機器と調査研究(その2)―記録を避けること、あるいは映像技術につい て―


さて、前の部分では、記録機器の重 要性について、とくに調査機器への技術革新の介入という観点と、録音技術の有用性という観点から、論じてみた。要するに、古い技術にいつまでも頼ってやっ ていては問題が多いのではないかということ、それらがいまだに対した反省もなく重用されるのは一つにはディシプリンの再生産が行われているからだろうとい うこと、さらには録音機の使用により記録を基に共同研究やアーカイブ化が可能であること、これらを示唆した(つもり)である。実際最後の点についていえ ば、ディスコース分析(あるいは会話分析)の領域では、米国や英国のいくつかの大学に保存されている録音データ(とそのトランスクリプト)が今日では、教 育と研究の重要な資源となっている。英国の滞在先ではディスコース分析の研究会(データ・セッション)に入れてもらってきたが、自分のデータで発表する人 がいないときには、実際、そのようなアーカイブからトランスクリプトを引っぱり出してきて、それについて議論したりすることもあったのである。これは研究 のみならず、教育(訓練)という意味でも、非常に有用な方法だと思われる。

そのような観点に立った上で、ここでは特に映像技術あるいは録画技術について、ごくごく簡単に考えてみたい。なぜ「ごくごく簡単か」というと、私自 身がこの技術についてはいまだ手探りだからである。

さて、データ・コレクションといえるかどうかは不明だが、あるいはむしろリマインダーとでもいうのだろうか、ある研究で水俣を訪れた研究者は、自分 の見た物を(おそらくはあらかた)ビデオに写していた。ビデオを使用している研究者にははじめて会ったので、これは強く印象に残っている。一緒に訪ねてき た研究者にあとで聞いたところ、「あの人はいつもビデオを使っていて、あの人の論文は、ビデオに写したような感じで書いてあるようなところがある」とも 言っていた。ということは、これはいわばフィールド・ノートをビデオ化しているとでもいえるような状況なのであろう。これなどは、積極的に新しい記録技術 を持ち込んでいる好例といえるかもしれない。

しかしこのような例は、たとえそれがデータ・コレクションというよりもリマインダーであっても、例外中の例外であろう。ではなぜ録画というデータ・ コレクション方法はそれほど一般的ではないのだろうか?

英国で出会ったある教授は、録音こそが自分のデータであるという。実は彼には無理にお願いしてディスコースを中心に扱うクオリテイティブ・メソッド を教えてもらっていたのだが、その休み時間にコーヒーを飲みながら彼に「映像は使わないのか」と聞いたところ、彼はいった、「映像は人が撮られることを意 識してしまうから使いづらい」(実はこれが前の部分で「映像を避けると したら別に理由による」としたことの一つである)。

確かにそうだともいえそうである。というのは、映像というのは音声と違い、明確な指向性を持っているからだ(あるいは現象学に倣って「志向性」と書 いてもいいかもしれない)。テレビでインタビューされている人たちに姿をみればそれは如実だろう。何よりも画面にそのとまどいやはにかみ、あるいは緊張が 映っている。

しかしながら、実はその「何よりも画面にそのとまどいやはにかみ、あるいは緊張が映っている」ということそれ自体が、実は何よりも重要であると私は 考える。それはなぜか。

まず最初に考えるべきことは、先の教授に代表されるような、ある意味で厳密さを志向する(というのは、この領域にもいくつかのスタンスがあるからで ある)研究者がなぜ「映像は人が撮られることを意識してしまうから使いづらい」というか、という点である。

実は彼は彼自身としては映像だけではなく、インタビューも使わない。なぜなら(かなり単純化していうと)、彼の立場(あるいはある種の会話分析のス タンスと言い換えてもいいかもしれない)からすると、インタビューされた人は、インタビューの質問内容に答えるというよりもむしろ(あるいはそれと同時 に)、インタビュアーに向かって何らかの働きかけ(あるいは対面的相互作用)を行っていると考えるからである。したがって、最も望ましいデータは、「自然 な」会話であり、そこでこそ、「自然な」相互作用を分析できるというわけである。さらにつけ加えると、インタビューは本人の日常的な思考にはない事柄まで も、ある意味で強制的に(インタビューという相互作用を機会に)構成し語らしめる可能性がある。したがって、インタビューをデータとして使用する場合に は、そのようなある意味でのバイアスを考慮に入れた上で分析しなくてはならないか、あるいは、ある事柄について語ることが可能であるようなディスコースの パターン(レパトワール)として分析しなくてはならない、ということにもなるだろう。

余談だが、ジャーナリズムの場合は逆に、取材(インタビューなど)を機会に、ある事柄についてある意味で強制的に語らしめることが重要であり、その ようなコミュニケーション技術に長けた取材者が、腕のいい取材者となる。もっともただ強制的であってはならない。それを自分の言葉であると納得させる一種 のカウンセリング能力も必要とされるのである。出版社勤務時代に話題になった取材のコツやエピソードは、腕のいい取材者のコミュニケーション技術とカウン セリング能力についてのものであった。

さて、話を元に戻そう。そう、インタビューにおける対面的相互作用、あるいはバイアスである。これらを考慮に入れた上で、というか、それさえも現実 的な言語活動の一部として、ディスコース分析ではインタビューを用いている。となれば、先に述べた「何よりも画面にそのとまどいやはにかみ、あるいは緊張 が映っている」という事態を、逆に、ある特定の対面的相互作用に伴う「何か」、新しい技術による調査研究に伴う「何か」として捉えかえし、それを考慮に入 れた上での分析方法を発展させることは可能ではないだろうか。

非常に残念ながら、これについては、私もまだまだ試行錯誤の段階である。しかし最近はデジカメでも動画撮影が可能になりつつあり、そのような技術を 調査研究に応用することも身近になってきた。何より8mmビデオやデジタル・ビデオが普及し、映像あるいは動画の撮影ということがそれほど特殊なことでは なくなってきている。小学校の運動会などに行けば、ビデオを回しているお父さん(なぜかお父さんが多い)が群がっているのは、すでに普通の風景である。

このような一般的な状況を考えると、調査研究においても映像技術を用いて分析を行う方法を検討するときに来ているのではないだろうか。もちろんエス ノメソドロジーや会話分析の世界ではそのような手法が普及している。しかしながら、もっと広く、社会調査の標準的な手法として確立する必要があるのではな いだろうか。ま、かく言う私もいろいろ試行錯誤しているわけで、なかなか難しいわけですけどね。

(30/June/01、佐藤哲彦)

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