熊本大学文学会発行 文学部論叢第68号(2000年3月):pp.39-65

ドラッグとともに生きる
―薬物の「コントロール使用」に関する調査研究―

佐藤哲彦


1 はじめに

 本稿はインタビュー並びに参与観察により得られた知見を基に(1)、薬物、すなわち本稿でいうドラッグ(2)の「コントロール使用」について論じ るものである。
 そこでまずはじめに、「コントロール使用」という考え方について簡単に触れておきたい。ここでいう「コントロール使用」とは、ドラッグ使用に起因するト ラブルを避けながらその使用を継続する状況のことを指す。
 もっともこのような定義は、一見、曖昧であるような印象を与えるかもしれない。しかしながらそのような曖昧な印象は、ドラッグのおかれた状況に由来して いる。
 その状況とはまず第一に、ドラッグは通例その使用により精神異常や依存を引き起こすなどのトラブルを起こすと考えられていることである。そのため、トラ ブルのない状態でのドラッグの使用は、精神異常や依存に陥るまでの準備段階として解釈されてきた。つまり、一般的な印象からすれば「コントロール使用」は 「すでにドラッグでおかしくなっているのに、単にそういう風に見えないだけ」として捉えられる可能性があるために、これをコントロールされているものだと 述べることは曖昧な印象を与えるのであろう。
 また第二にその状況とは、ドラッグは違法な薬物であり、その使用が露見すれば使用者は犯罪者として処遇される可能性があることである。つまり、ここでい う「コントロール使用」とは、逮捕などとの対比においても成立している言葉であり、その曖昧さは犯罪者として処遇されることが、あくまで可能性であるとい うことに由来しているともいえるだろう。
 これらのことからも分かるように、「コントロール使用」という状況が「コントロール」されているという視座は、調査過程において調査者(筆者)によって 確保されたものである。よって、ではどのようにしてこのような調査者(筆者)の視座が確保されたのか、ということが問題となるだろう。これは次のような理 論的前提を置くことによって確保された(3)。より正確にいえば、論理的な一貫性を保つために、調査過程においてこの前提を採用することになったのであ る。

「中毒性物質(intoxicants)との何世紀にもわたる経験は明らかに、禁止(prohibition)ではなく、その物質の使用を監督する に際して人道的で合理的成功を収める唯一の方法である社会制御(social control)を示している。社会制御とはこの場合、ある社会が、さまざまな法的制限の下で中毒性物質の使用を許可し、許容できる使用を決めるさまざま な慣習・儀礼・社会的制裁を発達させることを意味する。」[Zinberg , Jacobson and Harding、1975、p.165](4)

 このような観点からすれば、精神異常や依存といった言葉はドラッグの本質的な属性ではなく、それが特定の社会状況(典型的には治療施設)で非対称 的な社会関係(典型的には医師―患者関係)において語られることからも分かるように、知識と解釈を通した社会制御のためにわれわれが有する語彙 vocabulariesであると考えられるのである。
 結果的に明らかになったこのような視座から、以下ではドラッグを使用する者が、どのようにして自らのドラッグ使用を構成・維持していくのか、すなわち、 どのようにしてわれわれが結果的に「コントロール使用者controlled user」として語ることができるような姿として立ち現れるのか、ということを二つの段階、すなわち使用開始段階と使用継続段階に限って見ていきたい (5)。

2 「出会い」

 ドラッグ使用者になる過程については、ベッカーによるマリファナ使用者の研究[Becker、1963/1978]がこの過程を段階的なものとし て分析している。そこではマリファナに依存性がないということが前提としておかれ、マリファナ喫煙の快楽を求める自然な欲求が、その継続的使用者へと段階 的に導くことが明らかにされている。それらの段階においては快楽の学習ということが重要であり、これをベッカーは分析的に、薬物効果を得るための喫煙法の 学習段階、薬物効果の知覚とそれを喫煙に結びつける学習段階、感覚体験を楽しむ学習段階の三段階としている。またこの分析的段階は、他のドラッグにも当て はまることが明らかにされている[Feldman、1968:Waldorf , Reinarman and Murphy、1991:佐藤、1996:佐藤、1999]。
 これらを踏まえた上でここで問題になるのは、その過程において「コントロール使用者」へと至るには、どのような要素が介在するのかということである。
 本章で資料とした調査対象者は20人である(6)。うち、男性13人・女性7人であり、会社員10人・自由業(自営業ならびにフリーター)6人・学生3 人・無職1人である。ただし、なかには調査継続中に学生から会社員になったのが2人いる。また、調査継続中は無職であったのだが、その後転居によって連絡 がつかなくなったのも1人いる。
 ここでの調査対象者においては、ベッカーの研究と同様[Becker、ibid.]、ほとんどの場合、ドラッグとの「出会い」は偶然である。なかには海 外旅行で初めて「出会い」、その使用方法を身につけて帰ってきてから、日本で流通経路を探し当てたというケースもいくつかあるが、そのケースにおいても日 本での「出会い」自体はほとんど偶然によっている。
 また、ほとんどの使用者は、親戚や以前から仲の良かった友人・知人に勧められることによって、ドラッグを体験している。その場合、マリファナが最初のド ラッグである場合が多いが、覚せい剤やLSD、エクスタシーの場合もある。そして、親戚や友人・知人の部屋で体験するというケースが半数以上を占めてい る。自分の家で体験するというケースさえあったのである。
 その場合、望んで使用するのであれ、躊躇しながら使用するのであれ、いずれにしても、それが違法であるという観点から直接的に思いとどまった人はいな かった。彼らの大部分にとって直接的なのは、ドラッグを使用するような機会に居合わせることによって何か身の危険があるのではないかと感じること(法律に 由来する問題)、具体的には逮捕の危険があるのではないかと感じること、さらには、ドラッグを使用することによって何らかの身体的な被害を受けるのではな いかと感じること(健康に由来する問題)、である。しかしながら、結果的に使用に至った人たちは、当然それを乗り越えるということを経験している。
 一方、パンクやロックなどの反体制的メッセージを有する音楽を愛聴し、自らもそのような音楽を副業、あるいは趣味として演奏するような一部の使用者たち にとってはむしろ、そのような問題、特に禁止されていることこそがドラッグの魅力の一つである。彼らにとってはドラッグとの「出会い」の困難さこそが問題 であって、体験の機会自体は歓迎した。
 しかしながら、この両者においても以下の知見はほとんど差異がない。パンクのバンドをやっていたところで、会社員であったりフリーランスの仕事をしてい たりすることには変わりなく、その意味では通常の社会生活を営んでいる。その差異は結果的にドラッグの意味づけくらいにしか差異をもたらしていないのであ る(7)。
 そこで以下では、この両者の違いにも幾分注意を払いながら、それらの問題を乗り越えるという点について言及していこう。

