ALSをとりまく社会的状況と自己決定の関係 
                         
 NPO法人さくら会/川口有美子

ALSとは】

ALS(筋萎縮性側索硬化症)は運動神経だけが選択的に痛みなく溶けてゆき、次第に全身の筋肉が動かなくなる進行性疾患である。当初は身体に何が起こり始めているのだかわからない。その不気味さでは比類ない難病で、今はまだ画期的な治療法もない。しかし、肺の筋肉が侵された時点で致命的な呼吸麻痺が起きても、人工呼吸器を使用して大事にすれば20年以上の長期にわたる生存も可能である。それで現実に多くの人々が呼吸器と共に長く生きている。しかしまた、人工呼吸器の使用は選択可能であることから、その時点でのみ自分で生死を決定できるという不可思議な状況が発生する。ここにALS特有の深い悩みが生まれる。

 

ALS ある支援者の声】

海外のALS患者支援団体には、個人のために立ち上げたHPを活動拠点にしているこじんまりしたものから、豊富な資金力を背景にして活動しているNPO法人等のどちらも見受ける。後者はりっぱなパンフレットを作って配布し会員を獲得している。国によっては特定非営利活動が非課税になるなど、広く支援を受けやすい税制があり、また私的な寄付寄進を社会的使命とする欧米のエリート教育や宗教的バックグラウンドをもつ海外の患者会と日本の患者会では資金調達方法のみならず、国民意識への浸透や広がりにも大きな差異が存在する。多角的に検討すれば、患者会の在り方も国政レベルで問い直されなければならない点は少なくない。

 ところで、(考えようによれば)海外のALS患者にはほとんどと言っていいほど生存につながる選択権がない。たとえばアメリカやイギリスではほとんどの人が気管切開を伴う人工呼吸器を使用しての長期療養をしていない。一度呼吸器を付けても目的が達成したあかつきには外したりしている。だから患者会は呼吸器を使用しない(付けない)患者に必要不可欠なことに重点をおいて支援すればよいし、医師も在宅人工呼吸療法のこと、また終局的には最重度の閉じ込め状態患者(TLS)のコミュニケーション方法などまで案じずに済む。よって呼吸筋麻痺がきたらできるだけ安楽に逝ける療養システムの構築と薬物の在宅使用などに集中すればよいし、患者会も共感をもって死出の旅路に立つ患者を見送るためのこと、それまでの療養支援や残された遺族のスピリチュアルケアなどが主な仕事になる。

間違っても、他の障害者団体といっしょになって国の機関の前でのビラまきや、日比谷公園で蚊の大群に襲われたり、炎天下のシュプレヒコールに参加して日焼けしたり、極寒のデモ行進でインフルエンザにおびえなくても済む。ALS患者も最重度の全身性障害者と位置づけ、社会的支援の充足によって自宅で生きる権利を保障せよ!などという活動はしなくて済むので、海外の患者会には医療専門職や研究者、それに慈善家も多く参加していて遺族を中心にした同好会サロンのような優雅さが漂っている。(社交性についてはむしろ見習うべき点があろうが)

人工呼吸器=呼吸療法、実は治療の一部なのだ。だから、呼吸器使用の是非、治療の開始と不開始の是非については患者会の内部でも意見が割れている。人工物に依存して生存することが反自然的であるという支援者もいるし、いやになったら呼吸器も外せたほうがフェアであると言う人もいる。これまで日本の患者会は呼吸器を付けた人、付けたい人ばかりを支援してきたが、死にたい人の支援が足りていないと批判される。唯一のALSの患者会に中立性がないから、呼吸器を選択しない患者の欲しい情報や支援がないというのである。確かにそうなのだ。人々の死生観の多様性は否定しようがなく、呼吸器のお世話にならずに死にたい人も大勢いる。もちろん私も個性は否定しないし、当事者同士もそれぞれの選択を尊重しあっている。海外の患者会は中立で公平で良いから日本もそうであるべきだと言われれば、確かに患者会の中立性は必要な要件のようにも見えるのだ。しかし、その結果としてほとんどの人が呼吸器を付けられなくなっている他国の現実はどうなんだ、良いといえるのかと言うしかない。日本のALS患者会は1986年の設立以来、懸命にALSの生存を支援し、患者自身もまた社会に訴え人工呼吸器を装着しても生きる道を切り開いてき、証明してきたが、それでもまだ全発症者の3割の人が呼吸器を付けているに過ぎない。そして2割の人は呼吸器を望みながらも療養方法が見つからずに無念の思いで生存を断念し、窒息死しているのである。

このような社会的病者、最弱者のためには、その生存を強く支持して初めて中立なのではないだろうか。 

また、QOL尺度を患者の生きる価値を計るために用いたり、よほどの金持ちでないと呼吸器を選べないような機会の不平等を肯定してしまう功利的な社会に私は生きたいとは思わない。日本ALS協会の創始期を支えた故松岡事務局長と故川口武久両氏が打ち立てた呼吸器をつけて難病と共に歩む患者会の姿勢は世界的にも貴重(希少)で、ここにきて西欧社会の患者会倫理などを持ち込む必要などないと言いたい。

