文字通り、朱理の軌跡を振り返りながら、トピックを追っていくページです。




VOL.9  目次

●残酷なままに好きな理由(わけ)




●残酷なままに好きな理由(わけ)



最近、複数の朱理ファンの方から「始めの頃の赤の王の残虐さはちょっと……」「最初に読んだときは、朱理ってやっぱり残酷って印象があったから、そんなに好きでもなかったんです」「最初の頃の朱理は見ないフリしたくなることもあります」といった初期の朱理(というか赤の王)に関するご感想を続けて伺う機会がありました。

そういった感想については、私は特に違和感は持ってませんし、むしろ理解しやすい感覚だとも思っています。では何故この話をしたかと言いますと、これらの感想を聞いていて、ふと考えてしまったんですよ。

あの頃の朱理を否定的にとらえたくなる気持ちは、熱狂的赤の王ファンの私でもよくわかる。……じゃあ、何故私は、それにも関わらず好きだと思えるんだろう? 何故残酷な朱理でも受け止められると思ったんだろう?

……と(笑)。

で、またいつもの考察が悶々と始まったワケなんですね(笑)。今回は、その探究?の結果得た答え(と言えるかどうかわかりませんが)について語ってみようと思います。

朱理の残虐な行為は、確かにファンの私でもフォローのしようがありません。少なくとも客観的に「正しい」とは、私も絶対に言えない。だけど。

私はむしろ朱理が残酷だったからこそ、彼の純粋でまっすぐな――要するに“キレイな部分”――が、善人役のキャラのそれよりも、ずっと引き立って見えたような気がするんです。その鮮烈なコントラストが、“際立った色気”となって、終始私を魅了していたのは確かだと思います。

私は、朱理の純粋さと残酷さは直結してると思ってます。『純粋である』ということの意味を誤解していない限り、それが残酷さとつながりうるものだということは容易にわかりますよね。(だから「純粋さ」と「残酷さ」のどっちが先に強調されるかで、キャラに対する印象もかなり変わってくるのかもしれません)

そして残酷なほどの純粋さというのは、それ自体に危うさを内包しています。他人だけでなく自分も傷つける諸刃の剣のような。色気というのはそもそも、何かと何かの間の「危ういバランス」や「ギャップ」の存在がまず前提にある。私が朱理に感じたのは、張りつめた糸の上で命のやりとりをするような、そんな緊張感の中で危険さと純粋さが同居しているところから醸し出されてくる色気だったのだと思います。

あと、綺麗事を言わない(言えない)人間の真実って、そうでない人間のそれよりも信頼度が高い気がするんです。その意味でも朱理には好感を抱きました。綺麗事を言わないからこそ、その人のキレイな部分は本当にキレイなんだな、って思えるから。

それが他人から見て善か悪かなんてことにはこだわらず、あくまで自分から見た事実・現実・真実を語り、尚且つそれに対する自身のスタンスを終始一貫させて行動している人というのは、(その人のスタンスを理解している限り)いざというとき一番信用できると思うんですよ。正しいか間違っているかより、常にスタンスを一定させていて、且つそれを守ることに命張るほど覚悟をもっている人って、やっぱりものすごく頼りになると思うのです。それがどんなに主観的なものであろうと、朱理は自分が信じた正義に対しては極めて真摯で誠実で命がけの人間だったと思います。おそらくその他大勢の「罪もない一般人的善人キャラ」よりもはるかに。

誤解のないように言っておきますが、善人キャラがキライなワケでは決してないんですよ(苦笑)。むしろ「いい人」や「いい子」は、私は大好きなんです。ただ、「善人」というレッテルを貼られている人たち〜〜とりわけ「何の罪もない」と形容されてしまうような人たち〜〜が、往々にしていざというときの覚悟が足りてないというか、一貫したスタンスを持ち合わせていないというのも、また確かだと思うんですね。

私にとって、物語の中で『人間が人間的であることの面白さと醍醐味』を誰よりも味わわせてくれたのは、残酷さと純粋さ・善と悪・光と影といった、平凡なモラルの中では短絡的にも“相反し対立するもの”と位置づけられている両極を併せ持ち、それらが人間の中で共存することの魅力と――そして何よりも救いを――、自分が自分であることから逃げも隠れもせずに圧倒的なインパクトでさらけ出してくれた朱理なのです。

「助けたいのはおまえだけ」「どうなろうと知ったことか」と悪びれもせず口にする朱理を自分勝手な悪、と片付けてしまえるほど立派な人間がどれだけいるのでしょうか? 彼のこういった考え方は、更紗のようなキャラと並べて際立たされた場合には相対的に「悪」と決めつけられざるを得ません。しかしこういった自分本位の感情は、多かれ少なかれ「罪の無い人として善人扱いされるフツーの人たち」だってもっているものでしょう(実際作品中でも何度も実例を見かけたし)。もし「BASARA」が、何もしないこと――実際は何も悪いことはしていないという思い込み――によってのみ、自分たちの心の闇に立ち向かうことを免れているような人間たちから、朱理が否定されるだけで終わってしまうような物語だったら、この作品が懸命に訴えていたはずのテーマに対する私の不信感は、決定的なものになっていたと思います。

それはちょうど、映画『エデンの東』でジェームス・ディーン演じる主人公が、優しさも情愛ももちながら、それと同時に極めて人間的な悪意も備えていたがために、父や兄から「悪」のレッテルを貼られて生きねばならなかった姿をみたとき、そのジレンマに涙し、彼の優しさが救われることを願わずにいられなかった気持ちに似ています。(映画の内容を知らない人、すみません。でもご覧になられた方には、私の言いたいことがわかってもらえるんじゃないかと思います) これは、善も悪も同じ人間の中に存在しているのに、悪の部分によってのみその全存在を否定されることのやりきれなさを、如実に味わわせてくれた映画でした。