・法律に由来する問題
 まず第一に法律に由来する問題がある。合理的に計算するのであれば、逮捕の危険は可能性としては決してならない。しかしながら果たして、親戚や友人・知 人の家にいながらにして逮捕の危険を感じることができるだろうか。あるいは自分の家でそれを感じられるだろうか。そもそもからして、そのような親戚や友 人・知人の家に行くようなことがあるだろうか。彼らにとってその場にいることは決して非日常的なことではない。逆にそこでの「出会い」こそが、いわば青天 の霹靂なのである。

「マリファナを最初にやったのは大学のときでした。(何年?)大学1年でした。(どういう機会があって?)あのお、友だちのところにいったら何故か そこにあってですね、いやホントです、あったっていっても、もちろん、その友だちのところに来てた別の友だちが持ってたんですけどね。その友達は結構比較 的いつも親しくしてるヤツだったんだけども、そこにたまたま知らない人が来てたんですよね。知らないっていうか、それ以前には会ったことのなかった人間が 来てて。(中略)で、そのときに、僕今でも覚えてるんですけど、『いく?』っていわれて、いや、何のことか分からない、正直言って。マリファナ吸うような 人間なんて全く思ってませんでしたから。(中略)まあなんか、もしかしたらとてつもない恐ろしい結果が待ってるんじゃないかもしんないけど、この状況から してそれはないんじゃないかと。友人の家だったし、まあそこにいるくらいだから。」(m1:30・会社員)
「マリファナが一番初めで、そう、薬物っていうか、いつだろうなあ。十八だ。(中略)クラブでウェイトレスしてたときに、一緒に働いてた友だちがクラバー で、一緒にウェイトレスやってたんだけど、その子が紹介してくれたんだけど、そのときに。当たり前のように差し出されたから、当たり前のように吸って。 (中略)最初タバコだと思ったらすごい違う味がして。(何もいわないで差し出されたの?)うん。でも何これって聞くの恥ずかしいから、何もいわなかったん だけど、でもなんか頭ボーッとしちゃうみたいな感じ。(中略)『何これ、マルボロって書いてあるのにマルボロじゃない』って。(中略)友だちの家、バイト の後泊まりにいって。」(w1:25・会社員)
「それは別にやばいとか思ったりしませんよ、自分の部屋でしたし。それ持ってきたヤツだって普段から付き合ってるヤツだったし。驚いたのは驚いたけど。」 (m2:30・会社員)

 そのような「出会い」は、したがって、彼らにとっては、直接的に逮捕の危険性を感じさせるものではなかった。その場所においては、そのような感覚 (これはまさしく感覚である)は、立ち現れなかったのである(8)。
 ここで参考になるのは、ドラッグ使用による処罰の厳しさを知っている使用者の場合でも、彼らの多くが「結果的に」「あとで」それを知ったとしている点で ある。つまり、最初の時点ではその処罰の厳しさについては知らないのである。

「知り合いの知り合いから、クスリで捕まったら言い訳がきかないと聞かされたけど。(中略)それは確かに後になってからでしたね。最初から知ってた わけじゃあないですよ。」(m2)
「覚せい剤はやばいですからね、見つかったら。だから外では絶対持ち歩きませんよ。(中略)もちろん、最初っからそんなこと知りませんよ。いろいろ聞いて ですね。」(m1)

 実際、政府広報などに現れるドラッグの問題性への言及は、ほとんどの場合、それが結果的に使用者自身の身体に害を及ぼすということなのである。
 同時に、彼らにとって逮捕の危険性とは、行為そのものに属するというよりはむしろ、いわば逸脱的下位文化に属しているような外貌や振る舞いの次元として 把握されているともいえる(9)。本章で参照する調査結果の限り、結果的に使用にいたった人たちは、そのファッションはともかくとして、そもそもいわゆる 逸脱的下位文化にコミットしていたわけではないし、問題を起こしてきたわけでもない。そのような彼らにとって逮捕の危険自体とは、どのようなものかは不明 なのであり、いわば対岸の火事のようなものである。

「他に捕まえるべきヤツいるでしょ?チーマーとか人様に迷惑かけてるヤツ。(中略)というか会社員、基本的に眼に入ってないですよ、お巡りさん。ネ クタイ姿の人は。だってネクタイ締めてるってのは、社会に対する従属の証ですから(笑)いや、マジでマジで。そう思いますよ。」(m1)
「知り合いで捕まった人いるけど、みんなサーッと引いちゃったよね。みんな冷たいよねえ。(クスリで捕まったの?)というか、喧嘩で相手めちゃくちゃにし ちゃって、それで捕まったんだけど、身体検査されて出て来ちゃったんだって。スピードとエクスタシーだったって話だけど。(じゃあ、やばいんじゃない?) うん、やばいといえばやばいんだけど、でもその人、もともとそういう人だったから、それほどね。」(w6:22・学生)

 このように、結果的に使用者になった人たちにとって体験を押し止めようとするものとして、逮捕の危険性はあまり重要とは捉えられていない。一方、 彼らにとっては、そのような場でそれを断ることが場にそぐわないということをうすうす感じていることもある。

「とりあえず、なんか、無碍に断るのもアレだし。」(m1)
「いい感じでみんなで騒いでたから、その後で急にそれ(マリファナ)が出てきたんだけど、断るっていうのも変だったし。ノリかな。だってせっかく奨めてく れるんだから。」(m2)

 そしてこれはそれまで体験したことのないドラッグに対しても当てはまる。

「シャブ(覚せい剤)はやったことなかったし、別にやりたいって思ってもいなかったけど。やっぱりシャブはまずいんじゃないかなあ、と思ってたか ら。(中略)でもマリファナ吸ってたときに、『じゃあこれもいこうか』って出されたんですよ、そのときに。(中略)断りませんでした。ちょっとやばいかな あとか思ったけど、何となく、そう、まあいいやって。雰囲気的に。使ったことないっていうのもちょっと恥ずかしかったし。」(m2)

 この点については、そもそも音楽活動などを行っている使用者とそうでない使用者とでは多少の差異があらわれている。前者の人たちにとっては、そこ でドラッグを使用するということは、むしろ望ましいものと感じられたからである。
 もっとも、これをその場の圧力で断りにくかったと単純化することはできないし、音楽活動がドラッグ使用を促すと単純化することもできない。というのは、 このように語る彼らではあっても、先に述べた逮捕の危険性や、以下に述べる健康に由来する問題についても、やはり思いを巡らしているおり、その意味で、判 断と選択は行われているからである。

