思想の流れの中で捉えつつ、その意義を探っている。また、医療現場に臨む哲学に基礎をおく臨床倫理学の構築を試みている。日本学術振興会―人文・社会科学振興のためのプロジェクト研究事業《 医療システムと倫理 》プロジェクト・リーダー
著書
『オッカムの言語哲学』勁草書房
『医療現場に臨む哲学』、勁草書房
『医療現場に臨む哲学II ことばに与る私たち』勁草書房など。
HP:『哲学する諸現場』http://www.sal.tohoku.ac.jp/~shimizu/index-j.html
○日本学術振興会―人文・社会科学振興のためのプロジェクト研究事業)
プロジェクト研究《医療システムと倫理》
http://www.sal.tohoku.ac.jp/philosophy/MedSys/index-j.html (以下HPから抜粋)
本プロジェクト研究は、日本学術振興会 人文・社会科学振興のためのプロジェクト研究事業
の研
領域V(科学技術や市場経済等の急速な発展や変化に対応した社会倫理システムのあり方について研
する領域)に属するものです。
現代社会における医療の諸問題を解決し、その望ましいあり方を実現することは喫緊の課題である。これに取り組む研究には、医療技術の高度化を図る視点のみならず、科学技術を担いまたそこから益を得る人間および社会に注目する視点が必要とされる。本プロジェクト研究は、後者の視点を持つ人文・社会科学諸領域の研究者が参加する場を形成し、個別の医療現場から社会の医療体制までを視野に収めて、諸レベルで問題に取り組みつつ医療のシステムと倫理を探り、医療が今後どうあるべきかを提言することを目指す。さしあたって現場と密着した臨床倫理学研究および社会システムレベルでの実証的経済学研究を軸とする二つのコア研究を立て、他のプロジェクト研究とも交流しつつ、研究を展開する。
医療の質の向上のために、意思決定や問題解決のシステムを構築し、関係者の協働体制を整備する必要がある。本研究はこのために、医療者−患者・家族間、医療従事者間、さらには地域における協働システムの望ましいあり方を探り、提言することを目指す。臨床倫理学を研究の核かつ現場とのインターフェースとして、関係諸領域の研究者と現場の医療者からなる共同研究グループを構成し、患者・家族の協力を得ながら、研究を進める。
プロジェクト研究《医療システムと倫理》 /
プロジェクト・リーダー:清水哲郎
事務局: 東北大学大学院文学研究科哲学研究室/仙台市青葉区川内
Tel: 022-217-6031 /FAX: 022-217-6031/6012
*本集会は、プロジェクト研究《医療システムと倫理》からの助成を受けておこなわれています。
【 集会に寄せて 】
1、病人の生きる気持ち
平成17年3月10日
東京都 高井綾子(ALS患者)
家族でも私の命を断ち切ることはできない。病人の治りたい気持はとても強い。必ず治ると信じている。最後まで闘う。これを皆に伝える.
