日本の城

 

  戦国時代、地域は一国一城としての「国のランドマーク」的、存在の城を紹介します。

 

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日本の名城100選
 
名城No ファイルNo 北海道(1番〜3番)
1 A-1 根室半島チャシ跡群
2 A-2 五稜郭
3 A-3 松前城
東北(4番〜13番)
4 B-1 弘前城 青森県
5 B-2 根城 青森県
6 B-3 盛岡城 岩手県
7 B-4 仙台城 宮城県
8 B-5 多賀城 宮城県
9 B-6 久保田城 秋田県
10 B-7 山形城 山形県
11 B-8 二本松城 福島県
12 B-9 会津若松城 福島県
13 B-10 白河小峰城 福島県
関東(14番〜23番)
14 C-1 水戸城 茨城県
15 C-2 足利氏館(鑁阿寺) 栃木県
16 C-3 箕輪城 群馬県
17 C-4 新田金山城 群馬県
18 C-5 鉢形城 埼玉県
19 C-6 川越城 埼玉県
20 C-7 佐倉城 千葉県
21 C-8 江戸城 東京都
22 C-9 八王子城 東京都
23 C-10 小田原城 神奈川県
甲信越(24番〜32番)
24 D-1 新発田城 新潟県
25 D-2 春日山城 新潟県
26 D-3 甲府城 山梨県
27 D-4 武田氏館(武田神社) 山梨県
28 D-5 松代城 長野県
29 D-6 上田城 長野県
30 D-7 小諸城 長野県
31 D-8 松本城 長野県
32 D-9 高遠城 長野県
33 D-10 高岡城 富山県
34 D-11 七尾城 石川県
35 D-12 金沢城 石川県
36 D-13 丸岡城 福井県
37 D-14 一乗谷城 福井県
東海(38番〜48番)
38 E-1 岩村城 岐阜県
39 E-2 岐阜城 岐阜県
40 E-3 山中城 静岡県
41 E-4 駿府城 静岡県
42 E-5 掛川城 静岡県
43 E-6 犬山城 愛知県
44 E-7 名古屋城 愛知県
45 E-8 岡崎城 愛知県
46 E-9 長篠城 愛知県
47 E-10 伊賀上野城 三重県
48 E-11 松阪城 三重県
近畿(49番〜62番)
49 F-1 小谷城 滋賀県
50 F-2 彦根城 滋賀県
51 F-3 安土城 滋賀県
52 F-4 観音寺城 滋賀県
53 F-5 二条城 京都府
54 F-6 大阪城 大阪府
55 F-7 千早城 大阪府
56 F-8 竹田城 兵庫県
57 F-9 篠山城 兵庫県
58 F-10 明石城 兵庫県
59 F-11 姫路城 兵庫県
60 F-12 赤穂城 兵庫県
61 F-13 高取城 奈良県
62 F-14 和歌山城 和歌山県
中国(63番〜75番)
63 G-1 鳥取城 鳥取県
64 G-2 松江城 島根県
65 G-3 月山富田城 島根県
66 G-4 津和野城 島根県
67 G-5 津山城 岡山県
68 G-6 備中松山城 岡山県
69 G-7 鬼ノ城 岡山県
70 G-8 岡山城 岡山県
71 G-9 福山城 広島県
72 G-10 吉田郡山城 広島県
73 G-11 広島城 広島県
74 G-12 岩国城 山口県
75 G-13 萩城 山口県
四国(76番〜84番)
76 H-1 徳島城 徳島県
77 H-2 高松城 香川県
78 H-3 丸亀城 香川県
79 H-4 今治城 愛媛県
80 H-5 松山城 愛媛県
81 H-6 湯築城 愛媛県
82 H-7 大洲城 愛媛県
83 H-8 宇和島城 愛媛県
84 H-9 高知城 高知県
九州・沖縄(85番〜100番)
85 I-1 福岡城 福岡県
86 I-2 大野城 福岡県
87 I-3 名護屋城 佐賀県
88 I-4 吉野ヶ里遺跡 佐賀県
89 I-5 佐賀城 佐賀県
90 I-6 平戸城 長崎県
91 I-7 島原城 長崎県
92 I-8 熊本城 熊本県
93 I-9 人吉城 熊本県
94 I-10 大分府内城 大分県
95 I-11 岡城 大分県
96 I-12 飫肥城 宮崎県
97 I-13 鹿児島城 鹿児島県
98 I-14 今帰仁城 沖縄県
99 I-15 中城城 沖縄県
100 I-16 首里城 沖縄県

