さて、調査をする際に、伝統的にはフィールド・ノートをつけることになっている。これは確かに大事なことだ。研究者になる以前にわずかの期間だが出 版社で働いて私にとって、取材メモ帳や取材ノートは欠かせないものだった。いや、そもそも大学の授業でつけるノートだって、実は受講経験についての立派な フィールド・ノートなのである(だから友人のノートのコピーじゃダメなわけである、というのは知識というのは単なる情報ではなく経験なのだから)。その意 味ではおそらく誰もが「フィールド・ノート」的なものとのお付き合いは長い。しかしこの「フィールド・ノート」、何のためにつけるのだろうか。一つ重要な のは、個々の調査記録を全体的な観点に結びつけるためだろう。そしてそのノートをベースとして、研究者であれば、のちに論文を書いたり、さらにその論文を 書き直したりして、それぞれが自分の研究を洗練していく。その意味で調査研究の原点であり、何度も立ち戻るアイデアの宝庫となるようなものである。
しかし今日調査においては、メモとフィールド・ノートだけでは不十分であろう、と私は考えている。というのは、フィールド・ノートは伝統的というこ とからも分かるように、実は現在利用可能なさまざな記録用機器が生まれる以前の機器(的存在)あるいは技術(技法)だからである。これは実はとても重要な 観点である。確かに巷間、フィールド・ノートの重要性が喧伝され、調査研究者の誰もが自分なりのフィールド・ノートの付け方をつくり出したり、あるいは フィールド・ノートの付け方の本が定番になったりする(とはいえ、日本ではそれほど調査研究は一般的ではないかもしれない、理論が主流のようだから)。し かし、そのようなある意味で古い技術(技法)にのみ寄りかかって行おうとする研究は、伝統的なディシプリンの再生産という意味では有効かもしれないが、 「知りたい」という調査研究の根底的な欲望に対しては、十分には応えていないような気がするのである。
その一方で、フィールド・ノートに比べて新しい技術である、記録用機器つまり調査機器の有効活用についての本や論文も、あまりないような気がする (それとも私が不勉強なだけなのだろうか)。たまに調査志向のジャーナルにそのような論文が載っていたりするけれども、その意義や有効活用について教えて もらった経験はきわめて少ない、というか、実をいえばほとんどない。
これは考えてみれば変な話である。たとえば、化学を学ぶ人が記録機器を含む実験機器について知らないのであれば、どうしようもない。研究者は実験機 器について習熟していくことが、その研究生活の重要な基礎を形作っている。そのような観点は、たとえば「科学的知識の社会学(SSK=Sociology of Scientific Knowledge)」でも基礎的な発想の一つである。ところが社会学の教育課程において、あるいはその調査研究において、記録用機器を含む調査機器につ いて習熟していくことがそのプログラムの中に明示的に組み込まれていないということはどういうことなのだろうか。もちろん反論の余地はある。というのは、 統計的調査(量的調査)にかかわる調査機器についていえば、SPSSなど統計ソフトに習熟していくことが教育あるいは研究プログラムに含まれているからで ある。
しかしちょっと待って欲しい。問題は記録ということなのである。実は記録という観点からすれば、統計もまたきわめて古い技術なのである。ゲリーやケ トレが「道徳統計」という名で統計を使用しはじめるのは、19世紀前半である。記録という観点からすれば、サンプリングの仕方などに進歩があるものの、実 はそう大した違いはない。というのは、その部分については、技術革新が介在していないからである。PCの導入などによって技術革新が介在しているのは、実 は記録の部分ではなく処理の部分なのである。そして社会科学的認識の誕生と展開という観点からすれば興味深いことに、ほぼ同じ時期に、質的調査の原型のよ うなものも生まれている(この辺りの事情についてはシカゴ学派とシンボリック相互作用論に関する報告書論文で も触れたし、現在少しずつ調べている最中である)。したがって、記録という観点からすると、いまだに19世紀の技術(技法)が、少なくとも表面上は、調査 研究の中心とされているということになる。
ところが誰もが知っているように、この間記録技術は大幅に進歩している。画像、音声、映像とも大幅に進歩しているのである。それを自覚的に取り入れ た研究者として最も有名なのは、ベイトソンかもしれない。もちろんデンジンが調査方法のテキストで、当時ベイトソンの妻であったマーガレット・ミードのコ メントを引用しながら言及していたように(とはいえ、今は手元にその本がないので、確かそうだったという記憶で書いている)、映像は「どこから撮るのか」 という点で常に批判に開かれてる。しかしその批判は、映像という記録技術の上で展開する新しいタイプの研究にとっては必要なものでさえあれ、映像を避ける 理由にはならない。映像を避けるとしたら、もっと別の観点によるのである(とはいえ、デンジンの議論の主旨は彼のパースペクティブからいって、「いずれに しても解釈を避けることは出来ない」ということを映像の領域でも示したものであったと思う、手元にその本がないので記憶で書いているが)。
