原稿:あかりの家 職員
編集:施設長 三原 憲二
あかりの家は、“自閉症者施設”として開設から23年目を迎えた。その間、強度行動障害を伴う人たちの短期入所(われわれはそれを「リハビリ的短期入所」と呼んでいる)を積極的に受け入れてきた。また、高砂と姫路における親子体操教室の積み重ね、障害児(者)地域療育等支援事業での自閉症者の療育・相談支援、ひょうご発達障害者支援センタークローバーの活動など、開設(1986年)当初に比べて自閉症の人たちとの関わりは広く深く展開してきた。そして、8年前からスーパーバイザーを迎えて「療育研修」が始まった。
そういった中で、積み上げてきた財産を、つなぎ、育てていく必要性を感じ始め、《実践の中から得たエッセンスを言葉にする》ことを始めた。
これらのエッセンスを「あかりの家自閉症療育のキーワード集」とし、 “自閉症”と“自前”と“療育的なことば”にこだわって編集し、『第9回あかりの家事例研究会』研究誌(‘03.2)に初めて発表した。それ以降、年1度の事例研究会の研究誌に加除・修正したものを載せ、現在6版目となっている。
以下、第10回、第11回、第12回、第13回、第14回の「あかりの家 事例研究会研究誌」から、「あかりだより」(施設だより)用に抜粋したものを転載した。
「Aさん」「B君」等の名前が繰り返されるが、別人である。 <S.V>とあるのは、スーパーバイザーからの助言などからの引用である。
引き続いて、加除と修正を加えながら、このキーワード集を積み上げていこうと思う。
(2008.8)
(「第10回 あかりの家事例研究会」(’04年2月)研究誌より抜粋)
(「あかりだよりNo.14 」(’04.8) より転載 )
自閉症療育の基本である。空間や手順や視覚化やスケジュール等の「わかりやすさ」はもとより、一貫性、振舞い方を教えてくれる人、状況を整理してくれる人、ズレを見抜いて修復してくれる人等、「わかりやすい」人と人の関係まで、様々である。
自転車で職場まで通勤していたAさんだが、いつもスピードを出しすぎて危険であった(推測30km/h)。一緒に付き添ったりしたが、その時は良くてもいざ1人になると結局は元のままのことが続いた。「1人でも自律的にスピードを守って走行できる方法はないか?」と悩んでいた時、スピードメーターの存在を知り、早速取り付けてみた。「スピードは19km/hまでは○。20km/h以上は×」とルールを決め、実際の走行データを後でチェックした。それからは、実に見事にスピードを守って通勤した。
A君の通所拒否は長年続いていた。たまに通所しても、玄関をスムーズにくぐれない。そういった相談に訪問支援をした。
作業中の頻回なトイレ通いとお茶のみによる悪循環、途切れがちな作業がトイレ通いを誘発する。そういった、これまでの状況を整理して、ある日、次のことを集中的に取り組むことにした。
(1)うまく援助してあげられなかったことを本人に謝り、「これからA君がうまくいけるよう、きちんと応援するからね」と、これから援助する職員の姿勢を伝える
(2)大集団の中で宙ぶらりんの状態ではなく小集団(3名)の作業室に場所変更
(3)指示待ちではなく自立的に動けるための作業手順の構造化。(手がかりづくり)
(4)「お茶は休憩の時飲みます」等、約束事を文字に書いて掲示。それを場面毎に確認する。
そういった取り組みの結果、うまくいける場面が増えてくると通所拒否はなくなる。玄関もスムーズにくぐれるようになった。
Aさんは眠前薬を服用していたが、ある時から毎日その薬を噛んで吐き出し、手になすりつける行為が続くようになった。そこで服用する場所を、吐き出し続けているリビングではなく、全く違った環境の医務室に変え、同時に初回はうまく飲めるよう(絶対に失敗しないよう)対応した。場所を変えた初回の対応がうまくいき、以降もそこでは噛んで吐き出すことはなくなった。
Eさんのこだわりは相当に激しく苦しい。集中的な取り組みで、あかりの家での状態やこだわりが改善し、表情も和らぎ始めた頃、帰省時の家庭では、全く別の大きな問題が出始めた。そして、今までに増して家族を困らせ不安が募った。しかし、職員が家に応援に行き特に問題とされた状態が改善するにつれ、家族の不安は消え、前向きの気持ちに変化していった。
【S.V 】どんな方法をとる場合でも、我々プロは、親と意見が同じところから利用者との付き合いを始めなければならない。いくらいい方法だと思っても、親が反対だと絶対上手くいかない。薬でも、親がダメだと思ったら、どんな薬を飲ませても悪いことしか起こらない。お母さんの状態が悪くなると、連動して彼らの状態も悪くなる訳だから。
避けなければならないことは、帰省後の状態の崩れを親のせいにしてしまうことです。我々が崩れを親のせいにし、我々と親とがバラバラだと間に挟まった自閉症の人の状態は必ず悪くなり、その状態を三者が諦めて努力しなくなってしまうからです。
親は我々以上に苦労しています。それを超える苦労をし、結果を出さない限り、親たちはプロを信用しません。小さい時からプロは役に立たず、混乱させられるようなことばかり言われてきました。親に信頼してもらえば、連携することが可能なはずです。むろん「難しい」です。尋常な苦労では、今のままです。
ショート利用のAさん、食後の食器下洗いの際、一寸した興奮を2回連続して起こす。「家で食器洗いをしてないからだろう」と考えた。ところが、お家に聞くと「家でもしている。ただ、ゴム手袋で洗っている」とのことであった。納得・反省!
