他者を思う自然で私の一存の死・1

尊厳死の主張はその条件を満たしている。言うまでもなく、そこにあるひとつの価値は「自律」である。このように自律は近代的な理念とされる。しかし、近代医療が人々に医療と延命とを押し付けてくるものであるとすれば、その主張は近代医療批判であることもできる。実際、社会の複雑化、組織化、官僚制化、等等によって人はますます他律的な存在になってしまっているという理解もまた一般的なのであるから、その社会において自律を獲得しようあるいは復権させようというのは、社会批判、近代社会批判でもあることになる。 こうして自律という理念において、批判/少数派・・・であることも、同時に主流派/多数派・・・であることもでき、近代性を肯定することもでき、批判することもできる。だから、どちらからでも、いつでも使える。 pp27
「利他」
こうして、「自然」という言葉の怪しさは、「人それぞれが大切にする(範囲の)もの」を人それぞれが、という「自律」の観念によって包まれ、問題がないことになる。さてその「自己決定」とは、自分勝手の言い換えではないかというものだ。それは他人を顧慮しないあり方だと批判される。 Pp29
 
尊厳死は私のこととして語られる。・・・まったく個人的なもの(であるからとやかく言われる筋合いのものではない)とも言われる。しかし、同時にそれは「行き過ぎた個人主義」を戒めるものでもある。 Pp29
 
さらに自発的な贈与は困難で希少であるから価値があるとされる。そのことによって、その人は他の人たちより立派であるとされる。 pp29
 
こうして、尊厳死の思想は、批判的でもあるし、本流でもある。科学的でもあるし、自然志向でもある。自律的でもあるし、利他的でもある。それらに加えて、並べて、尊厳死は「他者を顧慮し、自然に死ぬことを、私が選ぶ」という行いである。それは常識、といより良識に合致していることにおいて強く、良質で良識的な人たちに支持されていることによって強い。それは市民の特性であり徳性である。この思想の強さは、社会の強さであり、この社会の強さでもあるだろう。だから、それでもおかしいと思うなら、それはこの社会がおかしいということである。Pp29
 
「近代医療の宿命」であるように言われる。人工的な営みが批判される。・・・・対抗するものとして置かれるのが自律である。医療が病人の病をなおすことは不可能である。第一になおらない人はなおす人に歓迎されない。第二に医療の場にいて毎日にように死に接する人たちは慣れてしまう。慣れざるをえないということがある。それは当然のことでもありまた必要なことでもある。ただ、そのことによって(なおらない)人が死んでいくことに寛容になり、その決定に関与できる場合には、実際に寛容にあるいは積極的になることがある。他方、もちろん「延命」のほうに向かう力もある。第一に、たしかに医療者の責務として治療・救命が規定されており、その人たちはその規定に従って仕事をしている、せざるをえないということはある。また第二に、個々人の感情や倫理観もあるだろう。もうひとつの要因、医療や費用に関わる要因は両方の方向に作用しうる。31生―政治をめぐる理解、むしろ誤解がある 生―権力を一面的にしか見ない人は、殺す権力から生かす権力といった具合に、ひどく単純に事態を捉えてしまうのである。>無駄に生かしておくなどということをこの社会がそうそうするとは思えない。少なくとも臨終の時に間に合うという意味においては、その「物理的な生命」を技術的に長らえさせることのできる現在の方がむしろその機会が増えていると言えるのかもしれない。機械が動いていたりすることは、その人のもとに居ることを不可能にするわけではない。にもかかわらず、実際に医療の場で遠ざけなくてもよい人たちを遠ざけてしまうことはある。それはそれとして説明され、また批判されるべきことだろう。pp35
 
死(の前の生)は長くなっている。本人はその時間に接しており、周囲の者たちもまたその少なくともある部分に接しているし、接することをせざるをえないでいる。このことは確認しておく。すると遠ざけているのを反省して近づけよう、向き合おうという物語は違うのではないか。むしろ近づいてくるのにうろたえているのではないか。さらに言えば―このことについて考えるのは、もう少し先のことになるのだが、―今向き合う」とされていることは、うろたえ、そして遠ざかっていることの一つではないか。「たんなる延命」もまた同じところに発しているのではないか。つまり、私たちは、たしかに「たんなる」と言えば言える死の前の生存を恐れ・否定しているから、「たんなる」と言い、また、いま直面しているような死ではないしを例えば過去に投影し、現在を否定しているのではないか。pp35看取りつつある者たちの集まりであれば、語られるのは悲嘆であるとともに、苦労・疲労の経験でもある。こうした場は多くは遺された者たちの場ではある。このことと、美しく死ぬこと、尊厳ある死を支持することとの間に必然的な結びつきはないというべきだろう。
 