・健康に由来する問題
 一方、より直接的な問題として、身体的な変化が想定される。ただしその変化は、巷間いわれているような害悪だけが想定されるのでは決してない。使用者が いるということから考えても、あるいはドラッグ賛美の文献の存在、またドラッグを用いて制作したとされる芸術作品(音楽、文学、絵画、映画)などの存在か らしても、当然良効果も想定されるのであり、それが使用に踏み切る大きな原動力の一つとなっていると考えられる。

「ストーンズの、ブライアン・ジョーンズもLSDで死んだから、そんときに麻薬の本とかいっぱい読んだの。で、何か、うん、へえーって。そのときは 全然恐いって思わないで、やってみたーいって思った。」(w1)
「麻薬の本とかじゃないですけど、いろんな本読んでると、この絵はガンジャ(マリファナ)吸って描いた絵だとか、そういうのって読んだりするじゃないです か。それでああそういうもんなのかって。」(m3:24・学生)

 もっとも、使用者の誰もがそのような文献や芸術にあらかじめ接していたわけではない。しかしながら、そこまでは知らなかったとしても、ドラッグが 意識を変容させる効果を持つという程度のことは誰もが知っていた。ある意味ではその程度でも十分のようである。というのは、結局のところ、この効果は身体 的なものであり、言葉や文字で伝えられたところで理解できるわけではなく、ましてや「意識が変化する」といわれたところで、それは実際に使用してみないこ とには分からないからである。その意味で文献や芸術の存在は、意識変容という概念の具体例として理解されているに過ぎない。
 もちろん、そのような事例や情報を知っていたところで誰もが進んでドラッグを体験するわけではないだろう。実際、この意識変容という概念の理解不可能性 は、一方で好奇心を、他方で恐れを喚起している。結果については、状況証拠以外に何の保証もないのである。

「何か意識が変容するんだろうなって。(中略)何だかよく分かんないけどラリるんだろうなって思いましたけど、それが具体的にどういう変わり方なの かって全然知りませんでしたよ。ちょっとやっぱ、恐怖心ありましたよね、実をいうとね。どうなるか分からないって。」(m1)

 したがってそこでは、ほんのわずかの一瞬ではあっても、誰もが跳躍のような瞬間、自分を賭けるような瞬間を経験している。その意味で、跳躍の瞬間 を受け入れるかどうか、保証のない未来に自分を賭けられるかどうか、それがドラッグを体験するかどうかを決定的に分けていると考えることができるだろう。
 一方、想定される身体的な害についてもまた、乗り越えなければならない。その場合、重要なリフェレンスとなるのは、目の前の使用者や使用状況である。し かし使用者という点から考えれば、それを奨めてくれるのが、普段から知っている親戚や友人・知人であることから、ほとんど問題にはならない。むしろ問題に なるのは、使用状況、特に使用形態であったりする。具体的にいえば、マリファナの場合、タバコのようにして吸う形態(ジョイント)やパイプでの吸引はほと んど抵抗を生まない。覚せい剤であっても形態という意味では、アルミホイル上の粉末を下から火であぶる「アブリ」や鼻から吸う「スニフ」の場合は抵抗を生 まない。彼らが口を揃えて拒否するのは、注射という形態である。

「奨め方も奨め方でしたから。いきなり注射器とか、そのお、金属器具とかが出てきたわけじゃないですし。なんか草がパリパリって燃えてるだけでした から。」(m1)

 また、覚せい剤使用といえば、注射による使用が一般的だと思われているが、彼らの注射に対する抵抗は、それが使用者としてかなりの経歴を歩んだ後 でさえある。

「注射はやばいよ、注射は。」(m6:31・自由業)
「注射はまずいでしょう、やっぱり。」(m1)
「シャブ(覚せい剤)は鼻から入れるのが無駄がなくていいんですよ。煙だと全部吸収されるわけじゃないから。息吐いたら出ちゃいますからね。(注射は?) 注射?いや、注射はやばいでしょ、やっぱ。それに注射しても効果はそう変わりませんよ。」(m9:33・自由業)

 さらに、眼前の使用者や使用状況だけではなく、それまでに獲得した「身体に関する世俗的知識mundane knowledge of the body」もやはり重要なリフェレンスになる。

「だって、マリファナよりタバコの方が健康に悪いこと知ってたから。それは本を読んでたから。」(w1)
「マリファナは別に悪いもんでもないっていうか、コカインとか阿片とか、いわゆるシャブ(覚せい剤)みたいなんとか、あんなんは悪いってのはね、聞いて分 かってたし、中毒性があるとか身体がやっぱり悪くなるって、だけどガンジャ(マリファナ)とか天然のもんはタバコよりもいいって、悪くないってのは知って たし。(それは本で読んで?それとも聞いて?)聞いてでしょうね、あんまし覚えてないけど、お姉ちゃんに聞いてかな。」(m3)

 このようにして、結果的に使用者となる人たちは、目の前のドラッグに対して、そのドラッグについて語られる危険性を乗り越える体験をすることにな る。しかしながらこの体験、当然のことながら、その本人がそのドラッグに対し、どのような「身体に関する世俗的知識」を有しているかによって、かなり左右 される。それは単に、乗り越えられない、ということを意味するのではない。その後の使用者としてのあり方自体にも重要な影響を及ぼすことになるのである。
 たとえば、調査対象者の数人は、当初、覚せい剤の使用を拒んでいる。それには、「覚せい剤をやるとやめられなくなる」という知識と「覚せい剤をやるとお かしくなる」という知識が大きな役割を果たしている。特にこの「やめられなくなる」という知識は重要である。先にも引用したように、「マリファナは中毒性 がない」という言葉の裏には、「中毒性のあるドラッグはさける」という発言が隠されているのである。そしてそれは他のドラッグにも当てはめられる。

「友だちがやってるときは、すごい心配した。でもその後、友だちがやってるって聞いてまた興味をひかれて、自分で本買って読んだときに、あの、L (LSD)は依存性がないって書いてあって、習慣性がないからって書いてあったから、『ああ良かった』って。」(w2)

 では、その問題性が多く語られる覚せい剤を使用するに際し、彼らはそれにどのように対処しているのだろうか。これについては多くの場合、これまで と同様、それを奨めてくれる使用者が、普段から知っている友人・知人であることが大きな役割を果たしている(10)。と同時に、そこで伝えられる新しい知 識が重要である。その場合、先にも述べたように「注射でなければ、それほど問題はない」「使いすぎなければ問題はない」ということを教えられることが多 い。

「別に止められるよ。止めると疲れるから、しばらく休まなくちゃいけないけど。」(m12:28・無職)
「ちゃんと教えてくれたから。その人が。だって、寝ないで踊ってるんだから疲れるの当たり前だし、その後ちゃんと休めって。」(w6)

