ヴィヴ ラ・フランス
もうやがて十年程にもなるだろうか、フランスの若い男女を招待しての仏会話サロンが今も月二回の割合で続いている。私も所属していた「水曜会」という絵画グループのメンバー平井栄子さんが所有する武蔵境のマンションの一室で、一九九三年(平成五年)四月頃から始められたのである。仏会話教室といった堅苦しい形でなく、午後の一時を葡萄酒の盃を傾けながら、たどたどしいフランス語を用いてあれやこれやの会話を楽しむだけの集りだったから、趣旨に賛同して参加したのは、旅行会社社長夫人、商事会社マンの奥方、大学教授のご夫人たちで、外国駐在の経験があったり、海外旅行の愛好者だったりで、特にフランス語やフランス文学が専門の方達ではなかった。平井さんの巧みなお誘いを断り切れずに、ご夫人連に混じって心細い思いを抱きながらサロンに加わった私は、フランス文学やシャンソンを愛好する文芸評論家の菊池章一さんを無理矢理仲間に誘い入れた。メンバーの数は女性が十人前後で男性は菊池さんと私の二人切りだったから、幾度か男性の友人や知己を引き入れようとしたのだったが、一度か二度の参加で長続きはしなかった。
発足当初に招かれたフランス人は、男性がマルク、女性がソフィといって共にベルギー生まれのフランス育ちで、マルクは哲学者森有正が一時期教授を勤めていたフランス国立東洋語学校の卒業生であった。フランスではprenom (名)で呼び合う習慣なので、nom de famille(姓)は書かないでおくが、マルクはやはりベルギー生まれのシャンソン歌手ジャック・ブレルに似た顔立ちの黒髪の青年で、弓道に練達していてさらに囲碁は四段の腕前であった。ソフィーは金髪で丸顔の飛び抜けて色が白く、精密画を描くのを得意としていた。年齢は共に三十歳そこそこといったところだったが、ヨーロッパから遥々極東の我が国に遣って来ただけあって、かなりの日本通で日本語もある程度理解できた。だから私たちがフランス語の受け答えに行き詰った折には日本語で助け舟をだしてくれもした。これは仏会話習得には逆効果ではあったが、未熟な私たちが兎も角も意思を伝え合うには地獄で仏の思いだったのである。
この十年間にはフランス人の顔触れは次々に入れ替わっている。一寸思い浮かべるだけでも、源氏物語や枕草子を研究していた美貌でパリジェンヌのコリンヌ、実業家タイプで若禿のジャン・ミッシェル、東京大学で遺伝子工学を研究している日本人ハーフの美男子ドニ、東洋語学校出身で空手道に精進していてわが国の劇画ファンでもあった女丈夫レイラ、書道や謡曲を熱心に習っていた淑女然たるシャンタル、そして作今はフランス人の夫君が日産自動車に勤務するエレーヌに、日本駐在のフランス大使館員夫人フロランスがサロンに招かれている。ちなみにレイラとドニは二年前に結婚して東京都世田谷区に住んでいるが、平井邸のサロンが恋愛の結晶作用の決め手になったのだったろうか。
サロンには葡萄酒にチーズ、ソーセイジ、野菜サラダ、ピザ、巻き寿司、稲荷寿司、パンといった軽食がでるのだが、フランス人たちもいとも巧に箸が使えるのには驚かされた。コリンヌなどは一切れのパンを箸でつまんで口元に運び、そのままパンを齧ったのだったが、器用なことが出来るものとこちらも真似てみて、ともに大笑いしたものだった。
サロンでの話題は、お互いの国の食べ物の話、旅行の見聞記、折々の時事問題やスポーツ談義、が主だったが、時には菊池章一さんあたりの発案で、小説の読後の感想や愛好するシャンソンの紹介やらを、順番に披露することもあった。菊池さんは二〇〇〇年(平成十二年)下半期の芥川賞受賞作品堀江敏幸の「熊の敷石」の作品評を述べ、私は「私の愛好するシャンソン」を録音テープで聞かせながら紹介した。念の為、これはフランス語で話したのだったが、どうにかこうにかフランス人にも通じたようだった。
