論文投稿と査読
―あるいは「反論」のすすめ―
佐藤哲彦


 2002年冬、私は査読のある某学術雑誌(学会誌)に論文を投稿した。論文を査読誌に投稿するのは、実は久しぶりであった。この間、本の一章を書くよう に要請されることが多く、査読誌への投稿をサボってきた。実はそういったことへの反省もあって投稿したのだが、また別の理由もあった。

 それは一つには、批判や意見が聞きたいということであった。掲載確実であることを最優先したいのであれば、熊本大学文学部の雑誌(『文学部論 叢』)に執筆すればいい(とはいえ現在『文学部論叢』でも査読システムを導入しているので、そのまま掲載ということにはならないけれども)。あるいは、 (もしあるのであれば)共著のチャンスを生かせばいい。しかしながら、そのとき書いた論文は、自分としては新しい分析方法に基づいた研究であるし、その分 析方法の是非を、できたら匿名の査読者にチェックしてもらい、批判なり意見なりを聞きたかったのである。

 ほかには読者の問題がある。やはり読者は多いほうがいい、と私個人は思う。確かに『文学部論叢』掲載の論文をWEBに再掲載すれば、不特定多数の 人に読んでもらえて、批判なり意見なり質問なりを多少なりとももらえることは、経験的に分かっている。しかしながら、そうであれば査読誌論文を再掲載すれ ば済む話で、別に投稿を妨げるものではないだろう。むしろ学会誌などの学術雑誌の方が、それなりに関心のある読者がそもそもから保証されているのであるか ら、いわゆる紀要類よりもはるかに実りことは確実である。

 とはいっても、実際には「査読誌には書かない」人たちが結構いる。もちろん「あえて書かない」というよりは「結果的に書いていない」ということが ほとんどだと思うのだが、なぜなのだろうか。単著や共著などの執筆で忙しく、その暇がないというのは十分考えられる。特にすでにある領域の代表的な研究者 だと思われているような人の場合、そういうことがあるだろう。とはいえ、誰もがそうだとも思えない。経験的にいって(ということは、自分でも心当たりがあ るということだが)査読誌を避けるのは、修正要求に応えたりするのがかなり面倒くさいから、ということのようにも思える。そして査読と修正のために、掲載 までに比較的時間がかかるということもある。この間ヤキモキしたりするのは、あまり気分の良いものではないし、そもそもその間業績が生産されないというの は、確かにちょっといただけないかもしれない。

 実は今回も投稿のタイミングが悪く、というのは、次号投稿の締切が過ぎたばかりで、早くても次々号掲載(しかも年二回発行)ということで、査読の 結果は四ヶ月ほど経ってから受け取った。ずいぶん長くかかったなあというのが、率直な印象であった。とはいえ、結果には、それなりにきちんと査読しても らっている様子が分かるような、丁寧で細かいコメントと修正箇所の指示が書かれていた。そのように丁寧に査読してもらって、私は正直、非常に感謝してい る。さらに編集委員会からの手紙には、コメントを参考に修正を行ったのちに掲載の可否が決定される旨が記されていた。私はそれを参考に修正して再送付し、 その結果掲載が決定された旨の連絡をいただいた。投稿から掲載決定まで、半年を要したことになる。

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 さて、この小論で書きたいのは、実はこの間の経緯である。

 実はこの小論では、当初の予定では、「投稿論文」「査読コメント」「修正と反論」「掲載決定論文」の四点を挙げて、私の「投稿論文」に対して「査 読コメント」が具体的にどのようにコメントと修正指示を出していたのか、それに対して私がどう「修正と反論」をし、その結果、どのような形で「掲載決定論 文」が出来上がったのかを、すべてアップしようかと思っていた。

 そしてそのことによって、実は「修正と反論」、とくに「反論」こそが、論文生産の要であるということを書こうと思っていたのである。

 ところが、この計画を同僚の一人に洩らしたら、「そんなことやったら、これから投稿する際に嫌がられますよ」と指摘された。思いもよらなかった。 しかし考えてみれば、確かにそうかもしれない。査読誌への投稿が、いわばマイ・ブームなので、それは困る(実は現在、別の論文を別の査読誌へ投稿中なので ある)。そこで、細かい経緯は省いてこの間の経緯を書いてみたい。とはいえ、具体的に書かないと何だかよく分からない部分も多いので、肝心なところでは、 具体的に書いてみたい。

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 その投稿論文は、ある現象を分析するのに際し、これまでなされてきた分析方法よりも、その論文で提案する分析方法の方が適切であることを、具体的 なデータ分析を見せる中で明らかにする、といった内容の論文であった。

 投稿から四ヶ月ほどたってから「査読コメント」をいただいた。主として表現上の修正要求が二箇所ほどあり、さらに結論部分の修正要求があった。と はいえ、まず全体として「主張したい内容がしっかりと把握されて書かれており優れている」「データの分析においても社会学的な発見として確かに評価できる 内容が複数書かれていて読みがいがある」と評価しており、結論部分の修正要求があっても「掲載可の判断はくつがえらない」ともコメントされていた。