ちなみに、しっかり説明した3回目から興奮することなく下洗いをするようになる。
Cくんは、芳香剤・文具・お菓子等の買い物のこだわりが強く、毎日5千円から多い時で3万円も買込む。要求が叶わないと大暴れし、家族だけでは対応できず警察の協力を得ることもあった。そういった経過の後、あかりの家の短期入所利用に至る。
利用初日、持ち上がっている問題に対してどう思っているのか、尋ねてみた。
「お母さんを叩くのは?」→「ペケ」、
「暴れてお巡りさんが家に来るのは?」→「ペケ」
「毎日、芳香剤を5千円も買うのは?」→「(飛びつくようにニヤッとして)マル!」
「ダメだよ。芳香剤5千円はペケ。そんなこと言ってると本当にお家にいれなくなっちゃうよ。職員も頑張るから、Cくんも頑張ろう」という会話であった。
どちらかというと安定的な1ヶ月の短期入所を終えて、両親が迎えに来られた。その場に職員が立会い、母親とCくんが約束した。
(母親)「芳香剤は?」→(Cくん)「買いません」、2(母親)「叩くのは?」→(Cくん)「ペケ」。そういった約束や帰宅後の日課表等を紙に書き、家に掲示してもらった。
帰宅後6ヶ月間、買わない日々が続いている。
(「第11回 あかりの家事例研究会」(’05年2月)研究誌より抜粋)
(「あかりだよりNo.15 」(’05.8) より転載 )
少しでも自立的な生活を応援しようと、Bさんの全自動での洗濯に取り組んだ。最初の困難さはスイッチ類の多さであった。そこで不必要なスイッチはテープを貼って隠した。また、洗濯終了合図のために、首にタイマーをぶら下げた。
1年程の取り組みで、(1)夕食後、(2)所定の場所から、(3)洗剤カップ1杯を取り出し、(4)2つのスイッチを順に押し、(5)リビング壁にある50分にセット済みのタイマーをONにし、(6)そのタイマー音で洗濯物を取りに行き、(7)ベランダに干すことができるようになった。テープ貼りは不要になり、声がけもしていない。
「ダメ」の禁止だけでは何をしていいか分からない。『具体的な方法』や『ふるまい方』を提示して、次の行動の『手がかり』を教えてあげる必要がある。
職員にあれこれ質問を繰り返し、対応次第ではイライラを誘発させガラスを割ることもあったAさん。特定支援員との二者関係が強く、事務所までも捜しに来る。当初「今はダメ」と答えていたが、強い二者関係を利用して「すぐ行くから、リビングで待っていて下さい」と伝え方を変えると、リビングに行って待つことができるようになる。最近は「わかりましたか?」と聞き直し、「わかりました」を引き出し、行動の前に言葉のやりとりをはさんでいる。聞き分けが随分良くなった。
「生理が始まってねー」とお母さんが話された瞬間、とても聞いていた感じはないし、そんなことで怒りだす印象もないGさんが、突然自傷を始めた。4年生で始まった生理にお母さんは戸惑い、ついつい否定的な話し掛けを私にしてきた時のことである。
10年程前のことだが、「エッ、しっかり聞いているんだ!」という、恥じながらの意外性が強烈な印象として忘れられない。やや自分勝手な聞き方があるにしても、そ知らぬ顔でも結構伝わっている。似たような経験は少なくない。
Bさんはこだわりが強く、時には危険を伴うこともあった。職員より先に走ってしまうと、真っ先にこだわりが出てしまうため、日常的に行動のスピードを落としていく必要があった。また、強いこだわりを先行させると、関係が成り立たなくなった。こだわりが高じた時の表情は苦渋に満ちている。
あれこれ工夫の結果、移動の際、手を後ろに組んで、職員の後ろから歩くといった型を考えついた。
当初、職員を追い越さないというルールは全く伝わらなかった。組んでいる手もすぐに離した。しかし、走り出すこともなくなり、次第に『一緒に歩いている』実感が出始めた。
Bさんも、こだわりから開放されて、リラックスできている様子が表情からはっきり伺える。多動もかなり影を潜め、行動もまとまってきつつある。今では、手を後ろに組むこともない。
【S.V 】当初いいアイデアでうまくいったとしも、関係がとれるようになると、普通の歩き方に切り替えていかないと、元に戻ることを恐れてパターン化してしまう。怖いのは、若い職員が後ろ手に組むことが、「プロの意味ある仕事」という風に、形式的に入ること。手を後ろに組むことはいいことだって入ってしまうと、気がつけば、あかりの人は皆手を後ろに組んで歩いているということになる。
定期的に短期入所を利用するDさん。食事中、食べ物を投げたり食器をひっくり返すため、嫌がられながらも職員が手を添えてゆっくり食べる応援をする。そのうち手を添えなくても横に居るだけで何とか食べれるようになった頃、苦手な野菜を目の前にして「手を持っといて、手を持っといて」と突然要求してきて驚くやら嬉しいやら。自分の動きや感情を上手くコントロールできない場面で、「人」を頼りにしてきたのだ。
