承認・公共性・
 
 

村瀬学 「いのち論」のはじまり」  19910201JICC出版 p223 1600円 

 
4 言語・貨幣の位置と重症児の位置
 
5 倫理の発生基底について
 
「だとするなら「人間であること」の根拠はどこへ求めていけばよいのだろうか。現代の流行思想風に言えば、どだい根拠を求める発想自体が、近代の枠組みの発想なのだということになるだろう。「人間であること」の根拠づけなど、どこにもできはしないのだ、と。」p182
 
「人間なる概念は・・・・・「倫理の言葉」でしかないところがある。そこのところをうまく問われなければならない。」p182
 
「あの母親は「この子も人間なんだから」といった人間の概念にこだわっていたわけではなかった。自分が世話しなければ死んでしまうというところにこだわっていた。」P184
 
「はじめに「人間の定義」があってそういう「人間」の世話をしてきたのではなく、世話をすることによってはじめて生じる「内部」があったと理解するべきなのであろう。そこで生じる「内部」こそが「倫理」だったのだと私は思う。」p185
 
「考言歩としての人間」を基準としてつくられている高級な倫理(道徳、規範としての倫理)ではなく、最も初源的な生活感覚、習俗としての倫理の発生基底がもっと問われなければならない。p185
 
「「考言歩としての人間」「規範にそう人間」だけが唯一の人間の基準とされる教育界、心理、精神医学界、そして社会一般に対して、それに抗しうる人間像は、以上の「倫理」として現れる人間像をつきつめるところからしか見えてゆかないような気がしている。」p186
 

山田昌宏『近代家族のゆくえ  家族と愛情のパラドックス』   19940515   新曜社 

 
W章
 3 現代家族の危機
 
近代家族の二つの基本のゆらぎ
 
1家族責任の不平等な配分により、負担者の不満が顕在化すること
2感情の不安定が顕在化すること
 
現代家族の危うさ
 
「過剰な負担を引き受けたくない」、「嫌いな家族と離れたい」という要求は、近代社会が自ら持っていた原理「平等と自由」の一部である。それゆえに正当性をもって、主張できるのである。」p215−216
 
「家族であるから愛情が湧くはず」というイデオロギーが強ければ、「嫌い」という感情の抑圧ができた。そのイデオロギーが弱まるにつれて、感情の不安定が顕在化し、家族責任の切り離しが始まる。」
 
子から親の変貌
 
「成人した子の親に対する関係において、現在、家族責任の切り離しが進んでいる。
自分の生活水準が下がらない範囲でしか子は親の面倒を見ない、貧しい親は捨てられるという傾向が現在の親子関係を規定する。」(青年期の親子関係意識―家族と非家族の間)「季刊家計経済研究」15号1992年夏号p40参照)
 
 
家族政策のジレンマ
 
「現代資本主義の構造転換のために、国家―公共機関の経済・社会領域への介入が不可欠になってきている。経済領域における自由競争というタテマエがありながら、実質的に国家が経済領域に介入している。一番大きな介入の仕方が福祉政策なので福祉国家と呼ばれる。しかし、オッフェなどが分析したように、自由資本主義の経済システムの不備を補うために国家の介入が始まりながら、国家の介入によって、財政危機(オッフェの論点)や正当性の危機(ハーバマスの論点)などの新たな構造的な問題が引き起こされてしまった。同様に、家族政策は、近代家族のあやすさを補うために発達しながら、新たな別の問題を引き起こしてしまう。国家は@社会の生産=再生産システムの維持、拡大に責任を負うと同時にA国家自体の正当性を調達するために、国民の不満を処理しなければならない。現代化の進行によって、@家族の再生産水準の上昇、A家族の過剰な責任負担に対する不満の増大が生じると、家族政策は、質的な転換をせまられるようになる。」p231−232
 
「国家が家族の負担を引き受け始めると、不平等性を覆い隠していた愛情のイデオロギーを弱体化させ、それが、また不平等性を意識させるという加速度的な結果を生み出すのである。」p235
 
「この傾向に歯止めをかけるため、「家族の愛情」や「家族の価値」を強調するイデオロギー政策がとくに1980年代の保守化の動きの中で顕著になってきた。しかし、家族の愛情の強調が実際には負担の不平等を覆い隠し、国家の負担を軽減させるだけのものであることが明らかになってきた。」p237
 
 
インフォームド・コンセントのジレンマ
―訴訟回避・協力拒否・疑似信頼のコスト―』

カール・ベッカー (Dr. Carl Becker)

京都大学総合人間学部
 
5) そこで医師・患者関係をどう見なすかという根本問題に辿り着くのである。西洋的に一種のビジネス関係のモデルで考えるのであれば、情報提供、消費者の選択、そして(訴訟しないと意味する)サインで関係が成り立つのであろう。しかし日本では、医師・患者関係はビジネスというよりも先ず身近な人間関係であり、そして信頼関係であらねばならないと思われている。インフォームド・コンセント的に、書類を渡されて、印鑑を押したからと言って、日本人が最近嘆く「医師不信」は治るどころか、両者の関係はむしろ冷たくなる一方であろう。日本の厚生省が日本人の「医師不信」を緩和しようと考えるのであれば、トップ・ダウン的に形式的なインフォームド・コンセントをいくら命じたところで、「疑似信頼関係」にしか成り得ない。日本人の患者が本当に望んでいるであろう、より人間的で、より優しく耳を傾けてくれる医師の養成には、インフォームド・コンセントは残念ながら至らない。人間同士が信頼し合える関係を望んでいる日本では、裁判だけでも避けようとするアメリカの対立的インフォームド・コンセントという型をはめても、何の信頼関係も生まれず、余計な手間をかけるだけに終わりかねない。
日本人が望むのであれば、情報公開、自己決定等を積極的に再教育し、医師への信頼を高めようとする試みも大いに結構であろう。但しインフォームド・コンセントがこの日本社会に適した最善の手段とは考えられない。
 