 その一方で、「おかしくなる」という知識が逆に、使用を継続させることにもなっているケースがある。

「ほら、ジャブやるとおかしくなるっていう話があるでしょう。あれで、やったはいいけど、『もしかして止めたら急におかしくなるのか』とか思って て、最初はしばらくの間、恐くて逆に止められないことがあったんですよ。本当っすよ。(中略)でも止めてみたら、別になんてことはなかったっすね。確か に、ぐったりしてて、2日くらい寝てましたけど。それだけでしたから。そういうやつらって結構いましたよ、俺の回りに。本当っすよ。」(m9)

 このケースが興味深いのは、自らの「身体に関する世俗的知識」を体験によって修正しつつそれに基づいた知識を構成していることである。その意味で は他の使用者も同様に、そのような知識を多少なりとも確認したり修正したりしている。
 いずれにしても、ほとんどの使用者は、それがマリファナであれ、覚せい剤であれ、LSDであれ、やめられなくなるという言葉、おかしくなるという言葉、 これらにことのほか敏感である。そして彼らは自ら使用を継続したり停止したりすることによって、自分の身体でもってそのドラッグが何であるかを理解しつつ 使用を行っている。そのことによって、他からは得られないドラッグに関する知識、特に自分自身に対するドラッグの影響に関する知識を生み出してきたし、生 み出しつつあるのである。

・外出
 ドラッグを一度体験したのみならず、その後にも使用を継続していくことになれば、ドラッグの効果下にあるまま、外出することも多くなる。調査対象者は全 員、そのようなことをごく普通に行っている。
 そこで使用者はまず、その使用が仲間うち以外に、あるいは少なくとも非使用者には露見しないように、本人の視点からではあるものの、振る舞いの次元で一 見ノーマルであることを装わなくてはならない。もっともそれは出かけていく場所にもよる。「キマっている」(薬物効果の下にある)状態でクラブやパーティ に出かけていくことは、取り立てて特別なことではない。むしろ、彼らの多くはそのために使用しているとさえいえる。
 一方、クラブやパーティに出かけていくとはいっても、交通機関を使い、公道を通って向かうのであり、それらの場所においては、それなりの装いが必要とさ れる。しかしこれはそれほど難しいものではない。というのは、当初から、ドラッグ使用中であっても、普段の行動は普段通りにする必要があるからだ。ただし それは、たとえばベッカーのいうように[Becker、ibid]、仕事などに出かけて自分がそれを普段通りにできることに気づくことによってというより はむしろ、仲間うちで使用するうちに体得していくものであり、仲間うちであってもそれなりの振る舞いを要求されることに起因している。

「だからいわゆる経験。(でも同じ集団内で経験しててもダメじゃないかな?)いや、ダメじゃない、ダメじゃない。それはやっぱり、その場において も、みんなそれぞれ、だって、行動においてもですね、別に実験室にずっと引きこもってずっとやってるわけじゃなくて、その場においては、常に個々人がやら なきゃいけない行動ってのがあるわけでしょ。(中略)移動するとかどっか行くことあったら、車運転だれかやるとか、買い出しやるとか、あるいは外に出なく ても、その電気つけるとか、そのお、変なあのお、ウデーっとなっちゃったヤツがいたら介抱するとか、(中略)当然これやってたら、みんながフェーっとなっ てるんじゃなくて、だんだんだんだんっていうか、まあ、いつしかっていうか、いつのまにかっていうか。(中略)歩けないっていうんじゃ話にならないですか らね。」(m1)

 いくらドラッグを使用しているからといっても、彼らは何もかもを好きにしているわけではない。そもそも使用を行うためには、流通を確保した仲間と 結びつき、ドラッグの好意的効果(快楽)を学習しなくてはならない[Becker、ibid.;佐藤、1996]。その意味で、導入体験を行う何らかの集 団に属しており、そこで振る舞い方を身につけるのである。
 以上述べてきたように、彼らはドラッグ使用体験を受け入れるに際し、幾つかの問題を乗り越えている。しかしながら、ただ単に黙って受け入れたり、むやみ やたらに手を出したのではない。最終的に、自分を賭けるような瞬間を経験するものの、その賭のリスクがそれほど大きなものではないと見積もることができて 初めて、受け入れることができたと考えられるだろう。

3 「コントロール使用」の諸側面

 使用に踏み切った彼らのその後の使用経過は、さまざまである。数年かけてほとんど全てのドラッグを体験し、時と場合に応じて使い分けている人もい れば、マリファナはあまり使わずに、LSDを使い続けている人もいるし、特別なイベントがある週末にのみ覚せい剤を使用する人もいる。
 使用経過はさまざまであるものの、共通した点は、彼らが逮捕されず、とりたてて問題を起こさず、一時的に使用を中断したりするようなことはあるものの、 長期にわたって使用を続けているという点である(m12を除く)。
 そのような「コントロール使用者」であり続けるということは、彼らにとって取り立てて難しいものではない。というのは、その契機は、すでに彼ら自身に含 まれていると考えられるからである。

・「中毒」を避ける
 たとえば、「中毒」というものを「ヤクをくれえ」と叫び続ける囚人の姿としてイメージしつつ、「中毒」にならないように確認しながら使用していること。 これはさほど難しいものではないだろう。というのは、リンドスミスが明らかにしたように[Lindesmith、1947:佐藤、1995]、「ヤクをく れえ」と強迫的欲求を訴えるようになるには、習慣による欲求の強化が必要であるからだ。調査対象者のなかには、ヘロインの定期的使用者はいないが、日本で は覚せい剤使用者もまた、そのような「中毒」として把握されている。しかしながら、そのようなものとして「中毒」を把握すれば、当然のことながら、ある程 度「ちょっと欲しいなあ」と思うくらいは問題なく、無ければないで済ますこともできる(11)。それによって、そのような習慣は確立されにくいのである。

「パーティがあるときしか使わないよ。だって別に普段必要ないし。」(w6)
「それはね、やりたいなあって思ったりするときもありますよ。仕事で外に出てるときなんかにも。でも別にどうしてもってわけじゃないですし、気にするほど のことはないっすね。なんか最近、覚せい剤の中毒っていうのは、どういうのかよく分かんないっすよ。」(m9)

 さらに重要なのは、先にも述べたように、「中毒」はやばい、「中毒」を避ける、というその発想であろう。これはすでに疑えない次元のものである。 それが疑えないという次元に達しているということこそが、彼らの「コントロール使用者」としての立場を強固なものにしていると考えることができる。
 ではまず第一に、この疑えない次元は何に根ざしているのだろうか。
 もちろん、インタビューにおいてこれを直接的に問うても、答えは見つからない。疑えない次元のものであるからである。つまり、多くの使用者はこれを感覚 的に把握しているのである。しかし次のように語られることもある。

「だってやめられなくなったら終わりでしょ。」(m1)

 では、ここでいう「終わり」とは一体何の「終わり」を指すのだろうか。

「嫁さんもそうですけど、嫁さん含めていま自分が置かれてる立場って歯止めになりますよ、それはね。」(m1)