 *選考にあたり各県1城以上5城以内と定められた。

 

ファイルNo.

江戸城
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歴史 江戸城は、長禄元年(1457)に太田道灌が築城し、その後、大永4年(1524)に北条氏の支城となり、天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原征伐で北条氏は滅亡し、徳川家康がその旧領、いわゆる関八州に移封され居城となりました。
天守台のみ現存 1863年の火災で焼失したまま再建されず
住所 東京都千代田区 35.688325,139.75437
   

■二重橋■

皇居内にある二重橋。別名「石橋」。ここから先は普通は入れませんが正月参賀などの時には通行できます。

 皇居正門前の橋で、日本の古い文化と西洋文化とがよく調和した世界でもっとも美しい景観の一つであるとされている。昔は西丸大手下乗橋といい木橋が架けられていた、その木橋に替わり、明治二〇年(1887)十二月に架け替えられ、石橋に改め、俗にめがね橋ともいっていた。

 二重橋の名前は、この奥の木の橋(現:鉄橋)が架けられていた部分の濠が深く、橋桁を二重に組んであったために起こったようです、

一般的には、この二つの橋を総称して二重橋と通称しているともいう。なお、奥の鉄橋は、昭和39年6月、新宮殿工事の際し架け替えられている。

 

ファイルNo.

世田谷城
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歴史 吉良氏はもともと三河国東条に本拠があった。治家の頃に上野国に領地を得、さらに武蔵国世田谷を与えられて移り住んだ。城を築いたのははっきりとはわからないが、治家、あるいは頼治、頼氏の頃には世田谷城を本拠にしていたようである。吉良氏はその後も世田谷城を本拠にして勢力を拡大したが、戦国時代には北条氏に服属した。
 天正18年(1590)の北条氏滅亡の際に、当主吉良氏朝は戦わずして豊臣氏に降伏した。同時に世田谷城も廃されたと思われる。
土塁、空堀のみ現存  
住所 東京都世田谷区 
   

二重の堀と土塁

櫓台風の高まり

土塁と空堀

 

ファイルNo.

深沢城
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歴史

1564年に南条重長の築城という。

重長は国府台の合戦で武功を立てて、北条氏康からこの兎々呂城(とどろき)の地を賜って深沢郷の領主となった。その時に深沢城を築いたようである。その規模は大きく、本城の他に出城や支塁を配していた。

天正18年(1590)に豊臣秀吉の手により北条氏が没落すると重長はこの地にとどまり谷岡氏と名乗り名主を務めた。

なにもなし 現在の玉川消防署付近でなかったという説が有力
住所 東京都世田谷区 
   
深沢城付近?  
   

 

ファイルNo.

小田原城
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歴史  古文書によると寛永11年(1634)に、三代将軍徳川家光が小田原城の天守閣に登り、武具を見たり展望を楽しんだという記録が残っています。
 元禄16年(1703)の大地震のときには、小田原城のほとんどの建物が倒壊・焼失してしまいますが、天守閣は宝永3年(1706)に再建され、明治3年(1870)の廃城まで小田原のシンボルとしてそびえていました。
 現在の天守閣は、昭和35年(1960)5月に、市制20周年の記念事業として復興したもので、宝永時代の再建時に作成された引き図(設計図)や模型を参考に、鉄筋コンクリートで外観復元したものです。
天守閣  
住所 神奈川県小田原市城内
   

小田原城天守閣

■天守閣■

内部は、古文書、絵図、武具、刀剣などの歴史資料の展示室となっています。標高約60メートルの最上階からは相模湾が一望でき、良く晴れた日には房総半島まで見ることができます。

■二の丸隅櫓(再建)■

■常磐木門(再建)■

 

ファイルNo.

