ボディ・サイレント 病いと障害の人類学
ロバート・F・マーフィー  辻信一訳
1997年6月30日 新宿書房 
ISBN4−88008−243−0 定価2,400円
THE BODY SILENT , 1987 by Robert F. Murphy ,

はじめに
プロローグ
第一部  出発
1、徴候、そして症候
2、エントロピーへの道
3、帰還
第二部  からだ、自己、そして社会
4、損なわれた自己
5、出会い
6、自立への闘い
第三部  生きるということ
7、深まる沈黙
8、愛と依存
9、生という不治の病い

近年来、死を選ぶ権利、特に重症の身体障害者が延命よりむしろ死の方を選ぶ権利について多くのことが語られてきた。後に映画にもなったある戯曲にこんな題がつけられていたのを思い出す。Whose Life Is It, Anyway?・・・
また、1984年には数度にわたる脳性麻痺と関節炎で苦しんできた若い女性が、自ら選んで餓死しようとしたことがあり、全米で報道された。彼女のいた病院ではしかし、無理やり栄養を与え続けるので、ついに彼女は裁判所を訴えて、病院に無理強いを止めさせるように求めた。誰もが予想したとおり、彼女は敗訴した。自殺はいまだに不法なのだ。・・・
・・・・・・同じ階で働く他の課のある男が連れに向かって、身障者である彼について、こんな風にいうのをきたというのだ。「僕なら生きてないね。死んだほうがましだ」。この話を聞いた私の心のうちにいくつかの疑問が湧いた。その男はそれにしても、なぜ本人にきこえてしまうような声でそんなことを言ったのか?身障者の若者はなぜそのことばに衝撃を受けたのか?なぜこの私さえこんなにいやな気分になるのか?そしてこれは特に大事なのだが、果たして本当に一個の人間が“死んだほうがまし”だということがありうるのか?(pp18)
 
「対麻痺者の小世界における生態と人間関係」と題された2年計画のリサーチは、ヨランダと私の共同作業に、二人の大学院生が私の監督下に行う別個の作業を接続させて成立した。私たちの研究目標は、運動神経系麻痺者たちがどのような態度と行動をもってアメリカ文化の中に順応し、または順応できないまま生きているかを、調査分析すること。そして対麻痺者とその周囲の人々がいかに身体障害という事実に適応していくかをみきわめることにあった。同様の主題を扱った他のリサーチのほどんとが病院の患者を対象とするのに比べて、私たちのはコミュニティの中に1人で、または家族と共に生きている人々を対象とする点が異なっていた。また、つっこんだ聞き書きと人類学でいう参与観察者の方法を使ってデータを集めるところに重点があることも私たちのリサーチの特徴といえるだろう。アンケートなどを使って大雑把に全体を見渡す調査のかわりに、私たちは比較的少人数の身障者との長期にわたる緊密な付き合いを通じて、彼らのあり方を学ぼうと考えた。(pp214)
 
およそ人間による人間についてのリサーチに主観的要素から自由なものなどありえない。私は客観性なるものについて特に心配しないことにした。(pp217)
 
からだが私に詰め寄り、世界がじりじりと私を追い込んでいく。私の空間は着実に縮小し続け、動きを失った私は一種の植物人間と化している。しかし私が世界のどこに場所を占めているかはもう前のように意味を持たなくなった。四肢麻痺者の誰もがそうであるように、私とてどこかに一人で助けもなく取り残されることへの大いなる恐怖を抱いている。しかし、そのこを除けば、私の自己意識は頭の中に引きこもって自足している。・・・
 静かにゆっくり完全な麻痺に向けて落ちていくことは、子宮の内へと回帰すること、または死んでいくこと−このふたつは同じことだ―に似ているだろう。運動につながるすべての刺激が微弱になりほとんど忘れられてしまえば、人は身体的な活動に対する意欲というものを次第に失うものだ。 身体におけるこの深まりゆく静寂は、人が世界を理解する仕方に影響を与えずにおかない。私は身体的なことがらに関しては一個の受容器と化してしまったようだ。余程努力しないとこのからだをおおう受動性がますます増長して、しまには私の思考まで飲み込んでしまいそうだ。しかし、毎晩、暖かい電気毛布に包まれた私の小さな繭の中にもどって、必要最小限のものからなる小宇宙の中に落ち着くことには、独特の慰めがある。それは紐帯とか義理とか、面倒な社会関係からの絶縁であり、私的で知的な世界への退却である。私の心がはるか遠方へとさまようのもこのような時だ。こうした深い静けさの中にあって、たしかに人は風変わりな自由を見出すことになる。(p238−239)
 
