死後の世界

今の自分のアイデンティティーを保持したまま逝く死後の世界はあり得ません。

その決定的な理由は、生物はみな「細胞ごとに生まれ、細胞ごとに死んでいる」という現実です。

新陳代謝とは、そういう「現実を示した」言葉です。

我々は皆、「毎日死を体験している」のです。

無意識の出来事ゆえ、痛くも痒くもないのですが・・・。

最後の時というのは、その細胞ごとに起こっている死が急激に連続的に訪れるとともに、「新たな細胞の誕生が、著しく阻害される状態」なのです。

でも、いきなり全ての細胞が死んでしまう訳ではありません。

ですから、いわゆる死後でも髪の毛が伸びたり、爪が伸びたりするのです。

「現実」では、人間の死は「細胞ごとに起こる無意識の現象」です。

ですから、脳死とか、生きている臓器の移植とか、部分部分で考えると少しは実体に近づくのです。

臓器移植の場合、細胞のアイデンティティーの折り合いがつけば、多くの場合、成功します。

本当は、脳死ほど極端でなくても、人間の脳細胞も細胞ごとに死んだり、生まれたりしているのです。

長いこと使われていない、生物的に不要と認識された細胞は死滅しやすいのです。

人間本来の生物的に健康な感性も、金権主義的情報の毒素で使われない状態が続くと、その感性を司る細胞が減少してしまうのです。

使用頻度の多い類の細胞は、増殖しやすいのです。

ですから、現実的に健康な感性を多用して生活すれば良いのですが・・・。

脳細胞は使わない部分は減りやすく、使い続ける部分はシナプスが発達しやすいのです。

自分を殺したいと「思っている」人も、「自分の中の悪い細胞を殺したい」と「細胞ごと」に考えれば、「現実的」には、まるごと自分を殺す必要などありません。

他人を殺したいと「思っている」人も、「他人の中の悪い細胞を殺したい」と「細胞ごと」に考えれば良いのです。

自分や他人をまるごと殺すという「悪い=現実離れしている」考えを使わず、人間の生死は細胞ごとに起こっているという「現実的な」考えからスタートすることです。

良い考えに使う細胞が増え、悪い考えに使っていた細胞が減れば、・・・気がつけば人生観も変わっているものです。

重要なコツは、「人類の未来を永く導く良い細胞を使い、人類滅亡へと向かわせる悪い細胞は使わない・使わせないこと」です。

現実逃避の受け皿にどっぷりと浸かり、自らの頭の中に、非現実的な=悪い情報を蔓延させると、現実の世の中を悪くする悪いことでも平気で行う人間になってしまいます。

情報管理はとても大切です。

死後の世界という「思いの世界」でも、その「思い」を維持することで有利になる人たちと不利になってしまう人たちがいます。

有利になる人たちは、現状支配階級の人々、現実逃避の受け皿として死後の世界を利用している人々などです。

有利な立場にいる人たちは、一般庶民が死後の世界などの思いの世界に現実逃避し、現状の不公平・不平等などを直す行動を起こさないでくれれば、自分たちの利権・権力の維持が簡単です。