甲府城
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歴史

1582年(天正10)の武田氏滅亡後、徳川氏と北条氏との間で甲斐争奪戦(天正壬午の役)が起こり、結果、徳川家康が甲斐を領有した。
天正11年、家康が重臣平岩親吉に命じて新城を築いたのが、この甲府城である。

 1590年(天正18)の徳川家康関東移封後、甲斐は、羽柴秀勝・加藤光泰・浅野長政・幸長(親子)などの豊臣系有力大名が城主となり、1600年(慶長5)頃には近世城郭として完成したと考えられています。

 “関が原の役”の戦功により浅野幸長は紀伊和歌山に移り、徳川家の直轄領地、親藩の徳川義直(家康9男=尾張徳川家始祖)25万石、徳川忠長(2代将軍秀忠の3男)、徳川綱重(3代将軍家光の3男)・綱豊(綱重長男・後の6代将軍家宣)35万石らの封地となった。

 1704年(宝永元)、柳沢吉保が武蔵川越より15万石で入封。城の改築・城下町の整備がなされる。
初めて国入りしていた吉保の子の柳沢吉里が、1724年(享保9)に大和郡山城に移されてから、甲府には大名が置かれることはなく、幕府直轄の天領となり明治に至った。

1727年(享保12)の火災で建物の大部分を焼失しています。

天守台・城郭 復元工事でその姿を徐々に取り戻している。
住所 甲府市丸の内
   

こうふ じょう

■天守台■

壮大な天守台が残されていて、本丸・二の丸・その他の曲輪の石垣も存在している。 
また、鍛冶曲輪四足門・内松陰門・稲荷門の3城門と鉄砲狭間を備えた障壁(長塀)が復元され、更に、甲府駅側にある稲荷曲輪にあった二層の稲荷櫓が、現在、復元工事中です。

■鍛冶曲輪四足門■

■内松陰門■

 

ファイルNo.

松本城
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歴史 松本城は、戦国時代の永正年間に造られた深志城が始まりです。世の中が乱れてくると、信濃府中といわれた松本平中心の井川に館を構えていた信濃の守護・小笠原氏は館を東山麓の林に移します。その家臣らは林城を取り囲むように、支城を構え守りを固めました。深志城もこの頃、林城の前面を固めるために造られました。
その後、甲斐の武田信玄が小笠原長時を追い、この地を占領し信濃支配の拠点としました。その後、天正10年(1582)に小笠原貞慶が、本能寺の変による動乱の虚に乗じて深志城を回復し、名を松本城と改めたのです。
天守閣群  
住所 長野県松本市丸の内
  現存する日本最古の城、400年の時を刻む

まつもと じょう

■なぜ黒い?■

石川氏は豊臣秀吉の信頼の厚い武将でした。秀吉の大坂城は黒で統一されていました。松本城が黒いのは、石川氏の秀吉への忠誠のしるしと思われます。また、松本城は戦国末期、鉄砲戦を想定した戦うための漆黒の天守の典型として、現存する唯一の城です。ちなみに関ヶ原の戦い以降は、姫路城など白亜の天守が築造されました。

太鼓門枡形と二の門(高麗門)復元

松本城 天守の図

連結複合式天守

天守のうち、大天守・渡櫓・乾小天守のまとまりを連結式天守と呼び、戦いの多い時代に造られたため、石落しや狭間が多く、窓は少なく、守りやすくなっています。
大天守・辰巳附櫓・月見櫓のまとまりは複合式天守と呼び、平和な時代になってできたため、戦うための備えがありません。二つの形式を合わせ連結複合式と呼ばれます。

 

ファイルNo.