この作品の中で「善」の塊のように位置づけられていた父や兄が、一体どれだけ残酷に主人公の青年の心を傷つけたことか。『BASARA』や『エデンの東』に限らず、物語の中で「善人」扱いされる人間たちが、(彼らが善人であることは否定しないけれど)己の握っている残酷な刃を自覚することもないままに話が終わってしまったとしたら、私はきっと悔しくてたまらないと思います。誰かを「悪」と断罪したとき、それがどこまでいっても自分たちと対立するもの、自分たちの中にはないものと決めつけている姿を見るのは、(どんなときでも、というわけではありませんが)ときにものすごく苦痛を覚えるものです。

例えば自分本位であることが「悪」ならば、そんなものはどこにでも存在していると思います。その存在を否定して、「自分や自分たちだけは違う」と思い込むことからは何も生まれてはこないし、それを乗り越えることもできないでしょう。存在を認めることから始めなければ、そういったものとうまくつきあいながら、良い方向にコントロールしていくといったこともできないんです。

何故なら、どんなに抑圧しようとしても「本心」というのは“最強”だからです。存在を認めるからこそ、どうやってそれと折り合いをつけていけばいいかという結論も導き出せるのではないでしょうか? 人が本心とつき合わずに幸せになるのは、とても難しいと思います。

私は『BASARA』の他の登場人物に対して、朱理のことを“一生懸命やってるから”“かわいそうだから”許してあげて欲しい、認めて欲しい、なんて絶対に思いません。そんな理由で認めてもらいたいと思うことができないんです。「一生懸命」や「かわいそう」なら許せても、自分の信念を命がけで貫くことの価値や厳しさを客観的に評価できないのだとしたら、そんな人たちに朱理のことを理解して欲しいなんて、そもそも思わないし思えない。

私が朱理中心の視点から「BASARA」の他キャラを眺めるというのは、そのキャラが朱理に好意を寄せたか否かなどではなく、「本気と本音で生きそしてぶつかっていくがゆえに誰よりも何よりも人間らしかった…というより“人間そのもの”であるに違いなかった朱理を、その実態を見誤ることなく受け止めるだけの器がそのキャラにあるのかどうか?」を見極めることに他なりません。(だから「受け止める」=「好きになってくれる」とは思ってません、念のため。。)

朱理は、多くの人たちにとって「悪人」「罪人」であると同時に、「そこら中に遍在する人間の悪意〜〜この場合は、時代や社会制度を背景に噴出した人間の負の部分、というニュアンスでしょうか〜〜を具体的な1つの形に集約・投影した姿」でもありました。それをただ単に「あくまでも自分とは違う存在(もの)」として闇雲に否定することしかできない人は、自身の中にある心の闇からも目を背ける人のように、私には思えるのです。だって朱理は、いい意味でも悪い意味でも、ものすごく“人間的”だったのですから。(この点について河合隼雄氏の著作の中で非常に的確な表現が紹介されているのですが、それに関する言及は朱理聖誕祭の『朱色の研究』・第2弾に譲りたいと思いますm(_ _)m)

再度誤解を避けるために言うと、私は基本的には、現実世界のあり方を創作作品の世界の中におしつけることを好みません。だから、

「善人に見える人間の心の中にも悪が存在するのが現実の世界なんだから、それを描写しないのはおかしい」

という意見を『BASARA』に押しつけたいと思っているわけでは、決してないんです。この手のリアリズムは、作者によるテーマ・表現形態や表現方法の選択次第では、作品の中で意図的に(但し一貫性をもって)排除されてもよいものだと思っています。実際に「BASARA」を読むときも、善人サイドだけを傍観する分には、「善人は善人」と割り切って眺めた方がわかりやすいし、重箱の隅をつついて矛盾を引っ張り出すことによって、本来の主題からズレて解釈を進めていくような、ある意味“不毛な”マネをしなくてすむ、とすら考えています。

しかしそれにも関わらず、今回このような主張をせずにいられなかった理由は、この作品の中で、朱理や浅葱のような善とも悪とも決めつけられなかった存在が、あまりにも生き生きとリアルに描写されていたからなのです。その鮮やかな存在感ゆえに、「正は正、負(ふ)は負」として短絡的に片付けてしまうような単純な見方を、この作品自体が拒む結果となっているのではないか、と思わずにはいられなかったんですね。

朱理に対する評価というのは、朱理の中に“極めて人間的な、それ故に生きていく上で不可欠な、前向きで力強い普遍的な何か”を見出せたか否かによって、全然違ったものになっているような気がします。

朱理の救いは、最初から残酷さと純粋さが連続していた彼自身の中にある。たとえ他者に認めてもらえなくてもその事実を受け容れることができるくらい、彼は自分自身を全うしていたと思います。

だからこそ、自分の本心を善悪で断罪することなく受け止め続けて生きた朱理が、彼が本気で愛した人たちから同じくらい愛されたということは、私にとって最高の癒しであり、そして救いでもあったのでした。





※あかね注:文中ではさらっと語ってしまいましたが、自分が認めていなかった本心と正面から向き合うのが、簡単なことではないというのはわかっています。また人によっては、自我の崩壊の危機にもなりかねない、まさに“命がけ”となる可能性もあるため、例えば心理療法の中では必ずしも「正面から」対峙しなくても方法はある、とされていることも、知識としては知ってますです。念のため〜(^_^;)。



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