2、尊厳死について
平成17年3月20日
北海道 吉田 雅志(ALS患者)
1月28日の読売新聞にALS患者の呼吸器外し、厚労省研究班が是非検討と言う見出しで、記事が掲載された。人工呼吸器を装着したALS患者の呼吸器を外すのを容認するかどうかについて、検討に入ったのだ。つけたのを外す外さないの議論は、以前から、あり第三者によって議論されてきたのです。ここで、尊厳死について清水哲郎氏(東北大学教授)の意見を引用させていただきます。
◆ 尊厳死と安楽死の区別
彼は、尊厳死ではなく「尊厳ある死」と呼びます。そして、人間はそもそも単に「生きた物」ではなく、「人間として死に至る」はずのもの、その限りで、人間の死はすべてこの「尊厳ある死」であるべきだ、と主張します。そして、その意味では、「尊厳ある死」というのは目標・理念を表す概念に他ならないと言います。つまり、人間は、人間として生き続ける限りにおいて、「尊厳ある死」を最終的には目指すはずだというのです。この点は大賛成です。そこで、「尊厳死」を実現するにはどうすべきかが現実の問題として起り得るわけですが、、安楽死が登場するのはこの場面なのですね。
安楽死は「苦しい生や意味のない生から患者を解放する目的で、意図的に達成された死、あるいは意図的に行われる死なせる行為」を指すと彼は言います。重要なのは、「苦しい」とか「もはや生きている意味がない」と評価するのは厭くまでも患者本人であって、当然ですが周りの者たちでは決してないということです。これらのことを確認した上で、彼は安楽死を次のように区分します。
行為の手段に基づく区分:
「積極的安楽死」:死なせる(殺す)こと
「消極的安楽死」:死ぬに任せること
さらに決定の過程(プロセス)に基づく区分として、三つを上げます。
「自発的安楽死」:患者本人の意思による
「非自発的安楽死」:患者本人に対応能力がない場合、重度の障害を持つ新生児の場合が典型的「反自発的安楽死」:患者本人に対応能力があるにも拘らず、意思を問わずに、あるいは意思に反して決定される場合
ここで示した区分の内、一般にマスコミ等で「尊厳死」とされているのは、行為のあり方で言えば「消極的」、行為の過程で言えば「自発的」な安楽死で、彼は「自発的消極的安楽死」と呼んでいます。
さらに、彼は患者本人の意思に基づいて「苦しい生や意味のない生から患者を解放する目的で」為される行為が、患者の余命を短縮する可能性がある場合を、便宜上「緩和死」と呼びます。
以上が、清水先生の意見を引用。
読売新聞を、読んだALSを全く知らない人、ヒギナーの患者さんや家族の方は、恐らく、納得していると思います。聞く所によると、こういった報道を聞いて献体しようかと言っている患者さんもいるらしく怖い話だと思います。尊厳死とは一見聞こえのいい、ていのいい医療費の削減であり、実は第三者が意図的に安楽死を積極的に、押し進めようとしています。私のような、患者がいくら叫んでもどうにかなるわけでもありません。尊厳死という弱者の抹殺が始まる怖い、社会になると思います。
Masashi Yoshida <masasi@mb.snowman.ne.jp>

3、 ALS患者のひとりごと
平成17年3月20日
東京都 佐々木 公一(ALS患者)
インターネットをみて驚かされた。尊厳死をみようとしたら30003件
もあった。いま末期癌や治る見込みのない患者の延命治療の在り方を検討する「尊厳死とホスピスを推進する与党議員懇話会」(丹羽雄哉会長)が尊厳死の法案化も視野に入れた勉強会を開始したという。先日のJALSA東京都支部の役員会で「こういう時必ず儲けるやつがいる。背景はどうなっているか」と質問があった。臓器移植法推進派と日本尊厳死協会などが国の医療福祉費削減の流れに乗って推進しているようだ。
先日の相模原の呼吸器はずし事件もありALSが注目されている。そこでALS当事者(発症10年、呼吸器5年)として意見を書く。論点は「ALS患者の呼吸器ははずせるか。そのために必要な条件はなにか」とされている。
ALS(患者数約6500人、現在も原因不明、治療法なし、進行性という状況が続いている)は発症からくりかえし生き方と決意を問われ、求められる。
1、病気の受け入れ。2、進行する障害の確認と受け入れ。3、呼吸器をつけるか/本人、家族の意志。4、同時に介護体制の整備/医療行為との関係も極めて困難である。ここには介護保険や支援費その他の制度の現状が色濃く反映する。そしてALS患者のうち呼吸器をつけているものは約3割にすぎない。
このようにして呼吸器をつけて生きるALS患者に呼吸器をはずす(自ら死を選ぶ)という選択肢は基本的にありえない。
もしあるとしたら次の2つの場合に限られる。1、呼吸器をつける時の齟齬。納得しないままの気管切開と病気の受け入れ拒否。2、介護特に家族介護が限界を超えた時。
私は病気になる前と違うのは体だけでありたいと思っている。
では普通に生きているかと自問する。6〜7割はそう思う。ではなぜ普通に生きられるのか。
1、福祉制度(介護保険と支援費514時間を柱とする)の活用。このことぬきにすべてがなりたたない。2、医療、看護、介護体制のある程度の確立。3、ボランティアなどの周辺の支援。4、家族の同意と援助。5、患者本人の意志。
では普通に生きられない理由はなにか。
1、それでも制度(介護保険と支援費)が不足すること。☆全国的には驚くべき格差が存在する。2、訪問看護、ヘルパー体制が患者の需要を満たしていないこと。3、吸引などをふくむ医療環境の不十分さ。4、ALSと言う病気の特性(治療法なし、進行性)。5、患者の意志を継続することの困難さ。
尊厳死を語る前に解決すべきこと、なすべきことが山ほどある。命かくあるべしといえる政治を医療を心より望みたい。
4、かけがえのない命との思い
尊厳死の議論に思う
平成17年2月3日
東京都 橋本 操(ALS患者)
私が無宗教である事は結構知られています。
それでも敢えて解って欲しいのは、命はどこから生れ何処で終わるかを、現世の一瞬しか生きていない人間が論じてはいけないと言う事です。
あらまあ辛気臭い?
