渡辺公三先生の共生論T
特別課題レポートの下書き
ロバート・F・マーフィーの『ボディ・サイレント』における「麻痺」について

平成17年8月15日
公共2年  川口有美子


マーフィーの『ボディ・サイレント』、実はこの本を勧められたのは今回のレポート課題が初めてではありませんでした。大学院に入院した平成16年の春、立岩真也氏に東京の某所で面談していただいたおり、やはり私の現在の仕事や神経難病の患者会という特殊なフィールドからこの著作を先生は連想されたのか、「読みましたか」と既読は当然のように聞かれまして当惑したことがありました。 
   確かに、読書とは不治の病を抱える者やその周囲の者たちにとって心の支えになるものです。私もこれまで8年間、在宅で看てきた母の病態の進行が一向に留まる気配がないのに耐え切れず、読書によってA.フランク氏 が言うような“難破状態”から脱出しようと試みました。しかしマーフィーのこの本については全く知らなかったのです。ただ、『ボディ・サイレント』というタイトルを聞いた時、すぐ進行性難病、しかも麻痺といっても関節痛を伴う不随意運動によって身体のコントロールが利かなくなるようなパーキンソンの震えやリューマチの強い痛みを伴う関節のむくみや麻痺、筋肉が強張り身体全体が硬直して動けなくなるイメージの多発性硬化症、脊髄小脳変性症や他統系萎縮症などではなく、痛みもなく静かに神経細胞だけが侵され溶けていく運動ニューロンの病気を想像しました。それらの病では運動神経が侵されるとき不思議とその痛みは少ない場合が多いのですが、なぜか身体は徐々に動かなくなるという不気味さには格別なものがあります。とはいっても、マーフィーが患っているのは神経難病ではなく脊髄腫瘍なのですが、その病態は進行性の神経難病に類似しています。
   そういった意味でも『ボディ・サイレント』というタイトルや文章中に何度も表れる「麻痺」という言葉からは、麻痺の病態像が上述したように非常に多様な中にあっても、彼が「ただ動かなくなる」神経系の「麻痺」に纏わる論考に焦点化していることがわかります。
  また、「痛み」にフォーカスしてみれば、「痛み」が少ないか、ほとんど感じられない一部のALSの侵襲式人工呼吸器を着けない人たちの末期と、激痛に耐え切れないという末期癌の人とでは、同じ「動けない」という言葉でその病態を説明しようとしても、苦痛の中身はまったく違ったものになるのです。しかし、医療職の中にはその言葉の差異を捉え逃している人もいて、「痛みの緩和」と「動けないことから発する心の痛みの緩和」とを一緒にしていることから困った誤解が発生することもあります。このような終末期の痛みの「有無」や「場所」「感じ方」の厳密な仕分けは私が今後真剣に取り組まなければならない研究のひとつでもあり、「サイレント」に進行する身体や精神の苦痛について、ALSとたとえばがん末期との比較対照についてはその痛みの持ち主たちに聞くことによって、身体の内側からきちんと語られなければならないテーマなのです。
 ところで、自分の病を見つめることで運命や人生を学ぶともいいますが、マーフィーは人類学者だけに、学問体系の中に自分の身体を位置づけて、不治の病いを探求すべき広大なフィールドにしてしまいました。そして、自分の身体を冷静に分析する彼の学者らしい探究心と態度が病いを通して彼に社会を鳥瞰させ、動かぬ身体という器の内側で苦痛に苛まれた魂を解き放ったともいえます。実際、神経難病の者の中にはマーフィーと同様の道を辿る人も少なくありません。
   特にALSの進行の早さは時に他の神経難病の追随を許さぬものもあり、マーフィーのいう「脱身体化」は呼吸器の選択の前に迫られる現実であります。発症後、早い人では半年もしないうちに呼吸筋の麻痺が訪れてしまうので、身体に対するそれまでの一般的な解釈を脱ぎ捨てることができないと呼吸器をつけてその先を生きるか否かの意思決定には間に合いません。そもそも自分という存在を心身二元論において許容できるようにならないと呼吸器を装着して生きる選択は叶わないでしょう。とはいえ身体を必要最小限の「生存環境」として捉えなおすことが如何に困難であるかは、7割以上の患者が呼吸器を選ばずに死んでいく現実が物語っています。また、多くの障害者たちのように社会との関連から病を障害として捉え、医療モデルではなく社会モデルに難病を位置づける方法もあります。そうやって自分の身体を社会化することによって問題を外在化することに成功し運命に納得することができるのです。
  また、マーフィーは社会と身体との隔壁に、婚姻関係やセクシャルな問題を投じて考えています。妻のメリンダに対する記述は私にとっては物足りないくらいですが、冷静で客観的な、介護される側の言い分の端々に妻への愛情を感じるとることができます。これもまたALSの患者さんの書いた物の中に多く発見することができる感情でもありますが、ただ、やはり特筆すべきは彼が障害を社会問題だけに落さずに、自分の身体と向き合っている点で、彼の論考における洞察の鋭さと表現力が光るところはまさにそこです。
   私がもっとも好きな箇所で、私の母の現在の病状にも通じる部分を最後に引用します。動かなくなることをマイナスのイメージでは語らない彼に励まされる神経難病の人や家族は少なくないと思います。。

「からだが私に詰め寄り、世界がじりじりと私を追い込んでいく。私の空間は着実に縮小し続け、動きを失った私は一種の植物人間と化している。しかし私が世界のどこに場所を占めているかはもう前のように意味を持たなくなった。四肢麻痺者の誰もがそうであるように、私とてどこかに一人で助けもなく取り残されることへの大いなる恐怖を抱いている。 しかし、そのことを除けば、私の自己意識は頭の中に引きこもって自足している。・・・静かにゆっくり完全な麻痺に向けて落ちていくことは、子宮の内へと回帰すること、または死んでいくこと−このふたつは同じことだ―に似ているだろう。運動につながるすべての刺激が微弱になりほとんど忘れられてしまえば、人は身体的な活動に対する意欲というものを次第に失うものだ。 身体におけるこの深まりゆく静寂は、人が世界を理解する仕方に影響を与えずにおかない。私は身体的なことがらに関しては一個の受容器と化してしまったようだ。余程努力しないとこのからだをおおう受動性がますます増長して、しまには私の思考まで飲み込んでしまいそうだ。しかし、毎晩、暖かい電気毛布に包まれた私の小さな繭の中にもどって、必要最小限のものからなる小宇宙の中に落ち着くことには、独特の慰めがある。それは紐帯とか義理とか、面倒な社会関係からの絶縁であり、私的で知的な世界への退却である。私の心がはるか遠方へとさまようのもこのような時だ。こうした深い静けさの中にあって、たしかに人は風変わりな自由を見出すことになる。」(pp238−239)


◇ 『ボディ・サイレント 病いと障害の人類学 』紹介

UP:20050830

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