高山開治郎翁の伝記の作成

桜  樹 碑

大お河原町八番地 故庄吉長男高山開治郎君ハ 愛国忠義ノ士愛郷公益ノ人ナリ

少 負フテ上京シ 苦學力行大ニ勉メ 實業操創ニ志シ 倹約産ヲ治メ真ニ立志

傳中ノ典型タルヲ失ハス 現ニ東京商機新社長トシテ 中央経済会ヲ指導スルノ

権威タリ 大正十二年四月 君愛郷奉仕ノ念止難ク 桜樹一千本時価四千円ヲ本

町ニ寄付栽スス 為メニ陽春白石河畔ハ 年々繚乱ノ桜花似テ衆目ヲ楽シマシメ

行う人ニ無限ノ慰籍ヲ与エ 以テ本町ガ他ニ誇リ得ル名勝タルニ至レリ  フニ

君 ガ生家ハ 明治初年 籠駕親シタシク 行在タルノ光栄ヲ?フコト実ニ再度

ルアリ 先先年君感奮余リ 一一代ノ名将軍東郷元帥ノ真筆ヲ獲テ 明治大帝聖記念

碑 ヲ建立シ 

 
     
     

この大河原町のさくら並木は大正12年に植樹したもので、あまりにも高山翁の資料がなく、

資料集め研究・整理していきたいとおもいます。

町観光ポスターには

大正12年春わが地域の先達高山開治郎は、

東京の地でわが心の故郷を思いをはせ、

何十年後に桜の名所になることを夢見て

ふるさと白石川の堤防に自ら、

1000本余りの桜を苗木を植え込みました。

こうして誕生した「一目千本桜」は、

約八十年余りたったいまでも、

見事な花を咲かしています。


(明治9)年 高山開治郎。高山庄吉の長男として大河原村86番地にて生まれる。

(明治9)年 明治天皇が東北巡行のおり高山屋で昼食をとらえる。

(明治14)年 明治天皇が東北巡行のおり高山屋で昼食をとらえる。

(明治15)年 東京に出る

1922(大正11)年尾形亀之助の所属する未来派美術協会の会長になる。

1923(大正12)年 白石川土手に700本の桜の苗木をを植える

1927(昭和2)年 白石川土手に500本の桜の苗木を植える

1928(昭和3)年 明治天皇行在所記念碑を建立。書は東郷平八郎謹書

1933(昭和8)年桜樹碑を大河原町が建立

1942(昭和17)年 高山開治郎死去


高山開治郎の子孫は東京大空襲の時、死亡したといわれていましたが、

大河原NTTの大河原の桜祭のホームぺ―ジに

高山家の親戚の人がアクセスして、開治郎の子供が生きているはずだよとメールが届き、

話を進めているうちに子息豊太郎氏の生存を確認し、

この度、さくらの会が豊太郎氏を平成12年4月17日にお招きしました。

 

高山開治郎翁のご子息豊太郎。大河原の高山家の墓前に花を添える 4月17日

 

楽しい高山豊太郎氏の歓迎会でした。案内役のナベちゃんご苦労さまでした。

高山開治朗翁は小室翠雲を応援しました。

下記にあるのは国立図書館に登録してある本です。リンクではありません。

 

  1. 本朝画人伝/巻5/村松梢風/中央公論社/1973 

 

小室翠雲
屏風(六曲一隻) 紙本着彩178.7×392.0
明治22年に南画家・田崎草雲に師事。この頃南画は「つくね芋山水」と批判され衰退の傾向にあったが、翠雲は文展第二回展(明治41年)から作品を出品するなどしてこの期の南画に新しい舞台を開いた。

コレクション(日本) -PERMANENT COLLECTIONS  このアドレスに小室翠雲の絵があります。


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