「ドラッグの、また別の見方」
佐藤哲彦


 ドラッグの研究をしています、というと、その反応はほぼ二通りに分かれます。まず多いのは「えっ」と絶句して、恐る恐る「何故またそんなことを?」と聞 くといった反応。「はあ、それはまた結構なテーマですね」という社交辞令もこの反応に属すとみていいでしょう。もう一つは、逆に笑みをたたえて「どうなん ですか、マリファナってやっぱり気持ちいいんですかね?」といきなり踏み込んでくるような反応。いずれにしてもドラッグという言葉は、多くの人の心の中で 特別な意味をもって立ち現れるもののようです。

 ドラッグをタブー視するにしろ、聖なるもののように眺めるにしろ、それらの見方においてドラッグは、私たちの社会から排除されているものとして位 置づけられています。例えば現在の日本の法律からすれば、その使用は犯罪として避けられるべきものですし、逆に最近とみに流行っているサブカルチャー関連 の本の多くは、手に入れにくいが魅力的なものとして取り上げています。

 しかし実をいえばこの構図(タブー/聖)は、社会学では、社会秩序の形成という点から極めて典型的なものなのです。それは宗教的世界を考えればお 分かりいただけるでしょう。かつて神が秩序立てていた社会では、反神的存在(悪魔や魔女)はタブー視され、社会の外部に排除されました。それと同様に、例 えば、身体に有害という「医学的真理」から判断してドラッグを社会から追放しようという姿勢は、「医学的真理」をかつての神の位置に置き、ドラッグを反 「真理」的存在として排除しようとするものと考えられます。かつての「覚せい剤やめますか、人間やめますか」というコピーは、「覚せい剤を使用すると医学 的に人間であることを放棄しなくてはならなくなる」と訴えると同時に、「使用者は私たちの社会から排除すべきものである」と宣言したものと考えられるので す。

 一方、ドラッグを聖視する立場は、ドラッグの象徴する価値、それは多くの場合六〇年代のカウンター・カルチャー的価値ですが、その価値を神の位置 に置き、それを排除する体制を悪魔的存在と位置づけて対抗しようとしていると考えることができるのです。

 このように考えた場合、ドラッグが歩んできた歴史は単なる物質としてのドラッグの歴史ではなく、ドラッグとの関係において明らかになる、社会秩序 の歴史と位置づけることができます。また一方、ドラッグを擁護し使用する人たちの振る舞いは、オルタナティブな秩序形成を志向する人たちの活動として解釈 することもできるでしょう。これらのテーマは、私の研究の中でも重要な側面だといえます。

 もっとも以上のように述べたところで、多くの人はドラッグは医学的に有害なのだから悪いのだとするでしょう。しかしその点からすれば、アルコール やタバコはもちろん香辛料でさえ、論理的には悪いと考えなくてはなりません。すると「それは程度の問題だ」といわれるでしょう。まさにその通りなのです。 そのとき、その「程度」がどのような基準で選ばれるのか、それこそが論理的ではなく社会的なのであり、社会秩序と関わってくる点なのです。また社会学に は、科学や思想などを扱う知識社会学という分野があります。その知見からすれば、医学などの科学もまた、社会のあり方に左右されるものとして捉えられま す。その意味で先の「医学的真理」は「真理」というよりむしろ、「真理として信じられているもの」とさえいえるのです。

 最近マスメディアではドラッグ使用の増加が社会問題として取り上げられています。しかしそのような情報を鵜呑みにするのではなく、そこでどのよう な発言がなされているのか、あるいは使用者はどう発言をしているのか、私たちはこれらに対してもう少し注意を払ってもいいかもしれません。なぜなら、同じ 社会に生きている限り、それらはまた別の機会に別の形で私たち自身に降り懸かってくるものだからです。

(さとうあきひこ・文学部講師=当時)

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