でしょ。でしょ?!
でも私は天命を信じています。
ならば、尊厳死法に殺されるのも天の命ずる所では無いのか?
それは違います。
全ての事は突然で偶発的であるべきなのです。生きる権利死ぬ権利を世の人は口にします。私は権利を持って生れきた訳ではありません。
父は私が権利を主張する度に
「権利を言う前に、みさおは義務を果たしているのだろうか」
と、飽きもせずにワガママを言う私に、これまた飽きもせず言い続けるのです。
世に生れたからには、逃れられない苦悩は持っていて、同じ程度の幸福があるはずなのに、良い事はすぐに忘れて、何故か苦悩ばかりに目がいってしまう。それも、人が人でしか無くそれ以上でも以下でも無いということでしょうか。

5、尊厳死のこと
平成17年1月15日
日本ALS協会 近畿ブロック
西村 泰直
2004年12月30日ALS患者さん男性呼吸器を付けての延命を拒否し死亡
2005年01月10日ALS患者さん女性呼吸器を付けての延命を拒否し死亡
2005年01月15日現在ALS患者さん女性呼吸器を付けての延命拒否、非常に痩せられて体中の痛みで困っておられます、家族も体位交換での睡眠不足で体力的な限界が出てきました。
以上の状況が毎年のようにあります。
この上、尊厳死の法律が出来ると、家族、医師はALSの様な患者さんは殺しても良いという安心を与えることになります。
なぜ、精神障害者やALS患者さんたちが、一番に「死ぬ」と言うことを考え「生きる」事を考えないのかが大問題だと考えております。
精神的な支えが無く、経済的な援助もなく、世の中の考えが「役に立たない人間は死んで当然という考え」と思われているこの世の中にどうして「尊厳死」が正当な考えといえるのかをまず考えるべきと思います。
精神的な支えがあり、経済的な問題が解決し、「役に立たない人間は死んで当然という考え」も無くなりその上での「尊厳死」でなく、「自分は死にたい」と言う意思表示を出してどうするかならまだ考える余地はあると思いますが、それでも西村は賛成致しません。
「尊厳死」とは何か
人間は、人間の勝手で(生きるためでなく)作物を殺し、動物を殺し贅沢な殺戮をし、食べ残している人間が何が尊厳か。
尊厳死・・・「役に立たない人間は死んで当然という考え」から始まった思想・・・ヒットラーが唱えたと同じ考え私はその様に考えております。
世の中に無駄な物は一つもないと思っております。
オオカミがいなくなり、鹿が多くなり、いろいろな物を食べ木々が枯れる、裸の山が出来、雨が土地にしみなくなり洪水になる。
どの様な状態であろうと、その方が自然になくなられるまでどこかの、誰かに役に立っております。
役に立たない人間は一人もいないと信じております。最近、特にそう感じます。
6「生きていたらよいと言える世の中のほうがいい」
平成17年1月14日
大阪市 野崎 泰伸
尊厳死法案が超党派の議員によって議員立法として提出されようとしている。尊厳ある死とは何なのか?そもそも、死ぬことに尊厳はあるのか?私は、こうした動向に対して、非常に不安を抱いている一人である。
心から「生きていて本当によかった」と思いながら死ぬことこそが、死にゆく人が感じる尊厳だろう。尊厳のある死がたとえあるとしても、それは死にゆく本人が、死ぬ瞬間にしか位置づけられないのではないか。
そして、いちばん問題であると感じるのは、尊厳死がある特定の文脈でのみ語られるとき、その「効力」を発揮するということである。すなわち、重篤な病気を持った患者や、「生きるに値しない」と思われるような障害者に対して、このようなことが言われるときである。彼らを生かしておくには経済的コストがかかる、だから「質の悪い」生であり、せめて死ぬときぐらいは尊厳を持って、という論理である。