身体障害は、からだのあり方であると同時に、社会的なアイデンティティの在り方なのでもあった。つまり、身体原因によって生起する一方、社会によって定義され意味づけられる、それはすぐれて社会的な状態なのだった。240
身障者がアメリカにおける反英雄(アンチヒーロー)の典型であることは明白である。(p247)
 
依存対独立、そして付属対自立の問題はアメリカ文化に限られない普遍的な社会関係の一面である。自力で生き延びる能力、自分のことを自分で決定する能力は、生存に向けた人間の意欲に欠かせぬ要素だ。(p248)
しかし、家族というものが冷たい世界における避難場所としていかに重要であるにしても、それは往々にして、厳しいはずの外の世界以上に矛盾と葛藤が渦巻く場所でもある。所詮、家族とは婚姻の上に建てられているのであり、現代社会における結婚とは砂の上に建てられた建物のように脆い。結婚とは本当に奇妙な制度だ。(p249)
 
死と孤独は、無のふたつの異なった様相にすぎない。ちょうど社会の痕跡の何もない純粋な人間的自然なるものがありえないのと同様、完全な孤立の中にある人間存在というのはありえない。その本質的に社会的な存在が他者から疎外され、つまり社会性を奪われ、社会的なつながりの中で形成され維持されるべき自己を奪われる。こういう自己の喪失はしかし、身体麻痺者たちの社会的孤立の中に実現されてしまっているのだ。彼らの場合にはそればかりか、神経系統の損傷によって自分の身体から引き離され、また社会によって自分のかつてのアイデンティティからも引き離される。このように外部と内部の双方で引き裂かれ、二重三重に孤立するところに彼らの苦難の真の姿がある。(p282)
 
そして、私は次のことを見出した。社会における個人のあり方の最も崇高な形が、傷ついた生による果敢な闘いの中に凝縮されているということを。(p285)
 
さて、我々がこの探求の旅の冒頭に掲げた問いにもどろうとしよう。死は果たして身体障害よりもましなものだろうか?否。答えは否である。さもなければ我々があらゆる形の生―どのような制限を負わされていたにせよ―に見出すことのできる唯一の意味を否定することになるだろう。死んだほうがましという考え方は、身障者が生きることの価値とその権利を疑問視する最大の中傷だ。それでも我々身障者は生きるだろう。所詮すべての意味と価値は恣意的で、文化によって相対的なもの。例外として普遍的な価値をもつのはただひとつ。生、それ自体なのだから。(p286)
 
身体麻痺者はほぼ文字通りの意味で、肉の虜である。だが思えば、身障者ならずともたいがいの人は多かれ少なかれ囚われの身だ。自分でつくった壁に囲まれて生きること。文化によって建てられ、自分自身の恐怖によって補強された鉄格子の間から人生を傍観すること。このように文化への隷属が物化され固定化された形は肉体でできた私自身の拘束服よりもたちが悪い。なぜなら、それはからだばかりでなく心の麻痺を引き起こし、思考の静寂を招くから。囚われの心は、今日の休息な社会変動と混乱の時代がもたらした絶好の機会をみすみす見逃してしまう。絶好の機会―それは、我々が文化の束縛を脱して環境から少しでも我が身を引き離し、自分が何者でありどこにいるかを疑い、そして再発見する機械のことだ。この好機をつかみ、しなやかな心と豊かな想像力をもって、身体麻痺者は―そして我々のすべては―自由を我がものとすることができるだろう。(p286−287)

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    ◇ 立岩真也 『ボディ・サイレント』文庫版(平凡社刊)解説

UP:20050830

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