作業中、Fさんがスーと自分の持ち場を離れ、こだわっているカレンダーを書こうとした。そこで、「Fさん、作業の場所に戻って、作業を続けて下さいね」と声を掛けた。Fさんはすぐ持ち場に戻った。
そして作業終了後、Fさんが爽快な表情で「我慢できた~。良かった~。えらかった」と嬉しそうに伝えてきてくれた。私の声掛けで持ち場に戻って作業を再開したFさんは、その後40分、私の存在を意識しつつ、カレンダーを書かない努力を続けていたのだった。
「Fさん、ずっと頑張っていたのね。我慢していたのね。えらかったね。我慢できて良かったね。嬉しかったね。」と、私の喜びも伝えた。
ケーブル解体作業班のKさん。中央に山積みした「みんな用」のケーブルを前に、突っ立ったままの状態が目立った。職員の声がけも、つい「頑張れよ!」といった“怠け者”への声がけとなる。
色々考えていく過程で、山積みの中から10本程度を選んでKさんの作業台に置いてみた。するとKさんは“怠け者”どころか誰よりも能率良く、一気に仕上げてみせた。作業班のエ-スになった。
実は、“怠け者”ではなく「分かりにくさ」であった。そのポイントは、(1)「山積み」ではなく「小分け」であり、(2)中央に山積みした「みんな用」ではなく、自分の作業台に置かれた「自分用」であった。
「分かりにくさ」や「見通しづらさ」のところを応援してあげると、“怠け者”から「エース」に生まれ変わったのである。となると、“怠け者”は、見抜けなかった支援員側となる。ゴメン。
【S.V 】混乱しているのは本人なんだけど、職員が混乱させていると考えて付き合った方が、先が見えてくることが多いように思う。
Aさんは、職員の異動時に調子を崩す傾向が強い。新任職員が勤務で重なると、泣く、向かっていく、尿失禁が出る。彼女の日中の動きをきっちり支えられない時、そのまま夜、寝られないということにつながっていく。
結局は、避けられないその“被害”を最小限にとどめながら、先輩職員が“黒子”として新任職員をどう支え、どう成長を応援できるかにかかってくる。
【S.V 】ぼくが一番気になっていることの一つが、担任や担当の変更、部屋や作業班の移動等に関し、彼ら一人ひとりに(ちょうど、目が悪い人に眼鏡が必要なように、自閉症の人には眼鏡に代わる)眼鏡人間が確かに保障されているか否か、そういう観点を持っているか、強く意識して付き合っているか、ということである。
彼らにとって、外や内からの刺激をミニマムにし、普通に動ける応援をキチンとできる、「存在感」ある人が必要である。
(「第12回 あかりの家事例研究会」(’06年2月)研究誌より抜粋)
(「あかりだよりNo.16 」(’06.8) より転載 )
Wさんは、簡単な漢字の読み書きは出来るが、発語できず自ら職員に関ることが苦手である。例えば自分専用のシャンプーが無くなっても、それを支援員に知らせることをしない。
そこで生活に必要な最低限の物を色つきの画用紙に文字を書いた「要求カード」を作ってみた。それを支援員に提示するコミュニケーションである。カード作成直後から確実に意思表示でき、今ではカードを作成していない要求内容でも支援員に近寄って来て、身振りを交えながら自分の意思を訴えようとするようになった。
Dさんは、家庭での粗暴行為がエスカレートして短期入所となった。受入れに際し、いくつかの「約束事項」を作った。
問題の一つに、車中で天井をたたいて大暴れをすることがあった。そこで、車の中では手を膝に置き、顎をひいて座る等、車内で “大暴れしなくてすむ型”を徹底的に教えた。その結果、叩く行為はなくなった。ところが代わりに天井を撫でることが始まった。
エスカレートしそうなため「天井は触りません」という約束事項を加えた。そんなある日、母親が車で迎えに来た時の事、送り出しの支援員が「天井を触って帰っておいでね」と声掛けした。すると「ハイ」と返事があり、即座に「ヘッ?触るの?」と返した。そうして「触りません」の言葉を引き出した。それ以降、同様の声掛けにも意識して応えられるようになった。
母親との関係作りも応援した。送ってきた母親と、「夜7時に迎えに来てください」「分かりました」、「お願いします」「はい」、「さようなら」「さようなら」、とやりとりして別れる。
事務所に入る際も「失礼します」出る際「失礼しました」とする。そういった状況にあった言葉を発して、トーンを落とし、語尾を伸ばさず一言ひとことを正確に発声する練習もした。
