詩人・尾形亀之助を思う
永遠なるなる可能性=高村光太郎=
尾形亀之助の詩ほど、名状し難く補そくし難い魅力を持つている詩は少ない。彼が落ち着いた言葉で、ただごとくのような詩を書くと、読む者の心は異常な衝撃を受けて時として不思議な胸騒ぎさえおこる。どこにそんな刺激があるのか、読み返しみても分らない。彼の詩の言葉か尋常一様の言葉でないことは明らかである。その言葉は現実を語っていて同時にその現実を超えている。彼はイズムを口にしなかったが,超現実というものに彼の詩の如ぎ一秘密感(?)かあることを実感(?)せざるえない。彼の詩に一種の異存(?)を感じ、しかもそれ故に限りないけん引き感ずるのは奇怪である。彼は自分の詩を絶対の場においてわずかに書きとめた。その背後には置くに(?)及ばないと彼自信がみなした莫大な詩編(?)があることを私は知る。世上に在る多くの詩の如きは彼にとってはほとんど皆書くに及ばない詩なのである。
尾形亀之助は人間としても恐ろしく進んだ裁断のきびしい人であつた。極めてあたりまえのように振舞うことが、実は高度の倫理であった。はしごの酒場でへまでも連れて歩く,痛々しいコゼットのうな、小さな娘さんが道で転んでも,自分で起き上がるまでは棄てて見ていた。不当にチップをねだる運ちゃんの目の前で黙って紙幣を舞きすてた。彼は埋没するとやはり埋没していた。
彼のような人にはめったにあわない。この貴公子は巴里に生れればよかった。このよな詩人を死なしめるた日本の貧しさ、あわれさを思い憮然とする。尾形亀之助はいまだに可能性を満載して地下に灰を埋めている(最近彼の詩集「障子のある家」が再出版された。誰でも一度は読んで見るがいい)
=著者・彫刻家・詩人
得意性の復活 草野心平
尾形亀之助が死んで今年は七周忌である。とういうことは、彼の文学も彼の周囲もその永い期間を無為に過ごしたということになる。眞実彼はまるで遠慮するように死んでしまったし、彼の詩が取り上げられたのは雑誌「歴程誌」上でニ、三の友が追悼の言葉を送ったこと だだそれだけのようである。だからいま亀之助死す、というように、彼の極く近ごろの現実として回想しなければ、彼の死んだことも延いては彼の文学も.完全過去になってしまうような危惧をすら抱かしめるものがある。
ところでその危惧を裁つ一つ契機が生れた。彼の遺書「障子のある家」の再刊と郷里仙台の雄志を中軸とした追悼会の催しと近刊「歴程」紙上尾形追悼の発刊などがそうである.
それによって尾形の全貌とはいえないが、彼がどんな詩をつくりどんな人間であったかというその片鱗は分るに違いない。
彼には生前三つの詩集があった。「色ガラスの街」「雨になる朝」「障子のある家」この最後の詩集は彼が三十ニ歳の時上練(?)したもので、それから晩年までの期間ボツボツ思い出したように書いていたにすぎなかった.早熟で??の速度も人並みより早かった。それらの三つの詩集の題名から察知できるように彼の詩は特異のなものであり、彼の死後に珍いても現れない人物である。
言うまでもなく詩とは、初めからそういう独自性をもつことによつてのみこそ普遍性を出来るものあるけれど、現実ににおいては、例えば署名なしにその作者がだれであるかが分るような、そんな作品としうものは滅多に生れるものではないのである。尾形はそのことをやってのけた。そのことだけでも彼の存在ははっきりしていたし、彼の特異な詩の復活は、この國の文学の或一つの分野の成長を示唆している
間違ってこの世に生れたような人間であった彼は、その最初からのこの世のとの落差のために必然悲劇的にならざるを得なかった。彼の生活的なわがままさも奔放さも、実はその度流れに間違った生と彼自身も処理できなかった一言でいえばさみしい個性がわだかまっていたことのだめであのった
(私はいま彼の友人の一人として仙台への追悼会に出席するための列車のなかにいるのたが、台風に洗われた初冬の、今日のかがやかしい光はボロ汽車のなかにはいってまぶしい程だ)
けれどもこの光は「尾形」的ではない。船のような曇天が一生を囲ヨウ(取り囲む?)していた。彼は相当の近眼であったが、今日のような光の外景(?)を眼鏡をかけて見ようとしなかった。(1948・11・20)
=著者・詩人
河北新聞の記事をそのまま書き入れるつもりであったが.なにぶんにも昭和23年のマイクロフイルムの為にかなり汚れがあり読み取れない漢字が有りました、その漢字は(?)ということで意味のとおるような漢字並びにカタカナで書き入れました、宜しくお読み下さい。敬一