 ここに典型的に語られているように、彼らにとって重要なのは、現在の自分が守るべき「立場」をもっているということ、さらにはその「立場」を守る こと、である。もっとも多くの場合、これは意識化され、語り出せるものではないだろう。それは意識化されずに、感情として発現していると考えることができ る。というのは、逆に本人がそのようなものを持たないと感じている場合、「中毒」については、取り立てて問題としていないからである(m12)(12)。 ただしそれは単に家族や仕事といったものとしてだけではなく、その「立場」自体がドラッグを買う金の出所でもあるからだ。

「当たり前だろ。会社やめられるわけないじゃん。会社やめたら買う金なくなるじゃん。」(m9)

 では次に、それらの疑えない次元は、どのようにして彼らの振る舞いをコントロールしているだろうか。

・意識的なコントロール
 既存の研究によれば、この「コントロール」は比較的意識的なものとして捉えられている[Waldorf and Reinarman and Murphy、ibid.:Zinberg and Jacobson and Harding、ibid.:佐藤、1999]。個人的な取り決めなどはその典型であろう。確かに彼らは自分なりの取り決めをもっていることが多い。

「(運転しろといわれて)無理だって。俺はシャブ(覚せい剤)やったら運転しないよ。できねえよ、嫌だって。」(m8)
「スピードやったら眠れなくなりますからね、基本的に翌日仕事がある晩なんかはやりませんけど、しょうがないときには眠剤(睡眠薬)喰って強引に寝ます ね。」(m1)
「(覚せい剤は)パーティがあるときしか使わないよ。だって別に普段必要ないし。(中略)だから週末だけ。(中略)でももう就職も決まったし、こんなこと やってる場合じゃないないんだけどね(笑)。」(w6)

 このように語られる「コントロール」は彼らがいうところの彼ら自身の「立場」を守るためのものである。その際、最も重要となるのは、その「立場」 において求められる役割を演じることである。それはたとえば、会社員なら会社員らしく、学生なら学生らしく、フリーターならフリーターらしく、振る舞うこ と。個別具体的にいえば、前日までどんなに激しくドラッグを使用することになってしまったとしても、会社があれば何とかして通常通り出勤する、約束があれ ば遅刻せずに出かけていく、など、それぞれ置かれた「立場」によってさまざまではあるものの、それぞれがその役割を演じていくのである。その場合、その役 割を演じるために、あらかじめ考慮しておくのが、最も基本的な「コントロール」戦略である。

「いや、その日はダメです。翌日、仕事あるんで。」(m1)
「そうだよねえ、学生のときみたいに手に入ればいつでもってわけにはいかないよねえ、仕事あるもんね。」(w1)
「あいつらあれで明日仕事あんだぜ、○○はともかく××ちゃんとかよく大丈夫だよなあ。俺はあんなこと出来ねえよ。」(m9)
「いいよなあ、あいつら。俺も仕事なければなあ。」(m10)

 したがって、たとえば、LSDを使用して朝方までパーティで踊りあかした後には、精神安定剤をとってLSDの効果を減退させたり、マリファナを 吸って身体をリラックスさせ、風呂に入って疲れを出すなどの手続きも考案されることになる。このようにして「立場」を守る戦略は組み立てられる。そしてそ れが彼らの習慣や儀礼として成立していくのである。
 そしてこのような戦略は、もともとは個別具体的な状況や個々のドラッグに対するものであったのだが、やがて一般化した形で語られるようになる。

「それは、何をおいても、喰う、寝る、これでしょう。それさえきちんとしておけば何とかなりますから。」(m1)
「(ドラッグを使用する前にコンビニエンス・ストアに寄って)喰わないとまずいから、何か買っておこうと思って。」(m9)

 ここで彼らは、新しい使用者に対して逆にそれを伝える側に回ることができるようになる。その場合に興味深いのは、近道もまたあるということであ る。彼らの多くは、何らかの形で「身体に関する専門的知識professional knowledge of the body」に接近している。なかには専門書を読んで学んだ人もいるのである。

「キマりすぎたらですね、りにょうざいとか使うんですけどね。(利尿剤?)ええ、利尿剤。ナシックスっていうんですけど。これ使って抜くんです。 (中略)ナシックスって商品名ですけどね。」(m1)
「俺さあ、専門書とか読みましたよ、日本のじゃないですけど。(中略)で、分かったんですけど、シャブ(覚せい剤)やったら、とりあえず炭水化物とビタミ ンとって寝とけばいいんっすよ。(中略)だから、いってんっすよ、みんなに、炭水化物とれって。」(m9)

 つまり、「身体に関する専門的知識」は、ドラッグに関する一般化された知識の一つとして参照される。その一般性から演繹することによって、個々の 具体的に認知された状況への対処を選択するのである。この場合、一般性が重要な意味を持つのは、彼らが使用を継続しているからである。継続的使用は、継続 という点で常に自分を新しい局面に置くことになる。ということであれば、経験にのみ準拠して対処することは難しく、それゆえ専門的知識と演繹作業というの が、彼らにとって安全と安心を運ぶと考えられる。

・意識化されないコントロール
 しかしながら彼らは、意識的なコントロール戦略のみで、想定されるあらゆる局面を乗り越えているわけではない。確かに意識的なコントロールは、個人が自 分の「立場」を考慮することによって動員される。そしてそれが習慣化することによって強固なものとなる。しかしその一方で、個人がおかれている「立場」自 体が、意識化されないコントロールを強制することもある。さらには、自分の状況をどのように定義するのかということに関して、使用者ならではの知識を動員 してそれを解釈し、それが結果的にコントロールを促していることもある。それにはこれまでみてきたような、使用者へといたる過程もかかわっている。それら について、ここでは大きく分けて四つ、(i)個人的な好み、(ii)集団との関係、(iii)「非コントロール使用者」との分化、(iv)アクシデントの 解釈、を挙げておきたい(13)。

(i)個人的嗜好
 ドラッグ使用者と呼ぶことができる彼らであっても、全てのドラッグを時と場所をおかまいなく使用しているわけではないのは、これまで述べてきた部分でも 明らかであろう。そのような、いわばTPOに沿った使用は、意識的なコントロールとして把握できる一方で、意識化されないコントロールとして、まず「ド ラッグの好み」というものが挙げられる。その好みとは、使用者が結果的に把握したそのドラッグの効果・ドラッグへの意味づけ・「立場」の三者関係において 形成されると考えられる。これらのうち、前者二つはドラッグの快楽を学習した結果として現れるものであり、したがって、快楽の学習を可能にする集団と深く かかわってもいるが[佐藤、1996]、あえてここで取り出して述べておきたい。
 たとえば、ある使用者は、あらゆるドラッグを試してきたものの、自分の好みはマリファナだという。