既に、現実逃避の受け皿として死後の世界を利用している人たちは、そのままの自分の状態が維持出来ますから、ある意味では有利です。

現状のままの自分を変えることは、そのノウハウさえ習っていない人たちにとっては、大きなストレスとなってしまうのです。

不利になってしまう人たちは、現状の人間社会で科学的に正当な理由の無い不公平・不平等などで虐げられている人たちです。

本来、みんなで協力すれば、直ぐにでも直せる物事が異常な状態で続いてしまうのですから、意識できても出来なくても、そのストレスは絶大です。

人間の生死について考える時も、その昔は、誰も細胞ごとの誕生・死という現実は解っていなかったのです。

科学的検証が出来なかったのだから、当然です。

人間(生物)の誕生・死は、細胞ごとに起こっていることは、現実です。

ところが、無意識の世界の出来事ですから、科学的な検証法や情報が十分でなかった昔の人々は、死の実体を実態どおりに認識=意識できませんでした。

そこで、意識的に得ることが出来ていた情報から、思いによる解決=納得を図りました。

昔流の考え方を記しておきましょう。

昔の人たちは、一人の人は「丸ごと」生きているか、死んでしまった、と「思っていた」のです。

つまり、思いの世界で納得していたのです。

今から考えれば、非常に大雑把な把握の仕方をしていたことになります。

ですから、死のインパクトはより強烈でした。

ただでさえ、人、つまり仲間の死というのは、解らないけれどもほおっておける、という程印象の薄いことではありません。

おまけに、自分にも訪れることです。

ますます不安は増大してしまいます。

死んだらどうなるのか解らないと、居ても立ってもいられなかったのは当然でしょう。

出来れば死なずに永遠に生きたいと「思って」当然でしょう。

そこで、みんな一生懸命考えたのです。

つまり、「思い」の世界で「納得出来る」方法を考えたのです。

「納得できる否定されない思い」を創ろうとしたのです。

色々な考えの中で、出来が良かった(つまり、当時の誰もが否定しにくい)のが、

「人は魂を持っていて、それが肉体から離れると死ぬ。」という「考え方」です。

徐々に離れていくと考えれば、髪の毛が伸びても爪が伸びても、不思議ではありません。

そして、例えば仏教では、
あの世に行くのには、とても時間がかかると考えました。

初七日も四十九日も、そのような考えの上に成り立っているのです。

昔は「死の判定」も、現在ほど正確にはできませんでした。

死んだと思われた人でも、息を吹き返したりするケースが時々あったのです。

それでも、七日も死んだままだと、ほとんど全ての人が息を吹き返すことはなかったのです。

そこで区切りをつけ、安心して埋めたのです。(昔は初七日とは、大切な人は埋めない期間でした。)

その七倍の四十九日も経つと、どうなっているのか?と掘り返してみても、もはや生前とは似ても似つかない姿になっているのです。

そこで、死後四十九日も経てば、あの世へついたと考え、御香典でも御仏前と分けることにしました。

仏になったとは、大変な名誉です。

故人に名誉を与え、出来るだけ安心して、「納得して、心を落ち着けて」、一区切りつけたのです。

死後、仏様になれるのなら、自分の場合でも納得しやすいでしょう。

また、キリスト教では、復活・永遠の命と信者の「思い」を安定させ繋ぎ止めておく受け皿を用意しました。

そこまで考えても、尚、自己や故人の存在や業績を、周りの人々に認め続けてもらいたい、という「欲望」が残っていました。

お墓とは、自己や故人の存在や業績を後世まで残す、便利なツールです。

おまけに、日本の仏教では、因果応報・輪廻転生と、未来まで保障してもらえます。

キリスト教では、復活して永遠の命がもらえるのですから、とりあえず信じておけば安心と「思え」ます。

死の恐怖も、少しは薄れるのです。

しかし、ほとんどの人は、だからと言って、直ぐ死ぬのはいやでしょう。

同じ家系、つまり自分の身近なところ、からどんどん死人が出るのも、いやでしょう。

そこで、一定期間喪にふくし、隠れるのです。

例えば、喪が一年なら、一年もすると、年が変わったのだから、天の気(神様の気分)も変わり、とりあえず安心だと「思い」、区切りをつけたのです。

たまに、「本当に大丈夫か?」と疑う人がいても、多くの人が納得してそう「思って」いる状況があります。

おまけに、納得出来る思いを創り出してサポートしている、お坊さん・神父さん・牧師さんの社会的地位は高いのです。

心配になって尋ねに行くと、普通の人は、理解するだけで疲れてしまう、ありがたいお言葉を永遠と聞かされたり、仏教の種類によっては、悟るためには行だと、座り続けさせられたり、冷たい水に打たれたり、お題目を反復して雑念を払ったり、キリスト教では、聖書を読んだり、自らの罪を懺悔したり、神に祈ったりすることを奨められるのです。