萩城
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歴史 関ヶ原の合戦の敗戦で、西軍の総大将であった毛利輝元は、長門・周防2国に移封されました。輝元は1604年(慶長九年)日本海に面した長門国の萩に築城を開始し、阿武川河口の三角州を整地しました。萩城は標高143メートルの指月山の山麓には本丸が築かれたことから指月城とも呼ばれます。城郭の構造は指月山麓の平城の部分と山頂の山城の部分を合わせた平山城の形式で、山麓には本丸・二の丸・三の丸を備えていました。本丸は東西百十間、南北八十間、その南北には内堀を掘りめぐらし、高さ六間の石垣を築いて五層の天守閣がそびえ、内部には藩主の居館や政庁などが立ち並んでいました。内堀に接してその外に二の丸があり、さらに中掘を挟んで広大な三の丸が城下町と外掘を隔ててつくられていました。城跡(国史跡)は指月公園となり、壮大な本丸の石垣や天守閣跡が往時を偲ばせます。
天守台・城郭  
住所 山口県萩市堀内
   

天守台 本丸北西側より天守台

二の丸東門跡二の丸東門跡

天守古写真

 

ファイルNo.

干沢城
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歴史

当初両家は諏訪大社上社前宮の神殿(ごうどの)に居住していたが、康正二(1456)年、惣領諏訪安芸守信満と大祝諏訪伊予守頼満が対立して兵火を交え、惣領諏訪家は上原に居を移した。上原城の原型はこの頃築かれたと思われる。一方の大祝諏訪家は干沢城を築いたとされる。

文明十五(1483)年正月八日、大祝諏訪継満は惣領諏訪政満とその子宮若丸らを神殿で饗応して酔いつぶれたところを謀殺した。しかし継満の行為は諏訪大社の社家衆の反発を招き、継満を干沢城に追い詰めた。干沢城は落城し、継満の父・伊予守頼満は戦死、継満は高遠へ追放された。継満は翌文明十六(1584)年五月三日、小笠原貞宗ら下伊那の豪族の支援を得て諏訪に侵攻し武居城に陣取って干沢城と対峙したが、大祝の地位は奪還できず、惣領政満の次男・宮法師丸(碧雲斎頼満)が惣領と大祝を相続した。

なにもなし 曲輪、堀切、礫石
住所 長野県茅野市宮川
   

 

 

ファイルNo.

勝沼城
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歴史 室町期の三田氏は関東管領・山内上杉氏の被官となった。永正六(1509)年には連歌師の宗長が勝沼城三田弾正忠氏宗を訪問していることが「東路の津登」に記されている。小田原北条氏の侵出により一時北条氏の配下になったが、永禄三(1560)年の上杉謙信の関東出陣に呼応して、翌永禄四(1561)年の小田原城包囲戦に参加している。謙信が越後に帰陣したのちは武蔵周辺の豪族の多くは北条氏にふたたび降ったが、三田氏は頑強に抵抗し、滝山城の北条氏照の攻撃を受ける。永禄六(1563)年にはこの勝沼城を放棄、辛垣城に籠城し抵抗するがこれも翌永禄七(1564)年に落城、三田綱秀は太田資政を頼って岩槻城に陥ち延びたが、そこで自刃して三田氏は滅亡した。三田氏滅亡後は師岡山城守将景が入城し、「師岡城」と改称したが、天正十八(1590)年の小田原の役で落城し廃城となった。
なにもなし 曲輪、堀切、礫石
住所 東京都青梅市東青梅
   

 

 

 

 

ファイルNo.