なぜ彼らが、彼らにとってよい生を送ることを許されず、代わりに周囲がよい死を声高に叫ぶのか。この社会で彼らは生きにくい。それは、この社会が、強く言えば生きることを許さないような論理として、コスト計算を楯に取るからではないのだろうか。彼らが、自分は生きていて本当によかったと思えるように、よい死ではなく、彼ら自身がよい生を生きられたと感じるような社会制度の整備こそ必要なのではないだろうか。誰もが、「生きていれば、それでいい」と思えるようにこそ、そのためのコストを社会的に分配することこそが望まれるのではないか。
死生観を問い直すことが叫ばれる時代である。それを、尊厳ある死の方向ではなく、まずは生きる道を探る方向で議論すべきであると、私には感じられる。
7、人工呼吸器をつけて生きること
広島市 穏土ちとせ(おんど・ちとせ)
『バクバク』No.44 2000年3月号(一部修正)
私の末娘は、ウェルドニッヒ・ホフマン病(SMA1型)です。彼女は、生後3ヶ月よりずっと人工呼吸器をつけて生きてきました。現在、その頼りになる人工呼吸器と一緒に、元気に地域の公立保育園の年長クラスに通っています。
全身麻痺の状態で、声を出しておしゃべりすることはできないけれど、唯一、自由に動かせる目と、体に残されたわずかに動く部分を総動員して意思表示しています。それは、パッと見ただけでは見過ごしてしまうようなごく僅かなサインかもしれませんが、「散歩に連れてって!」「きょうも、保育園、行く!」「わたしは、こうしたいの!」と頑固に主張したり、上の姉・兄とケンカしたり、姉と兄がそうであったように、そこには、ちっとも親の言うことなんか聞きはしない、5歳の『ワルガキ』の姿があります。当たり前のことですが、日々、「ああ、この子は、確かに親とは"別の人格"なんだなあ。」と思い知らされています。障害が重かろうがそうでなかろうが、この子は我が家にとってかけがえのない一人で、ほかの子どもたちと同等に愛しい存在なのです。
先日、ラジオの医学番組で、SMA(Spinal
Muscular Atrophy 脊髄性筋萎縮症 / このうちSMA1型が、ウェルドニッヒ・ホフマン病にあたる。)について取り上げられ、臨床、診断、治療などについて語られていました。医学は日進月歩。SMAについても「原因も治療法も分らない」とされていたものが、ここ数年のうちに研究が進み、原因遺伝子ではないかと考えられる遺伝子が2つ発見されたということでした。さらに、これらの研究の成果として、血液検査などの簡便な方法でSMAかどうかの診断が可能となり、それらの技術は出生前診断をも可能とし既に応用されていることは、皆さんもご存知ではないかと思います。
この子が赤ちゃんの頃…わずか6年前のこと…は、まだ、この病気の診断法はここまで簡単にはいきませんでした。生後2ヶ月に肺炎で入院し、呼吸状態は悪化の一途。たくさんの検査をしてもなかなか何の病気か分らず、あっという間に人工呼吸器が装着され、その後で、筋電図をとったり、筋肉を採取して東京まで検査に出してもらったりして、やっと確定診断がついたのでした。それが、医学の進歩で、娘と同じ病気の診断が、痛い思いをしなくとも採血ひとつで簡単につくようになったわけです。「医学はこんなにも進歩したんだ!そのうち、治療法が見つかるかも。」と私たちは手放しに喜んでいることができるでしょうか。
診断の方法が簡単になったことで、生後すぐに、あるいは、出生する前でさえ、怪しいと思えば、この病気であるかどうか検査で確かめることができる…。これは何を意味するのでしょうか。最近、バクバクの会の活動を通して、私たちは残念な話をよく耳にするようになりました。
ウェルドニッヒ・ホフマンの赤ちゃんを受け持ったそのお医者さんはおっしゃるのです。
「お父さん、お母さん、じき、この赤ちゃんは、呼吸ができなくなります。治療法はありません。人工呼吸器をつけないと生きることはできません。いったん人工呼吸器を付けたら、一生外すことはできません。今のうちから、人工呼吸器をつけるかつけないか、決めておいて下さい。」そして、『かわいそうだから』という理由で人工呼吸器をつけないことを選択される。そんなエピソードです。(出生前診断の結果が陽性だったケースで、どのような問答がなされるかは、想像に難くないでしょう。)