ちなみに、Dさんにそこまでのやりとりができる印象は無かった。自閉症ということで“踏み込んだ言葉でのやりとりは混乱させるだけ”という考えは、ケースによっては、あるいは応援の仕方によっては、「それは違う」ということである。
(反射的やオウム返し的な言動ではなく)「言葉をはさんで行動を起こす」、「行動の前に状況にあった言葉を発する」「ことばのやり取りをはさんで関係を作る」「脳みそ経由で行動を起こす」などとも言っている。
マナーの、勝手な押し付けでは決してない。
A君は職場実習に通っている。居室は個室であったが、暖房を30度という勝手な型を作ってしまい、結果風邪をひいてしまった。そこで、意図的に介入を始めた。
彼はその介入を嫌がり、イライラッと迫ってきて首肩付近に掴みかかってきた。しかし頑として構え「給料もらっている人間がそんな馬鹿なことしてどうするんだ」と対応した。そのうち少しずつ力をゆるめ始め、別の日に同様の注意をした時は、手を伸ばすまいと、みるからに必死で我慢した。
そうしているうち、我慢の程度も軽くなって、「さあイライラして!」とのからかいの“指示”も受け止めるようになってきた。
Yさんはこだわりが強い。今年度より外勤のケーブル作業になり、当初は新しい作業の緊張感が良いものに見えた。しかし慣れてくると、同じ動きを繰り返し、力んだ状態を持続させている作業が、状態の崩れに繋がっているように感じられた。また、どんどん動きが早くなって、感覚で作業しているなどが観察された。そういった流れを変えないと駄目だと感じ、休憩を挟み、違う内容の作業を入れて、時々動きを修正するようにした。一定の成果があった。
単一的な動きが多い作業の場合、休憩のとり方や、単調さを崩す動きの作り方など、常に意識が必要であると感じた。
行動障害の激しい人の部屋は、例えば、カーテンが無かったりタンスが壊れたままであったりする。自閉症者施設の職員はそのような光景を見慣れてきた。だから、行動障害の改善を生活環境や生活水準を上げることに結び付けていく、療育の成果を生活に返していく視点は非常に大切となる。
数年前、小グループ旅行(レインボーデー)は車であったが、それを公共交通機関利用に切り替えていった。今年度は、問題行動で外作業が困難であった人を含め、半数近くの17名が外勤作業に参加した。また、玄関の日中の施錠開放も実現できた。今では、施錠してあると心に引っかかる。
外来療育のW君は、母親を見た瞬間に髪の毛を掴みに行く。父親に対する攻撃もあるが、ある程度抑制が効く。そこで父親を軸にして、母親との関係改善を図ることを考えた。
まず、あかりの家で作業課題を利用して、父親との関係を強化していった。次に、母親を見ても掴みかからないために、父親と私が付き添う形で、母親とW君を近づける段階に進んだ。母親が声かけなどして関係や空間的な距離を少しずつ縮めていった。最初は距離が縮まると髪の毛に手が伸びていたが、手を添えてW君の手が伸びないような応援をしていった。そのようにして、段々手が伸びることが減少していき、母親も不安を抱えながらも少しずつ自信がついていった。
次は、家庭(私不在)における関係作りであるが、これまでの取り組みによって父親の存在で母親を見ても掴みかかることが次第に減っていた。そして仕上げは、W君と母親の二人だけの場面になる。失敗をしないように、W君の状態が良い時を選び“掴まなくて済んだ”という経験を積み重ねていくことの大切さを話した。そういった経験を積み重ねていくことで、母親も自信がつき、またW君も安心できることで、今は何とか一緒に過ごせるようになった。
歩いて外勤するCさん。こだわりが強く、マンホールや白線など色んなものに囚われ足も進みづらい。そんな或る日、いつもと違う動きを感じた。鎮守様の祠前で首を微かに傾け口をパクパクさせたのである。新しいこだわりと思い、「村の鎮守様よ。気にしなくていいのよ」と話した。以後、鎮守様を通過する手前で「真っ直ぐ歩くのよ」と伝えた。Cさんは少し困った顔で、私を見ながら首をすくめて動きを止めて歩いた。
ある日、声を掛けずに様子を見ることにした。Cさんは困った顔で私を見て、鎮守様の祠に首を向けて薄く目を閉じ、頬を膨らませて口をモゴモゴさせた。その姿を見て「あっ!Cさんは鎮守様にお祈りをしてるんだ。お祈りの姿だったんだ!」と咄嗟に感じた。「気にしなくていい」と、鎮守様イコール道中を邪魔するものという考えに囚われていた自分が恥ずかしかった。いつか、どこかにお参りに行こうか。
(「第13回 あかりの家事例研究会」(’07年2月)研究誌より抜粋)
(「あかりだよりNo.17 」(’07.8) より転載 )