「(好みは?)いや、僕は、全部好きですけど、やっぱり、そうですよねえ、やっぱり最後はやっぱり、ガンジャです、マリファナですよね。(中略)い や、でもいろいろやっているうちに、やっぱりその、マリファナ、別にやったって、その酒とかだったら明くる日はきついし。マリファナも最初はそうでした よ。(中略)でもやっぱりそのお、全然からだに問題ないって分かりますからね、ずうっとやってると。だけどやっぱりL(LSD)とかって、最初は遊びでイ ケイケでやってても、明くる日はやっぱり死ぬじゃないですか、寝れないし。」(m1)

 明らかにこの場合の「好み」とは、自分が無理せず楽しめるものである。「なぜ使用するのか?」という問いに対しては「楽しいから」と率直に答える 彼らにとって、ドラッグとはどれも純粋に楽しむものであるという意味で「好み」として受け入れられるようにはみえる。しかしながらその一方で、この「無理 せず」という部分に日常的な選別が働くと考えられる。確かに、その部分の語りは人によってさまざまではある。たとえば「健康に悪くないから」「リラックス できるから」など。しかしながら、これらは彼らの「立場」で無理のない使用が可能であるという部分に拘束されているのである。
 また、この調査で話を聞かせてくれた人たちの多くは、マリファナを好んでいるのだが、なかにはむしろ覚せい剤の方を好んでいる人もいた。ある使用者は、 マリファナの効果が苦手だと語った。彼によると、マリファナは「なんかグタっとしちゃったりするから」あまり好きではないという。

「それはそれでいいんですけど、あと、考えがなんか狂うんっすよね、滅茶苦茶に。あれーっとかいっちゃって、それでやることがへなちょこになっちゃ うんですよ(笑)。あと非常に時間がかかるのが遅かったり。なんかジュース取って来ようとか思うと、もう大作業なんっすよ(笑)。(中略)まあ、音とかは 露骨に気持ちいいっすけどね。」(m9)

 一方、覚せい剤を好むことについては次のように述べた。

「充実感。やる気が出ていいもんっすよ。俺それまで無気力とかに悩まされてたから。(中略)最高っすね。」(m9)(14)

 ドラッグ使用者へと至る過程において、好意的効果、すなわち快楽の解釈は可能になったとしても、彼らにとってやはり「好み」は存在する。つまり、 ドラッグの効果・ドラッグへの意味づけ・「立場」、これらの関係によって「ドラッグの好み」は形成される。そしてその「好み」に従うことによって、継続的 使用と自分自身との関係が無理なくとれ、彼らは意識せずにコントロールしていると考えられる。

(ii)集団との関係
 また、彼らはドラッグを一緒に楽しむ仲間をもっている。その仲間うちでは、確かに、その仲間に属する一人一人のやることの多くが受け入れられている。し かしながらその仲間うちに入るのに際して、それなりの選別が働いている。あるいは、その仲間うちに入った時点で、そこで暗黙の前提とされる他のメンバーと の関係の取り方が強要される。
 たとえば、前節・外出の項で引用したように、基本的には自分の面倒は自分で見る、という暗黙の了解がそこにはある。どうしようもなくなってしまった場合 (先の例では「ウデーっとなっちゃったヤツ」)を除けば、自分のことは自分でやらなければならないのであり、したがって、自分なりの分別をもって使用にの ぞまなければならない。どうしてもそれがのぞめそうにない使用者、たとえば経験の浅い使用者や分別のない使用者に対しては、量を減らすような自粛を求めた り、付き添ってケアをしたりするのである。
 もちろん、多くの使用者は、使用を重ねるにつれ、クラブやパーティなどで他の使用者と顔見知りになり、一緒に使用したりすることもあるが、そのような関 係は、実は彼らにとってはあまり重要ではない。

「なんつうのかなあ、仲間の説明はしにくいんですけど、まあ、親しいようで親しくないんですよね、結局みんなね、基本的には。(どういうこと?)だ から、要するに、顔見せて、しょっちゅうしょっちゅう会ってて、会えば親しくしゃべっても、そんなにその、なんていうんですか、こういうとこ来て会ってて も、別に私生活とかで、要するに、これ以外のところで会わないでいたら、そんなに親しくないんですよ、基本的にはね。(中略)私生活とかで一緒にやったり するヤツとは別なんですよ。」(m1)

 彼らにとって重要なのは、ドラッグもさることながらドラッグ以外の生活でつき合えるドラッグ仲間なのであり、それはそもそもから趣味性や傾向性に よって、選別されているのである。

(iii)「非コントロール使用者」との分化
 先にも述べたように、逮捕の可能性は決してなくなるものではないが、それは外貌やTPOに基づく使用などといった調整によって、少なくとも自分としては 低下させるよう努力を行っている。万が一仲間うちの誰かが逮捕されるようなことがあれば、彼らは自分の所持しているドラッグを全部捨てることくらいは考え ている。実際、使用者たちはドラッグの保管に神経質であり、自分がドラッグ使用者であるという情報の漏洩がないように非常に気を配っている。自分の家のな かには置かないという使用者さえいるのである。
 ただし、知り合い全てが「コントロール使用者」であるわけではない。一緒に使用するようになる知り合いには当然ながら「非コントロール使用者」もいるわ けであり、その使用者が捕まることも大いにあり得るし、実際にあった。そのことによって自分に危険が及ぶ可能性も考えなくてはならないのである。したがっ て、逮捕の可能性を考えるのであれば、そのような「非コントロール使用者」を避けることが望ましいし、そのように意識的なコントロールさえする。
 しかしながらその一方で、「コントロール使用者」とそのような「非コントロール使用者」とは、必然的に分化していく傾向がある。というのは、人々の活動 は、特に定期的な拘束(仕事・学業)を持っているのであれば、時間と空間によって限定されており、そのことが両者を分化させていくからである。

「避けますよ、それは。でやっぱり、イケイケ、ドンドンみたいな連中っつうのとは、いわゆるこの、年代の僕らとはノリが違うとかいわれたりとかね、 そういうのがあったりするし、やっぱり日常的な行動パターンが必然的に変わって来ちゃうでしょ。だから、そのお、手に職ももってなくて、日がな一日そうい うことばっかりやってるヤツっていうのは、自然とね、つき合いはないわけですよ。で、そっちに踏み込もうとしたら、だって、自分だって社会人で、たとえば 仕事やってるんだったら仕事やってるっていうのを、切り離さざるを得ない状況に追い込まれますから、そこで向こうの世界に渡っちゃったヤツは向こうの世界 に渡っちゃって、要するに、もうそっちなんですよね。で、行かなかったら行かなかったで、もうそれ以上はならないから。」(m1)
「やりすぎてるなあってヤツは、やっぱこもっちゃってるんですよ。こもっちゃって出てこなくなっちゃうんですよね。」(m9)