確かに、娘に人工呼吸器がついたとき、そしてそれが一生外せないこと、病気があまりに重篤なもので、原因も治療法も確立していないことが分ったとき、親である私たちのショックは、今、思い出しても切なくなるくらいに大きなものでした。「もう、おしまいだ!この子はこんなに可愛いのに、生きて病院から出ることはできないんだ。一生、天井を見つめて暮らすしかないんだ。人工呼吸器をつけたって、先は長くないんだ…。」などと思い込み、泣いて暮らしていた時期もあります。しかし、そのショックの大きさは、あまりにも私たちが病気や人工呼吸器について情報を持っておらず、「人工呼吸器=ターミナル(終末期)の生命維持装置」という暗いマイナスイメージの知識しか持ち合わせていなかったことと深く関係があったと思います。
しかし、あれほど苦痛にあえいでいたのとは一転して、人工呼吸器をつけてもらって安楽になったわが子は、ほかの赤ちゃんとかわらず笑顔をふりまき、日に日に成長していきました。気管に呼吸器に接続するチューブが入っているために声こそ発せられませんでしたが、全身で「かあさん!かあさん!」と呼びかけてくるのでした。病気の方はみるみる進行していき、全身の運動機能も失われていきましたし、そのうち表情筋も侵されて笑えなくなったけれど、彼女は大きな瞳をパチパチさせて、わたしたちに確かに笑いかけていました。そして、その瞳は笑うだけでなく、自己主張を始めました。そこには、ごく普通の…どこにでもいる…ひとりの幼児の姿がありました。つまり、人工呼吸器をつけてショックを受け、悲劇のヒロインを演じていたのは、娘本人ではなく、親の方だけだったのです。
このわが子の姿を見て、私たちは、いつの間にか、人工呼吸器が重い足かせのようなものではなく、わが子の可能性を限りなく広げてくれる"わが子のパートナー"なのだと感じられるようになっていました。私は近視のために眼鏡をかけていますが、それと同じように、この子は自力で呼吸ができないから人工呼吸器を"かけて"いるわけです。足が不自由な方が使っている杖や車椅子と同じで、人工呼吸器は補装具のひとつに過ぎないのだというふうに考えが変わってきたのです。人工呼吸器をつけていようがいまいが、生きる主体は、本人にほかならないのです。これは、娘自身が一生懸命"生きること"を通して、私たちに教えてくれたことなのです。
お医者さんにしてみれば、その赤ちゃんに人工呼吸器をつけることが選択されなかった場合でも、「意思表示ができない赤ちゃんのことだから、両親が決めるしかない。あくまでも家族の価値観や感性で決めることで、自分たちにはどうしようもない。」ということなのかもしれません。私たちだって、無理やり、自分たちの考えを人に押し付けることはできません。
でも、ほとんどの人たちにとって、その病気や障害のことはもちろん、人工呼吸器がどういうもので、どんな生き方ができるのかなんて、何の情報も持っていないまま、選択を迫られるのです。多くの場合、与えられる情報は、お医者さんから示された情報、おそらく「生命予後不良。治療法がない。人工呼吸器をつけないと生きられない。つけたとしても進行性で悪化の一途。一生寝たきり。…」これらがすべてだろうと思います。これらの説明が決して間違っているというのではありません。ただ、今の世の中のように、難病や障害、人工呼吸器について「かわいそう」「気の毒」「そこまで無理して生きても不幸」といった見方が支配している中で、たったこれだけの情報でひとりの子どもの生死を分かつ選択を両親に強いるということに対して、私はやりきれないのです。
