「 ALS―在宅療養のナラティブにもとづいた人工呼吸器の選択 」

 

立命館大学大学院先端総合学術研究科前期博士課程

NPO法人ALS/MNDサポートセンターさくら会

 川口有美子

 

【本発表の背景】

海外には意思決定ができるALS(筋萎縮性側索硬化症)患者[1]からの人工呼吸器の取り外しが認められる国もあるので、日本でもALSの治療停止に関する倫理的検討の必要性が問われだしている。昨年04年度の厚労省「終末期医療に関する調査等検討会」の報告書でも、「専門機関による治療停止のガイドライン作成とその普及を目標として、国が必要な支援を図っていくべきである」などと法の整備もにおわせる回答がなされている。また一方では、事前指示書の研究も始まっている。たとえば、同年、厚労省の研究班[2]で京大の浅井篤氏らが、ALS患者からの呼吸器の取り外しが倫理的にも認められるモデル事例と倫理指針を発表し、同時に試作した事前指示書を試験的に九州の病院の神経内科で運用しだしている。[3] 一般的には、患者の権利や自己決定権は、医師に対して治療法を選択したい患者側の主体性を主張するための、いわばパターナリズムの対極にある患者側の根拠である。しかし、ALSの場合にはそれがしばしば逆に表れることがある。つまり、意思決定できずに成り行きで治療が開始された後、療養生活が難航して医師が責めを感じたり、実際に「呼吸器を外したい」と患者に責められたり家族に恨まれることがあるため、事前に自己決定して欲しいのはむしろ医師の側であったりもする。また、ALSの長期に渡る療養は支援体制の不備や介護の技術的な問題から不安定で後悔を伴うこともあるので、治療開始の決断の際には医療職も家族も患者の意思決定に影響を及ぼさないよう、余計なことは言わずに中立を保たねばならないと釘をさされることもある。呼吸器装着は患者の自己責任で、ということである。しかし、患者は当然迷ってしまい呼吸困難になってもまだ決めかねて、救急車で搬送され救命措置から呼吸器を装着する人は少なくない。
だから事前指示書の普及が提案されている。それによって患者に意思決定を促したり、過剰な医療の防止に役立てたりするという。

 

【調査の動機と方法】

以上の背景を踏まえて、ALS患者の本音はどうなのか知りたいと思った。そこでメイルで10名のALS患者に対して「人工呼吸器はあなたにとって何ですか。治療と言われますがどのように思いますか?」「呼吸器が外せるようになればかえって付けられるようになると言われますが、どう思いますか?」などの質問を行い、戻ってきた回答(e-mail)から患者のナラティブ(語り)を分析し考察を試みた。(資料参照)

 

【患者のナラティブからの考察する「患者の物語(意味の生成)」】

1.「人工呼吸器は治療ではなく使用するものである」(東京都、Mさん他)

また、「めがね」「補助具」「日常茶飯事」「生活必需品」「病人みたいで心外」などと言う患者は比較的多い。これは患者が呼吸器使用の妥当性や利用者側の主体性を認め、また他者にもそのように思って欲しいという気持ちの表れから、肯定的に人工呼吸器を捉え直しているといえる。安定した療養生活を送っている患者には、そのように人工呼吸器を生活用具に置き換えるナラティブの書き換え作業が行われた者が少なくないといえよう。

また、患者は使用の気軽さを言いつつも、一方では呼吸器の選択―開始・不開始・また呼吸器の停止―には慎重な判断が必要であり、「生きるための唯一の手段」「軽々しく決められるものではない」「機能しない場合は生命の維持に関わる」「大変で重要な選択肢」とも言っている。

このような人工呼吸器の選択の重さと日常的な使用感覚の軽さが両立する「人工呼吸器をめぐるナラティブ」の両義性を患者自身は十分に自覚しているが、ともすれば後者の、障害や療養生活を肯定する方だけが取り上げられ、自己決定や患者の権利を求める主張と結びついて理解されることがある。たとえば、「自由に使用を止めることができれば試しに着ける人が増える」(荻野、川口[2000]、西澤)とか、「理性的な患者は自由な選択ができる」などといったナラティブに同化されがちである。