ほとんどの人は、納得する方を選ぶでしょう。

それらの「思いによる納得法」は、科学的検証も出来ず、現実的情報が少なかったことを考えると、大変見事な考え方です。

ですから、それは、「集団的合意」を取り付ける事が出来ました。

同時に、この現実逃避の受け皿を提供していた人々は、多大な利益と名誉と権力を得ることが出来たのです。

ところが、「思いの世界だけあって」上記の単純な説明だけでは不十分で、色々と問題点も残ってしまいます。

例えば、人間を身体と魂に分け、魂を考えたのは良いのですが、「死後身体を抜け出した後、そこいら辺にうようよしている。」では、都合が悪くなってしまいます。

なぜなら、「ほとんどの人には、見えない」のですから・・・。

多くの人たちは、実際に見えないものは、無いと「思いたい」のです。

もしも、見えないものまであるとしてしまうと、今度はそれが、大きなストレスになってしまいます。

しかし、魂はあると「思いたい」のです。

その方が、死という現象を冷静に受け止められるのだから当然です。

そこで、自然と魂の行き場所が出来上がります。

「霊界」です。

あの世はこの世とは違う、としたのです。

魂が、霊界という現世と違うところにいるのなら、不都合は見事に解消される、という訳です。

その上で、「不成仏霊や守護霊」を考えたのです。
「現世に執着する強い理由のある霊や、現世に留まったり、戻って来たりする必要のある霊」は、「見えないけれども、現世にいる」としたのです。

ほとんどの人には見えないものが、「たまに」あっても、決定的なストレスにはなりません。

むしろ「不成仏霊に社会を戒めてもらったり、守護霊に善人を助けてもらうということで、善行を促すメリット」の方が、ずっと大きいのです。

お仏壇や写真の前、お墓参りなどで祈ることは、故人をより強く「思い出す」ための行動でもあります。
現世に残っている者は、故人の善行を敬い、悪行を反面教師にし、より良い世の中を造る手助けにしたのです。

つまり、人間社会を「健康な社会」にする、手助けにしたのです。

これもみごとな「考え」です。

ですから、集団的合意が得られました。

そのような考え方=思いによる納得法をベースに「威厳」を持たせ、「考え」を高度に組み立てれば、「りっぱな宗教」が出来あがります。

宗教は「思いによる納得法」ですから、簡単に納得出来なくなる人がいては困ってしまいます。

そこで必然的に「威厳を持たせたり」「高度な思考体系を構築したり」することになるのです。

仏教・キリスト教以外の宗教でも、宗教にはみんな同じように「思いによる納得法という基本構造」があります。

思いによる納得は必然でした。 例えば、親しい人が亡くなったとき、ただ「死にました。」では、あまりにも虚しいのです。
現実的には「心の整理が出来にくい」のです。

死んだ人には「魂」があり、生前の行いにより、善人は天国へ、悪人は地獄へ行くと考えることは、納得し心を落ち着ける有益な方法です。

しかし、それは、現実的には「思いの世界」であることも事実です。

宗教によって、仏様がお星様になったり、来るべき日に復活して永遠の命が得られたり、あの世に逝くにしてもいくまでにかかる時間が違ったりするだけなのです。

科学的に検証出来なかった時代に、「思い」の世界で納得出来る方法を創り、利用していることは、みんな同じです。

「死後の世界という思いの世界」も、「思いのフィルター」を外して「現実的に」見直すと、以上のような実体を現すのです。

多くの宗教は、科学的検証法が少なく、現実的情報が少なかった時代に、「先人たちが考え出した、英知の結晶」です。

英知の結晶だけあって、現実と一致している物事には、結構役に立ちます。

例えば、「親しい人が死んだ時などの、認めがたい現実からの、一時避難場所」としては、大変有用です。

人類の歴史で、どれほどの人が宗教に救われたかは、想像に難くありません。

しかし、どんなに立派な英知の結晶でも、「思い」は「思い」です。
「現実に無いものは立証出来ません。」


ですから、どんなに頑張っても、「死後の世界を、誰もが解る形で、立証出来た者はいない」のです。

でも、宗教では、立証は必要ないのです。

なぜなら、元々、「宗教とは思いによる納得法」なのですから・・・。

それが、「思い」の世界です。

それでも稀に、現実的に、死後の世界が見えるとか、霊が見えるとかいう方もいます。

それは、その人の「思いを視覚化」して見ているのです。

例えば、陰湿な空気や磁気異常、無意識が拒みやすい五感情報などを、脳の中で自らが持つ死後の世界や霊の情報と強烈に結びつけているのです。

つまり、「現実的」には、頭の中で、「思いと視覚がつながっている(つなげている)」のです。
ですから、「その人には」本当に見えているのです。

しかし、それを拡大解釈して、頭の中の世界が現実だと「思い、信じて」も、現実から遠ざかってしまいます。

実体として問題なのは、陰湿な空気や磁気異常だったり、周りの多くの人たちが、心霊スポットだと「思って」いるプレッシャーだったり、その手の商売や思想で、立場を維持したり、儲けたりしている人たちの保身工作だったりするのです。