そもそも、アメリカで、医療倫理問題が直視され始めたその時に、保健医療システムの在り方が社会問題として大きく取り上げられなかったのはなぜだろう。その時も今もありのままの不平等をアメリカ国民は現実として受け入れてしまっているのである。彼らが誇っている自由とはいったい何の自由なのだ?まずそこから問いなおす必要があろう。

1975年から1985年の間に米国の医療現場は大きく様変わりした。1976年カレン・アン・クィンラン事件の判決以来、医師の権威主義に対する患者家族の抵抗や反省が沸き起こり、訴訟を怖れた医師個人は医療上の意思決定において力と責任を同時に放棄するようになったのだ。その代わりに倫理上難しい判断の最終決定権を弁護士や裁判所が行うようになり、やがて病院には倫理委員会が設置され生命倫理学者などの職種が臨床現場へ流れこんできたのである。

意思表明できない患者の自己決定を尊重するためにカリフォルニア州ではリビング・ウィルの法制化(「成人が、末期状態になった時には生命維持装置を使わないか取り外すようにと、前もって医師に対して文書で指示する書面を作成しておく権利を認める」という内容が明記されている)が行われ、そして、生命倫理学が患者と医師の個人的な関係に興味を持って患者の自己決定に執着するあまり、医療の供給システムなどの社会的な問題に対する視座は失われていったのである。医療社会学者のルネ・フォックス(Renee C. Fox)によれば、生命倫理学者たちが登場し始めるとやがて社会学者たちは撤退していったという。日本でも遅ればせながら、医師の権威主義というよりむしろ、医療上の意思決定において医師がその責任から解放されたいと願い始めている。上記のような状況が現在日本でも起こりつつあるのだが、医師はもちろんのこと、生命倫理学者や経済学者に社会学的視座が備わっていれば、アメリカの追随にならずに済むのではないだろうか。

 

【医師の責任感や慈悲が・・】

神経内科医らも苦悩してきた。当事者でなくても、この病と付き合って生きていくことは十分に辛い。患者に呼吸器をつけて命を助けてしまえば、家族にとっても療養を終わらせない永い道のりのスタートになるからである。だから、よく考えてみようという事になり熟考させる方法で患者家族の目前に事前指示書が広げられるたりしている。また、慈悲深い医師ほど患者の「最善の利益」のためと信じて、(実は家族の「最善の利益」のためだったりする)患者や家族を諭して呼吸器を諦めさせてしまうこともある。

尊厳死肯定派の神経内科医らは、助けてしまったことを後悔しながらALS患者たちを真には救いきれずに看取ってきたのである。生きるという現実として、ただごろごろと寝ころがされて病室のベッドに放置されるだけの患者をいやというほど見てこられたのであろう。だから、残照のような余生を惜しんでも、QOLが低くなれば生きていてもよいことなど全くないというのは辛い経験からの刻印であろう。

しかし、そのようなALS観に対して反論はできる。ただ人手さえあれば、自分では微動さえできない人でも社会参加は可能なのだと。「ALSは絶望的な死病であるかと言えば、決してそうではありません。受け入れてくれる医療機関と、支えてくれる体制さえあれば、たとえ五体は動かず、人工呼吸器を装着した身ではあっても、立派に人間として生きてゆけます。」とは厚生大臣が替わるたびに患者自らが繰り返し陳情してきた文面である。たとえ自分の運動神経や筋肉の働きがなくても人は動けるのだし、自立的な生活を営むことができる。また、介護機器やテクノロジーの開発は目覚しいものがある。今ならインターネットと意志伝達装置とをつなげればベッドの上から世界へ発信できるし海外の雑誌に論文も投稿できるのである。しかも24時間、寝食関係なしで考える時間はたっぷり与えられている。このような生活に向き不向きはあるだろう。しかし、だからといって、ただ単純に動かぬ身体が要求する介助や補助具が用意できないから、何かが自力でできないのだから死んだほうがましとは言えない。 

その人の機能や属性によってその人の価値を図り、基準に満たねば切り捨てようとする一種の線引き(パーソン論)は、周囲の者の、大枠では患者が属する社会の怠慢であろう。その人の属する社会の在り様によって「ある一部の人々の自由が極端に制限されたままに放置され、結果として自ら死を選択させている」としたら、それは自分たちの社会の非力と省みるほうが潔いし、まずは生かすための医療と介護の手を用意すべきだと考えるほうが健全であろう。

 

【難病とは社会と闘う病い】

次の4要素、1希少性、2原因不明、3効果的な治療法未確立、4生活面への長期にわたる支障、を満たすと難病と言うらしい。だから、もともと難病患者の悩みは、二項対立的な議論では解決しないのである。だが、現実には治療の開始不開始の自己決定がもっとも重要な事柄のように言われている。そして、学者や医師で構成される学会や国の検討会では、上記の4項目めはたいてい検討外で、患者の療養実態は全く問題にもされずに、生命医療倫理や疫学の枠組みの中で患者を扱っているにすぎない。そして、最近では患者不在のそのような場所で《患者の権利》として治療停止が議論されたりしている。