また、ALS患者にきちんとした選択ができる理性を期待する、このような医師や家族のナラティブが模範(paradigm)を示し、患者のナラティブを誘導的に書き換える作用を持つことも考えられる。患者の自由な自己決定権を規範にして言っているようだが、実はパターナリズムと同郷と言えないだろうか。

 

2.「呼吸器を外さない人は非国民呼ばわりする恐れがある」(千葉県、Kさん)

また、別の患者らは呼吸器が外せるようになれば「プレッシャーになる」「家族にとってはその方(外せた方)が楽なのではと思っていた事があります」ともいう。患者は毎日のように家族の負担を見てすまなく思い、また、「公費を使い人を煩わして生きている事に後ろめたさを、世間からのプレッシャーを感じざるを得ない」などと国の予算を気にして、社会にとっても自分は死なねばならない存在であると思い続けている人は少なくない。

呼吸器の停止は、患者の即死(積極的安楽死)につながる行為なので、前述したように現在の日本では認められていない。だから患者の自己決定の機会も気管切開の直前か、呼吸器装着直前の最大で二回にとどまっている(資料図1)。だが、考えようによれば、一度呼吸器を装着すれば、生死の選択で悩む必要はなくなり、患者も周囲もただひたすらがんばって生き続けるしかなくなる。しかし、いったん呼吸器が外せるようになれば、呼吸器装着後は自己決定による死はいつでも選択可能になるので、患者は生きていてよいのか最期まで悩み続けることになる。(資料図2)また、ALSの在宅療養では家族は人生の路線変更を迫られるくらい巻き込まれてしまうので、患者が死にたいような状況では、家族も同様に強いストレスを感じ、医療職を始めとする外部の支援者らに対しては、相談や泣き言、苦情の回数が増える。だから、患者の意思決定次第では、家族も支援者もその人のALSに起因するストレスから一挙に解放される可能性が生じてくる。たとえば、雪山で遭難し救助を待つ登山隊を想像してみたい。重症の病人に生死にかかわる自己決定権を保障することは、もっとも体力のない隊員にいつでもザイルが切れるようにナイフを渡すようなものである。他の隊員もまた自分の命に危険を感じるほど疲労していれば、負傷者がたとえ友人であってもできるだけ背負いたくはないだろう。危機的状況では最弱者の死は他の者の心のどこかで常に望まれているものである。ALSの在宅療養でもしばしば介護者のほうが先に亡くなるほどの疲労を伴うので、患者は呼吸器を外せるようになればかえって落ち着いて療養できなくなるかもしれない。しかし、だからこそ、いつでも死ねる状況があったほうが良いという患者もいる。

 

【結論】

1.患者にとってナラティブの書き換えは有効である。しかし反面、医師や家族によって都合のよいように患者のナラティブの書き換えが促されることもあると思われる。[4]

2.人工呼吸器の停止が可能になれば、患者は安心して呼吸器を装着できるようになるとも言われるが、反面、呼吸器装着後は外さねばならないという思いに苛まれ続けなければならなくなる。

だから、ALS患者にとって自己決定の回数や方法が増えることは必ずしも良いとは限らない。

 

【提言と今後の研究】

まず中立とは何かについて今一度よく考えてみたいと思う。[5]