 表現上の修正要求のうち、一つ目は私自身「なるほど、そうかも」と思い、査読者の要求どおり修正を行った。二つ目は、査読者の表現よりも、私自身 の表現のほうが、その箇所の文脈には合っていると思い、査読者の修正要求どおりには修正しなかった。とはいえ、査読者の要求の意味も分かる。そこで、査読 者の要求箇所とは別の箇所を修正し、全体として査読者の要求に応えるようにした。そして修正箇所を明示するための添付書類を「修正箇所ならびに査読コメン トに対する反論」とし、修正箇所と私自身の意見を記載しておいた。

 ここまではいい。おそらくは通常の手続きであろう。問題は結論部の修正要求であった。査読者は「結論部の主張がデータによっては十分には裏付けら れていない」とし、「そもそも、この現象を分析するのに、なぜこのモデルを使用したのか、別のモデルを探索する必要があったのではないか」とコメントして いた。

 私はこのコメントを読んで、「この査読者は、ある特定のパースペクティブのみが実証科学だと考える人たちの一員だな」、そして「この査読コメント は、私の論文の意義を論文自体の中から理解するというよりはむしろ、査読者自身の立脚している理論的背景から私の論文を推し量っていることを示している な」と考えたのである。

 ちょっと分かりづらいかもしれないので、ある程度分かりやすく書いてしまおう(とはいえ、これを書くと一部から反感を買うだろうなあ、嫌だな あ)。私はディスコース分析の方法を医師患者間の相互作用の分析に使用することを提案する論文を書いたのだが、そこで査読者は、おそらくエスノメソドロ ジー・会話分析(EMCA)の観点から、結論部分が問題であるとコメントしたのである。「おそらく」というのは、査読者が匿名なので誰だか分からず、そこ で書かれているコメントの立論の仕方から、こう推測したからである。

 さて、そこで私はどう考えたか。私の頭に浮かんだのは、エマニュエル・シェグロフとマイケル・ビリグの論争である、といっても、一般的には何のこ とかよく分からないだろうから、そのあたりは省こう。要するに、私はこれには反論すべきだと思ったのである。とはいえ、それは私がビリグ・ファンだから、 というわけではない(いや実際にはきわめて経験的なビリグ・ファンなのだけれども)。そうではなく、この論文においては、私の論文自体の中から問題を指摘 するのであればともかく、査読者自身が自分の観点で問題を指摘するのは、筋違いだと感じたからである。

 そこで私は反論することにした。以下はその結論部分の修正要求あるいはコメントに対する、反論の箇所の抜粋である。


ii)-(1)および(2)(注:これは査読者のコメントの番号)
修正なし
【コメント(反論)】
 ii)-(1)および(2)のコメントが示しているのは、本稿がCA(注:会話分析)の方法に準拠すべきであるという主張だと思われる。というのは、こ のコメントを受け入れるのであれば、保健医療に関する社会科学はCA以外存在し得ないということになるからである(とはいえ、Discourse & Society上でのシェグロフとビリグの論争が示しているように、CAの理念が分析において達成されているかどうか、あるいは、他の社会科学(または CDA)に存するとシェグロフが指摘した問題をCAが逃れられているかどうか、は議論の余地のあるところであろう)。査読者は本稿について、「「ある特定 の病気特有の相互作用過程」モデルとデータを整合的に示すのに成功している」としており、その意味で、論文の冒頭に書かれた目的は十分に達していると考え られる。
 そもそもこれらのコメント(注:査読者のコメント)は、そのような準拠提案を正当化する言語編成となっており、明らかに誇張のレトリックが伴う。例え ば、(1)「現実適合的なモデルは無限に設定可能だからである」としているが、決して無限に設定可能ではない。なぜなら、保健医療に限らず社会科学のモデ リングは、論文の形で出される以上これもまた一つのディスコースであり、そのディスコースによって構築可能な文脈的状況は限定されるからである。すなわ ち、そのディスコースを「適格なもの」として構築するのに利用可能なリソースが、ここでは特に保健医療に関する社会科学という枠組みにおいて限定されるか らである。つまり、これはECFの一種であり、その意味でこの部分に先行する査読者の提案を正当化する機能を有しているにすぎないと考えられる。(中略)
 一方、ミードやポパーが主張するように、(社会)科学の仮説やモデリングは、そもそも更なる他の分析によって否定されるべく提出されるべきものであっ て、もしそれが不十分であることが、更なるデータと分析によって示されれば、否定すればよいわけである。その意味で本稿の結論は、(社会)科学の仮説やモ デリングの提案の標準的な方法を踏襲しており、問題ないと考えられる。つまり、査読者のコメントにある、9ページ下から2行目「慢性病の診察に特有のこと として」ならびに10ページ下から7行目「ある特定の病気特有の相互作用過程」は、査読者自身が述べているように、少なくとも本稿が示した診察の段階分け とデータ分析によっては整合的に示されており、その意味でこの結論は妥当なものである。査読者が「十分には裏づけられていない」としているのは、CA的方 法に準拠した場合であって、本稿がそもそも目的としているものとは外れていると考えざるを得ない。(後略)