 
資源化の正義と物語的正義 ?生命倫理学における正義論についての試論?
Justice of Resourcification and Narrative Justice: A redefinition of Justice in Bioethics
 

宮坂道夫

新潟大学医学部保健学科
 
 このように、利害の評価について様々に異なった見解がある題材を議論するにあたって、私たちは〈評価をいかにして公正に行うか〉を検討しなければならない。そして、〈評価が人によって変わりうる〉こと自体を受け入れる多元主義の立場をとるならば、「お互いに他人に対していかなる権威ももたない自由な人々によって、諸原理が相互に承認される可能性」14)という〈基準の相互承認性〉によって評価の公正さを保障しなければならない。つまり、評価の〈結果〉は人によって異なってもよいが、その評価の〈方法〉は万人が認めあうようなものでなければならない、ということである。ならば、万人が認めあう、公正な評価の〈方法〉とはどんなものであろうか。
 

人間の条件 ハンナ・アーレント ちくま学芸文庫

斉藤純一 『公共性』岩波書店

いいかえれば、市民社会において評価されるのは社会的行為であって政治的行為ではない。社会的行為(social action)―これは、アーレントやハーバマスは人―間の相互行動のこの次元を適切にとらえていない)そうした社会的行為は、現在の資源・財の分配状況を問題化したり、新しいニーズ解釈を提起していくという政治的行為は政治とはあたかも無縁なものであるかのように語られる顕著な傾向にある。
能動的で活力のある市民社会へという方向には、このような問題がある。しかし、国家による一元的で集権的な統治から市民社会におけるより多元的で分権的な自己統制=自治への移行という方向性それ自体を頭から否定する必要はない。社会国家の統治への依存性(clientism)はたしかに批判されてしかるべきである―ただし、その依存において問題なのは、財政的負担やモラルハザード(「惰民」!の再生産)というよりも、人びとの政治的力量の喪失である。たがいの身体のニーズにきわめて感度が鈍くなっている現実―たとえば、過労死を想起されたい―は、私達が公共的空間における「ニーズ解釈の政治」を怠ってきたことを示唆している。
もし、いわれる分権化が、財政的負担の委譲と市民のエネルギーの動員(加えて「監査システムaudit system」によって媒介されたコントロール」ではなく、政治的な脱―集権化―を本当に意味するのであれば、「市民社会へ」という方向性は、自己統制=自治の実践すなわち政治的自由の実践のさまざまな試みをもたらしていくはずである。公共的価値をどのように定義し、それをどのように実現していくかはかなりの程度、そうした自己統治=自治の仕事になるだろう。
「市民社会へ」が政治的権力の分散を意味するとすれば、それは歓迎すべきオプションだが、その場合にもつぎの留保を付しておきたい。その一つは、非人称の強制的連帯という社会国家のメリットは保持されるべきだということである。社会国家の意義は、人びとが家族や共同体(共同体化するネットワーキング)から退出する自由、あるいは労働市場から退出する自由―企業が実態としては共同体であるとすれば前者と同じことであるが―を保障することにある。もう一つ指摘したいのは、個人の「能動性」が労働市場における競争能力の維持・強化に振り向けられるならば、「弱者」へのルサンチマンあるいは「弱者」の「棄民」化は回避しがたい。というこでである。そうした「能動性」は見方を少し変えれば、アクティブでなければ十全な生の保障は得られないだろうという、強いられたより深い受動性の上に発揮されるものでしかない。この受動的な能動性に執着するかぎり、社会保障は秩序防衛のためにやむをえず支払われる最低限のコストとしてしか認識されないだろう。それは、少なくともロールズが強調した自然的・社会的な偶然性への対処という意味を失ってしまうだろう。私達の現在の生が、幾重もの自然的社会的な偶然性の上に気づかれているという事実が忘却され―たしかに私達はこの事実を忘れやすいー現在の生がひとえに過去の努力とか勤勉に対する正当な報酬であると思い込まれていくならば、社会的連帯という理念が回復することはおそらくないだろう。
 社会的連帯という理念を維持するために必要なのは、国民的アイデンティティを再興することでなく、私たちの生の根底的な偶然性を繰り返し認識することである(地球上のどの社会に生を享けたかという偶然性に対する認識は、生命の保障をその成員に限定せざるをえない社会国家の枠組みをも相対化していくはずである)。
 人びとの生命の保障にとって、家族をその一つのあり方とする「親密圏」が宿する公共圏としての可能性にも目配りながら、親密圏が私たちの生にとってもつ意味を再考してみよう。86−88
 
私たちの現在の生が、幾重もの自然的・社会的な偶然性の上に築かれているという事実が忘却され―たしかに私たちはこの事実を忘れやすい―現在の生がひとえに過去の努力とか勤勉に対する正当な報酬であると思い込まれていくならば、社会的連帯という理念が回復することはおそらくないだろう。87
 
「市民社会へ」という方向性は、生命の保障を基本的に個人の自助努力と家族・親族の間での相互扶助に委ね、それが機能しない場合にのみはじめて公的な対応をおこなうという日本の社会保障システム―それは批判的に「残余的福祉モデル」と呼ばれる―にとって、もともとうまく適合するものである。」