たとえば「一度付けたら外せません」という事実確認的な告知ではなく、「外したいなどという考えが思い浮かばないようにみんなで頑張りましょう」と医師がとにかくまず最初にいう事はできないのだろうか。そして、その後の判断は患者本人に任せたらよいと思う。親身に生存を支持してくれる人がいて、初めて患者は安心して自由な判断ができるのだと思われる。社会的弱者でもあるALSなど難病患者の生存は、もっとも利害関係が強い家族ではなく、むしろ医療プロフェッションによって支持され導かれるものであってほしいと願う。 そのためにも、患者に関わる医療職だけに責任を押しつけるのではない広範なサポート体制が工夫される必要があろう。また、患者はナラティブの書き換えだけでは癒されない。どうしようもなく改善の余地がない現実が横たわっていて、それらを恐れても患者は死にたくなるのであるから、ただ単に言葉だけでは力に欠ける。もっとも大事なのは具体的な対策とそれを保障する財の分配である。それは、治療薬の開発やDirect brain interfaceなどのTLSのコミュニケーション技術の開発、ALSという希少難病に応えられる介護理論の確立や社会福祉のさらなる充実、および社会参加の保障、個別のアドボカシーやピアサポートなどの社会システムなどであろう。また社会的な存在として承認されている事実を患者の前に明らかにし続けること、たとえば科学者や技術者らが日夜研究を続けているという事実は患者に望みを与え続ける。なお、資料から言えること、検討すべきことはもっとある。また、事前指示書の書式やその使用方法の検討、および治療停止の立法の要否、刑法上の解釈および一般的な意味合いでの治療停止の議論についても本論では触れなかったが、調査や研究は必要と思われる。

 

謝辞:日本ALS協会会員のALS当事者の皆様、特に千葉県支部の越川勝敏様、福島県支部の佐川優子様には貴重なアドバイスをいただきました。この場をお借りして御礼を申し上げます。


◆ 資料1(全国のALS患者から。Emaiでの回答)

 

1、私は人工呼吸器使用者で、治療ではなく使用です。治療ならば、メンテナンスも医師がするのかな?  M(患者:東京都) 支援費給付時間600時間以上

 

2、延命の為に呼吸器をつけるから「治療」になるのではないかと思います。私個人の意見です。 W(患者:和歌山市) 支援費100時間未満

 

3、私は、呼吸器は、近視の方が掛けるめがねと一緒だと思います。生きるのに必要なだけ、治ったら外します。 ただ、調整は、医療行為ですが、装着自体は、治療ではなく生活必需品と思います。  F(患者:名古屋市)支援費600時間以上

 

4、治療か否か、については医療としての解釈や定義があるとしても、「難病ALSはいまだ治療法の無い疾患」として君臨している現在では、治療としては理解出来ないのですただし、他の補装具とは根本的に違うのは、機能しない場合は生命の維持に関わるだけに同等視出来ない重みがあります。 YO(患者:大阪市)気管切開前 介護保険のみ

 

5、自分にとっては治療≠ナはないですね。なんか上手く言えへんけど、人工呼吸器装着は日常茶飯時として特別意識していません兎に角、普通に生活しています。「人工呼吸療法」と言われるのは、病人みたいで心外ですよね。(へ_へ)  KK(患者:小浜市)支援費100時間未満

 

6、呼吸器は延命治療だと思います。私のように呼吸器を着けて14年も生存していて、ALS患者に呼吸器を着けると延命効果があるのが分かっていても、呼吸器を着けないで亡くなっていくALS患者が多い方が問題だと思います。でも母の苦労を思うと呼吸器を着けない方が良かったと思ったりします。だから、他の人には呼吸器を勧めていません。そして、ALS患者は呼吸器を着けないで死んだら誰も罪にならないのに、呼吸器を着けて医師や家族に頼んで外してもらって死ぬと罪になるのは矛盾していると思います。(不作為は適法なのに作為は違法なのはおかしい)人には死ぬ権利があると思います。私は尊厳死に賛成です。病状が一番気になります。  N(患者:甲府市)支援費50時間未満

 

7、治療法と云う考え方はないです。一言でいうと”生き続けるための唯一の手段(方法)”でしょうか。ただ、だいぶ前は(病気になり立ての頃は)家族にとってはその方(外せた方)が楽なのではと思っていた事があります。今は、後で外せようが、外せまいが、気楽と云う事はないですね。とても大変で重要な選択肢であるわけだから、後で外せると言われたら、かえって怖いかも。K(患者:東京都)支援費600時間以上

 