ですから、保身工作とつながっている人などに、それなりのお金を払って、大々的に除霊したりすると、問題が解決されることもあるのです。

また、デジャブや幽体離脱体験、臨死体験で死後の世界を見たという体験なども、実体は脳の中の現象であることが解っています。

人間の能力として、テレビが特定の電波を選択し特定の映像・音声を再生することが可能なように、特定の電磁波や光などの記憶のようなものを選択し、視覚外の物事を認知したり、過去に起こった事件・現象などを再生する、第6感のようなものはある「可能性」はあるのですが(それらは、動物が地震の前の電磁波を感じ、逃げたりするような能力の親戚と推定できます。しかし、情報提供者と外国人タレント、テレビ局が組んで番組を創ってしまうことも可能だから、そのような場合もあるのかもしれない・・・ということを忘れてはいけません。)、細胞ごとに死んでいるのに、人間丸ごと一人ずつの霊が存在している霊界が存在したり、未定である未来が決定していたり、などという思いの世界でしかあり得ない物事は、言うまでも無く、現実にはあり得ません。

現在でも、人間は丸ごと一人いっぺんに死んでいて、死後の世界や霊魂が存在すると「思いたい」人たちは、数多くいます。

そのような人たちは、多くの場合、不備だらけの現状の人間社会のストレス故に、現実逃避を欲しています。

不備だらけの現状の人間社会に、平和適応して行くための、納得情報を求めています。

「現世で我慢して、現状の人間社会に平和適応していれば、来生では、きっとより有利な立場で人生を送れると『思い』」、現状の人間社会の不備を直す行動をホトンド行わず、現状適応してより多くの自慰行動が可能になるように、集金マシーンの如く、仕事(?)をこなしている人さえ、少なからずいます。

自分で自分の首を絞めていることさえ、気づかずに・・・。

現実では、生物は細胞ごとに生まれ、死んでいます。

ですから、もし現実的に考えるなら、例え霊魂があっても細胞単位ということになります。

また、細胞ごとの入れ替わりを考えれば、「どの方向に向かって」入れ替わっていく「細胞の適性を求める」のか?が重要であることに気づかれるでしょう。

例えば、「より頭を使うのか?使わないのか?」「より筋肉を使うのか?使わないのか?」などの選択によってその人の将来は変わって行きます。

大局的に人生を見ても「地球生命体細胞群として永続出来ることを手伝う行動を行うのか?人類滅亡を誘う行動を行うのか?」によって、その人の無意識での細胞の入れ替わりの方向性も変わります。

もし、細胞に霊があり、細胞の霊の行き先として考えるのなら、「前者は生物、後者は物質」という違いになるでしょう。

「健康な構築行動は生を生み続け、崩壊を誘う破壊行動は命無き物質に帰する」と表現しても良いでしょう。

あなたは、どちらの方向に向かっていますか?

あなたの細胞をどの方向に向かわせて入れ替えていますか?

現在の情報に素直に、細胞ごとの生死という現実を、実感を持って理解出来る(つまり、思いの世界から目覚める)と、「この世の何処にも無い」今の自分のまま逝く死後の世界は、自然と消滅するものです。

その代わりに、地球生命体細胞群としての将来を感じることが出来るものです。

今、この瞬間にも生まれたり死んだりしている細胞を感じようと素直になれば、自分自身を愛しく思えたり、体内の不調部分を知ることが出来たりするものです。

地球生命体細胞群の健康な将来が大切だと、体感出来るものです。

地球生命体細胞群の健康的な永続が大切だと、感じるものです。

愛と慰め、仕事と破壊行為の違いくらい、わかるようになるものです。

復活や永遠の命という概念も「思いの世界」であることに気が付けば、心理学的分析と細胞ごとの生死という現実から「その思いの世界の実体」がわかるものです。

ところが、現実逃避して「思い」だけにすがり、宗教が「全て」と信じきってしまうと、「思いの上で死後の世界や復活・永遠の命を得る」代わりに「現実を知る感性を失ってしまう」のです。

産業革命以降人類は、急激に数を増やしました。

現代を生きる多くの人間たちには、地球生命体細胞群の数多くを占め、支配的立場を持つ生命体として、「思い」と「現実」をはっきりと区別した現実適応的認識・対応が求められているのです。