しかしもっと身近で、その意味でもっと重要なのは、録音技術であろう。たとえば会話分析というユニークで興味深い研究領域があるが、これは明らかに 録音技術の進歩がなければ成立しなかった研究領域である。この領域は、「そのときそこで何が起こったのか」ということ(に近いこと)を繰り返し再生する技 術によって支えられている(とはいえ、最近の会話分析の研究者は音声だけではなく映像も使うけれども)。この「そのときそこで何が起こったのか」というの は、まさに記録ということの原点である。そしてこのような原点(にできるだけ近い場所)に何度も立ち戻って思考するというのが調査研究の主旨の一つである ことは、研究者がフィールド・ノートを何度も見直したりすることでも理解できるだろう(とはいえ、ここでは会話分析が調査研究のディシプリンとして最も優 れているといっているわけではなく、その点についてはまた別の機会に譲りたい)。そして「そのときそこで何が起こったのか」ということを共通の基礎、共通 の記録として思考してはじめて、解釈の可能性(つまりは理論的可能性)が縮減され、特定の現象をめぐる議論も建設的になると考えられるのである。
その意味で、調査研究において記録用機器の使用というのはきわめて重要な要素なのであり、これを19世紀の技術に差し戻して、つまりは記録用機器に 頼らずにメモと記憶だけを頼りに行うというのは問題が多いといわざるを得ない。たとえば、こういうこともある。すなわち、医療や司法の領域では、いまだに 録画どころか録音さえ許されないことが多い、というか、ほとんどである。これはそこで起こっていること、つまり有り体にいえば、権力関係の生起、を記録す る機会を剥奪されているということを意味している。それは結局は、そのような権力に対する抵抗の手段を大きくそがれているということを意味している。とい うのは、解釈の可能性(理論的可能性)程度では、あまりに腰が弱いからである(したがって次善の策として医学論文、司法文書や行政文書などが重要な記録と なるわけであるが、それも実は分析の目的による)。そしてまた、調査の際に記録用機器を使用しないということは、調査というこれまた一つの権力関係の生起 について、研究者自らが反省する機会を逸することでもある。これは方法の研究という観点からすると大きな問題であるといえるだろう。
ということで、私としては調査研究においては、とりあえず出来る限り何でもかんでも録音するということをあえて旨としている。ちなみにこれは、大学院時代以来行っていた薬物使用の調査への反省も含んでそうすることにしたのである。そして その際、現在ではMD(ミニディスク)の使用を中心にしている。というのは、明らかにオーディオ・テープに比べて音声がクリアに録音できるからであるし (経験者は知っていると思うがその差には驚かされる)、インデックスの作成など取り扱いが楽だからである。英国ではまだMDはそれほど安価ではなく、入手 もどこででもというわけにはいかないが、日本の場合はコンビニでも安く手に入るであろう(と思うが、実はかなり浦島太郎状態なので定かではない)。何より 日本はこのようなコンシューマ・レベルでのデジタル技術については世界一であり、そのような利点を活かさない手はないと考えているからである。しかもMD であれば、デジタル接続で音質の劣化もほとんどなくPCに取り込むことも可能であり、それをCD-ROMに焼いて携帯あるいは配布したり、さらにはサーバ にデータをおいて共有したりもできる(会話分析を志向するのであればPC上で、ポーズやオーバーラップなども測りやすい)。そのうちCD-ROMで配布さ れる論文も出て来るだろう。
そしてMDによる記録をサポートする機器として、ICレコーダーを使用している。これはメモをとる代わりにも使用できるし(便利であるが、ただし自 分の声のメモは確かにちょっと恥ずかしい)、立ち話程度の出会いであっても簡単に録音ができる。最近ではメモリースティック仕様のICレコーダーが発売さ れたようだが、あれは保存という意味では非常に便利である(是非欲しいものである)。
そしてこれは単に取り扱いの容易さの問題だけではなく、記録を基に考える場合に、つまりは調査研究を行う場合に、共同研究者や研究にコメントをくれ る研究仲間、あるいは学生であれば指導教官にもデータ・アクセスが容易な状態を作るというきわめて実践的な目的も伴っている。記録を基に共同で具体的な議 論を行うということは、「研究力」(研究継続力と生産力の総和)を上げるという観点からも重要であろう。
この点に関しては、「研究力」などという現実的な話以上に、もう少し夢のある見方もできるし、実際のところ私としてはそっちの方が好みである。研究 というのは、確かに科学研究費による助成金は最高でも3年であるし、一般的に着手から2年程度で成果を出していくものかもしれないが、それでも5年10年 というのはあっという間に経つような気がする(が、まだ10年は未経験なので定かではない)。そのように考えれば、調査の記録をデジタルで残しておいて、 何度でもそれに立ち返ることができるというのは、「研究力」や業績を云々する以上に、何よりも楽しみではないだろうか。しかも、たとえば人口史研究が宗門 帳という記録の発見と蓄積によって成り立っているように、どんなに簡単な調査であっても(たとえば学生の調査実習であっても)、それを録音しアーカイブ化 して長期間保存しておくことで、これをのちに参照したり研究することを可能にし、もしかしたら何か面白いことが見つかるのではないかと、そんな気がするの である。
日本社会学会はそういうデータ・アーカイブ構築の推奨活動を学会レベルでしてくれないものだろうか、などとも最近は思っている。もちろんアーカイブ にする場合には、プライバシーその他の問題が山積みであるが、そのうち何とかしたいものである。少なくとも私は帰国次第、自分の所属する講座レベルで始め たいと思っている(が、同僚の先生方はどう思うだろうか)。
(02/June/01、佐藤哲彦)