8、確かに、人工呼吸器につながれてはいますが治療法ではないとおもいます。治るなら治療と言えるかな?呼吸器って?呼吸をするための補助装置かな?私は、人工呼吸器を着けていると言う意識はありません。心も体も、健常者に近い生活人といえます。おかしなことに、自分ではわからなかったのですが訪看さんに<人工呼吸器を着けていると言う姿勢をしていないですね>と言われ(はてな?)考えました。ALSも人工呼吸器も、迷惑なものですがいつのまにか受容と言うか適応と言うかライフスタイルができあがっていました。つまり、何事にも適当な患者かも知れませんね?患者さん個人の環境や病状や考えや受けとめ方ではないかと感じますが、死にたいということですから外すと言う自己決定されるまででも充分苦闘の日々を送るわけです。外せるほうが気楽に・・・。でしょうか?苦しみ抜いた結果の決定でしょうね。人工呼吸器を付けるはずすに<気楽>はあてはまりません。 SY(患者:福島)支援費600時間以上

 

9、外せるとなるとプレッシャーを感じるかも YM(患者:北海道)不明

 

10、Y先生が着けるか着けないか、問い詰めなかったのがよかった。尊厳死は当事者の論理じゃなく、他人だからこそ云える論理の気がします。人の死を簡単に美化して欲しくない気持ちです。私もプレッシャーを感じます。それは呼吸器をいつでも外すことが出来るよと云われると、公費を使い人手を煩わして生きている事に後ろめたさを、世間からのプレッシャーを感じざるを得ないからです。法制化されると呼吸器を外さない人は非国民呼ばわりする恐れがあるように思います。私は難病克服のプロセスこそ医学の進歩の礎であり、医療の本質ではないかと思っています。法制化されると医学研究者の意欲を削ぐことを恐れます。臨床医療従事者のモラル低下を招くと思います。尊厳死はALSの医療現場では昔から行われており、3人に2人は治療不開始を選択している現実があります。今更なにをか況やです。治療の中止つまり呼吸器外しを合法化するのであれば、いっそ積極的安楽死の方に合理性があり、わかり易いと思います。もちろん厳格な条件設定が前提ですが・・・・患者としては、菅野事件のように家族を犯罪者にしないためにはあってもいいかなと・・・・K(患者:千葉)支援費0時間

 

◆ 資料2 ALS患者(山)への聞き取り 2004年8月18日

 

山・いつまでも生きなければならないこと。首くくることもないし。

外すことは苦しいからやだ。この前の事故みたいに死にたい。あれは理想的。

川・事故の人は幸せなのかもしれないですね。

山・呼吸器の事故はすごく苦しいからいやだ。

この間みたいのがいい。酔っ払って死ぬのがいい。

川・あれが一番いいんだ。

山・教えてあげたら言い。呼吸器を止められるのはいやだ。

川・着ける権利と外す権利は同じだっていってますけど。

山・もがいて苦しいよ。動かないし。

川・緩和ケアの方法ができたら。

山・お前を殺すぞっていわれたら・・・

山・知らないうちに死ぬのがいい。この前のがいい。あれが一番。ガス中毒とか、いつ死んでもいいと思っている。だから絶好の機会だったのに・・・。なんで助けちゃったんですかっていったんです。そんなことできませんって言われました。目が覚めたら知らないうちに回りにいっぱいいた。

山・経済的な不安はあるね。生命保険はあった。生命保険、死亡時と同額。だから一段落しましたし退職金もあったし。まともに出ましたし。まあ、10年くらい生活するくらいはある。その後は困る。使ったらなくなるし。

川・家族の所得保障も問題になっています。15万でやっている家もある。所得保障も考えています。

山・最低30万ないとね。だからたけのこ生活していた。皮をすこしずつむいているんです。

だから、そう考えたらね、あと10年つづくかなと。あまり今のところは困ってない。

川・長生きできないってこと。

山・そういうことです。それ、今のところはね。家内が疲れています。家内にもしものことがあったらいっかんの終わりです。

山・国がつぶれたらおしまいですからね。医療保険もかかっている。100万ほどかかってる。カニューレ交換と歯医者さんも。それが、確か80万とかいってたな。年間1千万円ですから。介護保険25万くらいつかって。だから1300万くらい使っている。