 EMCAを多少とも知っていなかったり、社会科学の方法論を多少なりとも齧っていないと、この反論が一体何のことか分からないかもしれない。要するに、

(1)論文は常に後続する研究に対して開かれたものとして位置づけられるものであるから、結論部は論文内での検証で明らかになったことを一般化して 語っていいということ

(2)査読者のパースペクティブのみが正しいものではなく、それもまた議論の余地があるのであるから、新しい方法の提案はそれ自体が意味のあること であること(より正確にいえば、理論が正しくても分析はその再現ではありえないので、理論の正しさを糧に分析の正しさは保証されない、それゆえ、分析自体 の正しさが求められるということ)

この二つで反論したということである。

 誤解を避けるために書いておきたいが、この反論は、私の方法の方が、査読者の方法よりも優れているということをいっているわけではない、というこ とである。そうではなく、論理的にいっても、査読者の想定している方法だけが正しい方法ではない、ということをいっているのである。あるいは少なくとも、 方法の多様性を、その方法が合理的である限りにおいて、保証するべきだということなのである。

 もちろん、査読者もそれはある程度理解しているのだろう。だからこそ「掲載可は覆らない」とも書いているのだと考えられる。

 しかしながらその一方で、明らかに社会科学の一般的な方法(あるいは標準的な方法)に不案内としか思えないコメントも見られる。というのは、例え ば先の「掲載可の判断はくつがえらない」の前提部分である。査読者は、「とはいえ、これらの問題点は本稿が発表されるべき質と内容を持っていることを否定 しない。社会学においては、書かれている内容の適否は、発表後問われる部分もあってよい」としている。これには正直驚かされた。そうではない。社会科学の みならず自然科学も含めて科学的研究における命題あるいは説明の価値は、その後の再試験や再検討あるいは再分析にこそある。要するに、その説明が合理的で あると認められるのであれば、その意義は、公表後にこそあるのである。「あってもいい」のではなく「そうであるべき」なのである。査読者はEMCAについ ては詳しいのかもしれないが、あるいはだからこそ、そのような一般的な社会科学の方法論には不案内であるような気がしたのである。

 とはいえ、ここでは査読者、そして査読者の方法を非難しているわけでは決してないということは書いておく必要があるだろう。むしろ私自身は EMCAには非常に共感を持っているし、むしろもっと一般的に利用されるべき方法であると感じている。だから非難など思いもよらない。そうではなくて、重 要なのは、査読コメントの修正意見を鵜呑みにせずに反論することだ、ということを言いたいのである。より正確には、反論をすべく思考することが重要だ、と いうことを言いたいのである。

 というのは、よく考えてみれば分かるのだが、査読者であっても、同じ研究者としての土俵の上に載っているに過ぎない。そしてその研究者の方法だけ が、唯一正しい方法であるわけでもない。また、査読コメントにどのように従うべきかというルールが最初からあるわけではない。査読者のコメントが偏ってい たり、あるいは場合によっては、的外れであったりすることもあるだろう。そのときには、あるいは少なくともそう感じられたときには、遠慮せずに反論すべき である。あるいは少なくとも、そう感じられたという根拠を、自分で言語化するべきだということなのである。それこそが査読誌に投稿する重要な意義の一つで あると考えてもいいだろう(というのは、査読誌何本、紀要何本なんていう業績換算のためだなんて悲しすぎないか?)。査読者は、もしかしたら自分の尊敬し ている研究者かもしれないし、いわゆるビッグネームかもしれない。けれども、匿名であるからそんなことは知りようもないし、逆に知らないで反論できるとい うことは、そのような社会的地位や立場、年齢と関係なく、思考の論理性と立論の合理性にのみ頼って議論できるという、きわめて珍しいチャンスでもあるの だ。こんなチャンスを見逃す手はないだろう。考えただけで楽しくなるようなチャンスではないだろうか。

 だから、査読にはきちんと「反論」しよう。結果的に修正の指示を受け入れるにしろそうでないにしろ、「反論」は考慮に値することだと、私個人は思 うのである。

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 とはいえ、修正コメントをもらわずに掲載されれば、こんなに気持ちいいことはないので、この「反論のすすめ」も、多少微妙な「すすめ」でもあるの は確かではある。

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(追加)ちなみにその後、何の因果か当該雑誌の編集委員になってしまった…。今度は逆に試されているような気がして、これはこれで結構面白いかもしれな い。



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