 逆にいえば、定期的に外出しなくてはならないような「立場」にないのであれば、そのような「非コントロール使用者」との関係が深まることによっ て、問題状況が生じることさえあるのである(m12)。

(iv)アクシデントの解釈
 また、使用者は誰もが何事もなく日常生活を営んでいられたというわけでもない。ドラッグ使用者であろうがなかろうが、人は事故や病気など、突然のアクシ デントに見舞われることもあるだろう。
 使用者にとって、おそらく最も大きなアクシデントは知り合いの逮捕という事態であろう。もっとも、先にも述べたように、そのような事態は自分に直接影響 を及ぼさないような具合になっており、また仲間うちが逮捕されるような事態になった場合には「全部捨てて(ドラッグを身体から)抜く」という意識的な方法 をも念頭においている。しかしながら、そのような直接ドラッグが関係しているアクシデントではなくても、より正確にいえば「ドラッグとの関係が不明のアク シデント」でも、それをドラッグとの関係によって解釈することによって、ドラッグの使用を停止することもある(15)。

「いやちょっとやりすぎちゃってたから、それで嫁さんが子供連れて出てっちゃったんですよ。」(m11)

この場合、奥さんが出ていった「本当の理由」は分からないと彼自身語っていた。しかしそれがドラッグに起因するものであるという解釈は、彼自身に とっては妥当なものであり、そのことによって使用停止を選択しているのである。それにもかかわらず奥さんが戻らないと分かると、彼は再びドラッグの使用を 開始している。
 また、そのような外的なアクシデントのみならず、内的なアクシデント、具体的には身体の変化あるいは不調といったことに見舞われることもある。そのよう な場合、その変化や不調をドラッグの使用と結びつけて解釈することがある。たとえばある使用者は、「L(LSD)1枚やると、1年子供産んじゃやばいん だって」と語っていた(そしてこれ自体「身体に関する世俗的知識」である)が、あるとき次のように語った。

「あたしさあ、体調が悪くて医者行ったんだけど、何だか子宮に問題があるとかいわれて。(中略)やっぱりL(LSD)やりすぎたかなあ。」(w2)

 この結果、彼女はしばらくLSDの使用を停止した。彼女は後に医師の診察で「子宮筋腫」と診断され、具合が良くなるとLSDの使用を再開した。
 また別の使用者は、覚せい剤を使用していたが、次のような経験をした後に、覚せい剤の使用継続について思案したという。

「友だちと旅行に行ったとき、夜中に浜辺を歩いてたら、何だか知らないけど、そこに生えてた樹がキラキラ輝いてて、すっごく綺麗だったの。それで何 でか分かんないけど、涙がぽろぽろ出て来ちゃって、二人して泣いちゃったんですよ。(中略)二人で『これってフラッシュバックかなあ』『そうだよね、多 分』とかいってて。」(w6)

 これらは確かに、体調の変化や不調との関係における意識的なコントロールでもある。ただしその変化や不調がドラッグに起因しているかどうかは不明 である。たとえば、子宮に問題があるとされたところで、その原因がLSDにあるかどうかは分からない。樹が美しく見えたところで、それがフラッシュバック であるかどうかは分からない。それにもかかわらず、使用者はそれらをドラッグに起因するするものとして解釈し、それによって意識的なコントロールを動員、 あるいはそれを視野に入れるのである。
 このように、何らかのアクシデントは、もちろん全てではないものの、ドラッグに起因するものとして解釈されることによって、コントロールの動員を促す。 そのことによって彼らは、過度な使用を避けるということを意識せずに行っているのである。
 以上のように、使用者が使用者であり続けるためには、意識的なコントロールもさることながら、それを支える仕組みが重要な役割を果たしている。そのこと によって、何らかの問題と背中合わせであるというリスクは二重に軽減され、いまだ彼らのほとんどは使用者であり続けられていると考えられるだろう。

4 まとめ

 これまで述べてきたように、「ドラッグとともに生きる」ことは、一部には社会的に構成され、一部には主体的に選択されることによって成り立ってい る。 
 細かい論点はすでに本論中に述べてきたので、最後に調査者(筆者)が特に強調したい点について述べておきたい。強調したい点とは、意識されたコントロー ルならびに意識化されないコントロールを導くための基礎となる、使用者仲間(集団)・「立場」・知識と解釈といった密接に結びついている三要素である。こ の場合、知識と解釈は、同じような状況を同じように定義することによってやり過ごしてきた、同じような「立場」の使用者仲間(集団)との協同作業によって 形作られてきたものである。それらによって、彼らは「ドラッグとともに生きる」という常に新しい体験、すなわちある種の賭、に伴う問題をできるだけ軽減 し、生き抜こうと努力していると考えられる。そして、それは何も社会的な状況のみではない。身体的な状況についても、またそうなのである。
 この点から考えると、日本における「コントロール使用者」は日本特有の問題を抱えているといえるかもしれない。というのは、日本における彼らを取り巻く 状況は相対的に厳しいと考えられるからである。つまり彼らは、ドラッグ使用に伴う身体的問題の軽減方法を、自らの手で考案し戦略として練り上げていかなく てはならないのである。しかしたとえば、欧州の国のなかには、使用自体は法律的に禁止しているものの、そのような問題軽減の方法を緊急電話相談などで教え ることによって、使用者の問題状況からの脱出を手助けする「just say know」キャンペーンをとるところもある。そのような地域では、ドラッグに関する一般化された知識の一つ、「身体に関する専門的知識」からの演繹によっ て、個々の使用者が問題状況に対処するよう促される。一方、日本のドラッグ使用者にとって多くの知識は、仲間うちによって考案され、自らの身体を通して練 り上げられた、いわば「自分たちの知恵street wisdom」でしかない。したがって「ドラッグとともに生きる」という常に新しく厳しい局面を迎える生き方は、先に挙げた地域と比較するとより多くの困 難を抱えているといえるかもしれないのである。そして、彼らの多くが「ドラッグとともに生きる」ことを選ぶとともに、何らかの形で「身体に関する専門的知 識」に接近を試みようとするのは、それが正しいからというよりはむしろ、身体に関して「普遍的な身体」という前提を置いた、いわば「グローバルな知識 global knowledge」によって、その困難の軽減を試みていると考えることができるだろう(16)。