ただ第一にこうして語ることができた、前向きに語ることができた、つまりそれ以前にはそうではなかった。これは、その内容は同じではないとしても「尊厳ある死」が不在である現状を憂い、それが出現あるいは再来することを期待する言説と、同じ構造、言い方にはなっている。いっしょのものになっていく可能性がある。
 
第二に、ここでは語ることが肯定される。タブーであったとは、まずは、語られなかったということである。それらが語られるようになった、よかったというお話につながる。語ることはよいことであり、当然のことでありながら、言葉に回収されてしまう。言葉にならないという感覚、観念を結ぶことがないという感覚も、またたしかに言葉以降に生ずる出来事ではあるだろうし、語る言葉がないというふうに語る語りも物語りではある。
ただ、その基本的に善意に満ちた場所は、無意味さや沈黙に耐えることをせず、話をまとめる方向に行くかもしれない。肉体から、少なくとも普通に聞き取れる明晰な言葉は発せられない。また、自分のことであれば、その未来を先取りし、今語ることができていられる私が語ることになる。pp38
 
他者を思う自然で私の一存の死・2


四 私のことである、しかし

1 論をつんでみること
安楽死・尊厳死の主張・行いは第一に、他を害してないといえるか。また第二に、自分のことを決めていると言えるか。 81
 
わずかだけでも注意深くあれば、人の死のうとする思いがそう確固としたものではないこと、確固とした部分としてある時にもまた別の部分もあること、その死を否定する気持ちがあることをまず知ればよいのでもある。ただここでは、以上を回避するように表明される、個人の有する価値に対する不可侵という立場を批判の対象とする。このことが正面から言われたことはあまりない。 81


リベラリズムの検討と批判を繰り返すことでもあるが・・私にとってはむしろ安楽死・尊厳死について考えることの方が先にあった。



         2 決めることが大切であること

自分で決める方が益が多いこと。・・・それほど人は自分のことがわかっていない、とくに将来を見通したりすることができないと言われる。それはその通りだ。
多く、その他人(たち)の都合が入ってきてしまう。結果としてその人は不利益をこうむることがある。そんなことが実際によくある。だからこそ自分の暮らしのことを自分で決めたいという主張がなされてきた。
もうひとつは、その人の決定を認めることがその人の有様を決めること自体がその人のあり方の一部であり、だから、それは尊重されなければならない。これは、自分にとってよい生活を得る手段として自分が決めることがよいという理由から区別することができる。
 
他人にとって有益な場合は多くないだろう。むしろ他人の都合のよいようにされないためになされたのだが、自己決定の主張でもあった。・・・もうひとつ、他人たちにとっての益を正当化の理由にすることはできるだろう。とするとその人にとってよい結果が得られるだろうから、という理由が残る。83
 
しかし、自分で決められることはよいことであり、大切なものではなっても、至上のものだという理由は見出せない。・・・自己意識・自己制御能力が至上のものであり、人が人であるための資格であるという堅固な信心を持つ人たちがいて、その人たちは譲らないかもしれない。しかし、その人たちはそうした信仰を持たねばならないわけを言うことができない。すると決めることの価値は人の価値の一部である。そして、ここでの人が、決める当人以外の人であると考えられない。・・・(もちろん、ある人の決定を他の誰かが尊重することは、その他の誰か自身の価値でもあるだろう。ただそれは、本人の決定が本人の価値の一部である、その上でのことである。)とすれば、決めることの内在的な価値はその人の価値の中に含まれるものとしてある。
だから、以上で網羅されていると考える。自分で決めることは、自分にとって役に立つから尊重すべきである。また自分で決めることは、自らの存在が尊重されることの一部をなす。以上は妥当な、また穏当な理解であり、これを前提にして議論していいはずである。83
 
3 至上のものではないこと
 
自ら選び決めることは、自らの有する価値に発して、またその由縁は不明であるにせよ、ともかく自分の決断によって、事態に能動的に対するということだが、これは至上のことではない。84
 
自己決定主義者たちもそのように臆病な人がいることはわかってきたから、「知らない権利」といったことを言う。無知を選択してもよいというのである。
 
それで、知るか知らないか、選ぶか選ばないか、それを選ばなければならないという事態は、選択された事態としてではなく、与えられる。その上でさらに、選ばないことも認めるが、本当は選ぶことがよいことであるなどと認めるが、本当は選ぶことがよいことであるなどと言われるなら、それは充分にうっとおしいことである。
4 そのまま受け入れないことを言う不正確な言い方
 
