抱え大筒


 秋月藩の砲術は磯流・高野流・林流・久佐流・河野流・吉田流・陽流・若松流・板倉流の諸流派があったとされているが、現在では林流の他は絶えてなくなり、文献でしか知ることはできない。
 林流抱え大筒は、秋月の乱の際嘉穂町の縄田家に伝えられた。明治9年11月、熊本神風連の乱に呼応して挙兵した秋月党は、豊津で友軍と合流し萩へ向かおうとしたが、官軍に敗れ秋月に退却する。当時の秋月党砲術隊長 中野五郎三郎は、今村百八郎とともに最後まで奮闘するが、力つき、縄田家にかくまわれた。そのお礼として、持っていた大筒を贈り林流砲術を伝授したという。
 以後、林流抱え大筒は縄田家において代々受け継がれたが、昭和46年、伝承者縄田勇造氏を迎えて、秋月に林流抱え大筒保存会が発足し、昭和49年には甘木市の無形文化財に指定された。



 島原の乱でも使用されたという抱え大筒は、長さ1m重さ30kgで100匁玉あるいは棒火矢をしようする火縄銃である。これは、一人で抱えて発射することのできる最大の鉄砲、言いかえれば大砲に限りなく近い鉄砲ともいえる。実際の戦場では、城門城壁の破壊焼打ちに威力を発揮し、山野にこだまする豪壮な響きによって人馬を驚愕せしめたと伝えられている。当然、打ち手はその轟音と莫大な反動に耐えうるために、心得にある「心眼掌を一にし」た泰然たる姿勢が求められることとなる。


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