頭を下げて固まり、顔が上がっても目はギュッと閉じ、体に力を入れた状態が続くAさん。ツバ吐きや大声出しにもなる。そこからの脱出に「頭上げて」「目を開けて」と声をかけ続ける。しかし、私の声かけでは伝わらない。応援の力がない声かけになって、余計にAさんの状態を固着させてしまう。
ふと、Aさんには役割がないことに気付き、歯磨きコップを乾燥機に入れる役割を考えた。すると、私の声かけにも、目をしっかり開けてスッと動くことが増え、変に固まった状態でコップを移すことが減った。
直接人とのやり取りではなく、物を関わりの媒介にしていくことの意味を再確認した。直接関わるのは物であって、それを自分で見て、判断して、動くので、下手な声かけよりは、不自然な力を入れなくてすむのだろうか。
家庭では一人で寝ることがなかったSさん、個室化推進に伴い一人部屋になる。個室化工事中 にも部屋移動が2度あったこともあり、「お部屋交換」「お布団持っておいで」という言葉が頻繁に出るようになる。支援員と同じ空間で寝ていた頃にはほとんどなかったツバ飛ばしの跡が、居室の壁一面につくようになった。
SVに相談すると、「彼女の意見を聞いたのか否か。彼女の考えをアレコレ想像してみたか否か。“個室となり”という表現は自然現象のようだ。そうではない、“個室にした”のだ。」と返ってきた。そうだった。支援員は「大人なんだから一人で寝なさい」と一方的に押し付けていた。夜間目覚めて支援員室に来ても、「寝なさい」と追い返したりもした。今から考えると、Sさんの気持ちに全く寄り添っていなかった。
今は、就寝時に足などをマッサージする。しかしまだ、布団に入ると指や口の多動の誘惑に負けて、入眠までは、直接・間接、Sさんの中に支援員の存在が必要とされる。状態によっては支援員と同じ部屋で寝るなどの応援も必要となる。
V君にはフラッシュバックのような“勝手な”パニックがある。突然夜「お母さん、○○行かへん」と大声で叫び始める。ただ、何かのきっかけで起こるのだからと、あきらめていた。
そのV君の担当になって色々取り組み出すとパニックが増え始めた。ゆっくりペースのV君を追い立て過ぎたのかと反省した。しかしその内、昔のことを言っているけど、パニックの原因は今にあるのではないかと感じ始めた。
今までパニックの時には、「そんなん叫んでも伝わらんで。パニック終わり!」と、制止していた。それが、今に原因があるような気がしてから「V君、しゃべれるんやから、何があったんか、ゆっくり話してみ。」と、堅く握った指を開くように握ってあげて、時間をかけてパニックに付き合った。
そしてだんだん分かってきた。洗濯した靴下が片方なくなったとか、寒いから下着を長袖にするように職員に言われたとか、そんなことに引っかかっているらしい。当たっているかどうか密かにつけたパニック記録で見極めた。「あぁ、あのやりとりで解決したのか、じゃぁ原因はシャツだったのか」と。
そして、ある時何か腑に落ちないことがあったのか、パニック寸前の表情でウロウロしていた。その時たった一回、それも聞き逃してしまいそうな独り言で「シャツ破った」とつぶやいた。そのようなことを経て、だんだんパニックは減り、あってもすぐに解決できるようになった。
【S・V】 この中で一番重要なのは「付き合ってパニック」のところ。一見悪くなるから、そんな余計な介入はしない方がいいよという議論が必ず起きる。このパニックを前にした時、引くか、次に踏み出すかだ。より本当の落ち着きは、次に乗り越えたところにある。
もう一つはフラッシュバック。フラッシュバックと捉えると昔の傷ついた話になって、それなら温かく見守ってあげましょうとなる。昔のことだから今の私(支援員)の問題ではないということになって、手を打つ必要がなくなる。しかし、この事例では、フラッシュバックと言いながら現在に問題があると思い始めた。何故か?支援員の性格なのか人生観なのか自閉症観なのか、もう少しはっきりさせた方がいい。
そして、現在に原因があると思える人と、思えない人がいるという事もポイント。その差は何だろうか。
行動障害の息子にアザを作られ続けながら、それでも母親は頑張っていた。それをお母さんの友達が見るに見かねて、コーディネーターに連絡を入れてきた。そのようなお母さんは、決まってこう語り出す。「こうなったのは私のせいです・・・」と。その言葉の一つひとつに、孤独な子育てと家族などからの批判に、次第に心を閉ざした母親の苦悩が見える。
相談支援で大切にしていることは、自信をなくしたお母さんの、今日からの再スタートの手がかりを探して、しばらく私と共に歩んで行くことである。 「お母さんは悪くない!」この言葉から、心の葛藤を解きほぐしたK君のお母さんは、今日までのつらさを涙で流して新たなスタートを踏み出された。
そしてK君を“気持ちと体を一歩前に出して”受け止めながら、今では他のお母さんの橋渡し役として活動されている。