近時の自己決定主義は多文化主義でもある。・・・その人が決めたことをそのまま受け入れないことができない場合があり、それはこれまで述べたことと整合する。・・・・・
ただ、その言い方に間違いがある。すくなくとも不正確なところがあると私は思ってきた。
自らの価値・好みがどこまで明確に自覚されているか、また一定で一貫しているかは疑問であるにせよ、自分にとってよいと思うことをしようとするというのは、大筋で否定はされない事実である。その人が決めることがそのままその人の利益に合致するはずであると考えるなら、にもかかわらず実際には一致しないのは、一つに情報の取得に間違いがあるとされる場合である。自らにとって有利になるように人は行動するはずであるのに、この意味において人は合理的に行動するはずであるのに、そのように行動しないのは、無知であるか、誤認がある場合になる。正常な状態であればその選択はしないが、今はそうではないから、自らに有利な判断をしないとされる。Pp85
 
それでよいと思えない人たちは、社会的状況・条件を問題にする。そこでは、まず二つ、社会的な状況とその人の側にあるものが分けられる。後者には好み・選好と能力がまずは割り振られる。第一に、いずれについても問題にしない立場がある。第二に、環境だけを問題にする人たちがいる。第三に、作られた(あるいは阻まれた)選好(や能力)を問題にすることがある。

問題の所在に気がつかない人がいる。85

今の社会において設定されている諸条件が正しいのだと、だからそれを受け入れればよいと主張する人たちもいる。・・・その主張はまったく支持できない。86

第二に、社会的環境を問題にし、その改善を主張する人たちがいる。多くの人にとって、どんな環境においてであろうと、決めたことは決めたことだからそれでよいという主張は受け入れがたい。・・・生きることのできる環境が設定されるべきだというだろう。社会改良主義的なリベラリズムがこのように言う。P86

他方でその人たちの多くは、・・・・環境については問題にするが、選好を問題にすることは個人に立ち入ることであるとして、問題にしない。その人の領域の内部にあるものへの介入であり、個人的領域の侵犯だとしてよしとしないのである。

第三に、・・・・社会的に形成された選好(の歪み)については、また社会的に規定された能力の差異については、社会の側が責任をもつべきだという話になる。P86

実際に起こっている問題の大部分は、第二の立場が問題にしてきた、物質的・制度的諸条件を巡ってのことである。

ただ以上にそのまま乗れない、乗らないほうがよい。以上は私が作成したもの、社会が与えたものという分割の上に乗った議論になっている。しかしここ自体に分岐はないはずである。にもかかわらずそのような言い方をすると間違えてしまう。容易に反論されてしまう。

私たちの決定は社会的条件によって規定されている。・・・社会は常に個人に先行しており、それによって決定は左右され、選好・価値も、その人がどのような社会に育ち暮らしてきたかに左右される。これらのことはみな認められるはずである。

次に・・・より基本的な問題は、選好・価値の被規定性の有無とその是非とは、基本的には独立であるということである。価値や欲求が社会的に形成されているというその指摘はその通りだ。だが、だからそれがいけないということにはならない。だから、その決定を自己決定としては認められない。とはならない。各自の価値・選好が、社会の中で形成され、社会に規定されることはむしろ当然である。それでもやはり自己決定と言えるはずだ。これは間違えられやすいところで、だから幾度も同じことを述べてきたのだが、社会的な価値であること自体から、その価値がその人の価値でないとはならない。その起源を問題にして、分けられないものを分けようとするべきではない。P87−88

5 受け入れられないことがある理由

とすると問題はなにか。

社会的に条件が設定されていることではなく、価値観が社会に由来することではなく、その条件や価値の内容そのものが問題である。理由ははっきりしている。価値・規範に関わる是非の問題は、その設定主体・設定手続きの問題とその内容の問題の二つである。次に、前者が基本的な問題ではないとすると、後者が問題だということになる。P88

 

むしろ、妙な考え方だと思いながら何も言わない方がかえってその人をおとしめていると言える。だから、どこに製造者がいるのか、また他にその製造者についての責任があるかと別に、その人の信を疑い、肯定しないことはありうる。その価値観について、こちらに製造物責任がない場合であっても、介入することはありうる。P88

 

この社会には留保なしの生存を妨げるさまざまな規範・価値が装備されている。([1997]第六章、等)自らのことについて決めることをとても高いところまで持ち上げてしまうこともその一部である。とりわけ安楽死・尊厳死の場合には、できないこと、自分でできなくなることへの悲観が―それだけがあるのではないだろうが、浮上してくるのだから―大きく関わっている。([1998])ここでは、生きるための手段の問題が生きることを凌駕し否定している。ここでは単純な倒立が起こっている。P89



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