一刻の猶予も許されない赤ちゃんの容態の厳しいときに、それらの情報だけで選択して、ほんとうにその家族が本来持っている価値観や感性に沿った選択ができるのでしょうか。時間がたっていろいろな情報が見えてきたとき「やっぱり、こっちの選択に変えよう。」ということは不可能です。もし、人工呼吸器をつけない道を選択した場合、後で悔やんでも、かけがえのないたったひとつの命の代わりはもうないのです。せめて一人でもたくさんのお医者さんに、いろいろなバクバクっ子の生き方を知っていただき、『人工呼吸器をつけていたってひとりの子ども』という考え方に共感していただいて、病気の告知の場面で、このような生き方もできるという情報を提示していただければと思うのです。
たとえ「人工呼吸器がどういうもので、どんな生き方ができるのか」という情報をお医者さんが示したところで、やっぱり結果は同じだという人もいます。効率が優先される今の世の中において、人工呼吸器をつけてまで生きさせることは親のエゴだ、そこまでして生きさせるなんて子ども本人がかわいうそうだと考える方もいるのです。でも、どうしても、私はその考えに賛成する気になれないのです。
確かに重度の障害を持って生きていこうにも、世の中にはあまりにもバリアが多くて、家族にとって、それをサポートしていくにはたくさんの困難があります。しかし、それは社会との関係で生きにくい状況があるのであって、障害のある子どもが悪いのではありません。にもかかわらず、周りの大人たちが勝手にその子の生きる道をあきらめる選択をしてもいいのだろうかと、そこで私は悩むのです。「かわいそうだと思うなら、この子たちが安心して暮らしていけるような社会になるように、少しずつではあっても、私たち大人が努力していくべきではないのだろうか。でも、世の中、そんなに甘くはない。私はただきれい事を言っているだけなのかしら」と…。
コスト・ベネフィットの考え方が浸透している欧米では、ウェルドニッヒ・ホフマン病だと分った時点で治療を打ち切り、もちろん人工呼吸器も初めから装着するつもりはない、というか、装着するかしないか議論すること自体がナンセンスであると考えられているという話を聞いたことがあります。それからすると、日本はまだ、親の価値観・感性で選択できるのだからいいじゃないかという意見もあります。でも、その人の価値観・感性で選択する以外ないといっても、自分自身を振り返ってみるのに、自分の価値観・感性というものは、娘の生まれた頃と、彼女とともに生きてきた今では、確実に変わっていると断言できます。同じように『命は大切なもの』だと思ってはいても、その中身がまったく違っていると思うのです。昔は理屈の上だけで分っているつもりだったのかもしれません。価値観が180度ひっくり返ったと言ってもいいでしょう。
もし、我が家の場合も、生まれて間もない娘の病気が先にはっきりしていて、人工呼吸器をつけるかつけないか選択を迫られていたら、私たち親は、そんなかわいそうなことはできないと、人工呼吸器をつけることを拒否して、うちに連れて帰っていたかもしれない、つまり、今、ここに、この子は存在していなかったかもしれません。でも、今、人工呼吸器をつけていて良かった、こういう生き方があっていい、どういう状態にあろうとひとりのふつうの子ども、この子がいてくれて幸せ、そんなふうに確信をもって言える自分がいます。これは、一朝一夕にこういう考え方になったのではなく、娘がその生き様を通してずっと教えてきてくれたことです。親がこの子を育てたからこの子が成長したんじゃない。この子は生きたかったんだ、そして、精一杯生きることを通して親を育ててくれたんだ。そう思います。(そういう意味では、私たちは、人工呼吸器が装着されてから後に確定診断が出て、幸せだったのかもしれません。)
私たちの今の価値観が、娘が人工呼吸器をつけてこそ形作られたのだとしたら、人工呼吸器をつける前の価値観だけで命の行く先を決めて、「親の決めたことだから、仕方ない。」で片付けられ、たったひとつの赤ちゃんの命が見捨てられていいのでしょうか。赤ちゃんの命は、周りの大人のものじゃなく、赤ちゃん本人のものなのに、赤ちゃんは意思表示する機会さえ与えられずに、死んでいかなければならないのでしょうか。