ところでフランス人たちは「戦争を知らない世代」もいいところで、一九七〇年前後の生まれの若い人たちだったから、私なんかが親しんだシャンソンや歌手たちを殆んど知ってはいなかった。戦前のダミヤ、フレール、ティノ・ロッシ、リュシエンヌ・ドリル、戦後でもイベット・ジロー、コラ・ボーケールなどは聞いたこともないようだった。「人の気も知らないで」とか「暗い日曜日」、あるいは映画「望郷」に出てくるフレールの歌「あの人たちは何処」や、ドリルの「私の恋人」などの思い出話をしようにも詮無いことではあった。かろうじてエディット・ピアフやイブ・モンタンあるいはジョルジュ・ブラッサンスやジュリエット・グレコなど、大歌手といわれた人たちはさすがに知っていたし、比較的最近の歌手ジャック・ブレルの「行かないで」や、サルバトーレ・アダモの「雪が降る」、シャルル・アズナブールの「ボエーム」などがテープから流れ出すと、ハミングしたり合唱したりするのだった。興味深く今も記憶しているのは、ダリダのシャンソン「甘い囁き」を聴いたときだったか、アラン・ドロンのことを「彼は右翼よ」と言ってレイラが皮肉な微笑を浮かべて肩を窄めてみせたことだった。
シャンソンでは世代の隔たりに失望させられたのだったが、フランス映画なんかでもつくづく年代の相違を感じさせられている。私たちにとっての懐かしの名画、「パリの屋根の下」「パリ祭」「北ホテル」「望郷」「舞踏会の手帳」「大いなる幻影」などなど、一切表題すら知ってはいなかった。だからルイ・ジュベエ、アナベラ、マリー・ベルなど、名前を出しても珍文漢文のようだったが、アルレッティやジャン・ギャバンなどは比較的長生きなので名前だけは覚えていたようだった。
ところでフランス人たちはユーラシア大陸の東の果ての日本まで、風物や文化に憧れてわざわざ遣って来たのだから、わが国に興味を持ち恐らくは友好的なのだろうけれど、大西洋の向う側のアメリカ合衆国にたいしては一様に快く思っていないようであった。アメリカに関した物事が話題にのぼると、「Oh ! Etats-Uni」と呟いてフランス人が軽蔑を表す例の(肩を窄める)仕種を、大げさにやって見せるのだった。フランスには「アメリカの伯父さん」(oncle d’Amerique)という慣用句があって、かっては大きな遺産を残してくれるアメリカに渡った親戚を当てにする風潮もあったのだろうが、当世はそんな虫の良い話も皆無となって久しいことなのだろう。
だいたい一七八九年のフランス大革命の「人権宣言」は、一七七六年のアメリカの「独立宣言」をお手本にしたのだったし、第二次世界大戦では英国、ソ連邦、中国と並びアメリカ合衆国とも同盟を結んでドイツや日本と戦ったのであったから、何故にアメリカの嫌いなフランス人若者が大勢いるのか、考え込むのである。あるいはフランスには今も中華思想が根付いていて、ソ連邦崩壊による冷戦終結後の「パクス・アメリカーナ」には本能的な不快感を抱いているからなのだろうか。
一九九一年にソ連邦が消えて後の一九九五年にシラク大統領は、太平洋ムルロア環礁での核爆発実験を一九九六年まで六回に亙って再開している。これなども臨界内核実験を一向に廃止しようとしないアメリカに向けた示威行為とも受け取れなくもないのである。ちなみに一九四五年八月六日には廣島高等学校の生徒であった私は、ヒロシマ原爆の被曝者で、「被爆者手帳」も持っているのではあるが、仏会話サロンでムルロア環礁が話題になった時には、日本夫人側の大方の「シラク反対」の声には同調せず、フランス人たちの「シラク支持」に賛成の挨拶を送っていたのだった。何故なら現実の歴史上で人類の頭上に原爆の閃光を浴びせたのはアメリカ一国のみであったし、二十一世紀の世界でも非服従勢力には、容赦なく圧倒的な物量のハイテク武器、さらには原爆をも含む大量破壊兵器を用いそうなのは、アメリカ合衆国が筆頭に挙げられるように思えたからだった。「古いヨーロッパ」と名指しされているフランスやドイツさらにはロシヤが、アメリカ一国独裁の抑止力になって貰いたいと希うのは、シオニストや金権万能主義者やネオコン支持者でない限り、全世界の人たちの共通した思いなのではなかろうか。
