尾形亀之助略年譜

1900(明治33)年12年12日大河原町82で生まれ。幼少より喘息もちでした

1905(明治38年)祖父母せい没

1906(明治39)妹とよ生れる

1907年(明治40)尋常高等小学校大河原小学校入学

1909(明治42)年仙台木町末無町に一家をあけて転居、宮城県立師範学校付属小学校に転入

弟二朗生まれる

1911年(11才) 親と別れ嘆息静養のため鎌倉に転地。鎌倉小学校5年に転入

1912(明治45年)尋常高等鎌倉小学校尋常科

1914年(大正3)尋常高等鎌倉小学校尋常科卒業

1915年(大正4)妹ひで生まれる、

1916年(大正5)私立明治学院中学三年に転入。

          東京千田ヶ谷の明治学院自習寮に移り、同学のは母ひさの末弟松良宜三と生活をともにする

1917年(大正6)5月私立東北学院中学部三年に転入。三年を再履修。五年半ぶりに仙台の生家に戻る

1918年(大正7)弟安三生まれる。祖父、大河原の酒造場を売却。

1919年(大正8)二月、東北学院大学の学友、福田豊太、数又勉、鈴木重夫らと短歌文芸誌「FUMIE(踏絵)」

          創刊。蓑之介、銀梨のペンネームで短歌を発表。3号と4号の編集発行人。5号まで

1920年(大正9年)東北学院中学を5年生で中退、

           石原純 原阿佐緒(宮城県大和町出身)らの短歌の同人誌「玄土」に参加

1921年(大正10)5月福島県伊達郡保原町の開業医、森禄三の長女タケ(18才)と結婚。

          7月関西伊勢に新婚旅行。帰途、東京から新妻一人を帰仙させ、本郷白山上にタケの叔父で未

          来派美術協会会員の木下秀一郎を訪問を訪問。ブルリュク、浅野 府、渋谷修らとを知り、新興

          美術への興味を抱く。第二回未来派に出品すめため、白山神社近くに一戸を借りうけ制作にかか          った

           第二回未来派美術協会展に「朝の色感」「競馬」を出品会友となる

1922(大正11)年 一月妻タケと本郷白山上に住む。未来派美術協会会員となり、第三回(三科インベテント)

           の準備運営にあたる。

        五月、玄土洋画展覧会(宮城県図書館・六月二十四〜ニ十五日)開催準備のために帰仙中、

          妻との間に不和を生じ、旅にでる。「玄土」に継続的に詩を発表。

          十月、三科インデペンデント(上野山下レストラン青陽楼階上)

1923年(大正12)3月 新宿区上落合に転居。「玄士」第31号をもって終刊。 4月「玄土」にかわって、秋山登編

          集発行により「詩人」創刊。これに詩を発表。未来派小品展(丸ビルライオン歯磨ショウルーム・4

          月九日〜十四)に出品。ライオン歯磨宣伝部の戸部達雄を知る。未来派美術協会催主で第一

          回尾形亀之助作品領布会を企画。

          9月 村山知義、柳瀬正夢、門脇普郎、大浦周蔵、ブブノらと「マヴォ MAVO」結成。門脇普郎

1924年(大正13)1月「上州新報」に詩「酒場から」発表。4月16日、長女泉生まれる。この月秋山登詩集

            「馬の花 」の装丁をする。マヴォと疎遠になり絵画活動を休止。6月秋山登、中野秀人、野村

            吉哉、清水孝祐、岩佐太郎、石川善助、角田竹夫、松本淳三、淘山罵太郎らと日本詩人協

            会結成。

            詩話会からだされていた「日本詩集」に対抗して、新進詩人のアンソロジー「詩集左翼戦線」を

            共編刊行した。このごろ、レコード音楽に興味を持ち、ワグナーにしたしむ。

            七月「MAVO」創刊。十一月「」刊行。十ニ月宮沢賢治童話集「注文の多い料理店」刊

1925年(大正14)三月、戸部達雄と信州上諏訪に遊ぶ。このころ短編小説を書きはじめる。

           十一月第一詩集「色ガラスの街」を恵風館より刊行。神楽坂の川鉄で開かれた色ガラスの町の

           会(11月10日)で草野心平を知る。同月中旬、銀座の明治製菓で新雑誌発行のために準備会

           をもつ、白井 ニ、

1926年(大正15)1月「月曜]創刊。(月刊文芸誌で六号までつづいた)。8月「銅鑼』七号に詩2編を発表、同人に

           なる。9月、上野の三橋亭で大鹿卓詩集「兵隊」出版記念会(9月25日)に出席、サトウハチウ

           12月22日、長男猟生まれる。このごろ女性関係で悩む

1926年(大正15)8月より1927年(昭和2)2月までに積極的に投稿

1926年(大正15)10月より1927年(昭和2)2月まで銅鑼に投稿

北方詩人に投稿 

 京都詩人第2巻第一号

 