深沢城
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歴史

元亀元(1570)年四月、北条氏康・氏政父子の兵三万八千が武田方の駒井右京之進昌直が守る深沢城を攻めて奪取、北条氏は北条綱成を城代に任じたが、この年六月より武田側の反撃が始まった。武田勢は一旦は甲斐に引き上げたが、この年の暮れに再度武田軍は深沢城を包囲、翌元亀二(1571)年正月三日には城代の北条綱成に向けて深沢城の開城と北条氏との主力決戦を勧告する「深沢矢文」が射ち込まれた。綱成は開城勧告を蹴って抵抗したが、武田軍は「金堀衆」を投入して城を掘り崩しにかかったため、綱成は援軍を待たずに開城し玉縄城へ退却した。北条氏も奪回を試みたがかなわず、以後は再び武田勢の駒井右京之進昌直が入り、武田氏の駿河支配の一支城となった。
天正十(1582)年二月、織田信長・徳川家康らの甲斐侵攻によって武田氏が滅亡すると、駒井昌直は深沢城を自焼して退去、深沢城は徳川家康の領土となった。

天正十二(1584)年、徳川家康・織田信雄が豊臣秀吉と対峙した「小牧・長久手合戦」において、家康は北条氏への押さえとして深沢城に三宅惣左衛門康貞を置き、以後は北条氏に対する境目の城として機能したが、天正十八(1590)年の小田原の役で北条氏が滅亡し、家康が関東に移封となると、深沢城も廃城となった。

なにもなし 曲輪、堀切、礫石
住所 御殿場市深沢
   

 

 

ファイルNo.

白河小峰城
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歴史

白河小峰城は、南北朝時代の1340年(興国元)に、結城家5代・親朝が小峰ケ岡に城を構えたのが始まりとされる。
1590年(天正18)の豊臣秀吉による“奥州仕置”により、15代結城義親は小田原攻めに参陣しなかった理由で所領没収となる。
その後、この地は会津領となり、蒲生氏、続いて上杉氏、再度、蒲生氏に支配されることとなった。

 1627年(寛永4)、丹羽長重が10万石で磐城棚倉城(福島県棚倉町)から移封され、2代将軍徳川秀忠の幕命により、寛永6年より4年の歳月を掛けて城は大修築されました。(仮想敵は、伊達・上杉・佐竹といった奥羽地方の外様大名で、侵入予想路にあたる北側が重点的に防備された)
長重没後の1643年(寛永20)、外様である嫡男丹羽光重は次の築城目的で岩代二本松城に移され、譜代重鎮の榊原忠次(徳川四天王の一雄・康政の孫)を上野館林城より14万石で入れ、奥羽要衝の地を固める。 

 その後、本多氏(2代・徳川四天王の忠勝の孫と曾孫)、奥平松平氏(1代)、越前(結城)松平氏(3代)、久松松平氏(4代)、阿部氏(8代)と、徳川譜代・親藩大名が10万から15万の石高で白河の地を領した。
なお、久松松平氏3代の松平定信(御三卿田安家より養子入り)は老中首座となり“寛政の改革”を行いました。
1866年(慶応2)、阿部氏8代正静は磐城棚倉に左遷され、白河の地は天領となり幕末動乱を迎える。

 天領となり、城は岩代・二本松藩丹羽氏の預かるところとなったが、“戊辰の役”での奥羽越列藩同盟軍と新政府軍との約100日に及ぶ“白河口の戦い”において、白河小峰城は激しい攻防の舞台となり、1868年(慶応4)5月1日、大半を焼失して落城した。

 

復元/三重櫓・櫓・門

 

住所

福島県白河市

   

■白河小峰城桜御門跡■

■白河小峰城前御門■

 

ファイルNo.

吉野ヶ里遺跡
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歴史

昭和61年(1986年)からの発掘調査によって発見され、現在は国営吉野ヶ里歴史公園として一部を国が管理する公園となっている。物見やぐらや二重の環濠など防御的な性格が強く日本の城郭の始まりとも言えるもので、2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(88番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。

復元建物

 

住所

佐賀県神埼郡三田川町大字田手1843

   

 

 

ファイルNo.