定期的にショート利用して2年になるAさん。ある時、家庭で状態が崩れ、緊急利用となった。その初日の、朝のランニングでパニックを起こした。原因が分からないまま、その場は収めて、作業棟に行った。しかし表情が浮かない、作業に集中出来ない。そのうち体を小刻みに震わせた。ハッと感じて、トイレ誘導してみると大量の排尿があった。その後はすっきりした表情で、作業も順調にこなせた。
2年の付き合いで、トイレの要求は身振りで示し、適度に行くことが頭にあった。ところが、今回は調子を崩しての利用であった。普段なら簡単に出来る意思表示も、何らかの引っかかりがあって上手く出来ずにいたのだ。
状態を崩して受け入れる場合には、十分過ぎる程の手助けが必要だと感じた。そういった場合は、細かな変化をキャッチする感度とそれに沿った対応の出し入れが大切であることを学ばせてもらった。
うそをつかない。このことは、私と息子との関わりの基本である。「これから予防注射に行きます」と、はっきり伝える。子どもだましもしない。不愉快なことでも話した。うそをつくと、それがうそだと分かった瞬間、信頼関係を失う。それが一番こわい。私にとっても言い訳しなくてもいいから楽だった。強く促すこともあるが、彼のことについては勝手には決めない。彼の言うこともしっかり聞く。
(「第14回 あかりの家事例研究会」(’08年2月)研究誌より抜粋)
(「あかりだよりNo.18」(’08.8) より転載 )
A君は高3。母親に対して喉元をつかみにいく行為が続き、ショート利用に至る。今日まで一番身近で支えてくれた母親を攻撃してしまうつらさである。
そこで家庭から一旦切り離さざるを得なかった訳だが、週末、母親が車で迎えに来ても帰ろうとしなかった。お母さんは、寂しさとホッとした気持ちが入り混じる複雑な気持ちで帰られた。
母親を見た瞬間動けなかったのかもしれない、見捨てられ感が急膨張したのかもしれない。しかし、われわれはそこに、“家に帰ればまた攻撃してしまう(あかりの家にいればしなくてすむ。)”といった思いを一番に想定した。
「嫌いな刺激やものや場所について」11人のお母さんに聞いた。①「叱られる時の強い口調」(73%)②「人が叱られる声」、「人の泣き声」(各55%)④「騒々しい集団の声」(45%) ⑤「騒々しい音」(36%)と、声や音に関するものが上位を占め、⑥に「身体接触」(27%)⑦「ピストルの音」「暗いところ」(各18%)と続いた。
B君は状態が崩れてくると、衝動的に皿を床に叩きつけ、割ってしまうことがある。中でもZ君のあげる大きな声・地団駄を踏む足音には過敏に反応して、瞬時にしてそういう行動が出てしまう。
Aさんは、状態が悪いと多動になる。すぐ手があがり、自分の身体をコントロールできなくなる。そこで自分の身体を少しでも意識してもらうために、肘掛椅子の手を乗せる辺りに半分に切ったテニスボールをテープで留めた。肘掛けに肘を置き、ボールを掴ませるようにしてみた。椅子に深く座ることもした。その工夫はある程度成功し、自分の手をコントロールしている様子がはっきり伺えた。多動的な手の動きは減少した。
【S・V】彼らの動きは2種類のモードで考えると解りやすい。①自分の身体が自分の身体に所属している時と、②自分の動きが自分の所有外になっている時である。後者は、反射的で、「先行刺激に支配」されていると言える。本人の人格とは無関係に動いてしまう脱コントロールモードの状態とも言える。このモードの切り替えをうまくしてあげる必要がある。
Aさんの食事はとにかく早い。5分で終了してしまう。観察すると、身体に力が入って、かなり前傾姿勢になっている。
そこで、背筋は軽く伸ばし、椅子をひくなどの姿勢を整えた。そこから、職員主導で(最初は職員が食べさせる → ゆっくりした動き、ペースを意識してもらう)食事をしてもらうことで、以前のようなバタバタした食べ方から、大分まとまった形ができるようになった。
日常生活場面全体でも、「ゆっくり」を意識して行動してもらい、力みも減りつつある。力み無く、落ち着いて過ごせるための応援である。
ショート利用のBさんが食事中突然怒り出した。原因をあれこれ思い巡らせるが、分からない。ふと周りを見た時、斜め前の人の頬にご飯粒がついていた。「ああこれだ」とわかり、ご飯粒を取り除きながら「Aさん、この人の頬にご飯粒が付いていることで怒ったのね」と話しかけると、スーと怒りが収まった。
【S・V】上手くしゃべれない彼らが何かをした時、その意味は一体何なのか、それへの「感度」は重要。 「感度」はプロとしての力量の必要条件。「何やってんだ、困るよ!」じゃあダメ。その感度が低い職員は今から辞めて欲しい。あるいは色んな仮説を持って、何日か経つうちに「あっ、あれは、そーだったんだ。きっと!」という風な考え方、感じ方ができる人ではないと出来ないんです、この仕事は。常に、この感覚は磨いておいて欲しい。