1927年(昭和2年)3月、上野の三橋亭で開かれた、らりるれろ玩具制作所設立祝賀会(3月10日)に出席

            4月、ある女性の思慕やみがたく、信州上諏訪に約二週間の傷心旅行。亀之助旅行中、家族

            (妻タケ、長女泉、長男猟)世田谷区太子堂六十九番地に転居。

            4月末、上諏訪から転居先の太子堂の家に帰る。太平洋詩人に投稿

1928年(昭和3) 5月妻タケと協議離婚 12月世田谷上馬79で芳本優と同棲

1929年(昭和4)5月「雨になる朝を誠志堂書店から刊行。

          6月有楽町のレストラン「モンパリ」で「雨になる朝」出版記念会か開かれ、高村光太郎、竹久夢二

          福士幸次郎、百田宗治、サトウハチロウ、岡本潤

1930年(昭和5)年この春より、飢餓自殺を口にする。8月、私家版「障子のある家」印刷製本になる。

          同月、家財を売り払い、妻優および年下の詩友矢橋丈吉、小森盛と上諏訪へ赴く。湖畔の宿に

           一ヶ月滞在。身の上を案じて草野心平、矢橋丈吉が上諏訪にきた。9月、帰郷して神田錦町の

           東岳館に投館

1931年(昭和6年)一月根津権現裏の経師屋の2階に移る。八月団子坂下の一戸建て転居。

           十一月、妹せいの結婚式のため上京した父、帰郷を促がされたが応じず。

           父、妊娠中の優をつれて仙台につれて帰る。

1932年(昭和7年)仙台に帰郷。本町末無11番地26号に、妻優、長女泉らと住む(26号とは邸内にある尾形

            家持屋の住宅番号)

            4月30日、あき

1933年(昭和8年)8月20日三男黄(こう)生まれる。9月21日宮沢賢治没。10月、母木光(儀府)の依頼に応じ

            て、賢治追悼文と「明滅」を「岩手日報」(10月27日付)に寄稿。

            11月23日、宮沢賢治追悼会に招かれ草野心平、吉田一穂が仙台に立ち寄り、亀之助も二

            人にらに同行、花巻役場で開かれた追悼会に出席。同夜、草野心平、吉田一穂、らと花巻温

            泉に泊まる。12月散文詩「私日私気」を「詩人時代」第三号十ニ号(吉野信夫編集)に発表

1934年(昭和9年)同番地の尾形家の持家二十四号に移る。隣りあわせてかっての「玄土」同人三浦一篤が

            引っ越してきた。三浦一篤、鈴木重夫、亀田平治、渡辺武雄それに父の余十、亀之助ら

            によって蕉舎句会が開かれた。10月小森盛が来訪、亀之助宅に約一ヶ月滞在。

            12月1日次女渓(けい)生まれる。

1935年(昭和10)歴程に散文「庭園生計図案」を発表、同人になる

1936年(昭和11年)四男乗,生れる、秋、父のコネで仙台市役所税務課に臨時雇いとして勤めはじめる

1937(昭和12年)、「歴程」第6号に「宮沢賢治賢治第六十回生誕祝賀会(第ニ夜)」発表

1939年(昭和14)一月草野宅で越年、あき彦と帰仙、四月妻優仙台に戻る七月妻優ふたたび出奔。

            「歴程」第七号に、詩「風邪」発表。

1941年(昭和16)妻優、三度目の家出、この年、持病の喘息再び悪化した上、

痔病.尿路結搾症、腎臓炎に悩まされる。また、生家は莫大な借財でますます窮迫

1942(昭和17年) 9月30日、ニ十四号の家を東北配電に明渡すことになり、支倉町の賄つきの下宿に移った

            その夕方、

            12月2日 国分町(仙台の飲屋街)の路坊にうずくまっているのを発見

12月2日午後六時十分仙台市木町の家で死亡

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