水戸城
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歴史

慶長7(1602)年、水戸城には徳川家康の5男武田信吉が入城したが、翌8年に死去、嗣子も無かった事から10男・長福丸(後の徳川頼宣)が城主となった。
慶長14(1609)年、頼宣は駿府城50万石に転封し、水戸城には家康の11男鶴千代(頼房)が下妻城より250000石で入封した。
幕府は名古屋城の尾張大納言徳川家、和歌山城の紀州大納言徳川家、そして水戸中納言徳川家の3家を御三家と称した。
頼房は、寛永2(1625)年から城の大改修と城下町の整備を行い、水戸藩の基礎を固め、以後幕末までの間水戸徳川家による支配が続いた。

なにもなし

曲輪、土塁、空堀、藩校、薬医門

住所

茨城県水戸市三ノ丸

   

空堀

薬医門■

 

ファイルNo.

宇都宮城
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歴史

1590年(天正18)に、小田原北条氏を滅ぼして全国統一を果たした豊臣秀吉が、その後宇都宮城に滞在し、関東・東北の大名配置を決めた「宇都宮仕置」を行う。
 1597年(慶長2)、時の城主第22代宇都宮国綱は秀吉により追放され、鎌倉期以前からの名族宇都宮氏はあっけなく滅亡してしまう。この改易については諸説取り上げられ、検地のゴマカシが要因とされていますが、何か口実を付けての旧勢力廃除策の犠牲になったものと思われます。

 国綱の所領没収の後、宇都宮城は豊臣政権五奉行筆頭の浅野長政に預けられ、翌慶長3年、蒲生秀行が会津若松城より入封する。

 

復元建物

残っていた遺構までも破壊して公園化

住所

栃木県宇都宮市本丸町

   

■土塁上によみがえった清明台櫓と御本丸広場■

■土塁上によみがえった清明台櫓と御本丸広場■

 

 

ファイルNo.

高崎城
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歴史

天正18年(1590年)、北条氏の滅亡によって傘下にあった和田城も落城して、和田氏も滅びたが、その後、和田の地は箕輪の地として支配された。
当時、箕輪城主であった井伊直政は家康の命によって、慶長3年(1598年)この和田の廃城跡に城を構え、箕輪から町家や社寺を移して城下町の基礎を築き、地名を高崎と改めて高崎城と共に城下町が誕生した。
和田城は鎌倉初期、和田正信が築いたと言われ、戦国期は和田業繁・信繁父子の拠った和田城は規模も小さく、下之城と並榎の砦の二つの外堡をもっていたが、高崎城ではこれを廃止して城自体の強化につとめた。
井伊氏築城以来の整備の中で、とりわけ高崎城が整ったのは、元和5年(1619年)安藤重信着城以来三代77年の間で、城郭は大いに改修されて、この時期にほぼ完成された。

建物復元

昭和54および55年移築復元

住所

群馬県高崎市高松町

   

■移築された乾櫓■

■模擬石垣■

■三の丸水堀跡■

 

ファイルNo.

武田氏館(武田神社)

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歴史

別名「躑躅が崎館」(つつじがさきやかた)と呼ばれる武田氏館は、永正16年(1519)に武田信虎によって築かれた方形の館です。信虎が最初に築いた館は、堀一重の主城郭のみであったと考えられていますが、武田氏の勢力拡大とともに施設も増え、東日本でも最大級の規模を誇る戦国期居館となりました。

史跡

石垣、土塁、堀、古井戸など

住所

山梨県甲府市古府中町・屋形三丁目

 

 

 

ファイルNo.

佐倉城

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歴史

戦国時代中頃の天文年間に、千葉親胤が鹿島幹胤に命じて城郭を築かせたのが始まり。その後、江戸時代初期に徳川家康の命を受けた土井利勝によって完成。城の建物は明治初期に取り壊されたが、空堀などに当時の面影を残している。現在は佐倉城址公園として、市民の憩いの場となっている

史跡

本丸跡、出丸跡、三の門跡、空堀、水堀、土塁

住所

千葉県佐倉市城内町117

 

 

天守の模型・・・現在は天守台のみ

 

ファイルNo.