家では一人部屋で深夜まで独語があり、家族が寝静まってから起き出して食べ物を食べる。定期宿泊利用が始まった。就寝時、独語が出るが声掛けで止まり、比較的短時間で寝付けた。しかし、真夜中に目覚め独語が出始める。そこで、本人の布団に入って横に寝ることにした。独語を止めるより、布団に入って直接示してあげる方が分かりやすいと考えたからだ。そのことを拒否しないことも分かっていた。
闇の中、黙って横になる私。こちらの行動にびっくりした様子で黙って身体を硬くしているAさん。30分程して、背を向けていたAさんが、そっと片手を動かして上向きで寝ている私に手を伸ばしてきた。私の手を探している風だった。そしてそっと支援員の手を繋ぐ。繋いだ手の感触から身体の力は抜けていることが分かる。闇の中、沈黙が続く。そうしてAさんは寝息を立て始めた。
家庭では独語しながら本を見て眠らない。本を散乱させたまま午前3時頃浅く眠るとのこと。
初めての宿泊ショート。消灯後側に付き添い「今から寝る時間よ。寝る時間はお喋りしません」と伝えていく。しばらくは黙っているが独語がすぐ出る。再度「今は寝る時間よ。お喋りしません」と伝える。独語が又出る。間髪を入れず、「いつまで喋っているの!」と気迫で一喝した。日中の付き合いから、次に独語が出た時は一喝する方が伝わりやすいと考えたからだ。シンとなった次の瞬間、Bさんはやにわに起き上がり、支援員の方を向いてベッドに正座し「申し訳ございませんでした」と、両手をついて深々と頭を下げた。内心笑いながら「分かったら宜しい。寝なさい」と真面目に答えた。Bさんは「はい」と真面目に返事し、きちんと布団を掛け直し仰向けになった。すぐに寝息をたて、起床まで熟睡する。
便秘傾向で排便時間も定まっていないNさん。運動も考えたが、日課にすぐ組み込みやすい、起床後のコップ1杯の水と朝食後の定時排便から取り組みを始めた。その結果、2~3日置きに硬便が出始めた。次に、コップ2杯にしてみた。すると固くて少量の便が、ほぼ毎日見られるようになった。水と定時排便だけで便秘傾向が解消できたのである。これだけで効果があった嬉しさがある。反面、これだけのこともできていなかった反省も残った。
新しく「さをり織り班」に加わったDさん。徐々に作業が自発的に出来るようになるが、4つに仕切った箱に入れた4色の横糸を順番に取り出せない。そこで、タオルストッカーのように上から4色分入れ、下の口から1つずつ取り出すという流れを作った。並列に置いていた時はどこの糸を取るのか分からなかったが、上から入れて下から出すという補助具を工夫することで、一人で作業ができるようになった。
(「第15回 あかりの家事例研究会」(’08年2月)研究誌より抜粋)
(「あかりだよりNo.19(’09.8) より転載 )
Gさんは「入浴前にいつものタオルがない」とか「買い物に行ったらいつものカップラーメンがない」とか“ちょっとしたこと”でパニックを起こす。本当に“ちょっとしたこと”だから「ごめん、無かったわ!」の後手対応となる。“そんなことで怒るなよ”ともなる。そういった場面に最近また出くわし、考えさせられた。 僕たちにとっては“ちょっとしたこと”だけど、彼にとっては“ちょっとどころではない”大変なことだという、自閉症理解の原点である、彼の困り具合に立つところから、彼の支援が始まる。
週末帰宅時に、母親に向かって、次の帰省確認が止まらなくなったDさん。母親は、まだ家に居たいのだろうと帰園の日を1日延ばす。それが増えていって、あかりの家でも、帰省にからんだいら立ちが目立ち始めた。 もう1日家に居させてやろうとする優しさが、Dさんを混乱させたようだ。そうして家での日数が更に延びて、自宅の過ごし方の問題が強まった。そのことを母親とDさんに説明し、帰省は1泊2日で固定して、そのリズムは変えないよう頼んだ。 その固定が良かった。自宅での生活リズムができて、確認を減少させ、あかりの家にいても、帰省の見通しが立ちやすくなった。そして帰省に関するトラブルは激減した。
外出すると食事がほとんどとれないTさん。そのTさんと小グループ日帰り旅行で外食をすることになった。 外出でも父親とであれば食べられるという情報を得て、何としても成功させたいと考えた。興味のある文字を利用した二人の関係作りから始めたが、初回は5分ももたなかった。しかし、一月後には30分に延びた。できた時は大げさに褒めて喜びを共有し二人で過ごす経験を重ねた。また、新任としての4月には肩を触ると叩き落とされていたが、2か月程すると私の肩を叩いて意思表示ができる関係にまでなった。