だが、何度も言うが、人々の多様性に対応できるほど医療制度や介護保障システムが成熟すれば、そこで初めてやっとどのような病人も平等に自分の予後について選んだり選ばなかったりできるのである。

たとえばALSでは、わずかに裕福な患者家族だけが自由な選択ができる。それは、呼吸器装着の選択に関わらず、死ぬまで多額の介護費と生活費と人手が必要なのだが、裕福な患者には経済的不安がすくないからこそ、将来の二者択一を考える余裕が成立しているのである。多くの患者家族にとっては《呼吸器装着の自己決定》などと言われても贅沢品にしか思えないし、これら一般的な患者家族には、その日一日を無事に生き延びることを考えるだけで頭も心も一杯なのである。

そしてまた、在宅医療を支える原資には地域格差があって、地方では訪問看護ステーションも訪問看護師の数も徐々に増えているが充足していないし、在宅医の分布や医師会の方針は地域によって偏りが甚だしい。人工呼吸器の装着率は大分県、香川県、青森県などでは50%以上だが、低い県では10%以下である。ALSの呼吸器装着に積極的な医師や医療機関が存在する県では呼吸器装着率は高くなっている。また医療のみならず障害施策の地域格差は歴然としており、実際の介護給付では例えば東京の700時間に対して某市ではたったの20時間である。このような不公平な実態があるので、どんなに人工呼吸器は自由選択だ、自己決定だと言ってみても、装着しないで死ぬ選択のほうがずっと選び取りやすいのだ。だから、ALSは最初から社会的に死に大きく傾いているのだから、よく尊厳死肯定論者が依拠するような《尊厳ある生》のゆく先に《尊厳ある死》が成立するというロジックをそう易々とは受け入れられない。

しかし、あるがままを受け入れるほうが楽だという患者も多くいる。たとえ社会がどんなに不平等で理不尽でも、抵抗せずにそのままを受け入れて死んでよいといわれたほうが、むしろ優しく響くのである。そんな人たちは闘い続ける生を強いられるより、楽な死を選びたいのだ。病と動かぬ身体との闘いに疲弊しきってしまって、もはや社会などとは闘いたくもないし、治らないのだから経過に従って死ぬ方が自然に思える。自分の選好で呼吸器を付け、家族を介護苦に追いやり国民の血税から多額の保障を勝ち取ってまで生きようとする悪あがきは、かえって非人道的で傍迷惑にさえ思えるのだ。

 

【リビングウィル・事前指示書・最善の利益】

もし尊厳死法によってリビングウィル(死の宣言書)が法的効力を得たら、口唇や身体の麻痺で意思表示ができない患者の事前指示の変更は困難になるばかりであろう。今でも、患者の意志が鮮明であった時に書いた事前指示のほうが優位だから、呼吸困難時の意思撤回には応じられないと断言している医師もいる。

しかし、息が苦しくなって始めて自分の命の尊さを知った人も大勢いて、死の瀬戸際のどたんばで前言撤回して呼吸器を付けた。そして、その後は運の良さに感謝しながら呼吸器と共に今を生きている。また、リビングウィルや事前指示を書きおけば救命措置はされないが、それが果たして良いか悪いかわからなければ、拒否して書かないほうが良いのはないか。しかし、入院時に必ず事前指示を書くことになっている病院のケースもある。この場合、患者は規則に従わなければ医療そのものが受けられない。

また、尊厳死法によって終末期患者の治療停止が法的根拠を得たことになれば、治療不開始との倫理的差異はないということで、治療停止(呼吸器はずし)もいずれは行われるようになるだろう。そして場合によれば、法の後ろ盾によって医師の権限はさらに増すのだが、すべての医師が正しい判断ができるとは限らない。院内の倫理委員会や関係者の協議によって方針を決定するといわれても職種間の力関係は存在する。公正な決定のためには水平的な人間関係が前提になければならないが、病院内の人間関係など利用する側からは知りようもない。また、TLSTotally Locked-in State)の患者のように意思表示ができない状態になれば、医師や家族らが協議して患者の《最善の利益》として医療方針を決定しかねない。その時の《最善の利益》とは、いったい誰のための利益になるのだろう。
事前指示や院内の倫理委員会について考え出せば疑問はつきない。ALSの倫理的諸問題について論議し定めていくことの必要は感じるが、自己決定の公平性を補完するシステムやフィードバック機構がないか、ほとんど機能していないのだから慎重な議論が必要である。

難病の患者会に身を置き、ALSの母の在宅介護を10年間続けてきた私の立場からは、尊厳死法と共に社会的弱者に広がり始めるであろう現象は最重度のALS患者のみならず、他の終末期の患者や重度障害者、認知症を患う者に至るまで十分予測可能であり、たぶん的はそう大きくは外さないだろうと思える。

UP:20050615 REV:0616,17

◇安楽死・尊厳死法制化を阻止する会
安楽死・尊厳死  ◇安楽死・尊厳死 2005