鉢形
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歴史

文明8年(1476年)、長尾景春が築城した戦国期を代表する平山城。本丸を中心に、二の丸・三の丸・諏訪曲輪・秩父曲輪・外曲輪などが造られ、それぞれ土塁と堀で区切られている。現在は鉢形城公園として整備され、園内にある鉢形城歴史館では地域の歴史・文化を紹介。カタクリの群生地など四季折々で楽しめる。

史跡

曲輪、土塁、堀

住所

埼玉県大里郡寄居町鉢形2492-2

   

 

ファイルNo.

小机城
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歴史

永享の乱(1438〜39)に関東管領上杉氏によって築かれたとされるが正確な築城年代は不明。

文明八(1476)年十二月、関東管領山内上杉氏の家宰職の相続をめぐり、長尾景春が武蔵鉢形城で挙兵し、翌文明九(1477)年正月、武蔵五十子城の上杉氏本陣を襲ってこれを敗走させた(長尾景春の乱)。この乱に乗じて挙兵した武蔵石神井城の豊島泰経に対し、扇谷上杉氏家宰職の太田道灌は江古田・沼袋合戦で豊島氏を破り、四月二十八日には本拠の石神井城を落城させた。泰経はその後、武蔵平塚城に敗走するが、翌文明十(1478)年一月二十五日、平塚城も陥ち、泰経は小机城に敗走した。小机城では豊島一族とそれらを庇護した小机弾正らが籠城、約二ヶ月に渡り太田道灌ら関東管領軍と対峙する。亀之甲山に陣城を築いた道灌は四月十一日、小机城を攻め陥とし、一時廃城となった。その後北条氏の進出で、「小机衆」編成の拠点として氏綱の重臣・笠原越前守信為や北条氏の氏秀、氏堯らの支配下となったが、天正十八(1590)年の北条氏滅亡後は家康の関東入封にともない廃城。

 

史跡

曲輪、土塁、空堀

住所

神奈川県横浜市港北区小机町

   

 

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沼田城
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歴史

沼田城は利根川・薄根川・片品川によって浸食されてできた天然の要害に、天文十三年(1544)沼田景秦が築城した。
以後、上杉氏、武田氏、北条氏が北上野の拠点として奪い合った。
天正六年(1587)上杉謙信が没すると、沼田城は北条氏の手に落ち、同八年には真田昌幸が掌握する。
同十年、武田氏を滅ぼした織田信長は、上野・信濃を滝川一益に与えるが、本能寺の変直後滝川氏は北条氏と戦い破れ、本領伊勢に敗走。
再び沼田城を掌握した昌幸は嫡男の信幸を入れ、叔父の矢沢頼綱を城代とする。
その後、北条氏が執拗に攻撃するものの、頼綱が守りきり、天正十五年に昌幸が上洛、豊臣秀吉に恭順の意を表し、沼田城は信幸の居城として認められる。
しかし、北条氏直が上洛の交換条件に沼田城を要求したため、天正十七年沼田城は秀吉の命で北条氏に引き渡されるが、北条氏滅亡後は昌幸に返される。
関ヶ原の戦いで東軍に属した信幸は、西軍に属した昌幸の旧領を全て与えられ、沼田城の改築、整備を行うが、同六年上田城に移る。
天和元年(1681)分封されて沼田城にあった真田氏は改易となり、五層の天守閣を持つ沼田城は廃城になり破却されるが、元禄十六年(1703)本多正永が入封して沼田城は再築され、黒田氏を経て土岐氏が入り、十二代で明治に至る。

史跡

曲輪、土塁、堀、石垣、模擬鐘櫓

住所

群馬県沼田市西倉内町594

   

 

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