川・もっと使ってください。

山・それほどの価値は(自分には)ない。


◆      参考文献

Robert S. Olick, Rihito Kimura, Jan T. Kielstein,Hideaki Hayashi, Marc Riedl and Mark Siegler  Advance Care Planning and the ALS Patients:ACross-Cultural Perspective on Advance Directives  Jahrbuch fur Recht und Ethik Annual Review of Law and Ethics, Band 4, Duncker & Humblot / Berlin, 1996, pp. 529-552. 

H. Hayashi / S. Kato, "Physicians' Attitude for ALS Patient in Respiratory Failure", The Committee of Intractable Degenerative CNS Disease, Ministry of Health and Welfare of Japan, Chairman, N. Yanagisawa (1994);H. Hayashi / S. Kato / A. Kawada, "Amyotrophic Lateral Sclerosis Patients Living Beyond Respiratory Failure," Journal of Neurological Science 105 (1991): 73-78.

Peter Singer, Rethinking life & death : the collapse of our traditional ethics, New York : St. Martin's Press, 1994.,Oxford ; Tokyo : Oxford University Press, 1995、邦訳:『生と死の倫理』(樫則章訳)昭和堂,1997

Arthur Kleinman,The Illness Narratives. Suffering, Medicine, and Psychiatry, Berkley / Los Angeles / London: University of California Press, 1988. 邦訳:『病いの語り―慢性の病いをめぐる臨床人類学』(江口重幸・五木田紳・上野豪志訳)誠信書房、2004(第1刷1996)

Robert F.Murphy, THE BODY SILENT,1987  邦訳:『ボディ・サイレント―病いと障害の人類学』(辻信一訳)新宿書房、1997

浅井 篤他  2004「「重症疾患の診療倫理指針」に関する提言書」;厚生労働省科学研究費補助金 難治性疾患克服研究事業「特定疾患のアウトカム研究:QOL、介護負担、経済評価」班(主任研究者 福原俊一)

石田玄2004「患者さんの意思決定を支える一員として」『難病と在宅ケア』VOL.10,NO.11;13-16

伊藤博明2005「在宅療養が困難なとき 病院にできること、求められていること」『難病と在宅ケア』VOL.10,NO.12

甲斐克則 2004『尊厳死と刑法』医事刑法研究第二巻 成文堂

川口有美子200406「トータル・ロックトインした母との日常」『難病と在宅ケア』VOL.10,NO.03

―――――200411「人工呼吸器の人間的な利用」『現代思想』32−14 青土社

―――――200501「選択の自由は患者の自由を保障しない」

―――――200502「安楽な死より安楽な生を」『DPIわれら自身の声』20−4号

清水哲郎 1997『医療現場に望む哲学』 勁草書房

―――――2000『医療現場に臨む哲学U』ことばに与る私たち 勁草書房

立岩真也 1997『私的所有論』勁草書房

―――――2004『ALS 不動の身体と息する機械』医学書院

―――――2004「より苦痛な生/苦痛な生/安楽な死」『現代思想』32−14

中島 孝 2004「神経難病(特にALS)医療とQOL」『ターミナルケア』14:182−189

―――――2004「神経難病とQOL」『神経内科の最新医療』先端医療技術研究所

―――――2005「難病の生活の質(QOL)研究で学んだこと ― 課題と今後の展望―」『JALSA』64

―――――2005「生をささえる共通基盤をもとめて−QOLの価値観は健康時から重症時へとどんどん変化していく」『難病と在宅ケア』VOL.10,NO.12:7-12,