関係作りの次は環境作りである。Tさんと二人で外出し、あかりの家にはない苦手な刺激や得意なものの把握に努めた。その結果、外食場所の条件として、他人がいない、バックミュージックのない静かな店内、暑さを避けるために室温調整ができる個室、好きな和食、油臭のない店などが浮かび上がってきた。条件の揃った店を何件も探し、やっと見つけた。そして下見をして目と耳と舌で確認した。
そして当日、Tさんの前に運ばれたのは多量の和食コース料理で、釜飯だけで茶碗3杯もあった。しかし、Tさんは手を止めず全ての料理を食べた。 食後、共に喜んでいると、それまでジェスチャーで喜びを表現していたTさんが、突然曇りガラスに字を書いた。よく見ると「ありがとう」と2回書いてある。驚きと嬉しさから涙がこみ上げ、すぐにその字は見えなくなった。こちらこそ「ありがとう」。
こだわりが多くて強くて身動きがとれなくなったAさん。必然的に家族を巻き込む。暴れて挙句の果てに母親と妹を家から追い出して、父親との二人住まい。通所施設は一人部屋を用意するが、段々通えなくなって布団にこもる。 熱い汁物は食べられない、湯船に入れない。チクチクする散髪屋に行けない。人のクシャミや咳に反応する。周囲の会話から「ね」の入った言葉を聞くと「ねねねね・・・・」とわめきたて、トンネルの「ネ」の字を見てトンネル前でパニックを起こす。周りの家に明かりがともり始めると布団を敷かなければならない。便が出ないとパニックになるのでチョコボールを置いてパニックを回避する。視・聴・触覚が過敏で、「食・眠・排泄/日中活動」のありとあらゆる場面で強いこだわりやパニックが出る。
あかりの初日に入浴はクリアするが、しばらく食事で自分や周囲の利用者のお茶や汁物をひっくり返し、ご飯などを吐き出した。非常ベルにも反応し何度か押した。ストレスからか両腕も上がらなくなった。 それも、「しなくてもすむ」関係と環境を丁寧に積み上げていって、1ヶ月ほどで熱目の汁物も食べられるようになる。「ね」にも反応しなくなる。念のため預かっていた射撃用のヘッドホーンも、預かっていたことすら忘れていた。上がらなくなっていた両腕も上がり始めて、家にも帰れるようになる。強く拒否していた母親と一緒に居られるようにもなって、暗く険しい表情に笑顔が見られ始めた。
追い詰められる度にどんどん膨らんで、生活をガンジガラメにさせた彼の「感覚過敏」とは何か?「感覚過敏」を気遣って「感覚過敏」を強化し、「感覚過敏」に配慮して孤独に追いやる、そんな姿を思った。何らかのベースは想定する必要はあるとしても、この事例は「感覚過敏」なのではなく、「感覚過敏にした」のである。そのような療育的な言葉に置き換えて教訓とした。
Yさんは頭を下げ腹部を引いて極端に縮みこまった体勢で排尿している。腹部を緊張させて搾り出している。状態が悪ければ排尿自体が困難になる。 そこで、下がった頭を上に向け、腹部を押して腹部の力みを抜くようにした。しかし、腹部を押されることでさらに腹部に緊張を生み、腰が引けて体勢は更に丸まった。 ある日フット、小便小僧に目がいった。Yさんとは逆の体勢で腹部を前に突き出している。物は試しと、顔を上げ後ろから腰を押し出すことで腹部を伸ばしてみた。すると、以前より力みがない滑らかな排尿ができた。
しっかり「受け止める」という言葉に、長くこだわっている。安心感、安定感、信頼感ともつながる。 叱るにしても、褒めるにしても、守るにしても、「大丈夫!ヨッシまかしとけ!」といった“どっしり感”は、非常に重要である。「怒らなくて大丈夫。しっかり手を持っていてあげるから」と応援の声がかけられるかどうか、ということにもなる。 受け止めるとは、「体重と気持ちを一歩前に出す」こと、とも話す。逃げない、避けない、愚痴らない、暗くならない、応援をけちらないとも広がっていく。
新任職員が、D君の食事場面で何年か振りのパニックを起こさせた。その職員は、自分の言葉がけから引き起こされたパニックに落ち込んだ。 そういった時、パニックや関係を定着させない方法として、しばらく働きかけを避ける方法がある。しかし現実には、同じ職員が関わらざるを得ない。 そこで、場所や場面を変えてみる。言葉かけでつまづいたのなら、次は、「一寸聞いて」と間を置いて話に入るとか、低い声で、ゆっくり、伝えやすい言葉で話すなどの工夫をする。工夫なく失敗の繰り返しはダメ。そういう話をした。修行である。
<S・V> 本を読んで勉強しても付き合い方の力量はあがらない。結局は、失敗しながら痛い思いをしながら、彼らと付き合いながら、いろいろなことを気付かされながら、自分の力量を上げていくしかない。