(1) 本稿で用いた方法については[佐藤、2000(予定)]を参照。
(2) なお、ここでいうドラッグとは、法律で売買・所持・使用などが禁止されている薬物である。具体的には、麻薬と向精神薬(モルヒネ、ヘロイン、LSD、 MDMA=エクスタシーなど)、あへん、大麻(マリファナ、ハッシシなど)、覚せい剤(スピードなど)である。もちろん中には、これらを組み合わせたよう なものなどさまざまなものがあるが、そのあたりの細かい話は紙幅の関係で省略した。したがってアルコールや有機溶剤は含まれない。さらに、ドラッグ使用と は、ドラッグの効果を享受して使用することを意味する。また、ドラッグ使用者とはドラッグの効果を享受して使用する者である。しかしながら、このような定 義は政治的で暫定的である。なぜなら、もしかしたら明日大麻が解禁されるかもしれないし、タバコやアルコールが禁止されるかもしれないからである。その意 味で原理的に重要なのは、「禁止の歴史を有する」ということであるが、以上の取り決めで本稿は進めていきたい。
(3) 具体的な構成過程については[佐藤、2000(予定)]を参照。
(4) あまり本質的な比較ではないが、WHOの分類において薬物として位置づけられているアルコールを、われわれが日常的にコントロールしながら使用しているこ とを考えれば、ここでいう「コントロール使用」を理解する一助となるだろう。
(5) 当然のことながらドラッグとともに生きるには、それを購入することなどを含め多岐にわたる局面を有するが、ここでは紙幅の関係で議論を限定した。
(6) ここで付け加えておかなくてはならないことに、調査対象者選択におけるサンプリングの問題がある。その問題とは、この調査対象者の選択が調査者(筆者)自 身のネットワークを出発点とした雪だるま式サンプリング(snowball sampling、chain referral sampling)であることである。雪だるま式サンプリングに伴う問題を直接的に避けるために、調査者(筆者)は異なった4つのネットワークに属する使 用者を起点に対象者を獲得したが、社会階層的な点からいっても批判に対しては開かれたままである。また、データ数についての批判は当然あるだろう。しかし 一言つけ加えておくならば、調査者(筆者)は手間と時間という制限の下で数を増やして薄いデータを集めるよりも、従来いうところの科学的妥当性を欠くこと になったとしても、ここで目的とした「ドラッグとともに生きる」ということの個人性(つまり厚み)を生かしたいと思ったのである。少なくとも分析的帰納法 を念頭におけば、このような作業もまた無駄ではないからである。
(7) パンクやロックに限らずさまざまな音楽についての知識は、ドラッグの快楽を楽しむ段階において利用可能な知識として位置づけ直されるともいえるだろう。
(8) そのような感覚は、いわば外気(公共空間)に晒されたときに立ち上がるものであるといえるかもしれない。逆に、親戚や友人の家で逮捕の危険を感じる方がど うかしているとさえいえよう。
(9) もっとも現在は外貌で逸脱的下位文化にコミットしてるかどうかの判断は非常に困難である。むしろ、態度や物腰などが重要な指標となるということは使用者自 身が指摘している。
(10) 興味深いことに、禁止され、信頼できる関係にしか暴露されない使用であるがために、逆にその使用が問題ないものとして受けとめられてしまう傾向があるとい える。
(11) むしろ、問題性が過度に宣伝されればされるほど、そこで獲得される「身体に関する世俗的知識」との対比において、自分の状態がノーマルであると感じると考 えられる。
(12) 「立場」と使用ドラッグとの関係については[佐藤、1996]を参照。さらにそれは後述の「意識化されないコントロール」とも関係している。
(13) 方法的なことについて付言すると、これらについては意識化されていない分だけ、インタビューのみでコントロールとして把握することは非常に難しかった。こ れらは、調査者(筆者)が彼らとの会話の中でそれに気づき、インタビューや会話などで得た彼らの語りを、いわば原因と結果の中に位置づけて明らかになった ことである。
(14) 当初この語りは、使用者自身が把握する自分自身の性格とドラッグの効果との関係を意味するものとも考えたが、しかしながら、自分自身の性格はこの場合、享 受可能になった時点で遡及的に―たとえば「自分の体質(気質)に向いている」などとして―解釈されるものである。調査者(筆者)としては、他の使用者によ る「好み」に関する語りを重ねるにつれ、使用者自身に結果的に把握されたドラッグの効果と、やはり使用者自身が結果的に楽しめるようになったドラッグに 「何を期待するか」「どのようなものとして意味づけたか」といったこととの関係を、「立場」を媒介に結びつけたものとして解釈する必要があることに気づか されたのである。
(15) 映画『ドラッグストア・カウボーイ』では、帽子をベッドの上に置くことを凶の印として理解している主人公が、そのような事態に遭遇し、「良くないことが起 きる」としてすっぱりドラッグと手を切る姿が描かれているが、そのような「ジンクス」による使用停止と、使用者による「合理的説明」による使用停止とは、 形式的に同型である。
(16) もっともこれは、今日における「身体に関する専門的知識」すなわち近代医学が、身体に関する唯一の真実と主張しているわけでは決してない。近代医学であっ ても臨床を経由して科学的知識として構成されるがゆえに、その意味で常に一般的であるわけではないのである。その一般性は、前提とさらには独自の方法的手 続きによって仮説として提出されているといえるだろう。[佐藤、1998]を参照。

参考文献

Becker,H.S.、1963/1978、Outsiders、Free Press、村上直之訳『アウトサイダーズ』新泉社
Feldman,H.W.、1968、Ideological supports to becoming and remaining a heroin addict、Journal of Health and Social Behavior 9(2)、pp.131-139
Lindesmith,A.R.、1947、Opiate Addiction、Principia Press
Waldorf,D.,Reinarman,C.,and Murphy,S.、1991、Cocaine Changes、Temple Univ. Press
Zinberg,N.E.,Jacobson,R.C.,and Harding,W.H.、1975、Social sanctions and rituals as a basis of drug abuse prevention、American Journal of Drug and Alcohol Abuse 2、pp.165-182
佐藤哲彦、1995、リンドスミスによる麻薬研究の二つの位相―相互作用論的麻薬使用研究の射程―、『京都社会学年報』第3号、京都大学文学部社会学研究 室、pp.39-56
佐藤哲彦、1996、嗜好の構成―薬物使用と社会制御―、『京都社会学年報』第4号、京都大学文学部社会学研究室、pp.85-108
佐藤哲彦、1998、医学的知識の構成について―「覚せい剤研究」の転換―、『文学部論叢』第60号、熊本大学文学部、pp.15-57
佐藤哲彦、1999、ドラッグ使用者研究の系譜について―「依存者」研究から「コントロール使用者」研究へ―、『文学部論叢』第64号、熊本大学文学部、 pp.83-98
佐藤哲彦、2000(予定)、インタビューによる研究―「ドラッグ使用者」の調査―、寳月誠・森田洋司編『逸脱研究入門』所収、文化書房博文社

付記 本稿は平成十一年度学術振興会科学研究費補助金による研究成果の一部である。


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