人工呼吸器をつけることは、自然な生き方でないと考える方たちもいらっしゃるでしょう。でも、科学が発達して、私たちはたくさんの便利な機器を利用し、それらがない生活(=自然のままの生活)なんて考えられないのに、難病であるという理由だけで、便利な文明の利器を使ってはいけないなんて、それこそ周りの人間の、周りの社会のエゴじゃないでしょうか。
現在、ちょっと大きい病院では、人工呼吸器はもはや珍しい機器ではありません。赤ちゃんだって、大人だって、呼吸状態が著しく悪化した場合、お医者さんは、治療として人工呼吸器をつけて救命しています。私の娘に、最初、人工呼吸器がつけられたのも同じ理由からです。それなのに、先に難病だとわかっていたら、人工呼吸器をつけなければ助からないことが分っていて、つけるかつけないか、本人以外の周りの大人たちだけで議論されなければならないのでしょうか。
最近は、ALSの方(大人)で、人工呼吸器を付けることを選択されて、病気が進行しても自分らしく生活を選ばれ、いろいろな場面で活躍されていらっしゃる方がたくさんいらっしゃいます。赤ちゃん本人はどちらを選びたいでしょうか。
みなさんは、どのように考えますか?
科学文明の進歩が加速度的に目覚ましい今だからこそ、私たちは立ち止まって、命の問題について真剣に話し合っていかなければならないのではないでしょうか。日常生活の中で確かにバリアは多く、落ち込むこともしょっちゅうですが、あきらめずに周りのひとたちと一緒に考えていきたいと思っています。地球より重いはずの人の命なのに、いつの間にか、難病や重い障害を持った子どもたちの生きる権利が奪われてれていくような世の中にならないように、バクバクっ子とともに、私たちは、情報発信していかなければならないと強く思います。
8、尊厳死法案に抗議する
≪人は何故、死を口にするのか≫
『死にたい』は『生きたい』の裏返し
平成17年1月14日(着4月10日)
東京都 北谷好美 (ALS患者)
人は、どうして、「死にたいとか、生きていてもしょうがない」とか、簡単に思ったり口にするのかを考えてみました。
それは、この世に生を受けて、人と関わっていく中で、自分の存在を確認する為と自分のことを認めて欲しいが為の、甘えではないかと思います。
さて、今まさに立法化の動きがある「尊厳死法案」ですが、死に向かいながらも精一杯生きている私達、難病患者の生存を脅かすものだと思います。
私は、ALSという難病になり、発病から12年経過しました。
この病気は、進行の仕方が人それぞれなので、発病して1年未満で人工呼吸器を装着する人もいれば、私のように未だに呼吸器無しで生きている者もいます。
この病気は呼吸器を付ければ、生き続けることが可能です。けれど、進行性の病気故に、最終的にはコミュニケーションが取れなくなる事があります。そういう過酷さや療養にかかる費用、介護者の問題などから、中には、呼吸器を選ばない人もいます。
しかし、一端、呼吸器を付けたら、事故が起こらない限りは、天寿を全う出来得ると思っています。
ところが、この法案では、事前指示書によって呼吸器の停止ができるような方向で話が進んでいるようです。人の命をそのような形で終わらせる事は、許されない事です。
冒頭に戻りますが、私も病気になってから、死にたいと思った事があります。
けれど、それは、生きたい気持ちの裏返し。生きつづける意思を奮い立たせるためのサインだったと思います。
もし、皆さんの周りに、軽々しく「死」を口にする人がいたら戒め、「生きる」ことを励まし、勇気づけてあげてください。間違っても、人の「死」に手を貸すような事はしないで下さい。
法で生命の存続の是非を定めるなど、持っての外。
多いに抗議していきましょう。
9、「まだ頑張れる?」「YES」
東京都 坂井哥代(遺族)
着4月10日
主人と別れて1年が過ぎてしまいました。1年が経つと逆にいろんな事が鮮明に思い出され、あんな事もあった、こんな話もしたとなつかしく思い出しています。
私