西澤 正豊2004「人工呼吸器の中止を巡って」『難病と在宅ケア』VOL.10,NO.11:27-31

橋本 操 199901「闘えALS」さくら会のHP

町野 朔他1997『安楽死 尊厳死 末期医療』信山社

宮坂 道夫2004「ALS医療についての倫理的試行」『医学哲学倫理』22、50−68

―――――2005『医療倫理学の方法 - 原則・手順・ナラティブ』医学書院

「終末期医療をめぐる法的諸問題について」2003『国民医療年鑑平成15年度版−医療の質と安全確保をめざして』日本医師会医事法関係検討委員会

「末期医療に臨む医師の在り方」についての報告」1992日本医師会第V次生命倫理懇談会報告

「死と医療特別委員会報告―尊厳死について」19940625日本学術会議

American Psychiatric Association 2004-2005「Cord of Medical Ethics Current Opinions with Annotation2.20

「ワークショップ報告書〜尊厳死運動の課題を考える〜」2004日本尊厳死協会

伊藤博明、稲永光幸、平田さえ子、菅野理恵、伊藤智恵子、石原博幸、国立病院機構箱根病院、「ALS患者の心理的サポート―自己決定過程において― 」(QOL班湯浅班報告書から)

「特定疾患の生活の質(Quality of Life ,QOL)の向上に資するケアの在り方に関する研究班」抄録から

難波玲子「在宅での終末期ケア―条件と課題」演題番号9

西澤正豊「人工呼吸器の中止を巡る一考察」演題番号10

荻野美恵子「緊急時の対処方法カード」(事前指示書)導入後の評価」演題番号12

―――――「神経難病理解にむけて医学部教育におけるとりくみ」演題番号22

伊藤道哉「筋萎縮性側索硬化症等神経難病患者のQOL向上に資する終末期臨床倫理指針の検討課題」演題番号13


[1] 筋萎縮性側索硬化症とは、運動神経だけを選択的に侵される難病で次第に動けなくなり、知覚、聴覚、視覚には異常はないが、次第に口唇の麻痺で舌が回らなくなりコミュニケーションの手段を失う。呼吸筋の麻痺に際して気管切開し人工呼吸器を使い出せば長く生きられるが、使用を拒否すれば死亡する。

[2] 「特定疾患のアウトカム研究:QOL、介護負担、経済評価」班(福原俊一)、分担研究「重症疾患の診療倫理指針」に関する提言」(浅井篤)

[3]事前指示書「私の希望書」には治療停止の意思確認は盛り込まれてはいないが、「治療(呼吸器)の不開始」の意思確認に重点をおいている。「本指示書は「尊厳死の宣言書」と基本的に同じ考えに立っています」「「過剰な延命」の具体的な内容を、患者様ご自身の考え方に基いてきちんと選択していただくために、ひとつひとつ臨床事項を記載している点に特長があります」「経済負担については、例えば人工呼吸器をつけた場合、入院時では年間約1000万円必要となりますが、ALSに関しては国や自治体から様々な財政的、制度的援助が受けられます・・・」(注意事項からの抜粋)

[4] 「医師のナラティブと患者のナラティブがそれぞれ別々の関心を焦点につくられるのは仕方ないとしても、両者の間に接点や共通点、あるいはなんらかのつながりを見出して架橋する―共約する(commensurate)―こともまったく不可能ではない。」(宮坂)という判断もある。だから、周囲の者が誠実であろうとするなら、たとえば「眼鏡の喩え」に付け加えるべき説明はもっとあるはずだ。しかし、「人工呼吸器を眼鏡のように考えるのなら、患者はむしろ呼吸不全の「治療」(眼鏡は治療である)の一環として呼吸器を付けるべきであるし、眼鏡の使用は医師の継続的な診療を必要とするように、呼吸器の使用も患者が勝手に中止するようなものではない」と言ったらこれもパターナリズムになる。つまり、中立以外はどっちに転んでもパターナリズムを帯びる。

[5]倫理原則のための非中立性について考えたい。「決定的に社会的な弱者にはその生存を支持してこそ中立と言える。」(原田正純)「生死に関わるような場面になると、本人の意志を尊重して云々と言う。周囲は口を出さないようにしようと言う。これは逆さではないか。」(立岩真也)「〈生きることはよい〉。これがモラルの最低限の原則であり最高の原則である。モラルはこれだけで十分に足りる」(小泉義之)