二十一世紀最初の年二〇〇一年の9・11同時多発テロが引金となって、アメリカ合衆国ブッシュ政権主導の反テロ戦争が始まった。多発テロの首謀者オサマ・ビンラディンを捜索するアフガニスタンに次いで、今年二〇〇三年には大量破壊兵器を隠し持っているとの疑いをかけて、国連の査察団が査察続行を主張しているにも拘らず、アメリカのブッシュ政権とイギリスのブレア首相は三月十八日対イラク開戦に踏み切っている。この直前の仏会話サロンでは、当然に国連でのアメリカのパウエル国務長官の主戦演説や、シラク仏大統領やドビルバン外相の戦争抑止努力などが話題に上ったが、この度は日本の夫人連もフランスの若者たちと心を合わせて、シラクやドビルバンの肩を持ったのだった。圧倒的な戦力を誇る唯一の超大国アメリカの威嚇や脅迫にも屈しないフランスの首脳たちに、「Vive la France!」(フランス万歳!)とエールを送りたい心境だったのである。
アフガニスタンのタリバン政権は壊滅したがオサマ・ビンラディンは見付かってはいないし、イラクからは大量破壊兵器は発見されず各地のゲリラ活動も続いているようである。そして無数の地雷やクラスター爆弾や劣化ウラン弾が一般の人民大衆にいまもなお大きな被害を与えているらしい。そんな事実を知らされる私たち戦中派は、自然に東京大空襲やヒロシマ原爆を思い起すのである。
仏会話サロンの帰途、時折はフランス人と連れ立って武蔵境駅まで歩くこともあった。途中には幾箇所かの交差点がある。ところが驚いたことにはフランスの彼や彼女は、信号無視もいいところなのだ。信号機が赤であろうが青であろうが、車がこなければ平気で堂々と交差点を渡る。別に日本の規則を馬鹿にしているわけではなく、パリなどでは日常茶飯事のようなのである。彼等の言分は、自分の行動に対してはすべて己が責任を持つのだから、咎められずに許されているとのことなのだった。フランスの首都パリとは様が変わって、東京ではまことに従順に規則は守られているようで、歩行者の信号無視は滅多にないようである。
やはり十年程前だったろうか、JR線や阪神電鉄、京阪神急行電鉄などが発着するあの大阪駅前の大通りで、大阪人たちの堂々たる信号無視の光景に立ち会ったことがある。夜の八時頃だったろうか、車の列が一瞬途絶えたと見澄ますや二十メートルはあろうと思われる道路を、我も我もと横切って大阪駅の構内に入っていったのだった。大阪生れで大阪育ちの私がこれに同調したのは、言わずもがなのことである。
電車や自動車の信号無視は大きな事故につながるのだから絶対に許されることではないけれども、歩行者に関しては大目に見てもらいたいと密かに思うのだが、やはりあまり誉められたことではなかろう。けれども大阪人気質とパリ人ひいてはフランス人のそれとは、似ていなくもないように私には思われるのである。独裁者を許さず権威主義に反撥したり、強者を嫌って弱者に同情する、さらには保守反動よりは改革革新に熱を上げる率が高い、そんなところが似通っているのではなかろうか。
ともあれフランス映画やシャンソン、さらにはその文学作品に親しんできた私としては、もう一度声高らかにエールを贈りたい。
Vive la France! (フランス万歳!)
(二〇〇三年七月二十九日)